四、してはいけない行為(前)
「勘付いているかもしれないが、改めて言っておく。俺は人間ではない。人間と人間ではない者の血が混ざっているからだ。今後に関わるから先に両親の話でもしようか。俺の両親はこの場所で出会ったんだよ」
遡る事、数百年前の事である。既に桜の森も里も存在していた。現在との相違点は、春になれば毎日のように桜の森を訪れる人間がある事だけであろう。
里に住むとある一人の男がいた。男の名前は連太郎。この里で生まれ育った男である。連太郎もまた、春になると桜の森へと歩を進めていた。
少し歩けば幼い子供が数人で遊ぶ姿が見られ、また少し歩けば桜の木の下に寝そべり、昼寝をする者もいた。連太郎は特に何かをするという訳ではなく、毎年咲き乱れる薄桃の花弁達の散る姿を見届けながら森の奥へと進んでいた。
「しまった。この場所が何処だか分からなくなってしまった」
夢中になって進んでいた連太郎は、自身が何処にいるのかさえ分からない場所まで来てしまったようであった。
目印を探すにしても辺りは桜の薄桃色一色であり、それらしき物は見付からない。人間もまた同様で、遊ぶ子供もいなければ寝そべる者もいない。
その光景に戸惑う連太郎。周囲をうろつき出口を探す以外に方法はなかった。止めていた歩みを再び動かし、連太郎は自力で出口を探していた。
だが出口が見つかる事もなく、ただただ時間だけが過ぎ。気付けば空には太陽はなくなり、代わりに色白の満月が姿を現していた。昼から何も食べておらず空腹の連太郎は、二度とこの森から出られないのではないかと言う不安に陥り、その場にくず折れた。
次に連太郎が目を覚ました時、連太郎の頭には人肌のようなぬくもりがあった。何処かの小屋かと思ったが、漆黒の空には月がある。
「気付かれましたか。気分は如何でしょうか」
連太郎の視界に入っていた漆黒は瞬く間に消え、代わりに飛び込んできたのは温かさを感じる白い光と、見た事もない長い銀色の髪をなびかせた二十歳を超えているのであろう女の顔だった。
連太郎はこの時初めて自身がこの女の膝の上にいる事を知り、慌てて飛び起きようとした。
「気付かれた所申し訳ありませんが、今はもう少し眠っていて下さい。直に元気は戻りますから」
女は連太郎の両方の目を手で覆い隠し、無理に目を閉じさせる。その手の温もりに連太郎は心地よさを覚え、そのまま再び深い眠りへと落ちて行ったのであった。
その次に連太郎が目を覚ました時は既に辺りは明るくなり、太陽も既に頂点に立とうとしていた。あれから長く眠ってしまっていたようだった。ただ一つ違う点がある。それは桜の木にもたれかかるような形になっていた事である。あの女の姿は何処にもなかったのだ。
辺りをくるりと見回しても何処にも居なく、捜そうとしたその瞬間であった。
「お早うございます。気分は如何でしょう」
薄桃色の着物を着た腰辺りまである長い銀髪の女が、連太郎の見ていた方向から現れたのである。両手には野草を抱えている。どうやらそれは連太郎へと食べさせるものらしい。
「ええ、体力は戻りました。ですが貴女様は一体」
「私の名前は桜里と申します。この森を護る者」
「僕は連太郎と言います。ところで護る者とはどういう事、で」
名乗りながらも、とある違和感を覚えた連太郎の視線は桜里と名乗った女の足元に向いた。それを見た連太郎は途中で言いかけていた言葉を止める。桜里は白い雪のような肌色をした素足であった。それだけではない。彼女には普通の人間にならあって当然の物がなかったのだ。
「桜里さん、貴女」
「言いましたでしょう。私はこの森を護る者だ、と」
微笑みながら桜里は何事もないかのように言う。連太郎はそれを信じられないという目で見つめていた。太陽は頂上にあると言うのに、彼女には影一つ見当たらない。
「それだけでは、分からないようですね。御免なさい。私はこの森の桜を毎年花が絶えぬよう咲かす異の者。貴方がたの世界では、それは護る事ではないとおっしゃるのでしょう。ですがこれが私の役目なのです」
桜里の役目を聞いたところで連太郎は逃げる事はおろか恐れる事もせず、真っ直ぐと桜里の赤い目を見つめた。そして、
「有難うございます。貴女がどのようなお方であっても、僕にとって命の恩人です」
と。桜里はそのような言葉が返ってくるとは思ってもいなかったのだろう。不意に一筋の透明な涙を流した。その様子に連太郎はただただ困り果ててしまった。
「何故泣くのですか。僕はどうすれば良いか」
「今までにもこうして迷われた方を何人も助けました。しかし殆どのお方が私の素性を知った途端に恐怖を覚えたのでしょう。私の元をすぐさま去って行きました。そして貴方もきっとそうなさるのかと。気を楽にして言っているように聞こえますが、本当は怖かったのです」
