04.夜半
その場の全員が、彼女へ視線を向けていた。ハルマさんは目を瞬いている。口を開くまでに少し間が空いたのは、状況を呑み込むのに時間がかかったんだろう。
彼女は腕を組むとトバリさんを睨みつけた。
「どうして私なのかしら」
「俺の考えでは、君しかいないからだ」
「私はずっと、この階にいたんです。貴方、聞いていたでしょう」
彼女は呆れて笑っている。僕もサッパリだ。
ハルマさんが1階の水回りや大部屋で掃除を続けていたことは、ゲンさんも証明している。ゲンさんが手洗いに立った間に2階に上がったって、あの痛んだ階段では、手洗い場まで足音が聞こえたっておかしくない。ましてや、人を一人殺して下りてくるなんて。ゲンさんが彼女を庇っているとでも言うのだろうか……?
僕だけでなくこの場にいる全員が、トバリさんの発言に開いた口が塞がらないだろう。そう思っていたのだが、僕の隣でぱらぱらと紙をめくる音が聞こえてきた。ニシナさんだけは、再びペンを取り、トバリさんの話しに耳を傾けている。トバリさんはものぐさに頬杖をつく腕を変えた。
「ゲンさんが座っているそこの帳場から、その部屋の中まで全ては見渡せないな。今は衝立が部屋の奥に置かれているが、あれが手前にくれば、なおさらだ」
「だから何……? 2階へ上がるには、そこの階段しかないんですよ。私が窓から外へ出て、壁を登ったとでも?」
「そんな苦労は必要なかったろう? 単純な事実だよ。全くもって」
トバリさんはため息をついた。そのため息は心底、落胆したと言わんばかりだ。
「そうとも。特に何の面白みもない殺人事件だ」
「面白みなんて、不謹慎じゃあありませんか」
「失敬。別に俺は、悪気がある訳ではないよ、ヒカル君」
人が死んでいるのに。面白いも何もない。僕は彼が死体を見つけた時の反応を思い返して、つい口を挟んだ。まさか、トバリさんは本当にこの状況を楽しんでいるんだろうか。
いぶかしむ僕を軽くいなしたトバリさんは、視線をハルマさんへ戻した。言うまでもなく、犯人扱いを受けた彼女は眉を吊り上げて怒っている。
「まあ、とりあえず俺の話しを一通り聞いて下さい。皆さんのご質問は、その後に受け付けますよ」
トバリさんは顎に手を当て、口元を覆う。指の間から見える口端が僅かに持ち上がった。
「ご主人と女将さんから、今日は飯屋に付きっ切りだと連絡があったとなれば、自然、宿屋の仕切りは足の不自由なゲンさんになる。そうなれば、客の行動を最も把握しやすい立場にいるのは、帳場に控えるゲンさん、そして傍らの彼女でしょう。客がゲンさんに夕食の準備を頼めば、宿へ戻って来る大まかな時間帯にもアタリがつけられます。常連となれば尚更だ。
俺の場合。まあ、月に2、3ですかね。何度かここへ来て、大抵は今回と同じ予定で泊まっています。部屋に引きこもり原稿を書き、夕食時は外へ出て行き、再び部屋に引きこもる。
そして今日は偶然か、はたまた彼女が謀っていたのか……。行動が規則的な俺に加え、ミハラさんもやってきた。キクから聞かされていた愚痴の通りなら、ミハラさんは毎度、キクに酔い潰されるまで飲んで、後は部屋で寝ています。キクも彼が潰れてしまえば、酔い覚ましと化粧を直しに、上の空き部屋へ上がる。
コガさんは近場の大学生でしたね。この時期は試験期間のはずです。留年している貴方は色に耽っている場合ではない。実際、先ほど厠に出たくらいだとおっしゃった。今の時期なら、彼の存在は支障ないと判断したのでしょう」
1人1人を順々に視線で示して。最後にトバリさんは、僕を見た。
「ところが。午後になってヒカル君が、俺の隣部屋に泊まることになってしまった。だが幸か不幸か。ヒカル君は荷物を預け、夕飯は外で済ませると。ゲンさんに言って、出て行ったそうですね。
