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星の航路

作者: 那王

夏の終わりの夜は、懐かしい記憶のように甘く切ない。庭に置かれた古びたデッキチェアで、私は息子の航と一緒に夜空を見上げていた。日中の熱気が冷えていく空気に溶け込み、蝉の声が遠のいていく。代わりに鈴虫の音が、まるで星々の瞬きに合わせるように、静かなリズムを刻み始めていた。


庭の萩の葉が風に揺れるたび、銀色の光が波打つように広がる。月齢十三夜の月は、まだ東の空に姿を見せていない。その分、天の川がひときわ鮮やかに、天空に銀の帯を描いていた。


「お母さん、あの星、まるで船みたい」


航が小さな指で北斗七星を指さした。確かに、夜空に浮かぶその配列は、大海原を進む帆船のようにも見える。七歳になる息子の想像力は、いつも私を驚かせる。そして、どこか夫を思い出させる。


「本当ね。お父さんの船も、今頃あんな風に進んでいるのかもしれないわ」


その言葉に、航の瞳が一瞬輝いた後、儚く揺らめいた。三ヶ月前、夫は商船の航海士として遠洋航海に出た。夫は航の名前の由来を、「大海原を自由に航海できる人になってほしい」という願いを込めて付けたと言っていた。何という皮肉だろう。今、その名を持つ息子が、父の帰りを待っている。


別れの朝の光景が、今でも鮮明に蘇る。港に立つ巨大な船を前に、航は泣かなかった。ただ、父の大きな手を握りしめ、「帰ってくるの、約束だよ」と言った。その凛々しい横顔に、私は息子の中に確かに流れる夫の血を見た気がした。


「ねえ、お母さん。パパの船は今、どこにいるの?」


航の声が、夜の静けさを優しく破る。


「そうねえ。たぶん、インド洋かな。南半球の星空の下を航海中よ」


「南半球って、星座が逆さまに見えるんでしょ?パパは南十字星を見ているのかな」


航の質問に、私は思わず微笑んだ。夫が出発前、息子に星座の本を買ってあげたことを思い出す。それ以来、航は寝る前にその本を読むのが日課になっていた。時々、難しい天文用語について質問してくる息子に、私も一緒に勉強しながら答えていた。


夜空には、まるで砂糖を振りまいたような星々が瞬いている。ふと、一筋の光が空を横切った。


「流れ星!」


航の声が、夜の空気を震わせた。


「願い事した?」と尋ねると、航は小さく頷いた。


「内緒だけど...パパに会えますように、って」


その言葉に、私の胸が熱くなる。夫が最後に見せた笑顔が、まぶたの裏に浮かぶ。茜色に染まる港で、「必ず戻ってくるから」と約束した夫の声が、今も耳に残っている。


「きっと、パパも同じ星を見ているはずよ」


「本当?」


「ええ。星は、ずっと昔から航海士の道しるべだったの。GPSのない時代、船乗りたちは星を頼りに航海していたのよ。だから、パパは星を頼りに、私たちの元へ帰ってくるわ」


語りながら、私は自分の子供時代を思い出していた。祖父は灯台守だった。夏の夜、灯台の上から見る星空は、まるで手が届きそうなほど近くに感じられた。祖父は「灯台の光は地上の星なんだ」とよく言っていた。今、その言葉の持つ意味を、深く理解できる気がする。


「昔ね、船乗りたちは北極星を目印に航海したのよ」


「北極星?」


「ええ。あそこ」


私は北斗七星から北極星へと続く道筋を指で示した。


「北斗七星の『ひしゃく』の部分から、その延長線上に見えるでしょう?あの星が、何千年もの間、船乗りたちを導いてきたの。北極星は、まるで宇宙の中心のように、いつも同じ場所にあるから、迷子になった時の道しるべになるの」


航は真剣な眼差しで星を追い、やがて小さく歓声を上げた。


「見つけた!じゃあ、パパもあの星を見ながら帰ってくるの?」


その瞬間、まるで航の質問に答えるように、夜空に流星群が始まった。


「お母さん、すごい!ペルセウス座流星群だ!」


航の声が弾んだ。夜空には次々と光の矢が放たれ、まるで天空の花火のよう。私たちは息を呑んで、その瞬間を見つめていた。


流星群は、夫との思い出も連れてきた。プロポーズの夜も、こんな風に星が降っていた。海辺の灯台の近くで、夫は「一生、君の航路の先にいるよ」と約束してくれた。その時の潮の香り、波の音、そして夫の温もりが、まるで今も傍にあるように感じられた。


「ねえ、航」


「なに?」


「パパとお母さんが出会った夜も、こんな風に星が降ってたのよ」


「本当に?」


「ええ。その時、パパは『星は船乗りたちへの手紙なんだ』って言ったの。今なら、その意味がよくわかるわ」


航は目を輝かせながら聞いている。その横顔は、夫に少しずつ似てきている。特に、星を見上げる時の真剣な眼差しは、まるで夫の写し絵のようだ。


夜が深まるにつれ、空気は涼しさを増してきた。航の呼吸が深くなり、私の腕の中でうとうとし始める。星々は相変わらず、静かに私たちを見守っている。庭の萩の葉が、夜風にそよぐ音が心地よい。


ふと、スマートフォンが小さく震えた。夫からのメッセージだった。


「今夜、素晴らしい流星群を見たよ。航と美咲も見ただろうか。南十字星も美しいけれど、やっぱり北の空が恋しい。一ヶ月後には帰港できそうだ。航は元気か?」


私は思わず微笑んだ。同じ星空の下で、確かに私たちは繋がっている。夫への返信を打ちながら、航をそっと抱き上げた。


寝室で眠る航の額にそっとキスをする。窓の外では、まだ星が降り続けていた。それは、遠く離れた場所にいても、私たちの心が確かに結ばれている証のように思えた。


明日も、その次も、そしてその先も、星々は変わらずそこにある。夫が帰ってくるその日まで、私たちは同じ星を見上げ続けるだろう。それは航海の道標であり、約束であり、そして希望の光なのだ。


窓辺に立ち、もう一度夜空を見上げる。北極星は、まるで永遠を約束するように、静かに、けれども確かな光を放ち続けていた。その光は、きっと明日も、大海原を航行する夫の船を、私たちの待つ港へと導いてくれるだろう。

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