桜里はその後も泣きやむ気配を見せる事はなく、連太郎は何をすればいいのかと考えた後、すっと桜里を抱きしめた。突然の抱擁に桜里は思わず持っていた野草を全て落としてしまった。何故自分を抱きしめるのかと。
「連太郎さん。悪ふざけでしたら結構ですので」
「悪ふざけでこんな事が出来ますか。泣いている女性を放っておくなんて男として僕には出来ません。貴女の気が落ち着くまでこうさせてはくれませんか」
連太郎のその言葉は、迷いもなくしっかりとした口調であった。桜里には初めての事だらけではあったが、連太郎の優しさを彼女はただただぬくもりと共に感じていた。
「これが、俺の両親の出会いだ」
「それからどうなったのですか」
「親父は一度家へ戻った。何度かの逢瀬を繰り返し、遂にこの森への移住を決めた。人外の女と夫婦になるなんて言えば猛反発だろうし、親には知られぬように放浪の旅に出ると嘘を吐いたらしい。それでも説得するのが大変だったらしいが」
永が知っている自身が生まれる以前の両親の事はこれだけであり、次に永が話し始めたのは二人の別れと自身の身に起こった出来事であった。
「次はそうだな、これは俺が産まれた直後の話らしいが」
連太郎と桜里が最初に出会ってから三年後の事である。連太郎が嘘を吐き、この森へ移住してから早二年。連太郎は二度、桜里が花を咲かせる瞬間を見届けた。
桜里が、花弁が舞うように踊り出すと枯れた木には蕾が宿り、翌朝にはその半分の蕾が開花を始め、周りは薄桃色の空間と化して行く。その光景の美しさに連太郎は涙を流すのだった。
「連太郎さん、泣いてはいけませんよ。ほら、永が不思議がっているではありませんか」
連太郎の腕の中には白い布に包まれた小さな赤子がいた。二人の子供である。
「ああ、そうか。子供の前では迂闊には泣けないね」
二人、否三人はささやかながらも幸せな家庭を築き上げていた。この年の秋までは。
「連太郎さん、お加減は如何でしょうか」
移住してから作った小屋の中で、桜里は夏の終わりに突然病に伏した連太郎を看病する日々が続いた。一時は良くなったと思いきや、再び悪化する。それが数ヶ月続いていた。そんな父親の病なぞ露知らず、永は桜里の腕の中で無邪気な笑顔をして連太郎を見つめていた。
「平気だよ。今日は調子が良いんだ」
ゆっくりと布団から起き上がり、心配をかけまいとうっすらと笑みを浮かべた。その様子は見るからに弱弱しく尚且つ痛々しい。微かに俯き、そして決心したかのように桜里は連太郎を見つめ、震えた声で彼にとある提案をしてみせた。
「連太郎さん。お願いです。里に、お戻りに、なって、下さい」
「それは出来ない。君と永を置いてだなんて」
「恐らく人間ではない私と長くいるせいです。此処にいては、貴方は近い内に命を落としてしまいます。どうかお願いです。里へ戻って、病の知識のある方の元で病を治して下さい。私は死ぬ予定はありません。人間とは違いますから。永だって同じです。半分は私の血ですから。だからどうか心配はなさらないで下さい」
桜里のその言葉にも肯定の意を示そうとしなかった連太郎であったが、再び俯いていた桜里から雫のようなものが一粒床へ落ちて行く様子を見、心が揺らいだ。
「一日でも長く貴方には生きて欲しいのです。私達はずっとこの場所にいますから、二度と会えなくなる訳ではないでしょう」
連太郎が桜里と永の元から去って行ったのはそれから一週間後、桜の木から枯葉が散り出した頃であった。
「それから母さんの元には文が届くようになった。差出人は勿論親父。親父は必ずまた三人で暮らす事を想っていたそうだ。調子が良い時にも会いに来ていたみたいだしな。だが」
「連太郎さんはその夢を叶える事無く、逝かれてしまったのですね」
みずきのその発言に、永は無言のまま頷いた。
「半年後の事みたいだけどな」
桜里が不審に思ったのは文が一月も来なくなった時。里に行く事を恐れていた桜里であったが、連太郎の安否を確かめる為恐る恐る里へと足を運んだ。
すると近くを通りかかった里の若い男達の会話が桜里の耳に飛び込んで来た。
そこで知ったのだ、連太郎が丁度一月前に亡くなった事を。すぐに里から離れ、小屋に戻った桜里は連太郎との思い出を振り返りながらただひたすらに泣き続けていたと言う。
「そんな母さんも、親父が亡くなってから二十年後に他界した。人外だった母さんは不死に近い筈だった。亡くなる数日前に言っていた。してはいけない事をしたから、不死ではなくなったと。でもそれに対して悔いはない、ってな」
「永さんは幸せですね。でもそれではこの森に人が来なくなった理由にはなりませんよ」
「ああ、そうだな。前提の話はここまでにして本題にでも入るか」




