「瓶牛乳の行方と、サッカー少年の寄り道」
先日、我が家でちょっとした珍事件が発生した。
冷蔵庫のポケットに置いたまま忘れていた瓶牛乳を、つい「殺菌してあるから大丈夫だろう」と放置し続けていたら、なんとヨーグルトになっていたのだ。
正直、ヨーグルトらしき白い塊を見た瞬間は「これはこれでアリかも?」と少し興味をそそられたが、思いとどまってそのまま捨てることにした。
私の好奇心が勝るのが先か、妻の怒声が先か――そこは危険を回避した自分を褒めたい。
さらに困ったのが、スーパーで買ってきた焼きカレーだ。
ひと仕事終えて小腹が空いた夜に温めていたはずなのに、そのままレンジの中に放置していた。
気づいたのは二、三日後。
何かを再加熱しようとして扉を開けたら、埃まみれのようになった焼きカレーがそこに鎮座しているではないか。
さすがに腰を抜かしそうになった。
ご想像どおり、妻にもきっちり叱られた。
私としては「まあ誰しも一度はやるだろう」と言いたいところだが、深く反省していることだけはここに記しておこう。
そんな私のズボラさ加減は今に始まったことではない。
実は生まれも育ちも静岡で、小学生の頃、何の勢いかサッカー部に入ってみたものの、練習についていけずにあっさり挫折した過去がある。
わたしの運動神経は、言うなれば“カッチカチ”で、脚はまるで金属バットのようにボールを跳ね返す。
結果、1年と持たず退部してしまった。
そのときの「部活つらいなあ」なんて気持ちを思うと、いまだに脳裏に嫌な汗が浮かぶほどだ。
だからこそ、うちの息子はサッカー部に入れた。
彼は小学高学年ながら元気があって、私のように根性なしで辞める様子はない。
サッカーが好きならとことんやればいい――そう思うのだが、最近は部活以外にもコンビニや友達の家に寄っているらしく、帰宅時間が遅いのが気になる。
いくら元気いっぱいとはいえ、夕飯前に駆けずり回っているのか、あるいは道草を食っているのか。
キッチンで妻が「そろそろ夕飯だよ」と急かすときに、ふと「どこにいるんだろうなあ」と気にしてしまう。
もっとも、私自身が子供の頃は大抵寄り道三昧だった。
鈴カステラやミニヨーグルト、ミニ桜もち、ピンク色の麩菓子……ああいう駄菓子を眺めている時間が至福で、よく駄菓子屋に入り浸っていた。
その資金源がどこから来ていたかと言うと、親の定期購読していた雑誌の代金からこっそり千円をくすねていたという、いま考えると相当腹黒い行いである。
先生や親の前では何食わぬ顔で「お金が無くなった? そんなの知らないよ」なんて態度を取っていた。
大人になってから母親に白状したら、思いのほか落ち込んでいた。
自慢のできる話ではないが、人というのは成長とともに罪悪感が追いついてくるものなのだろう。
そんな情けない過去を思うと、息子の遅い帰りについても大目に見てあげたい気持ちがわく。
むろん、妻の説教が待っている以上、あまりにも遅ければちょっとは注意せねばならない。
しかし私には、息子が駄菓子屋や友達のゲームに夢中になっている姿が何となく想像できるのだ。
どこをどう歩いているのやら、と時々携帯を眺めてしまうあたり、自分でも何か“落ち着かない気分”を抱えているのかもしれない。
ま、これも子供の健全な遊びだということで、しばらくは見守ってみよう。
今のところ、学校から特にクレームは来ていない。せめて私のように大失敗をしでかさなければいいのだが――そんなことを思いつつ、ふと冷蔵庫の扉を開ける。
念のため、先日のヨーグルト化事件の再来がないかを確かめる習慣ができてしまったのは、何とも複雑な話である。