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戦慄ドキュメンタリー、不謹慎ちゃん!

作者: 藍沢 円夏

 戦慄ドキュメンタリー、不謹慎ちゃん!


 この作品はフィクションです。

 また、実在する団体、文化、人物とは一切何の関係もありません

 戦慄ドキュメンタリー、不謹慎ちゃん!


 この作品はフィクションです。

 また、実在する団体、文化、人物とは一切何の関係もありません。




 京都市を南北に流れる一級河川の鴨川。この鴨川は恋人たちの憩の場所である。例えば、京阪出町柳駅を出てすぐにある、加茂大橋から望む、鴨川と高野川の合流地点にある通称鴨川デルタ。ここには、カップルが集まる。それから、鴨川をずっと下り、三条通りと四条通の間の区間、ここもカップルの憩いの場だ。

 そして、僕にとっても憩いの場である。

 僕の趣味はビデオ撮影だ。YouTubeでもたまに動画を上げている。まぁ、YouTubeだけではなく、Xなビデオとか、FCの2とか。そして、それらの撮影対象は、鴨川に座っている女の子たちである。

 彼女たちは無防備だ。

 川を挟んだ対岸に待ち構えているカメラ小僧にその全身を嘗め回すように撮影されているとは思ってもいないだろう。体育座りをする女子高生、例えば、ノートルでダムの女子高生たち、華頂な女子高校の生徒たちは、短いスカートだ。足のふくらはぎの間から見えるパンツ。

それを撮影する事が僕の楽しみなのだ。

 秋の紅葉の時期や、春ごろになるとやってくる修学旅行生。それを撮影するのもいい。

 そして、何が興奮するかというと、その彼女たちの隣にいる男の事を思う。

 カップルの彼氏が何も考えていない間、彼女が何も考えていないが、彼女の恥ずかしいところを、この僕のカメラが撮影しているという事実、それが何よりも興奮する。

 ことさら言うまでもないが、この撮影に関していうならば、カメラをはっきりと取り出してはいけない。そして、自然体で射る事が一番重要なのだ。

 厄介な京都府警の入澤警部がいる。彼はこの手の撮影について詳しく、少しでも変な動きをしていればばれてしまう。それを避けるために、僕は読書をする人間という体をとっている。意外と、これは功を奏しているらしく、まだ、検挙も何のあれも疑われたことはない。

 しかし、着実に女子高校の撮影はできている。

 チャンネル登録数はあまり多くないが、意外と、皆興味があるらしく、再生回数はじわじわと伸びている・

「さて、今日はここまでにするか」

 腕時計をちらと見て、時刻を確認する。

 夏の七時とあって、ようやっと辺りは夜闇に包まれ始めてきていた。

 京都の夏特有のじめっとした肌にまとわりつくような空気をぬぐうように手を動かす。

 傍らに置いておいたビジネス鞄へと手を伸ばす。この中には、カメラが入っている。

「なぁ、こんばんは」

 突然、そう声をかけられる。

 まさか、警察じゃないかと思って少し体をびくりとさせる。

 ゆっくりと、その声をかけてきた方向へと顔を向けると、一人の女がいた。

 僕と、いや、僕よりも少しだけ背が低いが、女性にしては高身長で、筋肉質の体付き。ジーンズと白いシャツという薄着であるが、一目にしてやばい。ジーンズははちきれんばかりに膨らんでいるし、シャツの袖口から見える腕は鍛えられたものだ。

 背中に何かを担いでいるらしい。

「あのさ、こんばんは。聞こえてる?」

 その女は僕に向かって、そう再び声をかけてきた。僕が何の反応も示さなかったことに、しびれを切らして、あるいは、耳が悪いと思ったのだろう。

 最も、そうやって急かされたといっても、僕はまともに彼女と話そうとする気は起きなかった。

「え、あ、え、な、なんですか」

 と、聞き返すのが精一杯だった。

 正直なところ、もしかして、撮影していたのがばれたのではないかと思っていた。この女の立ち居振る舞いは、どこか武道に精通しているような雰囲気があり、それは若い婦警のような気配がした。

 つまり、警察官に目をつけられたと思った。

「んっんー? ごめんね。挨拶してるんだけども、挨拶のお返しはないかなー?」

 その女はそういうと、ま、いいやという風に首をこきりと鳴らした。

「あのさ、お兄さん?さ。ビデオ録ってるよね」

「え、は、何のことですか?」

 精一杯のしらを切る。

「あのさ、その鞄の中、見せてもらえる?」

「え、いやですよ」

「あっそ、いや、別にさ。それ録ってるのが悪いとかそうとは言わないからさ」

「だから、何のことなんですか」

「そういうのいいって。もう面倒くさいな」

 女はそういうと、担いでいた袋を下ろし、そのチャックを開ける。

「あのさ、いい? 私は、カメラで録ってるか聞いてるの」

 取り出したのは金属バット。

 ぎゅっと右手で持ち手を握る音が聞こえる。

「何も入ってないなら、これから、全力でぶん殴るけどさ。文句ないよな」

「え、は、え」

 狂ってる。

 この女は間違いなく、狂ってる。

 金属バットを持ち歩いている点もヤバいが、何よりもヤバいのは、人の鞄を金属バットで殴る事がとくに問題がないと思っているあたりが、ヤバい。しかも、それを実行に移すために金属バットを持ち歩いているという事実。行動力を兼ね備えた狂った人間だ。

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ!」

 咄嗟に、鞄をかばうように抱え込む。

 それでも、女は容赦なく、バットを振りかぶった。

「その中にカメラはあるのか! ないのか! はっきり答えろよ!」

 間違いなく、やられる。

 金属バットで、やられる。

「わかりました! わかりました! バットを下ろしてくださいよ!」

 僕がそう叫ぶように伝えると、女はバットを下ろした。

 しかし、金属バットから手を離そうとはしなかった。鞄の中を見せるまでは。

 鞄の中からカメラを取り出して、見せる、

「これのスペックいえるか?」

「SONY HXR-NX100でえっと、スペックと言われても、ソニーの業務用カメラで」

「あー、まぁ、いいや。これ、どれくらい遠くまで録れる?」

「えっと」

「どーせ、対岸のスカートの中まで録れるんだろ?」

 図星だった。

 僕が反論しないのを見て、女はにっと笑う。

「ちょっと見せてくれる?」

 僕に抵抗するだけの気力は残っていなかった。

 おずおずとカメラを差し出し、録画している映像を見せる。

 対岸にいるスカートをはいた女性ばかりが映っている。どうあがいても、これでは警察に対して言い逃れはできまい。その日のうちに、臭い飯を食べる事になるだろう。

「あんた、動画とか編集できる?」

「ま、まぁ、多少はできますけど」

「そう。じゃあさ、取引しない?」




 翌週、僕はビデオカメラを片手に、京都市内にある雑居ビルの前にいた。かなり古いビルで、おそらく、僕が京都にやってきたころには既にオンボロビルだったのだろう。その三階にある一室に僕は用があるのだ。

