【Milk it ver. 2】
一人称の話で語り手が嘘をつくのは小説として反則だと思うのですが、
この話ではそれをしています。
そこらへんを修正しようかと思ったのですが、直すほどに混乱してい
くのでやめました。
半分くらい嘘の話なんだなって思ってもらえれば幸いです。<卯巳>
「1日目」
昨日、届けられた牛乳の中に毒が入っていた。
200ミリリットルのガラス瓶に。
金魚鉢に注いだら、金魚が死んだ。
白く濁った水に、金魚のお腹が浮ぶ。
残りはマンションのベランダに捨てた。
いけないかなって思うけど、雨が洗い流したから構わないかな。
一昨日の牛乳には大きな蜂が入っていた。
その前はゴムのバンド。
そのまた前日は、留め金の外れた安全ピンが一ダース入っていた。
昔、牛乳会社で事故が起こって、薬品が牛乳の中に入ったことがある。
同じようなことが起きたのかと思ったけど、それはないと思い直した。
ゴムのバンドは近所の100円ショップで売っているものだし、入っていた毒は、シェーピングクリームの匂いがした。
一人でいるのはとても不安だ。
一緒に暮らしている彼は朝早く仕事に出てしまって、真夜中まで帰ってこない。
もっと職場に近い所に引っ越したいけど、お金がないからできっこない。
お金を稼いでいるのは彼で、私は一日中、部屋の中にいるのだから文句は言えない。
だから、今日、彼が出勤した後、ドアの後ろにうずくまって牛乳が配達されるのを待っているのだ。
誰が牛乳を運んでくるのかを知るために。
・・・・・・そういうことにしておく。
牛乳の配達は部屋の本来の持ち主が契約していた。
その人は彼の大学の先輩で、マンションは購入したばかりだったが、急にザンビアへの一年半の転勤が決まってしまった。それで帰ってくるまでの間、私達が部屋を預かることになったのだ。
先輩は配達を牛乳屋と契約し、部屋の前に牛乳入れを設置した。どこかで見つけてきたのか、牛乳屋に貰ったのか、昔ながらの木製の牛乳入れだ。ペンキの塗られた黄色の外装に、牛乳の製品名が入っている。牛乳の配達料金は先輩が一年間分を前払いしていて、牛乳は毎朝届く。牛乳好きの先輩は配達が始まった途端に転勤になった。先輩はエリートで、今度の転勤も重要なプロジェクトに関わるためだそうだ……彼が嬉しそうにそう言っていた。
でも、ザンビアでは何のミルクを飲むのだろう? ヤギだろうか?
最近、防犯のために居住者以外はマンションの中まで入れなくなった。だから、牛乳瓶も入り口の郵便受けに届く……はずだった。それなのに牛乳は部屋の前の牛乳入れに届いている。誰かが郵便受けに届いた牛乳を部屋の前まで運んでいるのだ。マンション内には居住者以外は入れないから、犯人は住民ということになる。その誰かは毎朝、郵便受けから牛乳を抜き取り、物や毒を入れ、5階にある私達の部屋の前まで牛乳瓶を運ぶ。誰かは知らないが、この四日間、グルグルグルグルそのサイクルを回っているのだ。
・・・・・・そういうことにしておく。
私達は急に二人で生活することになったので、お金がなかった。前に彼が住んでいたアパートは4畳半で、二人で住むのは無理だった。いや、私は平気だったけど、彼は無理だと思ったみたいだ。だから、先輩に部屋のことを相談された時、私に無断で引っ越しを決めてしまった。勿論、彼が私との生活のことを考えてくれたのだってことはわかっている。でも、それで彼の出勤が早くなってしまったのは、嫌だ。
先輩の趣味で、部屋の中はイギリス風の家具で統一されている。残していったCDラックの中には、エルトン・ジョンとビリー・ジョエルが入っていた。先輩との約束で、可能な限り内装は変えないことになっている。勿論、牛乳入れも含めて。あと一年以上、これに傷を一つでもつけちゃいけないのだと思うと気が遠くなりそうだ。
コトン、と音がして、牛乳入れに牛乳が置かれた。
二本の瓶が触れあって、鈍い音を出す。そして、歩き去る足音がドアを通じて聞こえた。
ドアを薄く開くと、廊下の角をまがって消える後ろ姿が見えた。黒いレザーのコートを着ている。私は目が悪いので、どんな人間かうまく判断することができない。淡い緑色の壁が雨に濡れて影と混ざりあう。
誰だろう?
