幸せの絶頂にいる人は、けっこう多いのかもしれない
ずっと以前、「ホンマでっかTV」で、永野芽郁さんが「朝ドラに出てから、他の仕事(映画など)がとても短くて寂しい」「欲しいものがない。新しい服なんかも欲しいとは思えなくなった」と言われていたように思う。
その時、解説人の偉い教授方の一人が、「あなた、幸せの絶頂にいるんだね」と言われ、ハッとさせられた。
人が望む最高の幸せはそれぞれにあるだろうけど、多くの人はそれを欲、快楽の充実した姿として捉えていて、その人にとっての満たされた現状である幸福は、ただ先の望みがなくなって(動物的、競争的欲望に縛られなくなって空白を感じ)寂しくて、捉えづらいのかもしれない。
…現在の子供たちは、お菓子なんかをあげても、貧しかった過去の時代ほど、喜ぶ子はいない。
特別高く、おいしいのものでも、それほど喜ぶことはないようにも思える。
おそらく、「生きていくためには食べなければならない」という生物にとって、それは異常なほど幸福なことであり、その分野においては満たされすぎて、その先の喜びはほんのわずかの上質なものなのだ。
これからは、長い(と感じることのある)人生の中で、どれほどそういったことが恵まれていることを知っていくかと、さらにその中にも、未知の驚きと感動が絶えずあることを学んでいくことくらいだろう。
僕も最近、欲しいものがどんどんなくなっていって、自分に情けなさと寂しさを感じる反面、妙に満たされた幸福感が持続しているようになった。
何か大それたものを成し遂げようとするのではなく、「恐ろしく小さいことだが、間違いなく人のためになっている」(可能性が高い)地域活動に充実感を感じるのは、たぶん寂しくも大人になった証なのだと、勝手に思っている。
冒頭の永野芽郁さんと社会的レベルは全然違うが、僕もいま、自分にとっての「幸せの絶頂」にいるのでは、と思えた瞬間、ずいぶん楽になれたのだ。
人によっては、「何か大きなことをしなければ」と焦って、商売で手を広げたり、出世の過程で急ぎすぎて人を傷つけたりする。
そして何かミスを犯した際に、周囲の心を大切にして足場を築いてこなかった者は、大きく転落する。
地道に、人に真摯に対応してきた者の人生は、少々のミスで揺らぐことはなく、周りがカバーに奔走してくれるほどだ。
僕は人生で焦りすぎて、大切なものをほとんど積み上げることなく、頑張っている気になっていた。
それもエネルギーが尽きて、実直に生きてきた人の言葉に反応できるようになると、ずいぶん人生は楽しいものであることに気づいたのだ。
人は、ゆっくりでも向こうから来るものに的確に対応して生きていけば、自分の望む充分なスピードで、人生がステップアップする。
失敗や、他人からの仕打ちで傷つく痛みが大きい人ほど、将来大きくなれる器を持っている。
と、いうわけで、月給が入社一年も経たずに2度も1万円アップしたーー1度目は試用→本採用だけどーー小さな(現在の給与で充分な僕にとっては大きな)幸せの絶頂でした…
その先はまったく保証されていないけど。