 あの後、女は自らを勝竜寺虎子と名乗った。そして、強引に連絡先を交換すると。

「もしも、私の連絡を無視した場合、あんたを通報する」

 と、脅しをかけてきたのである。

 僕に断われる理由はなかった。

 そして、昨日、メールがやってきて、このビルの三階にくるように言われたのである。

 ところで、京都には高さ規制というというものがある。どこの自治体にもあると言うのだろうが、こと京都に限っては、他の自治体とは事情が違う。

景観の問題が非常に大きく立ちふさがる。京都市内には、視点場という概念がある。これは例として出すならば、鴨川。鴨川にある八カ所の視点場から、大文字山を見たとき、その視界を遮るような建物を建ててはいけないというものだ。そして、市内に設けてある高さ制限は、五つ。十メートル、十五メートル、二十メートル、三十一メートル、それと、四十五メートル。これをそれぞれの地域ごとにわけ、高さ制限をかけている。説明がややこしくなったが、基本的に、背の高い派手な建造物は建てられないと考えていればいい。

このオンボロビルも五階ほどの高さしかないのも、そういう高さ制限からだ。

 階段を上って、三階にある一室。テナント名も何も書かれていないドアを押す。

 ぎいっと錆びついた蝶番の音が聞こえる。

 中には無数の本棚が壁に並べられた部屋があった。窓のある個所だけ低い本棚になっているだけで、他の壁は全て本棚になっている。本棚には、ビデオテープや書籍、それから、パソコンなどの電子機械が納められていた。

 そして、勝竜寺虎子と、もう一人の女がいた。

「おっ、きたねぇ」

 勝竜寺は僕を見て、にっと笑い、パイプ椅子から立ち上がる。

「ようこそ、待ってたよ。カメラは?」

「ここにありますけど」

「すでに回してる?」

「えっと」

 実はすでにカメラの録画は始まっていた。

 それを勝竜寺は見抜いたのか、見抜いてないのか、僕の肩を叩く。

「よーし、じゃあ、カメラ回してくれるかしら」

「何をするんですか」

「それはこれからのお楽しみ」

 座って座って、と勝竜寺は僕に言って自分が座っていたパイプ椅子を勧める。

 断る理由もなく、それに座ると、もう一人の女が机を挟んで正面に座っている。

「悪いけど、ちょっと待っていてくれるかしら」

 と、勝竜寺は言い残して、扉の外へと出て行った。

 部屋に残されたのは、僕ともう一人の女だけになった。

 僕は女が映るようにカメラのレンズを向けて、机の上に置いた。

「えっと、はじめまして」

 僕は女に向かって声をかけた。

 女はとても若い。今時の女子高生っていうのだろうか、そんなファッションに身を包んでいる。制服を着ていないから、たぶん、女子高生としか年齢を推測できない。身動きはあまりせずに、ただ、スマートフォンをいじっている。

 女は僕の方をちらと見る事もしなかった。

「あの、僕、城田っていいます」

 と、続けるように自己紹介を始めたが、それでも女は何も言わなかった。

「えっと、名前なんていうのかな」

「好きに呼ぶといいよ」

 突然、勝竜寺の声が聞こえ、そちらを向くと、彼女が雑誌を手に立っていた。

「私は、今のところ、ベイビーって呼んでる。知ってる? 映画。ベイビードライバー」

「え、いや、知らないですけど」

「人生損してるわよ、ビデオワンにいって借りてきなさい」

「え、いや、いいですよ」

「行けよ、な?」

 机のそばに近寄って、持っていた雑誌で机の上をとんとんと叩く。

 その叩く場所はだんだんとカメラに近寄ってきていた。。

「ちょ、ちょっと、カメラはやめてくださいよ! わかりました、わかりましたから!」

「オッケー、それじゃ、本題に入ろっか」

 勝竜寺は椅子に座り、僕と、ベイビーを交互に見た。

「今回、私達は」

「ごめんなさい。話についていけないです」

「黙って聞けよ。えー、城田くんは、ビデオ撮影兼記録係、私とベイビーが映る」

 ちらと、ベイベーを見る。

 ベイベーは何も言わず、スマートフォンを眺めていた。

「なに?」

「いや、彼女はその社交的に見えないから」

「社交的じゃないからって話せないわけじゃないわ」

 スマートフォンを眺めるベイビーが初めて口をきいた。

「で、虎子さん。どこに行くの。まさか、ここでそのままってわけじゃないんでしょ」

 ベイビーの質問に、勝竜寺はご明察というように人差し指を立てた。

「その前に、今回のテーマから行こうと思うわ」

「テーマ」

「そう、名付けて、奇跡の病院」




 日本における高齢者の数は、平成27年で3400万人。それから、齢を重ねるごとに増加の一方である。少子高齢化社会の最先端を走る日本という国の紛れもない真実。それに対して、行政は膨大な医療費、社会保障費に頭を悩ませている。

 その為、行政は一つの指針を掲げた。

 それは、在宅復帰加算というものだ。在宅復帰というのは、読んで字のごとくであり、介護老人保健施設や慢性期医療機関などから、退院退所された後に、在宅へと戻っているという事を数値化したものである。その数値に合わせた金額をその施設に支払うというものだ。

 しかし、慢性期医療機関に入院する高齢者の割合のほとんどは、死亡退院となる事が多い。

 奇跡の病院と呼ばれている病院は、その在宅復帰加算を多くとっている。

 その病院は、京都市の南部にある。向日市と京都市の境付近にあるその病院は、まさしく、慢性期の病院だ。ホームページを見ても、職員採用は介護職を熱烈募集している様子である。介護必要で、なおかつ、医療的サポートも必要な人むけの病院といったところだろう。

「あれが、今回行く病院よ」

「ふーん」

 運転席のベイビーはそう呟くだけだった。

 ベイビーの車の運転はうまいものだった。勝竜寺の日産NV350キャラバンを簡単に操って見せた。女子高生にしては、あまりにも、運転がうまい。横Gもとくに感じさせなかった。免許を取得したばかりだとしたら、すごい才能だ。

「奇跡の病院って呼ばれてるんですよね」

「そうよ。城田。カメラ回してる?」

 助手席に座った勝竜寺は、僕にそう聞いてくる。

「あ、はい。オッケーです」

 カメラは件の鞄の中に入れてある。

「よし、じゃ。私と一緒に、病院に入ってもらうわ」

「え、僕がですかぁ?」

「心配しないでよ。これ、耳に入れててね、ベイビー」

 と言って、勝竜寺が渡したのは、小型のイヤホンだった。

「これで私と会話ができるわ。やばくなったら、ベイビーに連絡を送って、逃げる」

「逃げるって何やるんですか」

「別に、取材よ」

 そういうと、勝竜寺は車から降りる。

 待ってくださいよ、と僕は言いながら、ベイビーに一瞥をくれる。

 ベイビーと目線があった。

 不思議そうに僕を見ていた。

「早くきなよ、城田くん」

 勝竜寺に誘われるように、僕は車を降りた。

 むっとする夏の空気と、セミの鳴き声の中、五分ほど歩き、病院へと向かう。

 しかし、突然、勝竜寺は近くの家の前で立ち止まり、呼び鈴を押した。

「何やってるんですか」

「黙って録って」

 と、勝竜寺が答えた時、扉がガララと開いて老婆が顔を出した。

 老婆は何事かという面持ちで、僕と勝竜寺を交互に見る。

「こんにちは、すいません、ちょっとお伺いしたいことがあるんですけど」

「は、はぁ」

「すいません。私こういうものです」

 と、勝竜寺はズボンから名刺入れを取り出して、一枚の名刺を手渡す。

 すると、老婆は驚いた顔を見せ、名刺と勝竜寺を交互に見た。

「京都新聞の記者さん?」

「えぇ、実は、そこにある病院を取材してまして、なんでも奇跡の病院と呼ばれているとか」

「あぁ、あそこ。そうなのよね。奇跡の病院ってみんな呼んでるわ」

「その理由は」

「なんでも、どんな病気でも治してくれるからですって。私もね、こんな歳だからさ。病気がちっていうほどの病気がちになるのよ。で、私の知り合い、園芸サークル入ってるんだけども、そこにいた富江ってばあさんもね、認知症でボケちゃって」