私はドアを閉めて考えた。男だろうか、女だろうか? 少なくとも牛乳屋とは違う。
お隣の斉藤さんだろうか? 名前は表札で知っているけど、殆ど会ったことはない。それとも、ゴミを出す時にいつも口煩いあの人だろうか? あの人何階に住んでたっけ? 確か3階の気がするが、名前もわからない。
マンションは五階建てで、壁は淡い緑色をしている。エレベーターと階段があって、エレベーターは調子が悪くて、動くと少し軋んだ音がする。
……私がこのマンションについて知っていることはそれくらいだ。
配達している牛乳屋は三本路地を越えた通りの角にある。
牛乳入れと同じ黄色の看板がかかっていて、プラスチックのケースが店の横に積み上げてあること以外は普通の家とあまり変わらない。裏は住居になっていて、小さなプランタから伸びた時計草が窓の格子にからまっている。今の店主は私と同い年くらいの若い男だ。長身で、さっき見た後ろ姿とは合わない。さっき見た影はもっと細かったように思う。……女みたいに。
女だろうか? 私は考えた。
今日の牛乳には小さなクリップが一杯入っていた。クリップは鎖のように全てつなげられていて、瓶の中に沈んでいた。流しに捨てると、白い液体がステンレスの上に広がって少し遅れてクリップの固まりが落ちた。水を流すと、クリップも流れた。抜けた髪が引っ掛かるように、残飯受けにクリップの塊が引っ掛かった。
「今日も牛乳に物が入ってた」
仕事から帰った彼に、私は言った。
「またか? 恐いな」
真剣味の薄い声で彼は答えた。彼の帰りは遅い。残業を進んでしているからだ。だから、帰ってくる頃には疲れ果てて口もきけない状態だ。話はできるけど、ロボットが喋っているみたいに会話が上滑りする。私が突然、歌を歌いはじめても、『うん、そうだね』としか答えないだろう。
もちろん、それは来るべき私達の結婚生活の為だってわかってる。
「牛乳、飲むなよ。捨てちゃえばいい」
「そうしてる」
「それと、誰が来ても居留守使えよ」
「そうしてる」
「……でも、恐いな」
彼は初めて気付いたみたいに私を見た。
「警察、行くか? 明日だったら時間がとれるかもしれない」
「別に、いい。大丈夫」
今の彼にそんな時間と余裕がないってことくらいわかっている。本当は警察行くのなんか面倒だと思っていることも。彼は責任感のある人だから、私が言えば、警察にいくだろう。でも、大丈夫だと言った時に、ホッとしたような顔をしたのも本当だ。
御飯食べた? と尋ねると、食べた、と答えた。シャワーに入って、ベッドにバタンキュウ。私との会話時間は、彼が一日に乗るバスの時間よりも短い。そして、明日も会社に行かなければならないのだ。
「金魚、死んだのか?」
空っぽになった金魚鉢を指差しながら、彼が言った。
「昨日だよ」
可愛かったのにな、と残念そうに彼が言った。
そうだね、と私は答えた。
「2日目」
次の日は牛乳に何も入っていなかった。
帰ってきたら、彼にそう言おう。
きっと彼も安心してくれるはずだ。
彼は責任感の強い人だから、今日も牛乳に物が入っていたら、警察に行っただろう。
警察なんか真剣になんかとりあっちゃくれない。
昔、本当に私が困った時にも真剣には聞いてくれなかったのだから。
雨が振って、雫が地面を打ち続ける。
玄関のドアにもたれ掛かって、ずっと雨の音を聞いていた。
牛乳はさっき郵便受けにまで取りにいった。今は私の手元にある。
だから、今日は誰かを待つふりをする必要はない。
ドアを開ける必要もない。
今日は一日、居留守を使おう。
前の通路を人が通る。セールスマンや買い物に出かける人や、小さな子供の長靴。そして、女性のハイヒール。その音を聞いて、昔一度だけ会った女のことを思い出した。
そう、あの女はハイヒールを履いていた。
「どうして、貴女なのか少しも理解できない」
あの女は言った。
「どうして、貴女みたいな人に負けなきゃいけないのか少しもわからない」、とも言った。
私だってよくわからない。
朝に弱いのは私の責任だけど、この人が朝の6時に電話をかけて喫茶店に呼び出して、目の前に座っているのか。
どうして殆ど知らない人から自分が狡猾い人間みたいに言われなくちゃいけないのかよくわからない。
私は嘘つきじゃない。
私の目の前にはチョコレートクリームパフェが置かれ、彼女の前にはコーヒーが置かれている。・・・・・・どうして、彼女がパフェを注文したのかもよくわからない。とりあえず、食べろってことなんだろうな、と考えた。
彼女の話の論点は私と彼が付き合っていることだった。
確かに彼と付き合っている状況は未だに自分でも信じられない。
それだからって、他人にそれを責められなくちゃいけないって訳でもないだろう。
彼がつきあっているのは私だし、私が彼に捨てられようが、傷つけられようがそれは私だけの責任のはずだ。
だから、あの女に私達の将来のことまで心配する権利はなかい。
でも、どうしてあの人、他人のことでここまで必死になって怒ったり、心配までしたりしていたのだろう?
