09 約束のスライム
09 約束のスライム
ジャドがどさりと倒れ、波紋のような土埃がおこる。
それっきり、決闘場は水を打ったように静まり返っていた。
やがて、観客の誰かが震え声で言う。
「う……うそ、だろ……?」
その声は湖に降り始めた雨のように、ざわめきとなって広がっていく。
「ま……マジで、勝ちやがった……!」
「最弱の、スライム野郎が……!」
ゴロゴロと鳴り渡る曇り空のような実況が続く。
『しっ……! 信じられませんっ!
キルシュ様とジャドの決闘に、誰も予想しなかった伏兵!
ローフル組とケイオス組の戦いに、ヌル組が飛び入り参加しました!
その勝者は、なんと……!
スライムに育てられたという、最低最弱の生徒!
聖邪どちらからも見放されたヌル組の、スライでしたぁぁぁぁぁーーーーーっ!!』
「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!」
落雷のような大歓声が轟き渡る。
このとき、二度目の奇跡に誰もが目をうばわれ、三度目の奇跡が起きていることに気付いていなかった。
校舎の最上階から戦いを見守っていた、ママリアージュが勝利の女神のような、にっこりとした微笑みを浮かべているのを。
「うふふ、スライちゃんとライムちゃんなら、ぜったいに大丈夫だって、ママは信じてたわ」
1階の砂被り席で祈りを捧げていたピュリアは、へなへなとへたり込んでいた。
「よ……よかったぁ……! キルシュさんもスライさんも……そしてライムさんもご無事で……!」
当のキルシュは、決闘場にぺたんとアヒル座りしていた。
「そ……そんな……まさか本当に石とスライムだけで、伝説の邪剣『ストームブリンガー』に勝っちゃうだなんて……。
あんな……あんな、戦い方があるだなんて……」
剣聖として修行を重ねてきた少女は、これまで様々な戦法を学んできた。
戦術指南の本も読みあさり、どんな絡め手も知り尽くしたつもりでいた。
しかし少年の戦法はどの本にもない、あまりにも規格外のものであった。
それは青天の霹靂どころか、青天が落ちてきたような衝撃。
目の前で起ったことの衝撃に、キルシュの瞳からはすっかり光が失われていた。
そこに、ノンキな声がかかる。
「おい、大丈夫か?」
キルシュが白昼夢から覚めたように顔をあげると、そこには例の少年が手をさしのべていた。
「じ……自分で立てるわ!」
キルシュはスライの手を払いのけて立ち上がる。
しかし邪剣に精気を吸い取られているせいで、生まれたての子鹿のように足がガクガク震えていた。
スライは支えてやろうとしたが、「触らないで!」と突き飛ばされてしまった。
「マジで大丈夫か? 保健室まで付き合ってかろうか?」
「余計なお世話よ! わたしはあんな最低な戦い方、認めないんだから!」
いつの間にかスライの肩に戻っていたライムが、怒りに弾んだ。
「おい、助けてやったのになんだその言い草は! そこは『くっ、殺せ』だろうが!
まぁどっちにしたって、お前が完全敗北したのは変わりませぇ~んっ!
約束守れよな、オラァ!」
ライムの煽りに呼応するように、実況が乗っかる。
『そういえば今回の決闘でスライが勝利した場合は、キルシュ様のスライムを好きなときに揉ませるという約束が交わされています!』
『キルシュ様のスライム』というのはすでに、全校生徒の間では暗喩として広まっていた。
校舎にいた男子生徒たちが、窓から落ちんばかりに身を乗り出す。
「マジかよ!? キルシュ様のスライムを揉み放題って、ヤバくね!?」
「キルシュ様といえばこの学園でもトップクラスの美少女だぞ! それにナイスバディだ!」
「チクショウ! いいなぁ! おいスライ、さっそくモミモミしろよ!」
スライは全校生徒の敵だったが、いまは男子生徒たちが味方していた。
手拍子とともに、「モーミモミ! モーミモミ!」と下品なヤジが飛び交う。
スライは肩をすくめながら尋ねた。
「どうする、キルシュ?」
キルシュはうつむき、ワナワナと震えている。
軽はずみな約束をしてしまったことを、全身で後悔しているようだった。
やがて、ポニーテールを振り乱すほどの勢いであげられたその顔は、ほとんどヤケっぱちだった。
「い……いいわ! 約束どおり、好きなときにスライムを揉ませてあげる!
だけど、『誰が好きなとき』かまでは約束してなかったわよね!?
揉ませるのは、わたしが好きなときよ!」
「え……ええええーーーーーーーーーーーーーっ!?!?」
これにはライムはもちろんのこと、周囲からもブーイングが起った。
「テメェ、往生際が悪ぃぞ! デスゲームの主催者かよ! この負け犬メス野郎が! キャンキャン泣かしてやろうか!?」
ライムはキルシュに飛びかかっていったが、キルシュの平手でペシンと跳ね返されてしまう。
「キャイン!?」と犬のような悲鳴で戻ってくるライムを、スライは両手でキャッチする。
キルシュは両手を腰に当てた仁王立ちで、完全に開き直っていた。
「ちゃんと約束しなかったあなたたちが悪いのよ! 今更後悔しても遅いわよ!
どう、スライくん、悔しい? 悔しいでしょう? 気分は最低でしょう!? おーっほっほっほっほっ!」
キルシュはすっかりキャラが変っていたが、スライはいつも通りだった。
「いや、俺もそれでいいと思う」
「えっ」
「俺も最初からそのつもりだったんだ」
ちっとも堪えていない様子のスライに、キルシュは取り乱す。
「う……うそ! そんなはずないでしょう!?」
「うそじゃねぇさ。前にも言ったような気がするけど、お前はスライムを大事にしてるんだろう?
そこまで大切にしているものを、好き勝手に揉むつもりはないさ」
「な……なによ……それ……」
言い返す言葉もないキルシュ。
スライはマイペースに微笑む。
「約束なんて守らなくていいさ。それで本当に大切なものが守られるなら、約束なんてクソくらえだ」
その言葉に、キルシュはある人の面影を見た気がして、目を見開く。
気付くと、ひとりでに叫んでいた。
「さ、最低っ! ふざけないで! わたしはあなたみたいないい加減な人とは違うわ!
わ、わたしは、ちゃんとした約束は守るわよっ! 剣聖皇女にとって、約束は何よりも大事なんだから!
だいいち、あなたがちゃんと決闘に来ていれば、こんなことには……!」
「ああ、俺は約束は守れなかったな。でも、大切なものは守れたからいいんだよ」
それだけ言って、スライは背伸びをする。
キルシュはとっさの機転でやり込めたつもりでいたのに、スライはなんとも思っていなかった。
それどころか、最高の気分を味わっているようだった。
「さぁて、俺はそろそろ行くよ。昨日の夜からなにも食ってねぇから、急に腹が減ってきた」
さっさと背を向けるスライを、「待って!」と呼び止めるキルシュ。
「教えて! あなたが守った大切なものって、いったい何なの!?」
スライは立ち止まり、振り向きもせずに答える。
「お前とコイツだよ」
スライは肩越しにキルシュとライムを親指でさしたあと、そのまま歩きはじめる。
「だったら投げんじゃねぇよ」というライムのツッコミだけを残し、決闘場から去っていった。