 話が長くなりそうだな、と思いながらも、カメラの入ったカバンで老婆を撮った。

「ボケただけならまだしも、富江さん、足の骨を折ってね。それで、病院に運ばれたのよ」

「奇跡の病院?」

「じゃないわ。他の大きな病院。その後、あそこに移ったんだけどね。そしたら、四か月もしないうちに、退院してきたのよ。それも、前よりもしゃんとして。認知症なんてないみたいでね」

 話を聞いていたが、とてもじゃないが信じれない。

 認知症というのは、はっきり言ってしまおう。不治の病だ。確かに、症状の進行をどうこうする事はできる。しかし、根本的な治療というのは、まったくもって難しい。認知症に関連した加算というのが存在するだけでも、どういうことかわかるだろう。

 しかも、骨折があわさると、そのまま、寝たきりの生活になるのが大半だ。

 それが、しゃんとして退院するというのは不思議、いや、奇跡としか言いようがない。

 だからこそ、奇跡の病院なのか。

「ありがとうございます。ところで、その富江さんというのはどこにお住まいなんですか」

「えっと、あそこなんだけどね」

 と、老婆が指さしたのは、斜め向かいに立つ家だった。

 しかし、その家を見た時、僕はぞっとした。気味が悪い。薄気味悪い。背筋の凍るような家がそこにあった。家の周りを囲むコンクリートの塀は、ドクダミが生い茂っており、塀に設けられた隙間から見える向こう側は、雑草が生い茂っている庭が見えた。

 はっきりと言えば、変哲もない家かもしれない。しかし、目にしてみればどこか薄ら寒いものを感じるのだ。

「今もあそこに住んでるんですか?」

「そうだと思うのよね。たぶん」

 それだけ老婆はいうと、もういいですか、という風に家の中へと入っていった。

 その顔に、少しだけ恐怖の色が見えたのは見間違いではないだろう。

 勝竜寺は老婆に礼を言うと、その富江の家へと目を向けた。

「人が住んでると思う?」

「思いませんよ、勝竜寺さん。いや、思いたくないです」

 そうかしら、と勝竜寺は言いながらも、その家へと近づいていく。

 その家の呼び鈴を何度か押してみる。しかし、何度押してみても、呼び鈴がなる様子がない。仕方なく、勝竜寺が声をかけて、玄関の扉を叩いてみたが、一向に反応はなかった。

「こりゃ空き家ですかね」

 僕はそう呟く。

 富江という老婆は、完治した後、どこかへと引っ越しをしてしまったのだろう。

 僕はそう自分の中で結論を作り上げた。それは比較的納得のできるモノだった。

 そんな僕に対して、勝竜寺はまだ納得ができてない様子で、玄関回りのあちこちを事細かに観察していた。そして、郵便受けが玄関の塀に取り付けられている事に彼女は注目した。

「これみて」

 と、僕を手招きしてきた。

 郵便受けの中には、今朝の朝刊だけが入っていた。

「誰かは住んでるみたいね。ま、ここまでしかわからないから、病院いきましょ」

 勝竜寺は郵便受けを閉じ、それから、振り向いて家を見た。

 家の中には誰かが潜んでいる気配があった。しかし、それと同時に、誰もいないかのように気配を感じさせない。不思議な家だ。

 僕たちはその家から離れ、病院へと向かって歩いた。

 病院の入り口を抜け、受付へと進む。

 受付のメガネをかけた女性が、勝竜寺と僕ににこりと笑みを見せた。

「病院内の見学をしたいの」

 勝竜寺がそう伝えると、受付の女性はしばらくロビーで待つようにと僕たちに願い、それから、どこかへと内線をかけた。しばらくして、眼鏡をかけた男がやってきた。

「どうも、初めまして、予約されていた方ですね」

「えぇ、そうです。はじめまして」

 勝竜寺とその男は互いに名刺を交換した。

「勝竜寺様ですね。私は、村上といいます。この病院で相談員をしてます。それで、ですね、えっと、そちらの方は」

「親戚のものです。母が入院する病院がどんなところか気になってついてくるって聞かなくて」

 勝竜寺にそう紹介され、頭を下げる。

「なるほど、では病院内を案内します」

 それから、僕と勝竜寺は村上に病院内を案内された。

 病院内は明るい雰囲気が包んでいた。入院患者がしっかりと療養できる環境をつくっているようだった。しかし、療養型医療施設というだけあって、ほとんどが全介助が必要な人間、つまり、高齢者ばかりのように思えた。子供の入院患者はあまり見当たらない。

 やはり、そういう病院なんだろうな、と思うばかりだった。

「どうですか。うちの病院の感想は」

 エレベーターの中で、村上は聞いてきた。

 眼鏡の向こうに、糸のような目で笑みを見せている。

「明るい雰囲気で、いいですね」

「でしょう。これでも、雰囲気にはかなり気を使っているんです、快適な療養環境は明るさから。病室をご覧になられたときもお気づきかと思いますが、どの部屋も南向きで、眺めがいいお部屋だったでしょう」

 村上の言う通りだった。

 病院の三階より上が療養病床になっていた。病室は一部屋につき四床あるものがほとんどで、完全個室というのもは幾つか、片手で数えられるほどはあった。おそらく、完全個室だと高額なんだろうな、と思わざるを得なかった。

 エレベータが一回につく。

「詳しい話は、相談室がありますので、そちらでしましょうか」

「えぇ、そうしましょうか」

 エレベータをおりて、ロビーへと向かう。

「そういえば、この病院は奇跡の病院と呼ばれているとか」

 相談室へと向かう途中、勝竜寺は突然、切り出した。

 村上は表情一つ変えなかった。しかし、にっと笑う。

「そういう噂があるのはうれしいですね。ですが、奇跡というのは大袈裟ですよ」

「ははぁ」

「私たちはできる限りのことを提供しているんです」

「ははぁ。そうなんですか」

「それに、確かに、何名かの患者様は、病状が回復して退院されています。ですが、そういう場合だけじゃありません、やはり、体調が悪くなられて、退院される方も、大勢います」

 村上の言う、体調の悪化による退院は、死亡退院のことだとわかった。

 相談室に入ろうとした時だった。

「ちょっと、何やってるんですか!」

 突然。そんな叫び声が受付から聞こえてきた。

「だ、誰か来て! 警察呼んで!」

 ただ事ではない。

 僕がそう思った時にはすでに、勝竜寺は動いていた。

 ぱっと駆け出した彼女に「待ってくださいよ!」と叫びながらあとを覆う。

 玄関ロビーまで、数分もかからなかった。

「ちょ、ちょっと待て、な? 落ち着けって」

 勝竜寺がそう声をかけている相手は、まったく見たことのない女だった。ベージュのスカートをはいている長い髪の女だ。手元に握られているナイフがなければ、少なくとも、普通の女に見えるだろうか。いや、陰気な女に見えるだろう。

「お前たちが、うちの母親を殺したんや!」

 女はそう叫び、ナイフをぶんと一振りした。

「だから、落ち着いてくれって! 話し合おうぜ!」

 勝竜寺がそう声を張り上げる。

 女は勝竜寺を見た、僕は少しだけヤバいと直感した。

 刃物を持った相手に目をつけられるというのは、おそろしい。次に刺される、切り付けられる人間を予言しているようなものだ。ホームランバッターが、バットをスタンドへむけるようなものだ。