私は少し可哀想になって、とりあえず謝っておいた。
何のことを謝ったのかは、自分でもよくわからない。
ここの代金はは私が払うわ、と言って彼女は立ち去った。パフェの代金くらい払えないわけじゃない。でも、彼女が話している間にクリームが流れ落ち始めたので、その方に気を取られてしまい、何も言えなかった。
もしかすると、それが狙いだったのかもしれない。
「ガツンと言ってやるべきだったかな?」
私は牛乳を一口飲んだ。
その時、誰かの視線に気付いた。
誰かが、ドアの向こうに立って私を睨んでいる。
覗き穴から外を覗く。
彎曲したレンズの向こうで、黒い影が動いた。
チェーンをかけながらドアを開けて、外を見たが、そこには誰もいなかった。
ただ、ハイヒールの靴の足音が遠ざかっていくのが聞こえた。
私は嘘つきじゃない。
でも、そんなはずはない。
「小山って人のこと覚えてる」
帰ってきた彼に尋ねた。彼は暫く考えたが、ああ、あの小山か、と答えた。
「そうそう、その小山」
「・・・・・・それが、どうかしたのか?」
「あの人、今、何処に住んでるのかな?」
「さあ」
確か故郷で就職したんじゃなかったかな? と彼は言った。今日の彼も眠そうだ。
「どうして、そんなこと聞くんだ?」
「・・・・・・別に」
私の答えに彼は少し怒ったみたいだった。疲れて帰ってきて、要領をえない話をされたのでは当たり前だろう。だけど、私は自分のことで手一杯だった。
「・・・・・・人の視線って感じたことある」
「たまに。あんまり鋭い方じゃないけどさ」
「最近、よく感じるの」
「へえ」
「変よね、ここには知っている人もいないのにさ?」
「だから、気のせいだよ」
「そうかもね」
彼は私を抱き締めて、軽くキスをした。
二人で住むようになったっていうのに、全然、愛しあっていない。
彼に抱かれていると気持ちがいい。彼の手はとても優しくて、安心する。
・・・・・・でも、何かが足らないような気がする。
それが何なのか自分でもわからなくてイライラする。
私がシャワーを浴びて、ベッドに戻ると彼は眠ってしまっていた。
「3日目」
人の視線を感じる。
視線ではなく、他の人間の存在自体を感じる。
それは逆に言えば、自分と他人という存在の断絶。
大学を卒業して、友だちと会うことも少なくなった。
この町に知っている人間もいないのに、どうして一人っきりになれないんだろう?
