鮫を嫉妬させてはいけない。
「本日も五分間の写生を始める、これな!」
美術の先生は大変に自由な先生である。いつもどこかの海で拾って来たという物を持ってきて、これを写生しろと言う。
今回は捨てられたガラス瓶とそれにつくフジツボが水槽の中で置かれている。
「先生今日は地味」
「馬鹿野郎、地味でもそれをいかに素晴らしく描くかは技量次第だ! 位置につけ!」
あちこちからジミーと響く声を叱り飛ばし、先生がタイマーを持つ。それに合わせて慌ててクロッキーブックを構える生徒たち。
大人数に合わせ、水槽は大教室に五個ほど置かれている。皆近い場所の物を描くのだ。
わたしもそれに合わせ、一番近い位置の物を見る。くそ、これじゃあマコのでかい背中が邪魔だ!
それでも、邪魔だというのはなんだか違う。しばらくその背中を睨むわけだが、水槽が書けるわけがない!
くそ、提出しなきゃ減点なんだ!!!
わたしは腹をくくり、鉛筆を走らせた。
とにかくもう腹が立つのでその執念でがつがつと書いていく。
「おい背後の奴の音ヤバイ」
「あの位置水槽見えなくね」
「前の奴の背中がwwwwwwでかいwwwww」
あちこちから聞こえてくる声がするが、そりゃこれだけ力込めてがつがつ書けば目立つ。
しかしそれ以外に怒りのぶつけようがなく……
「提出ー。本日もお決まりの無差別発表な」
五分後提出となったクロッキーブックの中から、先生が適当に数冊掴む。
これももうおなじみで、笑いが取れたり悲鳴があがったりとするものの、これも授業の一番初めに言われているから、皆納得する。もしくは諦める。
そしてこれがあるから、真っ白とかさぼれないわけだ。
今日もうまかったり下手だったり一歩間違ってたりするものが発表されていき、なんだか見覚えのある表紙が持たれる。
え、え、
「先生待ったまった待った!!!!」
「最後これなー」
わたしの制止の声もスルーして、先生がスクリーンに大写しにするそれは。
「……おいおいおいおい、水槽どこ行った」
「これ水槽見えない位置ってことだろ」
「おい、これ、マコの背中だろ」
「マコの背中を描くなんて勇気あるやつって言ったら……」
視線が一気にこちらに集中する。先生があっけらかんとした声で言う。
「こいつうまいな。五分でここまで書けるとは熱意のある事だ。集中力もな。加点しておくか」
なんてのんきな事を言っている。そこから絵画の講義が始まり、わたしは先生の方に集中する事にした。
近くからなんかやばい気がする視線を感じていたので、授業が終わり次第即刻で友達と合流しなければ、と思いながら。
ちなみに今日の講義の中身は、こちらの世界の有名な画家、鯱の人の書いた海底展覧会というタイトルの若干ゴシックホラーな絵だった。
その人は海底の骨と言う骨を描きまくり、ここまで至ったらしい。
最後は深海に潜り、水圧で体がひしゃげたとか。そんな死に方って……と青くなったのはわたしくらいらしい。
割とみんな平然としているのはなんでだ。これも後で聞こう。
ぶるりと身を震わせると、近くの視線が若干動いた気がした。
講義の後はそれを自分流に短くまとめた提出物を出していく。これも後でテストとかあるんだというが、これでどうやってテストを出すのだろう。
幾つか疑問に思いつつ、立ち上がった時だ。
「おおい、ちょうどよかった。まお、残ってくれ」
先生がわたしを呼び止めた。なんだと思って残ると、先生はいくつかの資料……地球の絵画集を出してくる。
「来週はここから出すんだがな、どこの資料ならわかりやすいと思う? このあたりは海上区域だから、あんまり陸地過ぎるのは理解できなくてそこから説明が必要で、時間が足りなくなるんだ」
「ええっと……じゃあ」
わたしは海上が舞台の絵をいくつか教える。あちこち留学していた知識が、ここで役に立つとは思わなかった。
「おお、これなら有名どころで生徒も調べやすそうだ。ありがとうな」
「いいえ、べつに」
「にしても、マコの嫁とかもったいなくないか。どうだ、先生なんて」
