05.夜明け
宿から出た僕は、表に出てニシナさんの車に乗せられた。なんせ、荷物は死体と一緒に警察が持っていってしまったし。今の僕はあの宿で、例え一晩でも、過ごす気にはなれない。
車内の温度は冷え切っていて、外と大差がない。車に揺られる僕はちょっとした放心状態だった。そこまで体を動かした覚えもないのに、疲労感がすごい。車が発車しても、車内は無言が続いている。僕は窓の外を見た。と言っても、ライトが照らしている範囲から先は、何も見えないに等しい。
ニシナさんはゆっくり車を走らせながら、僕らの後ろ。後部座席に声をかけた。
「で、なんでお前まで一緒なんだ」
「何故もなにも。俺の荷物も返して下さい」
苛立ち気なニシナさんとは正反対の、抑揚のない声が返ってくる。バックミラー越しに僕が後部座席を見ると、トバリさんは頬杖をついて、真っ暗な外を眺めていた。
点々と建っている街灯が時おり窓の外を流れていくだけで、真夜中の町には人っ子一人、見当たらない。 息の白い車内で、僕は腕を擦った。
「何か大事なものでも入っているんですか」
「どうせ、妙な専門書でも鞄に入れてるんだろう」
「明日、脱稿を約束した原稿」
僕とニシナさんは堪らず間の抜けた声を上げていた。
「彼女のおかげで今日中に仕上げる予定が仕上がっていないんです。早く返して下さい」
「妙に協力的だとは思ったがそのためか、お前……」
ニシナさんは苦い顔をして唸る。僕もミラー越しにトバリさんを見た。
つまり彼は。始めから正義感どころか、人助けでも好奇心でもなく。ただ、自分の仕事のために事件を早急に片付ける必要があった、だけ。
トバリさんは僕とミラー越しに視線を合わせると肩を竦めた。
「君たちはこの期に及んで俺が人助けをする人間に見えるのか」
「いえ。見えません」
この人は他人に嫌われる趣味でも持っているのだろうか。僕は視線をそらして車のライトが照らす先を眺めた。夜明けはまだ遠そうだ。
「あの知識を、誰かのために使おうとは思わないんですか」
「自分のために使っているだろう」
「そうですね」
話しになりそうにない。
「トバリさんのご両親は医者なんですか? 医学の勉強をしていらっしゃる口ぶりでしたけど」
「まさかとは思うが、君はあの話しを全て鵜呑みにしているのか」
「え」
思わず、座席から身を乗り出す。トバリさんは座席に膝を立てて座り直すと、呆れたように肩を竦めた。大袈裟なため息がなんとも、癇に障る。
「君には嘘を覚えろと言ったが、他人を疑う事を覚える方が先みたいだな」
「全部、嘘なんですか。作り話をあんな状況で自信満々に話せるって、どういう神経してるんですか」
「全部とは言っていないだろう。彼女が犯人なのは事実だ。彼女をあの場で警察に引き渡すために、警部補殿とひと芝居うっただけでね」
「ニシナさんが?」
「おい。俺はお前が黙れと合図してくるから口を出さなかっただけだぞ」
僕が振り返ると、ニシナさんは掴まれていた方の手首を払う。トバリさんの手の痕は未だに赤みがかっている。
「折られるかと思ったわ」
「ああでもしないと、余計な口出しするでしょう」
「始めから全て、俺に伝えていればこんな手間もなかったんじゃないのか」
「それでは、警部補殿とヒカル君に恩が売れませんから」
「恩は押し付けるものじゃないんだよ、クズ」
ニシナさんが些か乱暴に車を停車させた。
僕が追い詰められた所で、トバリさんが僕を助ける。それによって僕も、僕と親しいニシナさんへも恩を売った訳だ。やはり僕には、この人を怒る権利があると思うのだが、駄目なのだろうか。
ニシナさんが車のエンジンを止めた。喧しい機械音が静かになっていく。
目の前の建物には、ぽつぽつと、窓に明かりが灯っていた。細い月夜では外観がはっきりしないものの、輪郭がぼんやり浮き出ている。
「嘘をついて、裁判の時とか大丈夫なんですか」
「バレたとしても、抜けた板張りから彼女の指紋も出るだろうし、俺の予測通りにタスキからキクの血液反応が出れば起訴は確実だ。彼女は始めから職を捨てる覚悟でキクを殺害している。詳しい身辺調査が入れば、それに見合う動機と、逃亡計画の準備も自ずと明らかになる。俺の些細な虚言など、大した問題にはならない」
「あの長い作り話しの、一体どっからどこまで嘘なんです」
「死斑には時間ごとに段階があって、新しい死斑と古い死斑が同時に現れるための条件があるんだよ。死斑の移動にだって時間がかかる。そんなすぐに出るもんじゃない。そもそも、そんな都合よく、犯人の手形が残る訳ないだろう」