「落ち着けよって、な? な?」

 そういって、両方の手を使って落ち着くように言う。

 いったん、女の鼻息が収まったように見える。

 だが、それは誤りだった。

 女は勝竜寺にナイフを振りかぶった。

「危ない!」

 と、叫び、村上さんが女にタックルをすると、女とくんずほぐれつで床に倒れた。

「抑えろ!」

「誰か!」

「ナイフ取り上げろ!」

「警察! 警察!!」

 病院のロビーは騒然となった。

 



 女はやってきた警察官に身柄を拘束されて、パトカーで連れていかれた。

 僕と勝竜寺は、村上に「時間を少しください」とだけ答えて病院を後にする。

「なんていうか、すごいですね」

「あの女、なんて言ってた」

「えっと、母親がどうとか」

「母親を殺したって言ってたわよね」

 病院から遠くへと歩く途中、振り返る。

 病院という尾は雰囲気が独特だ。ビルとは違った迫力がその建物に宿っている。

 それは不気味というのとは、やはり違う。

「ビデオ」

「え?」

「ビデオ、今日撮った分、まとめておいて」

「CDにでも焼いておけばいいですか?」

「?? 焼くって」

「あー、CDにデータをコピー」

「そう、それでいわ。まってて、ベイビーを呼ぶから」

 勝竜寺は携帯電話を取り出した。

 病院からちょっと離れた所で、もう、隠す必要はないだろう、と思い、僕は隠していたカメラを取り出す。

「なぁ、あんたら」

 突然、声をかけられた。

 振り向けば、一人の男がいる。

「あの病院に行ったのか。なら、教えてくれるか」

「何を」

「さっきパトカーが停まってたけど、何かあったのか」

「それよりも、名前を言ったらどうかしら」

 勝竜寺が突然、会話に割って入ってきた。そして、右手で僕に下がるように合図する。

 これを撮影しろという事だろう。

 しかし、男は少し待ってくれという風に右手のひらを見せる。

「ここではまずい。場所を変えさせてもらえないか」

 これに対して文句はなかった。確かに、この場所で撮影と取材を続けておくのは危険だと僕もうすうす感じていた。あまりにも病院が近く、ここで身をさらし続けることは、病院の職員に見つかることも考えられる。

「ついてきてくれ」

 と、男は僕たちを案内し始めた。

 勝竜寺を一瞥すれば、彼女は肩をすくめ、男についていくしかないようである。

  男は近くのファーストフード店についてからも、積極的に名前を名乗ろうとはしなかった

 さすがに勝竜寺はそれを良しとはせず、男から無理矢理名前を聞き出そうと四苦八苦していた。男も男で、強情な性格があるらしく、本名を名乗ろうとはしなかったが、結局、勝竜寺との妥協点として、ハンバーガー三つで、仮名で呼ばれることには納得したらしい。

「で、その仮名なんだが、そうだな。なんて名乗ろうか」

「何も考えてなかったんですね」

 僕がそう言うと、男は腕を組みどっと背もたれに体重をかける。

「仮名を名乗る事になるとは思ってなかったんだからな。まあ、ムラカミとでも呼んでくれれば良い。村上信一だ、しらんか? どうでもいい」

「ふうん、まぁ、名前なんてどうでもいいわ。で、ムラカミさん、あなた、あの病院についてどれくらい詳しいのかしら」

「詳しいということはない。俺も、噂を聞きつけて、真相を確かめに来た口さ。まぁ、もう一人、連れがいたんだが、どうにも御しにくくてね。いつのまにか消えちまってた。こう、ベージュのスカートをはいた女なんだが、知らんか?」

「それって、もしかして、この人かしら。城戸くん、ビデオでとってたやつ見れる?」

 勝竜寺が言う前に、僕はビデオを再生する準備を始めていた。

 彼女もそうだと思うし、僕もそうだと思うが、ベージュのスカートをはいた女に見覚えがあった。あの病院の受け付けロビーで、刀傷沙汰を繰り広げようとしていたあの女だ。もしかしたら違うかも知れないが、可能性としてはなくもない。

 ムラカミはビデオに写っている女を見て、すぐに顔色を曇らせた。

「あぁ、間違いない、俺の連れだ」

「やっぱり、あの女何なの? 少なくとも正常とは思えないわ」

「そう見えるだろうな。この場面だけであれば。しかし、彼女はいたって普通の女だ。少しばかり、家族を大切に思っている節、それと、あの病院に対して不信感を強く抱いている節があるだけだ」

「それは、彼女が言ったことと関係するの」

 ムラカミは黙って首を縦に振った。

「知っていることを共有しないか? 俺は俺の知っていることを話す。あんたらはあんたらの知ってることを話す。みんな大好きウィンウィンだ」

「利にはかなってるわ。では、ムラカミ、あなたからどうぞ」

「提案した側だからな。良いだろう」

 ムラカミは注文していたハンバーガーを一つ、包みを解く。

「あの病院のいう奇跡というのはまがい物のパチモンだ。奇跡なんざ存在しないのさ」

「具体的には」

「俺がつかんでいる所はだな。まず、入院患者の中で身寄りがなく、くたばりそうな人間を選ぶ。その人間をだな」

 ハンバーガーを両手で持ち、ムラカミはカメラを見すえる。

「健康な人間と入れ替えるんだよ」

「は?」

「入れ替えるんだよ、すり替えるんだよ。別人とな。そして、死んだ方はそのまま処分。戸籍だけをもらって、入れ替わった方は元気に退院していくんだ。種がわかってしまえば簡単な話だな」

 がぶり、とムラカミはハンバーガーにかぶりつく。

 パテとパンズの間からケチャップが漏れて、包み紙の中に落ちた。

「荒唐無稽ですね、信じられません」

「だろうな。俺も信じてなかった。しかし、連れがそれを証言してくれたよ」

 連れというとあの女だろうか。

「あの女、たしか、丹波だったか。あの女は少し前までオーストラリアに行っていたらしくてな。留学だったか、なんだったか。まぁ、それはどうでもいい。大切なのは、彼女は国外にいたという事だ」

 勝竜寺がフライドポテトを一つつまむ。

「これは連れからの又聞きだからな。真実かどうかを確かめる術は、ほぼ皆無だ。信じなくても良いぞ」

「続けて」

 フライドポテトを口に放り込み、勝竜寺は言った。

「真実かどうかは私が決めるわ」

「良い心がけだ。それで、話を続けるが、いくら留学だからといって日本に帰ってこないわけにはいかない。もちろん、そのまま、異国に骨を埋める人間というのもいるのだろうが、丹波はそうではなかった」

「帰国をしたの」

「一時的な帰国を選んだ。さて、あの丹波だが、肉親は一人しかいなかった。両親は若くして事故死しており、厳しい祖父が丹波の面倒をみていたらしい。資産家であったが孤独な人物だったそうだ。その祖父は、丹波が留学した少し後に心筋梗塞を起こしたらしい」

 心筋梗塞。

 日本人の三大死因の一つで、厚労省のデータによると、15.1%もの人が心疾患でなくなるらしい。ちなみに最も多い死因は、悪性新生物、つまり、がん細胞などで、28.5%だそうである。