にやっと笑う先生。無精ひげの向こうで揺れる瞳は楽しそうだ。
「……生徒口説いて違法じゃないんですか」
「こっちじゃ十六超えたら口説いていいんだ。一昔前十五で成人だったくらいだしな」
「そんな成人になるのが早かったんですか!?」
「それ位から相手を探さないと、見つからない事が多かったんだ。広い広い海を泳いで、自分の伴侶を見つけに行く。十年がかりなんて早い方っていう考えもあったくらいな」
生き方の違いにめまいがする。でも、海洋種と言われる人たちは、自分の相手を見つける事にも重い意味を持つから、それだけの時間をかけて探したりするんだろう。
「いくら排卵期だの発情期だのがあっても、これじゃなきゃ嫌だっていう相手に出会いたいのがこっちの考え方だ。覚えておくように。……その分、若いうちにそれを見つけた奴の執着や執念は、恐ろしいものがある。場合によっては、殺し合いも辞さないってやつだっているぞ、気をつけろ。お前は扉の向こうの住人だから、余計にほかの種を夢中にさせやすい」
先生は最後は先生らしく、忠告で終わらせた。
そして視線を扉の方に向けて、笑った。
「殺意に満ちた目を向けるな、マコ。お前の彼女だってまだ確定じゃないだろう?」
「それはおれの嫁だ」
「嫁じゃない!!!」
やっぱりいつものように言い返した時、先生が余裕しゃくしゃくの声で言った。
「先生は知っているぞ、お前手順色々すっぽかしたせいで、彼女に嫌われてるんだろう。いくらキスマークついてても、彼女確定じゃないだろう。嫁なんて遠い遠い」
マコの瞳が金色に鋭く光る。苛立ちの見える唇が開く。
「喧嘩ならもっと上手に売れ、先生」
「おお、マコみたいな狂気じみた鮫と喧嘩はしたくないな!」
マコは本当に不機嫌になって、わたしの手を掴むとそのまま引っ張り出した。
「殺すなよー」
先生がマコを怒らせてるのに、わたしに丸投げですか!
悲鳴を上げるにあげられず、とにかくマコに引っ張られるままに校内を進む。
どこまで進んでいっただろう。気付けば見覚えのある場所についていて、そこはマコとはじめて会ったあの空き教室だった。
「このあたりは予備の教室だ、入って来る奴はあまりいない」
ぼそりと、聞き捨てならない事を言ったマコが、そのままわたしを見据えて言う。
「他所の雄といい仲になるな」
「誰と恋愛したってわたしの勝手じゃない! だいたいあんたとそう言うのになるって決めたわけじゃないって、何度も言ってる」
地雷でも踏んだだろうか、マコの瞳の色が余計に剣呑に変わった。
いつでも左ストレートを入れられるように、意識しつつ、次の言葉を待っていると。
「……本気で食いつくぞ」
片手でわたしを逃がさないようにがっちりと握り、さらに首の後ろに手を当てて、淡々とした声でマコが言った。
「痛い事しないって言ったじゃないか!」
こいつに本気で食いつかれたら、首が持っていかれる。そんな危険性を感じて叫ぶと、マコが言う。
「そうだったな」
忘れてたのかと、突っ込みかけたその時だ。ぐんっとマコが手を引き、強制的にわたしはマコの腕の中に抱き寄せられていた。
そしてマコはわたしを抱えたまま、床にごろりと寝転がる。長い脚が問答無用でわたしに絡みつき、忌々しい事に逃げ出せない。
さっきから暴れているのだが、放してもらえないのだ。大型種の筋力、規格外すぎじゃないか。
「離してよ! 出して!」
「食いつかれたくないんだろ」
「当たり前じゃないの! わたしはマコの事これっぱかりも意識してない!」
「……」
ぶわり、と何か得体のしれない何かがマコから漂い始めたのが分かった。
それと同時に、わたしの心臓がすごい勢いで脈打ち始めたのも、そのくせすごい安心感が押し寄せてきたのも。
何なんだこれ、何なんだこれ!
「耐久戦しようじゃないか。どっちが音を上げるか」
時間は部活動の終了時間のチャイムが鳴るまで。繁殖行動はしない。痛い事もしない。我慢比べだというマコ。
「マコが我慢してるだけじゃ」
この状況で突っ込むと、そいつは非常に嫌な予感がする笑顔を見せ、そのうち分かる、と言いやがった。