「なんで僕が責められているんですか」
「自分で医学書を読め。と言うことだ」
ニシナさんが一足先に車を降りる。僕も色々な不満を募らせながら、車の外に出た。町中に来ても、夜の肌寒さは大して変わらない。
「あの場で優先すべきは、彼女に容疑をかけて。逃げる時間をなくすことにあった。彼女の目論見通りに事が運べば、俺とヒカル君が不毛な尋問をされている間に、姿を眩ませてしまう。今の警察は、娼婦を1人殺した女に、時間も人間も割きたくはないだろう」
トバリさんが頭を下げて車から降りてくる。車越しにニシナさんへ視線で問いかければ、彼は気前を悪そうに頭をかいた。
「ここ数年で、この辺りは開発が進んで後を追う様に治安も悪くなった。俺がこっちに呼ばれたのもそのせいだ。俺が来る前よりかは、まだマシらしいがな……。今も回しきれていないのは認めざるおえない」
「検挙数が上がったと言われてはいるが、恐らく認知できていなかった事件が、認知されるようになっただけの話しだ。数年前までは、身内のいない娼婦が殺されても、まともに捜査する警察
官はいなかった」
「人が殺されても、捜査できる人間がいないから捜査ができない、と言うことですか……」
僕の実家のような田舎とは違い、人もいるし、詳しく調べる施設もあるはずなのに。
僕の疑問を察しているのか。トバリさんは僕を見下ろして続けた。
「ここじゃ毎日のように死体が出る。飢え死んだ浮浪者に、手順を間違えた薬物中毒者に、生活苦での自殺。キリがないだろう。いちいち構っていたら、時間も手も足りない。国の一機関である警察にとって一番面倒なのは、世間の目だ。警察の怠慢だの、不祥事だのと、声を大にする近親者をもつ被害者が必然的に優先される。今回も警部補殿でなければ、俺の話しを聞かずに自殺と処理されていたかもしれない」
「それを俺の目の前で言うか」
「実際にそういった同僚がいるのもご存じでしょうに。検挙数が上がったのは、貴方がこちらに来てからなんですから」
ニシナさんは珍しく難しい顔をして黙り込んでしまった。
上京が決まる前から手紙のやり取りはしていたけど、そこには仕事の様子は全く書かれていない。だから僕は、ニシナさんはこちらでも順調に仕事を続けているものだと思い込んでいた。
トバリさんは顎に手をやる。白い息が夜空へ消えていった。
「君も今日で身をもって知ったと思うが。この国は未だに、証言を優先して容疑者を決めるんだよ。人間は自分に都合の悪いことは隠すのが常だと言うのに、現場の検証よりも、確かでもない自供が優先される。解剖医の割合は少ない上に専門の施設も少なく。遺体が出れば遺族の頼みナシでは、薬物検査も解剖もせずに墓へ埋められる。目の前の真実より、民主主義で犯人を決めるなんて、君はナンセンスだと思わないか?」
「そう、言われましても……」
初めて、彼は僕に物憂げに視線をやった。
今まで考えてもみなかった事を聞かれ、僕は曖昧な返事しか出来ない。
僕が生まれ育ったのは平々凡々な、田舎町を体現した農耕地帯だ。たまたま警察官を勤めていた亡き父と、その友人であるニシナさんが身近にいたから、辛うじて犯罪に触れる機会があった。それだって、父さんやニシナさんの話しの中での出来事だったし、新聞で眺める程度の他人事だ。今になってすれば、それはとても、幸せなことだったんだろう。
「そんな警察の怠慢を理由に、そのテの知り合いから俺へ仕事がくる手筈だと言うのに……。警部補殿が真面目に仕事をするものだから、近頃はこうして、些かネタ探しに気を使うハメになっ
てしまった……」
「貴方ほんとに最低ですね」
感傷に浸ってしまった自分が憎らしい。
僕はつい、車の扉を乱暴に閉めてしまった。静かな夜空に鈍い音が木霊している。
ニシナさんが深いため息と共に歩き出した。
「必要な書類書いて、荷物受け取ったら、お前はとっとと帰れよ」
「言われなくとも原稿さえ戻れば帰ります」
「ヒカル君はどうする……? 俺の家で良ければ泊まるか……?」
「それは悪いです……。今日は散々お世話になったのに……」
ニシナさんの隣を歩きながら、僕は苦笑する。僕自身が言うのも難だが、ニシナさんは少し僕に甘い。今日だって、僕とは顔見知りでない別の刑事に、事件の担当を変わらなければならなかったんじゃないだろうか。
「明日の朝には彼がこっちに来るんだろう。なら、それまでウチで休んでいると良い。家内がいなくなってからは、些か散らかっているんだが……」
「でもニシナさんはこの後にも、仕事が残っているんでしょう?」