おそらく彼女は、『自分が犯人でなければ』良かったのでしょう。だから現場に特定の人物を陥れる物証も残していかなかった。偽装が雑なのもそのため、ですかね。彼女は最終的に、自分以外の人間が、犯人として捕まらなくても構わなかった。目的はあくまで、キクを殺した後、刑罰から逃れること。俺やヒカル君に罪をなすり付けるのは、保険、おまけ程度だったのでしょう。
貴女はヒカル君と俺が部屋を空けた後、2階の部屋で仕事を怠けていたキクを殺し、ヒカル君の部屋に吊り、仕事へ戻った。後は、ヒカル君が戻ってきて、死体を見つけて貰えば良いだけです。俺かヒカル君が犯人だと確定してしまえば、それで良し。そうでなくても、警察が容疑者を絞り直す間に、姿を眩ます時間は稼げる、と。
例え俺やヒカル君が泊まっていなかったとしても、ゲンさんの証言さえあれば容疑者から外される。現場の状況から自殺と仮定されてしまえば、監視の目はまず、つかないでしょう。
しかし、現場の担当が、ヒカル君の顔なじみであり、仕事熱心な警部補殿だったこと。ハメるはずの俺が自殺でなく殺人だ、なんだのと。この場で言いだしたのが誤算にして致命的な事態になってしまった。おかげで、彼女はまだこの場に引き留められている」
一本調子にそこまで話したトバリさんは言葉を切った。まだ肝心な部分を話していないのに。
「それで、ハルマがどうやって、誰にも知られず2階に上がったと言うんです」
宿屋の主であるクゼさんが、全員を代弁したかの様に早口で先を急かした。
トバリさんはやや怪訝そうに彼を一瞥したが、改めてハルマさんを見上げる。
「言ったでしょう。至極単純で、何の面白みもない。読者をあっと言わせる仕掛けも、頭を捻って周到に用意された計画でもありません。天才的な名探偵も、希代の推理小説家も必要ない。彼女は俺たちが期待しているような、完全犯罪なんて大それたことをしようとしている訳ではなかったんですから。ただ自身の目的を達成し、姿をくらませるまでに必要な時間稼ぎ。自分が捕まりさえしなければ良い。感情的ではあるが、現実的でもある」
くつろいでいたトバリさんは重い腰を上げる。無言でニシナさんへ差し出された彼の手を何かと思った。ニシナさんは顔をしかめている。それでも何も言わず、彼へ使い捨ての、ビニール製の手袋を渡した。
ニシナさんから借りた手袋を、トバリさんは慣れた手つきではめる。彼は相変わらず気だるげな足取りで、階段横。ハルマさんが掃除していたと言う大部屋へ向かう。
中央に曇りガラスが嵌められた障子を開ければ、畳が敷かれた部屋からイグサの匂いが漂ってきた。そして、奥に在った衝立をガラス障子の手前へと立てる。
その衝立は、僕の胸辺りまでの高さがあった。彼の言った通り、帳場に座りっきりのゲンさんからは、部屋の中は見えそうにない。背の低い僕は、冷たい板張りから踵を少し浮かせた。
トバリさんは更に、部屋の奥にあった押入れを開ける。そこには大部屋のせいか、寝具がいっぱいに詰まっていた。彼はそれらを全て自分の隣へと引っ張り出す。
流石に、ここまでくれば僕でも予想がついてしまう。けれども、それでは彼が言う様に。余りにも単純で、安直過ぎやしないだろうか。
「あの……。トバリさん、まさかとは思いますが……」
「その、まさかだ」
恐る恐る、僕は口を挟む。トバリさんは抑揚のない声を返した。彼は押入れの中へ上体を入れ、天井へと手を伸ばす。
がたん、と。冷え切った帳場に、予想通りの音が響いた。
「今は上に櫃が載せてあるので、俺の力ではこれ以上、動きません。ですが、釘が抜けているのは明らかです」
呆然とする僕や周りをよそに、トバリさんは押入れに寄り掛かったまま天井を見上げていた。
「この上の物置は、ヒカル君の部屋の真向かい。普段は滅多に使われていないそうですね。埃も十分に積もっていた。この板張りの周囲以外、に限りますが。
警部補殿に頼まれて物置を使う際、櫃をこの上へ動かしたのでしょう。持ち上げずに動かしたおかげで、片側にだけ埃が積もっていました。ですが、動かす必要もなかったであろう、奥の櫃にまでその形跡がありました。さて、何故でしょうね……?
