初めての本音
夕方。帰るころには、陽も沈みかけていた。
「スゴかったっスねー……」
呆気に取られて無言で帰っている途中で、ユウダイは呟いた。
「うん、スゴかった」
マナブも、それしか言えなかった。
静的ストレッチをしながら、ヒロハルのトレーニングを見ていた。重量は当然高重量で、注意するように言われていたフォームも、美しいと思うほど完璧にやる二人を見て、圧倒されたのだ。そして呆然とする間に、一時間以上経っていた。
まだいたのかお前ら、とヒロに言われて気づいた。失礼しますと言って、帰った。
ヒロハルの二人は、途中でシェイカーを手にしたり、バナナを食べたりしていた。
「多分、ボクらが今日教えてもらったのなんて、本当に基礎の基礎の一種類なんだろうね」
「そうっスねー。奥は深くて、道は長そうっス」
「そういえば、ハル先輩に蹴られたのは大丈夫だったの?」
「痛くはないようにしてくれたと思うんスけど、びっくりしたっスね」
他人事のように、ユウダイは笑った。
「やっぱり、あれだけ太い脚で蹴ると、スゴいんだね」
「ハル先輩に蹴られても、ヒロ先輩に殴られても、死ぬ気がするっスね……」
二人は、筋トレだけでなく、比武も強いのだろうか? マナブは、聞いてみたいと思った。
(でも、あんなにスゴい人たちに教えてもらえるんだなー)
ヒロハルは帰りがけに、また来い、教えてやる、と言ってくれた。
「感謝すべきっスね。明日も行こうっス!」
「……うん。それができたらいいんだけど」
マナブは、俯きながら言う。明日は花の稽古で、明後日はピアノの稽古だった。
ユウダイにそれを言うと、ユウダイは不思議そうな顔をした。
「前から思ってたんスけど、マナブはピアノとかって、楽しんでやってるんスか?」
「うーん。子どもの頃に母さんに薦められて、そのままずっとやってるんだけど」
正直、好きではない。褒められたり、賞をもらえたりするのは嬉しい。ただやはり、やりたくてやっているわけではないという気がする。
「言ってみたらいいんじゃないスか。おやじさんもおふくろさんも、そんなに気難しい人に見えなかったっスよ?」
「……何だろねー。ボク、わがままって言い慣れなくて」
「わがままってほどじゃないっしょ。子どもが好きなことをやりたいから、好きじゃないことをやめたいって言うのなんて」
マナブは、思ったように言えるユウダイを、少し羨ましく思った。
(でも、そうだよね。ボクは変わりたいんだ。言ってみることから、何かが変わるかもれない)
「……そうだね。言ってみるよ」
夕飯には、珍しく父も最初からいた。
入学式はどうだったの? と聞く母にマナブは、先輩に筋トレを教えてもらったことを言った。
すると、両親は驚いた顔をして、黙ってしまった。
(あれ? マズいこと言っちゃった?)
そう思って、箸を進めていると、父が沈黙を破った。
「やってみて、どう思った?」
マナブは答えに迷ったが、思ったままを言うことにした。
「……楽しか」
「そぉぉぉおうだろぉぉぉおう!」
父が食い気味に、叫んだ。
「いや、マナブが春の宮を受験すると決めてから、父さん嬉しくってなぁ! いつ筋トレを始めるかと楽しみにしていたが、まさか入学式初日から始めるとはなぁ!」
父は初めて見るほどに饒舌だった。
(あれ? 父さんって、冷静で厳格で寡黙な父親じゃ……?)
マナブがちょっと引いてしまうほど。というか、こんな父は初めて見た。ピアノで一位を取った時にも、これほど喜ばれたことはない。
ヒロハルという二人の先輩に教えてもらったことや、筋トレの内容を話した。
「ヒロ先輩には、フォームからしっかり教えてもらってさ、重量もボクに合ったのを探してくれてーー」
「そうか! しっかりした優しい先輩なんだな! 良い先達に着いていくのは大事だぞ!」
「もう持ち上がらない、って思ったのを、もう一回やれるって言われて、必死にやったんだ。そして出来たらすごく嬉しくてーー」
「そうだろう! その感覚なんだよ! それも、筋トレの素晴らしさの一つだ!」
「プロテインって、初めて飲んだよ! これが筋肉になるって言われて飲んだら、本当美味しく感じてーー」
マナブは、父が嬉しそうな顔で激しく相づちを打ってくれるのがまた嬉しく、笑って話し続けた。
こんな風に父と話すのは、初めてだった。今思えば、父とは共通項がなかった。筋トレが好きだったことさえ、知らなかった。
(父さんと話すのが、こんなに楽しいなんて――)
父を尊敬してはいたが、話す時はいつもそれ以上に緊張していた。もしかしたら実は筋トレが好きだった父も、ピアノや花をやっていたマナブに、どう付き合っていいか分からなかったのかもしれない。
今思えば、父は週に何度か倉庫に行っては、汗をかいて帰ってきた。それについて聞くと、筋トレしていたのか知らなかったのか、と逆に驚かれた。
(……改めて、何も見えてなかったんだなぁ)
そう思って、笑った。
しかし、途中でずっと黙っている母が気にかかって、母の方を見た。
母は、右手で口を塞いでマナブを見ていた。その目から、スッと涙が流れた。
「お母さん? 何で泣いてるの?」
母が薦めたものではないことを楽しくやっていることに、気分を悪くしたんじゃないかと思い、不安になった。
「……嬉しくてね。マナブがこんなに嬉しそうに話すのは、初めてだったから」
マナブは、母が気遣いで言っているのかと、迷った。でもどうやら、そうではないらしい。
「実は、母さんと結婚したのは、母さんが父さんの筋肉に惚れたからなんだ」
子どもとしてはあまり聞きたくない、両親の馴れ初めをマナブの父が話し始めた。
楽しい話も、あまり聞きたくない話しもあったが、マナブにとってこの日の夕食は、これまでで一番楽しいものになった。
マナブが実は、ピアノも花もそんなに好きじゃないというと、二人には驚かれた。好きなものをやれと、言ってくれた。好きで続けているものと、思っていたようだ。確かにこれまで、不平も不満も言ったことがなかった。それがよくなかったのかな、なんてことを思った。
母は筋トレのために、食事内容を変えようと提案してくれた。食後、父と倉庫に行った。自分が使っているという器具を見せてくれ、今度は父さんともするぞ! と嬉しそうに言った。
思ったことをそのまま言うことが、こんなに楽しい夕食にしてくれるなんて、思ってもみなかった。
マナブは嬉しく、風呂に浸かりながら一人呟いた。
「あぁ、こんな簡単なことでよかったんだ」
自然と、笑みがこぼれた。風呂から出て鏡を見ると、体が大きくなっていると感じた。特に胸が張っていて、
(男の体っぽい。)
なんてことを、マナブは思った。
実際には、筋肉が成長したわけではない。夕方のトレーニングにより、血液等が鍛えた部位に集まって膨らむ『バンプ・アップ』を起こしているだけなのだが、知らないマナブは、ただただ嬉しかった。
鏡を長時間見る、なんて経験は初めてだったし、母親から長風呂でのぼせたのかと心配されるのも、初めてだった。
明日も筋トレしよう。そう楽しみに思いながら眠るのも、初めての経験だった。




