第一章21話 独眼竜4
正宗は悟っていた。
「僕はこの場で生きて出られないだろう……」
正宗が今まさに対峙している男……。
初めて見る男なのだが、この男が誰なのかもすぐ理解した。
「あんたが魔王織田信長か?」
男は正宗を刺すような視線で見つめてゆっくりと答えた。
「伊達家の当主が我にどのような用向きかな?」
低く腹の底が冷えるような冷たく、一言一言に戦慄の旋律を載せた言霊と言うべき凶器。
どす黒いオーラが信長の背後から正宗を覆うようにプレッシャーを与え続けられる。
常人ならば、泣いて逃げたくなる……、いや、プレッシャーに殺されてしまうくらいの有り得ないほどの緊張感。
正宗の四肢は正宗の意思とは関係なく震えだしていた。
しかし正宗は体が無意識に発している警告を信念で無視し、言い放った。
「あんたの命、貰い受ける……」
その言葉を聞いた信長は軽く笑った。
「主をそこまで駆り立てる源泉は何ぞや?」
決まっている……。
惚れた女のためだ……。
自己満足の極地であることも十二分に承知もしている。
ただ返り討ちにあうことも確信していれば、勇気ではなく蛮勇でしかないことも理解している。
結局は、正宗がどんなに足掻いた所で遥はこの男と対峙し、命を散らすということまで分かっていても、何もせずにその状況を迎えるのは武門の一人として、いや……、一人の男として許容出来なかった。
「あんたに語る言葉は持ち合わせていない……」
信長がにたりと笑い、ゆっくり近付いて来る。
やがて信長は正宗の眼前までやってきた。
「若造が……。 我を楽しませてくれるか?」
「楽しませる? この伊達正宗……、悪党を楽しませる趣味は持ち合わせていない」
正宗の覚悟はもはや決まった。
正宗は刀に手をかけた。
「後にも先にもこのような茶番はないだろう……。 伊達の当主よ、我を存分に楽しませてもらおうか……」
正宗は信長の言上に耳を傾けず、隙が出来るのを待っていた。
一刀両断……。
大技の剣。
こんな技が信長に通用するとはこれっぽっちも思っていないが……、当たれば一矢報う事ができる。
外れたら、その瞬間正宗の生命は尽きるであろう。
分が悪すぎる賭ともとれる行為。
俗っぽく言うならば大穴狙いだった。
「我の隙を伺うか……。 必殺の信念は感服に値するが、その刃を我に通す事叶うかな?」
一見……、間合いは完璧、いつでも放つ事は可能に見えるが……。
隙が見当たらないのだ。
「ほれ、好機ではないのか? 我を討つ絶好の機会ではないか?」
信長は楽しそうに正宗を挑発していた。
それでも正宗には信長から隙を奪う事叶わず、ただ機会を模索している。
やがて正宗の思考は冷静になっていく。
胆が座ってきたのである。
元々、死にに来たようなものだ。
今更何を恐れる事がある……。
否。
恐れている。
認めよう……。
怖いという感情を……。
進んで死にたくはない……。
遥と約束した……。
後で話す事がある……って。
ここで死んだら二度と遥と逢えない恐怖。
それが何よりも怖い。
自身が死ぬ事より……。
かといって、遥を死地に送り出させる事ができるか?
否。
断固として否。
ならば遥を連れて逃げるか?
結論は不可能。
魔王という脅威から逃れるための手駒である遥を和国中の侍が草の根わけてでも探し出すだろう。
追記すべきは遥の意思。
これが何よりの障害……。
遥は使命に殉ずる事を決意してしまっている。
まさに動かざること山の如し。
遥の決意。
正宗には動かせる力は無い。
何度も試行し、揺るぎない決意を覆す事が叶わぬ事を悟った。
ならばこれしかない。
これこそ最良手。
僕如きが出来る唯一の法。
「姉ちゃん……」
視界の外で無二の親友であり、兄弟同然の小太郎が墜ちて行くのが見えた。
陽動として、外に敵兵の意識を向ける為に暴れてもらっていた小太郎。
動揺してはいけない。
小太郎は進んで買って出てくれた。
正宗の死出の旅の付き添いに。
「主の竜が墜ちていったな……」
「そうだな、墜ちていったな……」
「動揺を懸命に隠す主は健気ではあるが、隠しきれておらぬな」
「……いや、動揺ではない。 お前にはわかるまいが今の心境を口にするなら……」
正宗は目を細めて言った。
「覚悟が決まった」
そう呟いた瞬間、抜刀し横一文字に刀を振るった。
刀の剣先は虚空をきる。
正宗はそれを見届けた後、意識が遠のいていった……。
「若様ーーー」
遠くで侍女が呼ぶ声が聞こえる。
僕はその声を無視してうつらうつらと春の日差しを浴びながら木の下で惰眠を貪っていた。
ふと僕の額に冷たい感触がした。
僕はそっと目を開ける。
「あ、起きた」
「誰だ?」
若い巫女が僕の額に手を置いていた。
その巫女は微笑みながらこう言った。
「あなたこそ誰?」
「おれは伊達の次期当主、正宗だ。 気安く触るんじゃねえよ」
「こんな所で寝てる方が悪いよ……。 てっきり行き倒れかと思っちゃった」
「ここはうちの領土だ。 うちの領土で眠って何が悪い……」
「眠って何が悪いと言われてもね」
「んで、あんたは誰なんだよ」
「山県遥だよ」
「ヤマガタハルカ? どこの巫女だよ」
「どこ? ん〜……。 一応岩山本願寺になるのかな?」
「岩山本願寺? 岩山って畿内の?」
「そうそう」
遥は大きく頷いた。
「巡礼の旅でもしてんの?」
「いやあ、修行が面倒くさいから逃げている最中」
「逃げ……? こんなとこまで?」
「まあ、すぐ捕まるだろうけどね。 でも四、五日は大丈夫かな」
遥は正宗の横に腰掛ける。
「ふいーー、日差しが心地よいねえ、正宗ちゃん」
「ま、正宗ちゃん?」
「正宗ちゃんでしょ?」
遥は僕を指差す。
「が、ガキ扱いするな! 僕はこれでも元服してるんだぞ!」
「ぼく……」
しまった……。
一人称が元服前の一人称だ。
またガキ扱いされる!