犯行時には、あらかじめ。この上へは倒れても音が立たない竹籠の様な軽い物を置き、そこから2階に上がり、彼女の元へ向かう。そこの軋みが酷い階段を使わずに上がるには、ここしかありません。下りる際も同様です。
何にせよ、この抜ける板が見つかった以上。ヒカル君と俺が外出していた3時間前後の間。彼女にも犯行は可能です。犯人とまではいかなくとも、容疑者の1人と、考えて構わないでしょう」
トバリさんはこちらに体を向けると、首を傾げる。
「ここまでで、ご質問は」
と、言われたものの。みんな口を開かない。ニシナさんだけが無言でメモを取っている。
要は、階段を使わずに2階へ上がれる抜け穴があった。それは僕でも理解はできる。本当に単純な事実だ。
僕はトバリさんが言ったことを、頭で反芻して整理していく。僕とトバリさんが2人して部屋を空けたのが、4時から7時までの間。彼女はその間。2階への抜け穴があるその部屋にいた。3時間もあれば確かに、人1人を殺すには十分なのかもしれない。
僕はハルマさんを盗み見る。彼女は別段、腕を組み直すくらいで。トバリさんの話しを聞いていても、変わった様子は見られない。
もし、この人がキクさんを殺してこの場に立っているとしたら。どうして、こんなに落ち着いていられるのだろう。
白熱灯に照らされた死体袋が、僕の脳裏を過る。トバリさんが話しを進めるに連れ、僕は彼女へ薄ら寒いものを覚えた。
「では、本題に。彼女がキクを殺した証拠です」
トバリさんは押入れから出て、帳場へ戻って来た。彼は視線を手元へ落として、用済みになったビニール手袋を外す。
「先ほど。2階から下りてきた警部補殿に、貴女は『なんであの人は、キクは絞め殺された、なんて言ったんです』と、聞いていた」
「それが何か」
「俺は、キクが絞め殺された。とは言っていない」
そう、だったろうか……?
残念ながら、僕は自分自身の事で精一杯だったから。聞き流してしまっていて覚えていなかった。けれども、ハルマさんはここにきて、トバリさんから初めて。ほんの一瞬だったけど、目をそらした気がした。
一方のトバリさんは外したビニール手袋を片手間に弄んでいる。
「警部補殿がこの場に全員を集める前。俺は貴方がたに、キクは殺された。としか知らせていませんでした。窒息死だとすら言ってない。けれど、貴女はあの時『絞め殺されたのか』と聞いていた。不思議ですね」
「クゼさんが2階の様子を、ここで話していたからです。彼女は天井から首を吊っていたと。そう言っていました。そこから首を絞められて死んだと思うことは、不思議ですか?」
名前を挙げられたクゼさんは、輪の隅で肩身が狭そうにぎこちなく頷く。
あの現場を見ていたのは、僕とトバリさんと。トバリさんが呼んだ、宿屋の主であるクゼさんだけだった。彼はトバリさんに従い、警察へと通報するためすぐに1階へ下りた訳だが。クゼさんも僕同様、首を吊られていたキクさんを見て顔を真っ青にしていた。普通は、ああなるんじゃないだろうか。
トバリさんへ問いかけるハルマさんの声は穏やかで、ミハラさんに責められていた僕とも大違いだ。それがすごいとも思うし、恐ろしくもあった。
「まあ、それもそうですね。証拠になんてならない、些末な事だ。些末ついでに。俺が話し始めてから、貴女は何度も腕を組み直していた。無意識の内に自身の身を守ろうとしている様に見える。ヒカル君の話しをする際、彼を見ずに時計を見ていたのは、罪悪感が全く無い訳でもなかったから、とも」
隣に来たトバリさんは何故か僕に手袋を押し付けてくる。視線で拒絶しても押し付けてくるので仕方なしに受け取る。これも嫌がらせのひとつなのか、ただの手持ち無沙汰なのかは分からない。