「そして、要介護認定を受けた。要介護認定を受けた祖父は、あの奇跡の病院に入院というわけだ。それから、数年後、丹波が帰国する事になった。丹波はまず祖父が入院しているという事実を初めて知った。実のところ、丹波も祖父も互いに連絡を取り合わなかったわけだ。丹波は一人前になるまで連絡をとらないと決めていたし、祖父は丹波の留学に反対だった」

 コーラをぐいとのどに流し込み、ムラカミは唇をぬらす。

「さて、祖父が入院しているという病院に面会に行った丹波はびっくらこいた。まず、祖父というのがまるで別人になっていたのだからな」

「そこで、すり替えが起きていると?」

「そう」

「お話にならないわね」

 勝竜寺がため息とともに、フライドポテトをまた一本つまみ上げる。

「数年間顔も合わせていない肉親が少し風貌が変わっていた位、なんてことでもないじゃない。私でも親兄弟と正月で顔を合わせるけども、たまに誰かわからない時があるわ。さらに、、病に伏せっていたならばなおさらよ。病で筋肉が弱ったり、痩せこけたりで人相が変わるなんてざらじゃない」

「そうだろうな」

 ムラカミは否定しなかった。

「俺もそこで結論を下していたら、その結論だったろう。人相が変わる程度、たいした事じゃ無い。しかし、だ。そこに自分がいたらどう思う?」

「は?」

「自分だよ、自分」

「いったい何を」

「看護師に案内された祖父の病室には、もう一人、丹波という女がいたんだ」




 勝竜寺からあらかたの情報を聞き出していったムラカミは、別れ際に「また、何かあったらここによろしく」と、名刺を一枚おいていった。名前も書かれていない白紙の名刺には、郵便番号と住所、それと、メールアドレスだけが書いてあった。どうやら、電話番号を名刺には記さない主義らしい。

「丹波を釈放してもらわんとなぁ」

 と、ぶつくさ言いながらムラカミはファーストフード店を出て行き、残されたのは我々だけになった。

「どう思う、城戸くん」

 勝竜寺の質問に、僕はなんとも答えようが無かったが、思うところだけは口にしておくことにした。

「すべてうさんくさいですよ。ムラカミもそうだし、あの女、丹波とかいうのも正気じゃないと思います。それと、やっぱり、奇跡の病院というのもいかれてる。奇跡なんて世の中にあるわけが無い」

「それが城戸君の見解」

「そうです」

「なるほど」

 勝竜寺はそう言うと、すっかり冷めてしまったフライドポテトを一本銜えた。

 率直なところ、彼女はどう思っているのだろうか。あのムラカミの言葉を信じるのだろうか。それならば、あの丹波とかいう女は正気であるという事になる。逆に、ムラカミの言葉を信じないならば、奇跡の病院の真相はどういう事なのか、振り出しに戻らざるをえない。

「さて、となると、調査対象が増えたな」

「え」

「まずは丹波の身辺調査だ。幸いなことに、ここに彼女の財布がある」

 勝竜寺が笑って取り出したのは、濃紺の財布であった。女物にしては少し地味すぎる気もするが、財布の片隅に縫い付けられたブランドのタブは、オーストラリアのものであると物語っている。

 なるほど、丹波はオーストラリアに留学していたのだったか。

「ここに彼女の住所がある。免許証から判明したのだが、おそらく、ここに件の祖父がいるのだろうな。というわけで、女の家を探る。今の仮住まいもわかれば、そこを探る」

「えっと、それ、誰がするんですか」

「そりゃ私と、お前だよ。あと、ベイビー」

 プップー、とファーストフード店の前に止まっていた車がクラクションを鳴らす。

 見れば、運転席にベイビーが座って、こちらをじっと見ている。

 いつから来ていたのか、という疑問を吹き飛ばすように、勝竜寺は僕の胸ぐらを掴む。

「おら、いくぞ、城戸」

 勝竜寺のその声色は、有無をいえない。




 さて、件の丹波の祖父の住所についた時、僕としてはこの家に住んでいるのが、一人の老齢の男性の家だとは思えなかった。家は南禅寺の近辺にあった。岡崎神社や平安神宮の近くで、なかなか閑静な住宅地である。

 さて、問題の家であるが、まず小さな三輪車が二つほどある。この時点で老爺一人の住む家である可能性がかなり無くなる。三輪車にのるのは幼稚園にあがる年頃か、あがった年頃ではないだろうか。

 そして、家のベランダにあるのはおそらく五人ほどの大人のシャツである。

「ここに一人暮らし? ありえんだろう」

 勝竜寺がそう言って笑う。

 彼女は金属バットの入った鞄を肩にかけている。もしもの時の為といっている。

「周りから聞いていきますか」

「そうするか。いや、周りに聞くだけだ」

「どうしてです」

「もしも、ムラカミの言うことが真実だった場合、あの家の住人に接触するのはまずい」

 勝竜寺はそう言うと、少し離れた家の呼び鈴を押す。

 中から出てきたのは、五人ほどで、それぞれの証言をまとめるとこうだ。

 一人目は中年の女性。

「丹波さんの家とはそんなに仲良くないの。まぁ、理由としては、あの家はちょっとね。昔から人を寄せ付けないっていう感じでね。資産家か何か知らないけども、昔は町内会にもよく顔を出していて、大きな顔をするのが気にくわなかったわ。何年か前に救急車で運ばれたのも散歩中だったから見つかっただけよ。家の中だったなら、ね? わかるでしょ。最近はお孫さんも戻ってきたのかさわがしくなってきたわね。外国人と結婚したからか知らないけど、騒音問題がおきてるのよ」

 二人目は少し離れたところ、同町内のマンションに住む学生。

「丹波さんなら知ってるよ。僕、町内会にマンション代表で出てたから。最近はめっきり姿を見かけないけども。去年ぐらいだったかな、散歩中に心筋梗塞を起こしたとかで入院していこう、めっきり見ないね。なんかお孫さんが帰ってきたのか最近家は賑やかだよね。まぁ、うちの学生マンションなんかよりも賑やかだよね。外国人の旦那さんとその家族っていうのはなかなか馴染もうとしてないからね」

 三人目は新聞配達員の男。

「申し訳ないけど、あの家についてはまるで関わりたくは無いね。はっきり言って出て行ってほしいよ。俺は毎朝毎夕新聞を配ってる。だから言っておくぞ、あの家は最悪だ。毎朝あの家の前を通って郵便を届けるとき、家の中から変な呪文が聞こえるんだ。呪文かどうかはわからん」

 四人目は通りがかりの主婦。

「あの家についてはよく知らないの。でも、とても普通じゃないわ。毎日外国人が出たり入ったりで、とてもとても。ゴミ捨ても何でももう秩序も何も無いわ。それと毎晩毎晩、変な宗教の活動がもうね」

 五人目は近くにある小さなお寺の住職。

「丹波さんならよくよく知ってます。彼はうちによく寄付をしてくださいましてね。寄付と言うよりは協力という形が多かったんですけれども。最近ですか? 最近は顔すら見せてくれませんね、私のほうとしても関わりたくは無いです。彼とはどうにも信仰があわない」

 以上の五人の証言が得られた。

「丹波という老人は社交的な人物らしいな」

 手に入れた情報を車の中で、大学ノートにまとめて整理しながら勝竜寺は言った。

「どうやらその様子ですね」

「しかし、それが最近は姿を見せないという事でも一致している。それと、怪しい外国人が多数出入りしているという証言もある。なんとも、あれだな。ムラカミの言っていたことがどうにも信憑性が増してきたじゃ無いか」