「一度、君を家に置いてくるだけだ。今日の夜勤の面子なら、すぐ戻ってくればそう文句は言われんだろう……」
大きな手の平が僕の肩を叩く。甘え過ぎては悪いと思う。けれど、この時間はどこの宿もやっていないし。生憎、僕の手持ちもそう豊かではなかった。
「すいません。では、お世話になります」
頭を下げて、僕はお礼を言った。
感謝することが多すぎて、頭が上がらない。
「そもそもガサツな警部補殿と、慎ましい元奥方はどうして結婚できたんです」
「ここで一泊していっても構わんぞトバリ」
後ろから茶々を入れてきたトバリさんに、ニシナさんは手錠を取り出した。
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数日の後。僕はあの日、取材先で土産に迷い、汽車を逃し、約束の日時に来なかった兄の会社で手伝いをしていた。そもそも、この我が道を行く兄が無理に予定を組んで地方へ取材に、それも1人で行ったりしなければ、僕はあんな事件に巻き込まれなかった訳だ。手伝いにきて欲しいと実家に手紙をやったのも、約束の日時を決めたのも兄だ。
僕は帰ってきた兄をみっちり叱った。予定を組む時は余裕をもって。優柔不断で人様に迷惑をかけないように。仮にも一企業の上に立っているのだから、時間は厳守すること。
だと言うのに。
「ちょっと! 兄さん! 勝手に人様の家に上がったら駄目でしょう!」
原稿を取りに行くと言うからついて来た僕を、見ず知らずの人の家に上げようとする。
周囲には一軒家が密集していた。やけにひっそりと佇むその家の中は暗く、静まり返っている。夕暮れ時のせいか、少し薄気味悪い。
兄さんは僕に靴を脱ぐよう促す。
「大丈夫、大丈夫。彼は呼び鈴に出ないから、こうしないと。玄関だって開いてたろう」
「いや……でも……」
「おーい。原稿を取り立てにきたよー」
「兄さん!」
足音も喧しく、兄さんは薄暗い廊下を進んでいった。そうして、僕が慌てて脱いだ靴を揃えている間に、奥の部屋の襖を開けてしまう。
ニシナさんは兄さんと定期的に会っていると言っていたが、この自由人をどう取り扱っているのだろうか……。
僕が恐る恐る奥へ進んで行くと不意に、聞き覚えのある声が耳に入ってきた。もちろん、兄さんの声とは別人だ。聞き覚えがあるのだけど、どこで聞いたのだっけ。
「終わってないじゃないですかー。締め切りは守って下さいよー」
「うるさい……。締め切りは明日だろう……」
「それで。明日きたら9割しか終わってないんだろう?」
「君がまた馬鹿みたいな論説を俺に書かせるからだ……。俺は民族伝承に興味もないし川辺で干上がっていた生き物が、河童だろうが宇宙人だろうがどうでも良いんだよ……」
「よく解剖学とか生物学の訳の分からない本。君も読んでるじゃないか。面白いよ、都市伝説とか、怪異伝説とか。君が普段、書いているような猟奇殺人や集団心理の記事なんかより、よっぽど平和だし」
「いつもより多くすると言う話しだから乗ってやったが、畑違いにも程があるだろ……。君の趣味に付き合わせるな……」
「まあまあ、そう言わずに……。受けた以上は書き終えてくれ給え。もう少しなら俺は一度、職場に戻るから。代わりに弟を置いていくよ」
「どうせ君と同じく、弟もロクなもんじゃないんだろう……」
僕が部屋の入口に立つ。兄さんへ苛立ち気に言葉を返していたその男は、僕を見上げて黙り込んだ。僕も、まず自分の目を疑って反応が出来なかった。
伸ばしたままの長い前髪。そこから覗く切れ長な目。口元に無精髭。指にはペンだこ。そして、見上げる程の高身長に、秋になっても着流し一枚の風貌。
「……トバリさんよりかはよっぽど人間としてマシだと思ってます」
「……そのようだ」
トバリさんも、僕も。無表情でそう返し合った。
顔見知りと分かって喜んでいたのは、兄さんだけだ。兄さんは「じゃあ任せたよー」と、だけ。そう残して、嵐の様に立ち去った。
僕とトバリさんはしばしそのまま。無言で向かい合う。遠くでは、寺の鐘が鳴っていた。
「……締め切りを伸ばしてくれないか。ヒカル君」
「嫌です」
僕は一言返して、部屋の隅に腰を下ろした。
窓の外は日が落ちかけて、遠くの山裾にはうっすらと夜の帳が下りている。風もすっかり秋の匂いを運んで、僅かに開いていた窓から幕を揺らしていた。
机の前で頭を抱えている背中はなかなか動かない。トバリさんが書き終えるまで、僕もそこを動かない。
そうして、またすぐに夜がやってきた。