「ゲンさんにおひとつ、伺いたいことが」
「はあ。何でしょうか」
不意に声をかけられた彼は、細い目を瞬いてトバリさんを見上げた。
「俺が宿を出て行った後。彼女はこの部屋から出て、何度か貴方に声をかけませんでしたか」
「……ええ。はい。今夜、お出しする夕餉の確認や。私にお茶を注いでくれたりと……。私もそれで、彼女がそこにずっといると思っておりましたから……」
「部屋に籠りきりでは怪しまれると思い、意図的に貴方へ声をかけていたのでしょう。2階へ上がっている間に呼ばれては、些か面倒ですから」
だとすれば。彼女はキクさんを殺した後。何食わぬ顔で、ゲンさんと普段通りの会話をしていたのか。
僕はす、と肝が冷えた。
「それは、彼女が犯人である証拠に繋がるのか」
それまで黙っていたニシナさんが口を開く。ハルマさんを横目で見据える警部に、トバリさんは明らかな笑みを浮かべている。
「先ほど、死斑とやらの話しをしたのを覚えていますか。死後変化のひとつです。警部補殿は、どの程度までご存じですかね」
「俺か……? 俺は鑑識ほどの知識はないが、基本くらいは心得ているつもりだ。どうして俺に聞く」
「いえ。警部補殿が承知なのでしたら、一から十まで、俺がそう詳しく話す必要もないでしょう」
トバリさんとニシナさんの視線が交わる。2階にいた時は視線すら合わせていなかったけれど、こればかりは真面目な話しなのか、キチンと目を合わせていた。
「死斑は血液の循環が止まることで、血液が沈殿していく現象です。よって、死体の低い位置へ現れます。ですが、圧迫されている面。例えば、死体を仰向けに寝かせていたとしましょう。すると、死斑は背面に現れます。ですが、床に接して圧迫されている部分には見られにくい。今回の首吊りの状況なら、死斑は下半身に現れることになる」
「ああ」
ニシナさんが相槌をうつ。知識がサッパリな僕は想像力を働かせるしかなかった。
キクさんの死体は首を吊られていたけれど、膝から下は畳についていた。なら、死斑とやらは脚の方へ現れるけれど、畳に接している膝には見られにくい。そう言う事でいいんだろうか?
「死斑は一定時間で現れると言いましたがその後。再度、死体を動かした場合。この死斑も移動します。ただ完全に移動するだけでなく、始めについた死斑も、そこへ残ります。また、死後間もなくは指圧などを加えると肌の色は元に戻りますが、長時間が経過していると元に戻りません」
唐突に、トバリさんがニシナさんの手首を掴む。それに一番驚いたのはニシナさんだった。彼は何事かと目を丸くするが、トバリさんは構わずニシナさんの手首を掴んで僕らに持ち上げてみせる。
「こうして、圧迫している部分に痕がつきますね。生きている間は血液が常に巡り続けているので、俺が手を放せばこの変色は戻りますが、死後はこれがなくなる訳です」
「そう強く掴まれると俺でも痛いんだがな……!」
「服の上からでも同様です。しばらく放置していた死体を、自殺に見せかけるために移動させ、体位を変えたとしましょう。変わった体位に応じて死斑は動き、それまでに現れた死斑も残ります。運ぶ際、服の上から足や腕を引っ張ったり、担ぐなどした場合。犯人が掴んだ手の痕跡が残ります。他にも多々有りますが、解剖医はこれらを元に詳細な死亡時刻や、犯人がその場で犯行に及んだかを判断する」
「もう良い! お前の言いたいことは分かったから放さんか!」
「ええ。ご協力ありがとうございました警部補殿」
ニシナさんに怒鳴られて、トバリさんはあっさり彼の手首を放す。
2人には悪いのだけど。何だかんだ仲が良いように見えるのだが、これは僕の気のせいなのだろうか。
