第一章5話 永生家の団欒
「お久しぶりですね、桜」
「母上もご健勝のようで……」
「元気でやっていましたか?」
「は、はい……。 元気です」
「金次……、いますね?」
「はっ……、ここに控えております」
「桜の学問の進捗はいかほどですか?」
金次は、平伏しながら考える。
順調……。
そう答える事による、偽りの発覚による事態。
嘘や偽りを嫌うこの鬼母堂様。 金次の首は胴から離れ、天を舞うだろう。 結果、死。
停滞……。
そう答える事による、桜姫の逆恨み。 金次は生きながら地獄巡りをする羽目になるだろう。 結果、死。
「金次?」
鬼母堂様は、微笑みながら答えを促す。
桜姫のさりげない目配せも、後に味わう地獄の風景が見渡せる。
沈黙……。
鬼母堂様による無言の重圧に加えて、桜姫の無言の重圧。 そんなものに耐えれるように金次の身体はできてはいない。 結果、精神崩壊。
泣きまね……。
同情を買おうにも、御館様や景寅様はともかく、鬼母堂様には通じない。 桜姫の後に予想される地獄巡り。 結果、死。
腹をかっさばいて果てる……。 武士らしいが、それはつまり……。 結果、死。
つまりなんだ……。 何を選んでもバッドエンド……。
そもそもなんだ。 うちが先祖代々仕えている永生家というのはどうしてこうも女性が強いのだろうか。
一応、永生家頭首の景清様。 次期永生家頭首の景寅様。
部下の窮地ですが、助けてはいただけませんでしょうか?
あれ?
今、御館様……、目を逸らされた?
若君様……、何でしょうか……。 その哀れみと同情に満ちた眼差しは……。
「さ、桜姫様におきましては、勉学にさることながら……、お、恐れおおくも……、その……、つ、つまり……ですね。 水滴穿つは石をも貫くと申し上げますが……」
「金次……。 落ち着きなさい。 もう一度聞きますよ? 桜の学問の進捗はどうなっていますか?」
「水滴穿つは石を貫く……」
「私は回りくどい言い回しは嫌いです……。 はっきりと、男らしく正か否かを答えなさい。 で、桜の学問の進捗は?」
「姫様は、努力はしておりますが、なにぶん環境が環境ですので、少々遅れてはいます」
嘘を信じさせるには、多少の真実を織り交ぜれば案外と騙されてくれる。 問題は、この鬼母堂様にその一般が通じるかということだ。
「つまり?」
「はっきりといいますと、多少は目論見より遅れておりますが、多少でありまして……、姫様は姫様なりに頑張っておいでです」
「そうですか……。 桜、頑張っているようですね」
「は、はい。 それはもう」
「ところで、桜−−−」
空気が変わる。
いうなれば、本能が何かしらの警告を与えているのだ。
「戦を左右する陣形は代表的な陣形が8つありますが、その陣形の名称はなんでしたっけ?」
「は、はい……。 魚鱗、鶴翼、長蛇、偃月、鋒矢、方円、衡軛、雁行の八陣です」
「……そうですか。 では、鶴翼の陣形の特性は?」
「包囲機動の陣形です。 Yの字を描き、両翼に鉄砲を配置することが多いです」
「では、雁行の陣は?」
「迂回機動に優れた陣形で、包囲の形、側面への展開に融通がきく陣形です」
「………鋒矢の陣形は?」
「槍の形をした陣形で、突破、突撃に秀でています。 小勢で多勢を打ち破る構えとなります」
「………桜」
「はい?」
鬼母堂様は金次をにこやかにみて
「………金次」
「は……?」
「あなたたちは何の勉強をやっているのですか?」
顔はにこやかだが、目は笑っていない。
金次も桜姫も、背筋に寒いものが走る。
「い、いえ……、私はそんな事を教えた記憶はありません! なにもかも姫の独学の賜物でありますれば……」
「き、金次! こ、この裏切りもの!」
「桜……」
鬼母堂様は、あいかわらずの凍りの微笑をしたまま、ゆっくりと立ち上がり桜姫の前に歩いていく。
桜姫は金縛りにあった様に動けず、震えながらその様を見ていた。
桜姫の前で立ち止まる鬼母堂様。
「桜……」
「ひっ」
鬼母堂様は、ゆっくりと手を桜姫の頬にもっていってくいっとつねる。
「いたたたたたたた! 母上、いひゃいです!」
「いいですか、桜。 桜がお勉強するのは、字や算術など、この世を生きていくうえで困らない学問ですよ? 軍学なんて女には必要ないですよね? どうなんですか、桜?」
「ひゃい、そうです。 いひゃいです、離してくだひゃい、母上!」
仲の良い母娘だ。 と、金次は感心しながらその光景を見ていた。
「金次……」
いきなり話をふられた金次はびくっとした。
「もう一度聞きますよ? 桜の勉強の進捗はどんな感じですか?」
「え……えーーと、その」
「武士なら武士らしくはっきりと言いなさい」
「字は人並みですが、姫は算術がやや苦手な傾向にあるようです」
「いだだだだだだだ!」
さらにぎゅっと力を込める鬼母堂様。
「そうですか、桜は算術が苦手なのですね」
「御意」
ぱっと、頬から手を放した。 桜姫は涙目になりながら両手で手を覆う。
「では桜、母が勉強をみっちり見てあげましょう。 さ、こちらへ」
こうして桜姫は、鬼母堂様に連れていかれた。
取り残された男三人は、渇いた笑いを顔に浮かべていた。
「金次、苦労かけるな」
景清は、金次に声をかけた。 金次は、平伏しなおして
「いえ、これも某のお役目でありますゆえ」
「どういうわけか、永生家は女が強い……。 桜の気の強さは母譲りじゃろう」
景清は、苦い笑いをして言った。
「景虎も、いずれ嫁を取る身。 女を選ぶ時は母みたくぐいぐい男を引っ張る女子でなければこの乱世は勝ち残れん。 肝に銘じておけ」
「は、はあ……」
景虎は困った顔をしつつもとりあえず相槌をうっていた。
「しかし金次には本当に申し訳ない。 お前も乱世に生まれし侍であるにも関わらず、このような役目を与えてしまって……。 金次も人並みに野心はあろうに」
「いえ、御館様。 私は今の役目を心より楽しんでやらせていただいております。 それに父は永生が家臣。 子とて、それは同様でございます」
「実綱もここに来る折り、主の事を気遣っておった。 おぬし家の者は永生家中で最も忠義の一族である。 いつか泰平の世が到来し折りは報わなければな」
「はい、父上」
景虎は頷いた。




