中町ジムは良いジムです(2)
ヒロとハルが筋トレを始めたのは、中学一年の冬だった。それから、筋肉だけじゃ駄目だと考え、空手道場に二人で入門した。一年の間、毎日練習した。道場がない日も二人はお互いの家で稽古を積んだし、筋トレ後にも必ず基本の反復をした。
それから、近々比武の制度ができるかもしれないと聞いて、キックボクシングのジムにも入った。当然、マサの影響だった。強くなりたい理由も、あった。
おかげで、ハルは自分に合ったスタイルを見つけたし、ヒロの戦い方にも幅が広がった。
最初は、ハルもヒロも愛には嫌われていた。筋トレが一番、空手が二番目、キックはその次というスタンスだったからだ。一途にキックだけをやってきた愛からすれば、許せなかったのだろう。親っさんも、最初は好意的ではなかった。
それでも、空手道場以外の日は、筋トレをした後の疲労困憊状態でも二人はジムに来続けた。やがて、親っさんだけじゃなく、ジムの先輩たちみんなから、かわいがられた。特にハルは、キックの方が好きになっていたため、期待された。
その時には少しだけ、愛の態度も軟化していた。特に、まだ一番上には置いていなかったが、空手よりキックを大事にし始めたハルならば、認めてやってもいいのでは、と。
しかし、試合に出るよう勧められたのを、ハルが頑なに断っていると知り、愛は激怒した。
「私が試合に出られないのに、何で――!」
まだ愛は中学二年になったばかりだった。皮肉にも、筋トレをメインにして鍛えているハルに比べ、身体ができていないという理由だった。
そういう愛を納得させるため、半ば無理矢理に、ハルはジムのリングに上げさせられた。
リングに上がった愛は、殺気に満ちていた。
すでにサポーターは開発されており、骨折等の重大事故が防げるという安心から、親っさんも認めたのだろう。
愛は、ハルを睨んだまま、シャドーを続けていた。一方ハルは、考え事をするように、パンチの動きを確認していた。
「ハル。アンタ、負けたらウチのジムから消えなさいよね」
勝ち気な声で愛は言った。考え無しに、こんなことを言ってしまうところ。自信を持つのもプライドを持つのも、悪いことではない。しかし、今のうちなら、中学生の今ならかわい気と見られるものも、数年経てばただの欠点である。さらに、自分の大事なものに根ざした性質は、年月が経てば経つほど頑なになってゆく。
そういうところを直させたいという考えも、親っさんにはあったのかもしれない。
サウスポースタイルのハルに対し、愛はオーソドックススタイルだった。ハルは利き手が右ならオーソドックスにした方がいいという、愛のアドバイスも拒否し続けた。
――蹴りで勝ちたいんだ。
そう言って。愛はハルを大人しい性格だと見ていたから、普通にアドバイスを受け入れるだろうと思っていた。それを拒絶したことも腹立たしかった。そんなことを、愛は思い出していた。
(お父さんも、最初はオーソドックスを勧めていた。それがいつか
「あいつのこだわりだ。男には色々あんだよ」
なんて言って、自由にさせてる。男だからって、何? 女なら駄目なの!? いいわよ。そのこだわりで、あたしに勝ってみなさいよ!)
あの糸目は何考えてるかわからないし、男のクセに髪長いし茶髪だし、結んでるし――。ハルの気に入らないところを思い浮かべては、愛はフラストレーションを溜めていった。
カンッ
ジムの多くが見つめる中、短くゴングが鳴った。
愛がステップで距離を詰めた。
――前足での前蹴りが来る。
間合いに入った瞬間、愛と観客の全員が思い浮かべた。ハルが蹴りを主体に練習しているのは、全員が知っている。男同士でスパーリングをしていても、ハルの左ミドルと右前蹴りは使用率が高かった。
ハルのスパーを何度も見ていた愛も、必ず右の前蹴りが来ると思った。実際にハルは、爪先で地を軽く蹴って右膝を持ち上げた。
予定通りというように、愛は左にステップしてハルの右側に踏み込んだ。ハルが前蹴りを出していれば、自分の蹴り足と腕が邪魔で攻撃が出来ない位置取りだった。そして、オーソドックスの愛は、ボディに左フックを入れる絶好の位置だ。
予定どおりの位置に踏み込んだ愛は、最初から左ボディを打つ体制に入っていた。その瞬間、
ゴッ
鈍い音を耳にして、愛は仰向けに倒れていた。
(――何、で?)