トバリさんに掴まれていた手首を払い、ニシナさんは悪態をついている。随分と強く掴まれていたらしく、手首にはトバリさんの手の痕がくっきり残っていた。
僕は彼が言わんとしている事を理解しようと、眉間を寄せる。
「ええっと……。つまり、キクさんの死体には、ハルマさんが彼女の死体を動かした痕跡が残っている、と言うことでしょうか……?」
「そう言う事だ。彼女がキクを実際に殺したのは、階段から見て俺の部屋の右手。キクが化粧直しや仮眠に使っていた、ヒカル君の部屋とは反対の客室だと考えている。
キクをその部屋で殺し、ゲンさんへ声をかけるために一度は1階へと下りてくる。この間、死体の体位に従い、始めの死斑が現れる。俺が先ほど見た限りでは、仰向けだと思われます。次に、
自分を容疑者からなるべく外すために、ヒカル君の部屋へ死体を吊るします。
俺でなくヒカル君を選んだのは、彼の人の好さと、宿へ戻って来る時間が、彼の方が遅いと判断したからでしょう。
彼女はキクの死体をヒカル君の部屋に移す際。または梁に吊るす際に、彼女の体に触れない訳にはいきません。今は衣服で見えなくとも、足首や手首。背中や肩。それらに彼女の手形や、指の痕が残っている可能性は、少なくない。
死斑の濃さで死体の体位を変えた時刻も見当がつけられます。この体位を変えた時間の間隔と、彼女がゲンさんに声をかけた時間が合えば。彼女が犯人だと言う確信も増すでしょう」
「はぁ……。なるほど……」
そんなことが出来るのか。僕は感心して頷いた。
けれども、しかし。ゲンさんがお待ち下さい、と遠慮がちに挙手した。視線が集まり、彼は身を縮める。
「声をかけられたことは確かです……。しかし、申し訳ありません。私が覚えている時間はとても大まかです……。それに、手の痕が残っていたとしても、私には、ハルマと、ヒカル様の手の大きさは、そう変わらないように思えますが……」
言われて。僕は思わず自分の両手を開いた。ゲンさんの言う通り、ハルマさんの手を見ると、そう大差があるようにも見えず。僕の口元が堪らず引きつる。
「そうですか。でしたら、仕方ありませんね。掌紋が綺麗に残っていれば申し分のない証拠となり得ますが、着衣の上からでは望み薄。手の大きさだけで犯人を確実に特定するまでには至らない」
「え、それじゃあ……」
「別に俺はコレひとつで、彼女をこの殺人の犯人に仕立て上げるつもりはありません。判断材料のひとつとして使うべきだと、提言はさせて戴きますがね」
口を開こうとしたが、トバリさんに遮られる。黙っていろと言わんばかりの視線を向けられ、僕は喉まで出かかっていた言葉を呑み込んだ。
再び黙り込んでいたハルマさんに向き直ったトバリさんは、不意に彼女を指さす。ハルマさんは怪訝そうに彼の指先を見つめている。
「先も、貴女が腕を組み直す仕草を指摘しましたが。もうひとつ。貴女が無意識にやっていることがある。それが些か、俺は気になっていた」
「……何でしょう」
空気がひどく渇いている気がした。入口の硝子障子が風に震えてカタカタと音を立てている。
「腕を組み直す頻度ではないが、何度かそのタスキを直していますね。それは貴女が、凶器を早い所、処分してしまいたいからではないか、と。俺は考えているのですが、さて、どうでしょう」
これは流石に。開いた口が塞がらなかった。
凶器という事は。彼女は今、袂をからげているあのタスキで、キクさんを殺した。と、いう事で。それを今の今まで身に着けて、僕らの前に立っていた事になる。
僕の中で凶器と呼ばれるものは、推理小説の中で犯人がいち早く捨てるものだと思っていたし。捨てはしないでも、隠すもの。そういうモノではないのだろうか。