 勝竜寺はにっと笑って鉛筆の頭を噛む。

 しかし、僕としてはどうにもそのムラカミの言っていたことは絵空事にしか思えない。人間のすり替えなんていうのは荒唐無稽で、とてもじゃないが、信じることはできない。まだ、宇宙人とか超能力のほうが信じられる。

 現代科学の発展し、法治国家としての栄華を誇っている日本国において、人間のすり替えなんていうものが、あるはずがない。仮にすり替えが行われていたとしよう。それを行政が放置しているだろうか。

 行政機関はそれほど無能では無い。確かに人手がなく、忙しく、対応に手間取ることは多々ある。しかし、それは無能であるという証拠でも根拠でもない。

 行政がこの事実を知らないはずも無いのではないか。

「いつの間にか、行政機関も、全員入れ替わってたりして」

「え」

 ベイビーがぽつりと言ったのを僕は聞き逃さなかった。

 しかし、それはどちらかと言えば、真実に近いのかも知れない。

 行政機関を乗っ取ってしまえばいい。小さな市町村であろうとも、行政機関を乗っ取れば、人間のすり替え、入れ替わりは簡単にできてしまえるようになる。

 どんどん、悪い方向に頭が働いてしまう。

 目の前にいる勝竜寺は、今朝方から一緒にいた勝竜寺なのだろうか。運転席に座って、ゲーム画面を凝視しているベイビーは、本当に知り合ったときのベイビー本人なのだろうか。いや、誰が本物で、誰が偽物なのか。

 ぐるぐると、頭の中がスクランブルされていく。

 ぱん、と柏手一つで思考は中断された。

「ベイビー、あんたの言うことにも一理はあるわね。でも、証拠はないわ」

 勝竜寺はそう言って、車のドアを開ける。

「証拠はない。ならば、想像でしか無いのよ」

「そうですけど、じゃあ」

「どうするかって? 確かめに行けば良いじゃないの」

 勝竜寺の言葉の意味がすぐにわかった。

 今、目の前には問題の老人が住んでいる。

 その老人からじかに真相を聞き出せば良いのだ。少なくとも、その家に出入りしている人間からは聞き出せる。

 車から出た勝竜寺を追うように僕も車から出る。

 すると、問題の家に向かう勝竜寺が見えた。

 僕は声をかけようとも思ったが、勝竜寺の足が家に向かっているのではないと気づき、追うのをやめる。

 勝竜寺は家では無く、家に向かって歩く別の男へと向かって歩いていた。

 物陰へと体を隠して、カメラを回し、指向性マイクをそちらに向ける。

「あの、すいません」

 勝竜寺はしおらしく、今まさに家の扉に手をかけようとする男へと声をかけた。

「はい、なんですか」

「実は、あそこに停まってる車、私の車なんですけど、ちょっと故障しちゃったみたいで」

「そうなんですか。では、JAFを呼べば」

「いや、修理道具はあるんです。でも、ちょっと男の人のたくましい力が必要で」

 勝竜寺は甘えるような声色を出す。

 末恐ろしい女だ。

 男はどうやら、これをいいチャンスだと考えたらしい。

 勝竜寺の誘いにまんまとのって、手を引かれて車のほうにやってくる。

 しかし、男を責めることは、同じ男としてできない。

「で、どこをどう男手が必要なんだ?」

 車の近くにやってきたとき、男は勝竜寺の尻へと手を伸ばして聞いた。

「車の中に修理箱があるの、でもちょっと堅くって大きくって太いから男の力が必要なのよ」

 勝竜寺は車のドアをスライドさせる。

 ちらと運転席を見れば、ベイビーの姿が見えない。どこへ行ったのか。

 男は鼻息を荒くして、車の中へと頭を突っ込む。

「どこにあるんだ?」

「もっと奥、奥よ。そんな所じゃ無くて」

 勝竜寺が、車体の下へと手を伸ばす。

 そこから鉄パイプが出てきた。

 この女はどこにでも武器を隠しているのか。

 男が車体に突っ込んでいた頭を出したとき、その頭に一撃を加えた。

 それからはもうめちゃくちゃだった。男の頭にもう一撃を与え、完全に戦意と意識を喪失させた後、車の中へと突き飛ばし、車の中でぐるぐる巻きの簀巻きにした。そして、すぐさま、ベイビーが運転席の下から現れて、僕が車に乗るのを確認して車を出す。

 あまりの早業だった。

 まるで慣れているかのような気がした。

 車は安全運転で、京都から離れていく。高速道路や有料道路を使うことはなく、下道で安全運転だ。そうして、山奥、京都の北の美山のほうへたどり着いたとき、車の中で男に対して尋問が始まった。

 男には車の中で身元を簡単に確かめられ、ずた袋が頭にかぶせられた。

 さすがに、顔を見られてはまずいと勝竜寺は思ったのだろう。

 男は少しだけ抵抗したが、勝竜寺の簡単な尋問と、少しの痛みに屈して、すぐに情報を吐き出してくれた。

 男は金光一と言った。キムというのが本名らしく、朝鮮系の人間らしいのだが、日本に渡って結婚し金光という名字をいただいたらしい。つまり、婿養子らしいのだ。

「でー、そのキムチくんさー」

「キムです。キムチと呼ぶのはやめてください」

「わかったよ、キムくんさ。あの家は何なの。というか、あんたらの目的はいったい」

 金光は勝竜寺の質問に少しだけ答えにくそうにしたが、すぐに口を開く。

「私たちは、落花教という宗教に属する人間です」

「落花教? なんじゃそりゃ」

「新興宗教です。元は、仏教系なのですが、仏教に限らず、イスラム、キリスト、多種多様な宗派の教えを受けてできた新興宗教です」

「で、その落花教はいったい何を目的としているんだ」

「世界の終末です」

「は?」

 ついに僕は口を出す。

 あまりにも突飛な目的だった。

「あぁ、すいません。説明が遅れました。私たち落花教の教えは、人類を次のステージに移行させることが目的なのです。植物は花をつけた後、花を散らして実を成します。私たち落花教は、花を落とし、次の実がなるようにするのが目的なのです。その花が落ちると言うことは、世界の終末を意味しています。世界が終末を迎えることで、次の実が成されるのです」

「よくわからんな」

 勝竜寺の言葉は、僕の言葉と同じだった。

「まぁ、お気持ちはわかります。ですが、それが私たちの宗教なのです」

「で、それで、どうして、人間の入れ替わりなんて事をやってるんだ」

「お恥ずかしながら、私たち落花教は日本ではあまり勢力をもっておりません。そもそも、日本では新興宗教と言うだけで毛嫌いをされる。無理もありませんが、それでも、ひどすぎる。それで、信者を即席で増やすために、あの病院を使って、人間の入れ替わりを行っているのです」

「なんだそりゃ。なんで、信者を増やしたいんだよ」

「実を言うと、この国を起点に、世界の終末を起こすつもりでいるからです」

「具体的には」

「神の降臨です」

 僕、勝竜寺、ベイビーは顔を見合わす。

 とんでもない話になってきた。

「実のところ、あの病院は、国籍をいただく為だけでは無く、神の降臨の準備もしているのです」

「神の降臨ねぇ」

 勝竜寺が遠くを見るような目をする。

 嫌な予感がした。

「それ、ビデオにとろうか」




 金光がどうなったのかは、僕はわからない。

 その後、金光は再び、気絶させられて車に積まれた。僕は堀川通りの北、一条戻り橋のあたりで下ろされ、それ以降のいきさつを知らない。少なくとも、金光はろくな目に遭うことは無いだろう。

