第一章17話 桶狭間
今河、織田の国境−−。
今河義元は、上洛を名目に大軍団を編成し進軍していた。
傍には今河の名軍師、大原雪斉が控えている。
「雪斉……、魔王軍とはいえ、この程度よの」
義元は、扇子で扇ぎながら占領した砦を眺めていた。
「いえ、大殿……。 油断は禁物です。 まだ人に勝っただけです」
「雪斉も心配性よの……。 これだけの圧倒的戦力差、いかに覆す? いくら織田信長が魔王とて、この大軍団を止める事等できんよ」
「大殿……。 油断は禁物です。 なんの為に雪斉が、竹多、北條と結んだか、大殿は理解しておられるはず……」
対外的には竹多、北條、今河の三国同盟は利害一致の上で成り立っている、………ということになっている。
竹多家は、永生と決着と付ける為。
北條家は関東に進出する為。
そして今河家は上洛する為。
しかし、本当の同盟の意味は違った。
本願寺が三家に、魔王降臨を論じ、危険性を示唆したからであった。
それを最も重く受け止めた今河家軍師、大原雪斉は即時に三国をまとめ、軍事同盟を締結した。
そして、まだ織田信長の力が充分に備わっていない今だからこそ、早期決着を付けるため出陣したのだった。
「本願寺がもってきた話、麿にはにわかに信じられぬがのぅ……。 所詮、弱小織田如き、ひねりつぶすのはたやすい」
義元は二万もの大軍を動員して弱小勢力、織田を潰す必要に懸念を抱いていた。
大軍団に慢心しているといえばそれまでだが、義元には雪斉ほど危機感を持ち合わせておらず、雪斉がここまで織田に執着する理由が解せなかった。
いくら本願寺の警告とはいえ、魔王そのものの存在を信じているわけではない。
義元にとっては、織田を討つ大義名分を得た……。 それだけだった。
しかし、雪斉は渋い顔をしたまま、次の行動を考え込んでいた。
「大殿、近辺の民どもが戦勝祝いと申して、酒に食糧を献上に参りました」
「そうか……。 兵らも先の戦い、よぅ戦こうた。 ここで鋭気を養わせよう」
義元が休憩の命令を発そうとした時、雪斉は首を横に振る。
「大殿、論外ですぞ」
「なぜじゃ?」
「この地は縦に細く道になり、横から攻められた際、大軍の利点が機能しません。 私が織田軍団なら、ここで休む今河軍の側面をつき、大殿を討ちます」
「い、言われて見ればここは危険じゃの」
「さらに天気をご覧くだされ……。 まもなく豪雨になるでしょう。 結果、どのように運命が軍団を待ち受けているか想像にたやすいでしょう」
「……雨は音を消す、だったの?」
「ええ。 敵の軍馬の音が聞こえず、敵の接近に気付く事が遅れます」
「……ふむ。 兵らの労を労うのは砦に着いてから……ということよの?」
「いえ、まだ初戦に勝利しただけに過ぎません。 敵は織田信長という魔王ですぞ。 警戒しすぎるということはございません!」
「ふむ、麿が甘かったか……」
義元は、砦までの進軍を軍団に命じる。
情況を読めぬ将兵から、せっかくの民からの振る舞いを無下にするこの行いに非難の声が上がるも、渋々命令に従った。
「この楽観ムードは危険だ」
ポツリと雪斉は呟いた。
一方、織田陣営−−。
「休まず行軍しだしたか……」
信長は笑いながらその報告を聞いた。
周囲の家臣も、笑い出す。
「奇襲によって討ち取られる……っという最悪のシナリオは回避できたか。 では次のシナリオはどうなるやら」
信長はもはや今河軍団の末路を弄ぶように、いかに滅ぼすか考えていた。
「信長様、某に出陣をご命じくださいませ」
「勝家か……。 どのように我を愉しませる?」
「信長様から戴いたこの力で、かの砦を文字通り、血の海に沈めてみましょう」
「ほう……。 力の限り破壊と殺戮を繰り広げるか……。 それは見物よのぉ……」
「蟻の子一匹逃しません。 まあ、ご覧くださいませ」
「やれ……、徹底的にな。 我に刃向かいし愚か者に後悔させてやるのだ」
「御意!」
勝家はそういって信長の前から下がっていった。
「猿!」
「はは!」
信長の横に控えている小男。 木下藤吉と名乗っていた。
「うぬは、これより美濃攻略。 やり方はうぬに任せる」
「……は? 美濃の西藤は奥方様のお国では……」
「口答えは許さぬ。 返事はいかがした?」
「御意……」
藤吉は、一礼して下がった。
「……………大殿は何を考えているのか、猿にはわかりませぬ。 猿を拾って下さった時と人が変わった……」
しかし藤吉は、今は侍である。 農民から引き立ててもらった恩を返さなければ、まさに侍の仁義に反する。
「侍……。 ワシ、いや、某は侍だ……。 侍は主君に絶対忠誠する。 某が侍だ」
藤吉はぶつぶつと読経のように繰り返し呟いた。
義元は目を疑った……。
今河が誇る軍団が、次々と撃破されていく。
「殿!」
雪斉は、籠にいる義元の所に駆け寄った。
「お逃げください!」
「ど、どこに……。 どうやってじゃ?」
今河軍の悲鳴は四方から聞こえてくる。
阿鼻叫喚……。
生きながら地獄を目の当たりにされた義元は、混乱していた。
もはや織田軍団にとってこれは戦ではない。
狩……。
そう、人という名の獲物を追った、人狩……。
降伏も投降も懇願すら通用しない……。
ただ、むやみに殺しまくる、鬼。
頭に角が生えて、上半身裸で皮膚の色が赤く、鋼鉄のこん棒を振り回し、死肉を喰らう。
伝記や物語に出てくる鬼が今河軍団を襲っているのだ。
弓も槍も刀も鉄砲も何も鬼には通じない。
逃げても逃げれない。
恐怖……。
「ぎゃあああああああああ!」
「がああああああああ!」
「た、助け……うぶご!」
「か、母様!」
悲鳴に、なんとも言えない肉や骨を砕く音が先程から途切れもなく聞こえてくる。
「せ、雪斉!」
義元はとにかく軍師を呼んだ。
この地獄から逃げるために……。
それが義元の最後の感情だった……。
「脆い……。 今河脆し!」
この合戦で無事に国に帰れた今河の兵は一兵もいなかったという……。