23年間、私の人生と心を苦しめた脳の悪戯。
このお話は「発達障害」のことを分かってもらいたくて私自身が経験したものです。
発達障害は日本で60万人ほどしかいません。
ここから先、発達障害を理解してくれる社会になりますようにこの物語を書きます。
「一生懸命頑張ってもできなかった………よく頑張ったね!」
「誰も相談できなかった………もう悩まなくていいんだよ」
「誰からも理解されなかった………もう無理しなくていいよ。あなたは一人じゃないからね」
※これは、作者である私が本当に体験した出来事です。しかし出てくる登場人物の名前や場所は設定させていただきます。
閲覧ありがとうございます。うるるんるんばです。これから話すことは私が本当に体験した出来事や想い出です。堅苦しいとは思いますがお付き合いくださると光栄です。では、始めます。
脳からのメッセージ~片づけられない人生~
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1994年8月、佐賀県で夏の暑い日、35度を超えていた。そしてこの日の明け方、私は産まれた。体重3072グラムと健康体系で産まれた私は大きい声で産声をあげた。そう、私がこの世に祝福された日なのだ。実際に本当に覚えてはいない…けれど母親のホッとする表情、産婦人科の方々に感謝いたします。「私」という人生の始まりなのです。
私は「真依」と名付けられた。真実の「真」に「にんべんに衣」。これが私の名前、真依です。この時は誰もが幸せだと感じていた。
私は夜泣きがひどく、おもちゃでは泣き止まなかった。しかしそれでも両親は私に付き合ってくれた。ミルクを与え、夜になれば寝てそして泣いて…このころは何も問題はなかった。
しかし身体の異変は1歳になってから親はわかったそうだ。1歳になってもハイハイを覚えなかった。何も言葉を発さなかった。夜泣きもまだ止まらなかった。しかし異常なほど落ち着きがなく笑顔も滅多に示さなかった。これは親戚から聞いた話である。「私は落ち着きがなかった」「みんなより発育が遅い」そういわれていたそうだ。しかし、この時は脳の病気だなんて誰も思わなかった。
結局ハイハイしてものに掴まることができたのは1歳と8か月だったそうだ。
1996年8月、2歳の誕生日を迎えた。前よりも笑顔を見せるようにはなった。しかし、2歳になっても一人で立つことができなかった。異様なほど落ち着きがなく思うように寝ることができず両親をたびたび困らせていた。
病院に連れて行っても医者からは「成長期だから異常はないでしょう」と言ったらしい。レントゲンや検査をしたが特に異常は見られなかった。
相変わらず言葉は発さない。「ママ」や「だー」などの単発の言葉なら言えた。しかしそれ以外の言葉が言えずさらに両親を困らせていた。
立つことができたのは2歳と10か月。3歳になる前だった。このころから両親との仲も悪くなり私も放置気味にされていた。
1997年、3歳の誕生日を迎えた。しかし誕生日は誰もしてくれず母親は洗濯や家事の日々、父親は帰ってこなかった。寂しいという感覚は特になかった。私はいつものようにおもちゃで遊んでいた。私はトミカが大好きで電車の本や絵を見るのが好きだった。
福井県にある実家の家を訪れると祖母と祖父は気持ちよく出迎えてくれた。私は何も言えず母親の後ろに隠れた。私はその辺に転がっていた小説に目をやった。そこには「推理小説シリーズ」で祖父がよく読んでいたものだった。私は小説を手に取ると字は全く読めないが文字がずらっと並んでいることに快感を覚えて読み続けた。しばらくはこの本を片時も話せなくて集中して読んでいた。他人の言葉も耳に入らないほど集中できた。その本は祖父からいただき、車の中でも読み続けた。
祖母は「少し変」だと父親に打ち明けていた。それは普通の3歳の子がやるようなことではなく、明らかに異常だとまで話した。祖母はもう一度私を病院に連れて行くように話しお金を父に渡したが父はその時適当に納得して私を病院には連れて行かなかった。
家に帰っても私はその本を読み続けた。すると、NHKのテレビのニュースが目に入る。すると私はその小説をすぐにやめ、テレビのニュースを見た。私はテレビのニュースが大好きだったそうで実家に帰っても母方の実家に帰ってもニュースを観続けた。子供が見るようなアニメは一切観なかった。テレビのニュース自体は理解できていないが私はテレビに出てくる映像や景色が大好きだった。特に色彩がはっきりしたものは興味があった。いろいろな色、いろいろな文字…そういう過敏症状があった。ところで、前用んでいた小説はもうこの時からすっかり読まなくなり、主にテレビのニュースを見たり、電車の絵本を読んだりと興味が変わっていった。
4歳になると大抵は幼稚園(保育園)に預けるだろうが、私は預けずに家にいた。母親が恥をかくと嫌だからもう少しできるようになるまで幼稚園には預からなかった。この年齢になっても相変わらず言葉を発すのが苦手だった。両親以外の人の人見知りが激しかった。父親と母親の仲は悪くなり父親は家に帰らなくなった。母親もこのころから私を放置気味となった。母親は友達と遊んだりパチンコしたり自分の娯楽を過ごしていた。私は母親と父親を捜さなかった。すぐに帰ってくると信じていたからだ。1日後、母親は帰ってきた。両手にはたくさん買い物をしてブランド品の財布やかばん、お菓子がたくさんあった。私は元気よく「お帰り!」と言ったが私を無視して友達と電話をしていた。
こういうことがたびたび起き、アパート人住んでいる人たちは不審に思い母親に打ち明けたそうだ。そして私は1999年1月、4歳で3学期を迎えるスイレン幼稚園に入園することになった。
2に続きます。
これは作者が経験した0歳から4歳までの記憶です。あくまでも記憶なのでほとんどが当てはまるわけではありませんが祖母や母方の親戚の言葉を頼りに書き記したものです。ごりょうしょうください。