ハルの上げた右足はフェイントだった。数センチ上げただけで、愛のステップを見て踏み込む位置を確認。そちらへ向けて上げた足を落とす。
ボディへの攻撃にしか意識がない愛への左ストレート。
サポーターは、脳震盪も軽減する。それも愛は聞いていた。左ボディを打つ時初心者にありがちな、右手のグローブで守る自分の頭のガードを下ろすほど、愛のキック歴は浅くない。
(嘘、でしょ。全然軽減されないじゃない)
景色はぐにゃぐにゃと歪んでいた。リングのロープは波打っていたし、人はくねくねと歪んでいる。ハルの表情も見えない。その中で、ハルの足だけが太く地面にしっかりと立っていた。
信じられないと思いつつ、理解していた。
サポーターはダメージを軽減している。右のガードも下ろしていない。ハルはクッションが大きい16オンスのグローブをはめている。
それを補って余るほどに、ハルのパンチは重い。
(攻撃、キックだけじゃなくパンチも威力を伝えるのは、下半身。基本ね)
そして、単に脚力があるからパンチが強かった、というだけでもない。
愛が攻撃に移るまでの一瞬、それを逃さずにパンチを入れられる技術。ただのストレート。それがどれだけ素晴らしい技術か、愛にはわかってしまう。
ジャブを出した直後のストレート――ワンツーで強いストレートを出すのは”簡単”だ。牽制のジャブで伸びた腕を引っ張る勢いで、ストレートを力強く出す。それだけで、素人でも威力のあるパンチが打てる。
ただし、ジャブを出さずに威力のあるストレートを出すのは、素人には決してできない。野球でピッチャーが、グローブ側の手を全く動かさずに投球するようなものだからだ。文字通り、痛感する。ハルの磨いた技術を。かけた時間を。この男は、中途半端な気持ちでやってなどいない、と。
「どうだ、やれるか!?」
(……お父さん)
キックには厳しい父がハルを認める理由を、愛はたった今理解した。試合なんてしなくても、ハルの積み重ねた練習、時間、気持ちを理解できたのだろう。
(……まだまだだなぁ、あたし)
理解した。だからこそ愛は、ここで終わらせようとは思わなかった。
歪んだ景色の中、立つ。もう10カウントをとうに過ぎているのは知っているし、絶対にハルに敵わないのもわかっていた。だが、気の済むまでやりたいと、愛は思った。動いた時間は、数秒しかないのだ。このままじゃ、終われない。
審判を務めるトレーナーの一人が、頷いて
「ファイッ」
と再開を告げた。彼も愛と長い付き合いだった。愛のことを考えて、すでにタイマーも止めているのだろう。
(愛されてるなぁ。あたし)
愛は思って、マウスピースを噛んだ。噛んでいなかったら、笑みがこぼれていた。
そういえば、グローブさえ合わせてなかったと思い出し、左手を上げてハルに突き出す。右手でハルは、愛の左手を軽く叩く。
また、愛から距離を詰めた。視界の歪みはやっと消えた。しかし、足に来ていた。それでも愛は、パンチを出し、ローを出した。
この状況の愛を、本気では攻められない。試合でもなく、ジム内のスパーリングなのだ。ハルは愛の攻撃をいなし続け、時折パンチを出した。すでに、練習で毎回やるような寸止めのマススパーリングのようになっていた。
愛は、たどたどしい動きで攻めていた。本気で来ないハルに、怒る余裕さえない。それでも、攻めるのをやめない。少女のその姿は、悲痛だった。
「ハル! 頼む!」
親っさん――ジムの会長にして愛の父が、悲痛な声を上げた。
それでもハルは、愛の攻撃をいなしながら、マスのようなパンチだけを出した。
愛はもう、考えられなくなっていた。時計も止まっている。誰の目にも、終わり方は一つしかない。
愛が左ミドルを出すために、足をスイッチして後ろの右足を前に出した瞬間。
覚悟を決めたように、ハルは右足に左のローキックを落とした。
ミドルで蹴る内臓を含む腹でなく、筋肉と骨が主である太股。しかし、膝を45゜から降り下ろすことで、重力の力で威力を増す利き脚のローキック。
バンッッ
銃声のような音がジムに響いた。
正しい判断だったろう。サポーター内蔵のレガースを着けているとはいえ、どれだけダメージを抑えられるかわからない。そして、威力自体はミドルより強烈であり、愛も納得できる。
(……あれ? こんなもの?)
当事者の愛は一瞬、そう思った。ハルとスパーリングをやると決めた瞬間から、ハルの蹴りを想定していた。あの太い足で蹴られた時の衝撃を想像をしては、恐れてきた。
しかし実際は、何かが触れた感触があっただけ。
ハルはすでに左足を戻し、距離を取ってファイティングポーズで立っていた。
(来ないの? じゃあ、あたしから)
そう思って右足を一歩踏み出すと、愛はリングに頭からダイブした。
(あれ? 右脚、ない?)
痛みどころか、感覚がない。足に地を着けた感触さえなかったことが、愛にそう思わせた。
実際に見てみると、もちろん脚は存在する。その脚に触れた時、遅れて痛みがやってきた。
「ぃ、ぃいいいいいいい! あぁぁぁぁああ!」
言葉にならない叫びしか、最早口からは出なかった。
蹴られた部分の筋肉が、尽く断裂させられたような痛みだった。
痛みに泣き叫びながら、ファイティングポーズを解いたハルの顔が目に入る。泣きそうに、糸目の外側を下げている表情を見て愛は、痛みにより失神した。