 僕が再び呼ばれたのは、金光と別れてから三日後だった。

 勝竜寺に呼び出され、仕事終わりの夕暮れに、あの雑居ビルに行った。

 雑居ビルのいつもの一室では、ベイビーとムラカミがいた。ベイビーは前と同じく、パイプ椅子に座ってイヤホンを耳につっこみスマホをいじっている。ムラカミは長机の上に腰掛けて、けだるそうに足下のジュラルミンの鞄を踏みつけている。

「よう、元気だったか」

 僕が入ってきたことに気づき、ムラカミは手を上げた。

 手を上げ返して、ちらとベイビーを見るが、彼女は何も反応をしめさない。

「元気もなにも、ムラカミさんも元気なんですか」

「まぁな。連れを助け出すのに疲れて入るがな」

 ムラカミはそう言ってため息を吐き出す。

「しかし、すごい情報を手に入れてきたな。落花教ね。しらんが、ろくな連中じゃない」

「まぁね」

 その落花教については、僕はあまり良い点も悪い点も思わなかった。どちらかと言えば、悪いと思うのではあるが、宗教的な問題だ。善悪で片付けられる事では無い。

 そもそも、奇跡の病院もろくな病院では無い。病院の目的はいろいろあれども、治療や療養が目的であるはずだ。いくら、天涯孤独のみであろうとも、その人間の戸籍を奪って誰かに与えるというのは許されることでは無い。

 どちらかといえば、そちらのほうが簡単だ。

「で、おたくらの大将は?」

「ここよ」

 いつの間にか、部屋の入り口に勝竜寺が立っていた。

「お待たせ、それじゃ、予定を伝えるわ」




 車は夜の京都を走る。

 昼間は車通りの激しい堀川通りも、五条通りもすいすいと進める。

 しかし、心持ちとしてはすいすい進んでほしくは無かった。

 勝竜寺が言った予定は、奇跡の病院に忍び込むという物だった。

「勝竜寺さん、やばくないですか?」

 運転席に座った勝竜寺に、僕は聞く。

「何が」

「何がって、忍び込むってことですよ。絶対にやばいですよ、犯罪ですよ」

「金光拉致ってる時点で、犯罪だろうが」

 それはそうであるが。

「じゃあ、なんだ? お前はこのまま、犯罪が継続してる方が良いって言うのか」

「いや、そうじゃないですけど、警察に相談した方が」

「警察に行ったところで、意味は無いわよ。そんなことをしている間に、また犠牲者が出るだけだ。こっちが確実な証拠を掴んで、それですぐに警察が動けるようにするんだよ」

 勝竜寺の言葉には、しっかりとした芯があった。

 これをへし曲げる事は骨が折れると考え、僕はカメラを回すことに集中した。

 車はすぐに奇跡の病院近くについた。

 病院近くに車を停めて、僕と勝竜寺、それとムラカミが車から出る。

 夜の病院というのは雰囲気がある。遠巻きに見ているだけでも、なかなか、恐ろしい。街灯がぼんやりと照らす病院の姿は不気味であるし、暗闇に浮かび上がる病院の看板は、どこか不安にさせる。

 昼間ならともかく、夜になった今、そして、病院の実態を知ってしまった今となれば、これは、 目の前にあるのは病院では無い。恐ろしい宗教団体の施設だ。しかも、その本拠地だ。

「ビデオ、回してるか」

 勝竜寺がひそと耳元でささやく。

 僕は黙ってうなずく。

 この人はいったい何を考えているのか。当初の目的とは違う作品になっている。

 しかし、この人は停まることをしらない。やめることをしらない。

 狂気の縁に追い詰められても、狂気に突っ込んでいく。

 真実が知りたいのか、それとも、ただ、狂っているのか。それとも、別か。

「おい、どうやって侵入する」

「任せておいて」

 ムラカミの質問に、勝竜寺が即座に答える。

「ここの従業員用通用口から侵入する、ついてきて」

 勝竜寺の案内で、僕とムラカミは病院の横手にそっと忍び寄った。

 病院に近づくにつれて、どこからか不気味な声が聞こえる、喉を震わせ、喉の奥から這い出てくるような低い声だ。空気がびりびりとかすかに振動しているのを肌が感じる。

「これは、祝詞か」

 ムラカミがぼそりとつぶやいたのを、僕は聞き逃さなかった。

 勝竜寺が職員専用出入り口の暗証番号を入力し、施錠を解除する。そこから、僕たち三人は病院内へと忍び込んだ。職員の下駄箱を通り過ぎ、忍び足で廊下を進む。

 夜の病院というのは贔屓目に見ても不気味なものだ。嫌でも学生の頃、修学旅行で聞いた怪談話を思い出す。学校での怪談話に次いで多かったのが、病院の怪談話だった。薄暗い廊下や非常出口を示す緑色の灯りが恐怖を増させるのだろうか。

 喉の奥から絞り出すような声が聞こえる方向へ、勝竜寺は進む。

 聞き取れない声が、どんどん聞き取りやすくなる。

「こっちへこい」

 はっきりと声が聞こえた。

 声が聞こえたのは、地下に向かう階段だった。

「この下ね。地下には何があったか、覚えてる?」

「おおかた、霊安室だろうさ」

 ムラカミがそう言って、階段を降りる。

 僕も一番最後に階段を降りていく。

「こっちへこい。こっちへこい」

 薄暗い地下から声が聞こえる。

 まるで、僕たち三人を呼び寄せているかのような声だ。

 扉を開けて廊下に出る。

「こっちへ、こい」

 非常灯の明かりしかない薄闇の中、声がはっきりと聞こえた。

 声は一人では無い。複数人、何十人という声だ。

「やばいな」

 ぽつりとムラカミがつぶやいた。

 勝竜寺は迷いも無く、歩みを進める。

 この声のおかげで、足音が薄闇に響かないのは幸いだった。

「この部屋ね。この部屋から聞こえる」

 勝竜寺が足を止めたのは、準備室という名前の部屋だった。

 彼女は静かに扉を少し、押し開ける。

 むうっという肺を潰すような臭いが鼻をつく。そして、声が身体にびりびりと響く。

 準備室の中は広間になっていた。その中を満たす、人、人、人。その人たちはおのおのの服を身にまとい、片腕を天高く上げていた。何をしているのかと観察してみれば、その手はおいでおいで、と手招きをしている。

 準備室の真ん中には、寝台が一つあった。

「あの寝台を写して」

 僕は勝竜寺に言われるままに、カメラをズームさせて、寝台を撮影する。

 寝台は病院のベッドだった。ベッドにしては、仰々しく装飾がされている。その上には一人の老人が横になっている。老人は今にも死にそうで、下額呼吸で、胸が激しく上下している。

 その老人を囲むように、人々が手を招いている。

「何がいるの?」

「老人です。それを囲むように人がいる。あ」

 僕はそのとき、カメラ越しに老人を撮影していた。

 その老人の口から何かがずるりずるりと這い出てきていた。

 それは三角錐の集合体のようでありながら、人間のような形状をしていた。しかし、それはどう考えても人間では無い。老人の口から人間は這い出てこないし、その顔は人間のそれとは違う。