配達された牛乳に剃刀が入っていた。黒い剃刀の刃が1枚、白い液体の奥を漂う。
今日も雨が振っている。
空から絶えず降り注ぐ透明な針は、少しずつ・・・・・・しかし確実に何かを奪っていく。
削り、溶かし、雨は空から降り注ぐ。
ベランダに出て、外を眺める。少しだけはり出した屋根から、雨の雫が滴り落ちてくる。
耳を澄ますと雨樋の中を水が流れる音が聞こえた。強くないが風が吹いて、雨が顔にかかる。
アルミのサッシと窓際に敷いたカーペットが濡れた。空は薄暗く、空気は幽かに霞んでいる。
正面の方向に大きなパチンコ屋の看板が見える。
オレンジ色の骨組みで、ケバケバしい電飾の取り付けられた大きな看板も、今日はくすんでいる。
3日前、私はここで牛乳を捨てた。
その日も雨が振っていて、コンクリートのベランダに広がった牛乳は雨と混ざって少しずつ流れていった。薄い白の膜に雫が穴を開け、押し流し、渦を巻き、流れていく。私はそれが雨樋を通っていくのを眺めた。
私は濡れたカーペットに座りながら、見渡す限りの世界が雨に溶けていくのを眺めていた。
薬を飲んで、買い物に出ることにした。
不安定な気分の時は外出をしたほうがいいと経験的にわかっている。
雨がきつく降り始めたので、傘をさして、黒いレザーのコートを雨合羽代わりにして出かけた。
私は大丈夫、と三回、つぶやいてから。
昔から体が弱くて、何かと言うと病院に行っていた。でも、働けないってほどじゃない。大学の頃は近所のパン屋でバイトしていた。あそこを辞めたのは、客の一人に付きまとわれたからで、病気になったからじゃない。その後、色々あって、半年程寝込んだのは確かだけど、誰とも会いたくない気分だったのが、一番の理由だった。
それから、しばらく経って、少しずつ人に会いたくなって、会えるようになった。
その時に一番会いたくなったのが、今の彼で、そのまま深く関係を持つようになった。
近くの商店街とコンビニで買い物を済ませる。二人暮しになったが、買い物の量が未だにつかめない。
冷蔵庫に溜め込むのも好きじゃない。
料理が余っても彼のお弁当にすればいいのだけれど。
後は飲み物を少し、牛乳は買わない。
彼が使うシェーピングクリームの予備が無くなったので買っておく。
商店街からの帰り、牛乳屋の前を通った。
雨は殆ど上がり、白と紺色の花弁の時計草が針のない日時計を作っていた。
牛乳屋の店主はトラックに空瓶の入ったプラスチックケースを積んでいるところだった。雨がまだ少し降っているのにも関わらず傘もささずに作業をしており、袖をまくり上げたシャツから浅黒くて太い腕が覗いた。
雨に濡れたシャツの下から盛り上がった背中が浮かび上がり、それは彼がケースを持ち上げると共に動いた。
上京して、大学に入って、生まれて初めて男の人と付き合った。
大柄な人だった。
でも、別にスポーツをしていたわけじゃなかった。
高校まで男の人との交際はなく、18年間を漠然とした不安と期待を抱いて過ごしてきたが、彼と出会って、一緒に寝るまで5時間もかからなかった。
一年生の年の夏は彼の部屋のベッドで過ごしたことしか覚えていない。
彼は子供っぽい人だった。自分の欲望を満たすことがなによりも好きだし、他人のペースに合わせるのは嫌いだった。でも、優しい言葉と態度だけは知っていて、自分のことを寛大で優しい人間だと思っていた。私は彼が優しい言葉を言うことはできても、本当に誰かの為に動くことはないと知っていたし、それでいいと思っていた。
彼とは一年後に別れた。セックスの回数がまばらになって、そのまま途切れた。そして、彼はそのまま別の女に乗り換えた。最後に会った時に、彼はそれなりに別れる理由を並べ上げた。どうにかして私が悪いというふうに話をもっていこうとする彼の話を、私は聞き続けた。
彼が自分しか愛せない人間だとはわかっていた。
それでも、私は彼のことが好きだった。悲しくて涙が出た。
彼は最後の結論としてこう言った。
誰も、オレの生き方を縛ることはできないんだよ、と。
もし、あの時彼と別れず、今も暮らしていたらどうなっただろう?