「ん〜〜〜……」
遥は考えこんで、そして口を開いた。
「正宗……?」
「な、なんだよ……」
「正宗……」
「だからなんだよ……」
「…………正宗」
「だから何!?」
「うん、じゃあ今度から正宗って呼ぶね」
「はあ?」
「ちゃん付けは嫌なんでしょ?」
マイペースな女だ……。
「さて、正宗……まったねぇ〜」
そういって遥は立ち上がり手を振った。
「またって……」
また会える気ですか?
これでも伊達の次期当主……。
大名の御子息に当たる、普段なら声をかけるのもはばかれる立場にいるこのぼくにまた会える気でいるんですか?
「会いたくない?」
「そ、そんな事は一言も言ってないよ」
「じゃ、いいじゃん」
変わった女……。
大名の子息というぼくの立場を抜きにして気さくに話しかける女が今までいたか……。
いないな……。
「じゃ、また明日ね」
そう言った遥の体が急に閃光のように光る。
光りが止んだ後に遥の姿はなかった。
「な……」
これが遥との出会いだった……。
「神子だって?」
「うん、そうだよ」
遥が握ったおむすびを食べながら遥のこれまでのいきさつを聞いていた。
「まあ、だから他の巫女さんと違って堅苦しい掟とか適用されないし、割と自由がきくんだよ」
「いや、姉ちゃん……。 論点違うから」
「ん?」
遥はおむすびをほおばりながらぼくを見つめた。
「姉ちゃん、神子の役目知ってんの?」
「あ、正宗……、今私をバカにしたでしょ」
遥の受け答えが斜め上にズレるのはもはや慣れていた。
「論点はそこじゃない! 姉ちゃん、神子っていってしまえば生け贄なんだよ? その辺理解してんの?」
「そうだね」
「そうだねって……。 なんでそんな安易な返答が返ってくるんだよ!」
「と言われてもねぇ……。 それが私の役目なんだし」
「姉ちゃん、前々から普通の人じゃないと思ってたけどここまでぶっ飛んでるってどうなんだよ!」
「ぶっ飛んでいるとか言われてもねぇ……。 しいて言うなら人から頼られてその期待を裏切るのはやっぱり嫌じゃん」
「姉ちゃんみたいなのを世間一般で何ていうか知ってる? お人よしのバカって言うんだよ」
遥はキョトンとしていた。
「ん〜〜、でもさ、こっちの世界で色んな人にお世話になってるし、その恩を返さないなんてやっぱりできないでしょ」
「いやいやいやいや……。 また論点間違えてるから。 姉ちゃんは別の世界から有無言わず連れてこられた被害者だよ? なんで恩とかいう言葉がでてくんだよ」
「でも私はこの世界の人たち好きなんだよね。 好きな人たちが危険に晒されているのを助ける手段があるのに黙って見過ごすなんて無理じゃない?」
「無理じゃない。 姉ちゃん、利用されてるんだよ? その辺いい加減気付こうよ」
「あれだよね、正宗」
「ん?」
「こういうのって平行線っていうんだよね」
「…………あのね」
「私は私の意思で決めたんだから正宗がどんな屁理屈こねたって神子は辞めないよ」
「屁理屈じゃない! 真理だよ!」
「正宗、顕如さんみたいに難しい言葉使うね……。 私ももっと勉強しなきゃ」
「だから………………」
一度決めたら全くテコでも曲げないよね、姉ちゃんは……。
そんな姉ちゃんを死なせたくない……。
死なせたくないのに……。
先に僕が脱落……しちゃうんだね。
頭と腹と胸と足に生暖かい感触。
血……。
これはどう足掻いても助からないな。
途切れる意識の前に畳が近付いている。
殺られたんだ、僕は……。
嫌だ……。
こん……な…と……ころ……で……。 まだ、……姉……ちゃ…んに……言って……な……い…こと……が………。 姉……………ちゃ……ん。