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右の拳と左ミドル 【筋トレとバトルの小説】  作者: 松明ノ音
第一話 始める春の初め
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中町ジムは良いジムです(1)




 中町キックボクシングジム。

 黒い簡単なマットが引いてあり、汗のにおいが染み付いている。ジムの中には七人の男と一人の女が、各々にシャドーであったり、サンドバッグ打ちであったり、マススパーリング(寸止めに近い実践練習)など、思い思いの練習をしている。

 ダッシ、

 ダッシ、

 ダッシ、

 ダッシ……。

 ハルは、サンドバッグを蹴っていた。左ミドルキックのフォームを確認するだけの蹴りで、体重は乗せているが、勢いはつけていない。それでも、その音はジムで二番目に響いていた。肩まで届かない程度の茶髪は邪魔らしく、横からまとめた髪を後頭部で縛っている。

 ハルはサウスポースタイルだが、ハルの利き手は右利きである。利き足が左だった。左の蹴り以外、出さないというわけではない。右のジャブも左ストレートも、右のハイキックも決して低くないレベルのものを出せる。

 しかし、左の蹴りが最も威力が高いと、ジムの誰もが知っている。

 左手を軽く前に出しながら、右足を少し外に出す。

 出した左手を少し回して、右足の指は地を蹴り踵から身体を回転させる。足首はその回転を増幅させ、左手と全く逆方向に進行する。左足が浮き上がる。

 左手を回すエネルギーは、体幹で逆方向に変換され、脚の回転を増幅させる。左膝で折れたままの脚は、そのエネルギーが膝まで移動してきた瞬間に、伸びる。

 サンドバッグの中心あたりを垂直に、ダッシ、と叩く。

 ハルはそのまま姿勢を維持する。腹の左ーー左腹斜筋が緊張している。蹴りの威力を高めるには、体幹が安定していなければならない。蹴りを出す身体がグラついていれば、蹴りもグラついて、威力は半減してしまう。

 左手は、パンチを出した後のように、サンドバッグに向かって伸びている。自分の身体をブレさせないように、相手が突っ込んできて殴りかかれないように。右手は、顔の横にピッタリと付いている。

 三秒経った後、左足を元の位置に戻す。蹴る前と同じフォームで立った。

『ビー』

 ジム中にタイマーが鳴る。三分、四十秒、三分、四十秒、三分と規則的に鳴るこのタイマーを基準に、選手たちは練習する。基本的に、一ラウンドと同じ時間の三分は動き続け、四十秒休憩を繰り返す。

 ハルは残心のように、サンドバッグの前で静止し、両手を下ろしてファイティングポーズを解いた。水分を取りたいと思い、ジム備え付けの冷蔵庫へと歩く。

「お疲れ、ハルさん」

 ハルが飲み物を取ろうと冷蔵庫を開けたところで、愛に声をかけられた。

「お疲れ、あい

 愛は『中町ジム』と書かれた青いTシャツに、白い短パンだった。

 浅黒い肌に、黒いポニーテールが似合っている。身長はもう止まったのか、160センチを少し過ぎたぐらいから、変わっていないように思える。ハルやヒロの一つ年下で、中町ジムの会長の一人娘だった。

 筋トレよりも比武に重点を置く、夏校に進学した。キックボクシングジムの娘としては、妥当な選択だろう。

「まだ、ヒロさんが使ってるね」

 ジムに一つだけ置いてある、サンドバッグのことだった。サンドバッグというより、日本語訳どおりの砂袋で、吊されてはいない。何重にもクッションを挟んで壁に立て掛けてあり、ヒロとハルが主に使っている。ジムの中でも『砂袋』と呼ばれている、固く、素人が使えば、骨か手首や足首を痛める。

 もう半年前に、ヒロとハルがサンドバッグをそれぞれ壊したことで、会長が「これ以上壊されたらたまらん」と言って、置いてくれた。

 普通のサンドバッグなら、固さを変えて何個も吊るされているが、ハルとヒロは砂袋以外は絶対に全力で蹴るなと、言われている。

 だから、砂袋以外のサンドバッグでは、フォームやコンビネーションの確認が主になる。

 耳をすまさなくとも、ヒロが砂袋を殴る音は聞こえてくる。

 ダァンッ

 ウルサいという理由もあり、戸を挟んだ場所に砂袋は置いてある。別名、砂袋の間だ。しかし、気合いを入れた一撃は、壁を隔てても聞こえてくる。

「相変わらず、気合い入ってるね」

 愛が遮る戸を見て、言った。

「まぁ、春だしねー」

「いや、意味わかんないけど」

 愛と、ハルたち二人は、一年半前に二人がこのジムに入って以来の付き合いだ。空手道場に一年通っていたのだが、一度他の格闘技もやってみたいと思い、二人でジムの門を叩いた。以前の道場には、ハルも週に一度は顔を出している。逆にヒロは変わらず道場がメインで、ジムには週に一度しか来ない。

「ねぇハルさんー、来月試合あるんですけどー」

「ごめんね、出ないよ」

 ハルの穏やかだが、取り付く島もない返事を受けて、愛は俯く。わかっていることでもあった。もう、何度も声をかけては断られている。

「見せてみたいんだけどなー、中町ジムのハルを」

 ため息を吐く愛に、ハルも困ったような顔で笑う。

「ヒロも出ないだろうしねー」

「ヒロさんはいいんですよ。あの人は空手メインじゃないですか」

 ヒロは、空手をメインにすることにしていた。ハルは思いの外、キックが性に合った。比武でも、ヒロは空手を主体として、ハルはキックを主体にしている。

「ハルさんは、キックの方が好きでしょ? ウチのジムからは、キックを一番好きな人しか出しませんから」

 こだわりが強いのは、父親譲りのようだった。見た目は全く似ていない。しっかりと筋肉質で、頭の中程までが禿げた親っさんの娘とは思えないほど、愛はかわいらしかった。筋肉質でありながらも、それを覆う薄い脂肪とキレイな肌で、印象はむしろ柔らかそうである。……ただし、貧乳であった。

 実際、ハルがストレッチに付き合っても、柔らかさに驚かされる。柔軟性でも、肉の柔らかさでも。柔軟性を取り入れたいと思って「ちょっと一回じっくり触らせてー」と言ったら、顔を赤くして殴られたが。

「……まぁ、そのうち、ね」

「またその答えですかー、いずれ出てくれるとは、あたしも信じてますけど」

 愛は背を丸めてうなだれ、手を垂らして残念さを示す。その反応が面白く、ハルは笑う。

「何がおかしいんです?」

「いや、最初は僕にもヒロにも、敬語なんて使ってなかったのにって思って」

 うー、と唸って、愛は気まずそうな顔をした。



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