彼は真面目に働くタイプじゃない。私の体を気づかって家にいろとは言わないだろう。私は働きに出て、彼と生活する。彼はよく怒るだろうし、喧嘩もするだろう。浮気だってするかもしれない。
でも、私は微笑みながら、彼の勝手な理屈を聞いているだろう。
「何か用っすか?」
牛乳屋の店主が話し掛けた。いつの間にか店の前に近付いていた。我に返って返事をした。
「あ・・・・・・牛乳、貰えますか?」
「わかりました」
店主は礼儀正しく頭を下げて、店の中に入った。配達だけでなく、牛乳や飲み物も売っているので助かった。店中にガラスのケースがあり、そこには瓶に入った牛乳や1ℓの牛乳パックが並んでいる。
「瓶と紙パック、どちらっすか?」
「・・・・・・紙パック。・・・・・・2つ」
「毎度」
店主はビニール袋に入った牛乳を渡した。お金を払って、それを受け取る。ふと、店主が私のことを見つめた。
「そこのマンションの人ですよね?」
「・・・・・・はい」
「毎度、ありがとうございます」
店主がもう一度、礼儀正しく頭を下げたので、私は戸惑ってしまった。
「それにしても毎朝、早いっすよね?」
「・・・・・・ええ」
「あ、ジロジロ見てるわけじゃないっすよ。牛乳配って、次の所にいく時に二人で出てくるのがいつも見えるから・・・・・・」
「一緒に住んでいる人を見送りに出るんです」
「それじゃあ、もう少し早く配達しましょうか?」
朝食に牛乳が間に合わないでしょうから、と店員は言った。
「いいんです。彼、あんまり牛乳は飲まないから」
「そうっすか。それじゃあ、毎朝貴女が牛乳を?」
「・・・・・・ええ」
「牛乳、好きなんっすね」
店員はもう一度お辞儀して、私を見送った。
予想しない出来事は、長く心の中に残るから嫌だ。
嘘で取り繕った時は尚更だ。
私は嘘つきだ。
マンションまでの道、ビニール袋の中で牛乳のパックがガサガサ動き、歩く度に膝に当った。
帰って、洗濯をして、雨がまた強くなったので洗濯物を部屋の中に干す。
濡れた洗濯物を吊るしたせいで、部屋の中は息苦しかった。
ニルヴァーナのCDをかけて床に寝そべる。
近くに巣でもあるのか、開いた窓から一匹の蜂が入ってきて、電燈の回りを回った。
そのまま蜂は部屋の中を飛び回り、部屋から出ていこうとして窓ガラスにぶつかった。
自殺するように何度もガラスにぶつかった後、蜂は窓の隙間から出ていった。
それから後は、雨と町の音しか聞こえなかった。
時折、風が吹いて、二人分の洗濯物が幽かに揺れた。
牛乳瓶をもって、浴室に入る。牛乳パック2本もそこに運ぶ。
服を脱いで、紙パックの口を開いて、中身を頭から注いだ。滑り気をもった液体が、髪の隙間から滴り落ちる。顔を上げて、流れを口に含む。白い液体が口から溢れ、胸の上にこぼれた。息が出来なくてむせるまで、咽を動かし続けた。
シャワーの栓を捻り、その下に立つ。
ミルクと水の混じったものが、髪の間から落ち、タイルの上で渦を巻き、下水道に流れていく。
私は牛乳瓶を手にとって、栓を再び開けた。
中身を手の上にこぼしていくと、白い流れの中に一瞬、黒い影が浮かび上がり、薄い金属の刃が手の上に落ちた。
今日、彼の帰りは少し早くて、久しぶりに二人で食事をした。
彼は私の知らない世界の話をした。会社の上司が意地悪な奴であること。取引先が期限を守らないこと、新しい分野の仕事に進出しなければいけないこと。それが困難な仕事であること。
彼は延々と話し続け、私はそれを聞き続けた。
仕事をするってことは大変だよ、と彼は言った。
「・・・・・・でも、それを望んだんでしょう?」
私は不思議そうな表情を浮かべた彼を残して席をたった。
一時間後に、彼がベッドに入ってきた。
彼は洗い物を済ませ、食器を整頓して、シャワーに入っていた。湯上がりの匂いがベッドの中に立ち篭める。
「大丈夫かい?」
彼が私に話しかける。
「何が?」
「すぐに寝ちゃったから」
「別になんでもないよ」
「疲れたのかい?」
「かもしれない」
「気分が悪いとか?」
「それはない。・・・・・・大丈夫」
「安心した」
彼はそう言って、横になった。それから、思い出したように言った。
「そうだ。牛乳はどうなった?」
「あれからはないよ」
「そうか、続いたら恐かったな」
「うん」
「洗面台の剃刀どうした?」
「捨てた」
「そうか」
まだ使えるのに、と彼は言って、眠りについた。
暗闇の中で、手首に唇をあて、そこに走った傷跡をなめた。
私は大丈夫……。私は大丈夫……。私は大丈夫……。
三回、つぶやいてから目を閉じた。