 僕は反射的にカメラから目を離し、肉眼でそれを確認しようとした。

 しかし、それはまるで姿がない。

 再び、カメラをのぞき込む。

 それは、すでに老人の口から上半身を出していた。

「あ、あれは」

「やばいな。あれは」

「なんなんですか」

 小声で僕とムラカミが会話するのを、勝竜寺は気にしている様子だった。

「何々? なにがやばいの?」

 そのとき、広間と地下を照らす灯がぶんと消えた。

 完全なる暗闇が周囲を満たした。

「こっちへこい。こっちへこい」

「こっちへこい。こっちへこい」

 人々の声が闇の中、響く。

 僕は暗視モードにカメラを切り替え、撮影を続ける。今、この空間を視る事ができるのは僕だけになった。

 だが、僕は悲鳴をあげないようにするので精一杯だ。

 広場の中央、老人の口から何かが這い出て、腕を四本広げていた。

「こっちへ、こい」

「こっちへこい」

「こっちへこい」

 人々の声が闇の中で、さらに大きくなる。

 部屋の中央のそいつは、腕をさらに広げる。

 そのとき、耳に、ばりばりと何かが破ける音が聞こえた。

 今ならはっきりとわかる。

 こっちへこい、という人々の言葉は、こいつをこちら側へ呼んでいたのだ。

 身体が逃げたがっているのを感じる。

 しかし、ビデオを止めるわけにはいかない。ビデオを残すわけにはいかない。

「何が起きているの! この音は?」

 勝竜寺の声がはっきりと聞こえた。

 信者が一人、また一人と倒れているおかげで、声や物音が通りやすいのだ。

 ばりばり、と音が聞こえる。

 四本の腕が空間に裂け目を入れ、そこを開けているのだ。障子紙を開けるように。

 感情が、本能が、あの存在をこちら側に来ることを拒み始めた。

「さて、と。これはマジでやばいな」

 ムラカミが扉を押し開け、中に足を踏み入れる。

「な、何をするのです!」

 僕はムラカミに声をかけた。

 ムラカミは手袋を口で噛んで外し、投げ捨てる。

「そりゃ、邪神退治よ」

「邪神退治!」

 勝竜寺が手探りで僕の腕を掴む。

「いい? 城田! 邪神退治なんて滅多にない画よ! 絶対に録りなさい。絶対! 絶対!」

「は、はい!」

 僕は言われるもなく、ビデオを回していた。

 ムラカミはふっと手に息を吹きかけると、何かをブツブツと口にして、手をあいつに向ける。

 あいつはこちら側に来ていないが、こちらの出来事を理解しているらしく、ムラカミのほうに顔を向けた。恐ろしい顔だ。顔と形容することすら困難極まる。ただいえるのは、恐ろしく、おぞましく、寒気がする。

 低く響くような声を出して、ムラカミが手をあいつに向ける。

 ムラカミの手の中から無数の白い手が伸びる。

 それを視て、あいつは、明らかに動揺をしている様子だった。

 白い手が、あいつを掴み、ちぎり、ばらばらに解体していく。

 あいつの二つある口から悲鳴が飛び出して、部屋に響き渡る。

 悲しく、おぞましい悲鳴だ。

「なにこの音?」

 勝竜寺が叫ぶ。

 白い手があいつを掴み、老人の口へと押し込んでいく。

 あいつは、抵抗に手を挙げたが、白い手がそれを奪い去って、強引に押し込んだ。

 押し込まれる瞬間、目が、カメラのレンズ越しに僕をみた気がする。

 電気が点いた。

 広間には老人と、ムラカミがいた。あれほどいた信者と思われる人間は跡形もない。

「あ、あれ? あの人たちは?」

「わからないです」

 勝竜寺と僕は言葉を交わし、広間に入る。

「ムラカミ、あの人たちはどこに?」

「さぁ。どこかじゃない?」

 ぼんやりとした様子で、ムラカミは手袋をはめて、答えを返す。

 ただ、がらんとした広間の中、僕たち三人が残っていた。




 次の日、僕は勝竜寺とベイビーを乗せあの老人の家に向け車を走らせていた。

「あの、僕が運転するんですか?」

「そう。安心しろ、カメラはベイビーが回す」

 なんとも安心できない。

 人に自分のカメラを渡すことはあまり避けたかった。

「それで、どうしてあの老人の家に」

「実はな。あの男。捕まえていた男がな。消えたんだ」

「消えた」

 頭の中であの拉致した男の顔が浮かび上がる。

「それ、本当ですか」

「あぁ、マジだ。だからな。あの信者どもがどうなったか気になってな」

 僕はそれ以降、黙って運転した。

 何を言葉にすれば良いかわからなかった。

 車はすぐに老人の家の近くについた。老人の家は、お昼過ぎだというのに、しんと静まりかえっていた。閑静な住宅街というのもあるだろうが、以前はまだ、少しばかり人間の気配があった。しかし、今はなにもない。

「変ね」

「そう、ですね」

 ベイビーからカメラを返してもらい、構える。

 カメラで家の全景を写す。二階の窓に、人影が透けた気がする。

「誰かいるかもしれませんよ」

「そうか。なら、入らせてもらうか」

 言葉を返すよりも先に、勝竜寺は行動していた。

 勝竜寺は老爺の家に近づくと、インターホンを鳴らした。二度、三度と鳴らしても、中から何の反応が返ってこないことを確認すると、引き戸に手をかけた。しかし、鍵がかかっている。

「鍵、かかってるじゃないですか」

「鍵ならあるからな」

 勝竜寺がジーパンのポケットから鍵を取り出し、鍵穴に差し込んだ。

 がちりという音が響く。

 がらら、と扉を引いて、勝竜寺は中に入る。

 家の中は誰もいる気配はしなかった。

「どこに人影があったって?」

「に、二階です」

 勝竜寺は土足のまま、廊下に上がり、階段を上っていく。

「ちょちょちょちょっと」

 僕も土足で階段を上がっていく。

 少なくとも誰かがいる可能性がある。そして、この家は、あのカルト教団の支部だ。

 どたどたと上がっていくと、勝竜寺が立ち止まっている姿が見えた。

「どうしたんですか」

 声を潜めて聞く。

「この家、二階はこの部屋しかないらしい」

 勝竜寺に言われて廊下を視る。

 廊下には扉がそれぞれ四つある。廊下を挟んで対面に二つという形式だ。しかし、今、扉は一つを除いて、板が打ち付けてある。その一つの扉の前に、僕たちはいた。

 開けるぞ、と目配せをしてから勝竜寺は扉を開けた。

 部屋の中には誰もいなかった。

 二十五畳ほどの部屋で、壁をぶち抜いて二つの部屋を一つにしたようだ。

「うわ、なによこれ」

 勝竜寺がそっとつぶやく。

「これ、城田君、これとって。壁のやつ」

 僕がその方向へカメラを向けると、背筋に冷たい物が走った。

 壁にびっしりと書かれた「こっちへこい」という文句。日本語で書かれていないものもあった。読める範囲ではハングル文字と、簡体漢字、そして、英語だ。ほかにもいろいろな文字で書かれていたが、どれもおそらく意味は同じであろう。

「これ、あれよね。きっと、これで邪神を降臨させようとしていたのよね」

 勝竜寺がそう言って部屋の中に歩みを進める。

「誰かいないの?」

 そう声をかけて、彼女は部屋の奥へと進むが、反応は無い。

 物音一つしない。

「あら、これはなにかしら」

 部屋の真ん中、畳の上に置かれた一枚の紙を勝竜寺は手に取る。

 その紙を裏返し、彼女はしずかにカメラの方へと紙を向けた。

 紙にはただ一言だけ、書置きのように記してあった。

 こっちにきた。と。

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 また、実在する団体、文化、民族、人物とは一切何の関係もありません

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