「この場で殺人だと判明し捜査が始まってしまった場合。警察はまず凶器を探します。下手にごみにでも出して回収されたそれが、自分の物だと知られてしまえば怪しまれてしまう。それなら、他の人間に目が向いている間は自身の側に置いて、警察の目が緩くなった時点で宿以外の場所で処分した方が良い。
抜け穴が見つからない限り、貴女は容疑者から外されますから。仮に着衣や荷物の引き渡しを求められたとしても、これと言った物証や証言を得られていない警察に、強要できるだけの命令権はありませんしね」
「彼女のタスキが凶器だと、どうして断言できる」
「キクの首に絞めた痕。その幅とも彼女のタスキは一致する。女将も同じ物をしていますが、彼女のタスキには、恐らく女将のタスキにはないものがあるはずだ」
ハルマさんはここにきても無言だった。視線もトバリさんを見据えたまま。まるで人形の様に。瞬きと呼吸だけを繰り返す。
対して、ニシナさんに問われるトバリさんは口元の笑みを深める。薄ら寒い、あの不気味な笑みだ。彼は再び、自身の首を手で締める動作をして見せた。
「何度も話しが行き来して申し訳ありませんが。キクを自殺でないと判断した理由に、絞めた帯が一致していない事と。もうひとつ提示しましたね」
「……外そうとして、引っかいた痕か」
僕の背後から。ニシナさんが頷いた気配がする。
トバリさんは首を絞める動作を止めて、その指で顎を撫でた。
「爪紅、と言うんですか。爪に塗るあれは。まあ、呼び方はさておき、染料はなかなか落ちるも
のではないと聞いていますから、擦れたくらいであれは付着しない。
ですが血液は違います。彼女は血が滲むほど、自身の首を引っかいています。その爪で、そのタスキの上も引っかいた事でしょう。なら、貴女のそのタスキには彼女の肌に触れた痕跡だけでなく、彼女の血液も付着しているはずだ。おしぼりや水で表面上は拭えたように見えても、血液検査薬は反応します」
トバリさんは目を細め、実にわざとらしく、首を傾げた。
「今ここで鑑識を呼んで血液反応が出れば、十分に貴女も拘留できます。もちろん、ここで拒否なされても構いませんが、残念ながらニシナ警部補殿は仕事熱心ですので、監視をつけるでしょう。貴女に逃げる暇を与えてはくれません。俺とヒカル君の無実は、時間さえあれば証明されます。貴女は長引けば長引くほど不利になる。裁判で上手くやりたいなら、ここで考えを改めるべきではありませんか」
沈黙。
居心地の悪い静けさだった。誰も、何も言わずにハルマさんを見て、黙り込んでいる。冷たい風が相変わらず足元を撫でていっては、障子を震わせる。外にいた野次馬も、いつの間にかいなくなっていた。真っ暗な通りで、この宿だけが取り残されたように明るい。
「同行して貰っても構わないか」
気まずい口火を切ったのはニシナさんだった。
冷え切った板張りが軋む。ハルマさんは何も言わずに背中を向けて、草履の鼻緒に指を引っかけた。ニシナさんに連れられて、彼女は表に止められていた車へと歩いて行く。
彼女は宿の暖簾をくぐる瞬間。ほんの少し、顔をこちらに向けた。その視線の先は、トバリさんだ。彼は口元に笑みを湛えたまま、彼女へ軽く手を振った。その時のハルマさんの表情に、僕は息を呑み込む。視線が合った訳でもないのに、足が、全身が、凍り付くようだった。
ハルマさんの姿は、暖簾の向こうへすぐに消える。ゲンさんの大きなため息が聞こえた。それを皮切りに、女将やミハラさんたちが口々に互いへ何かをまくしたてている。
僕はと言えば。帳場から消え去った緊張感に代わってやってきた安堵に、どっと襲われた。両足の力が抜けて、情けないと思いながらも、その場に座り込む。床に接した部分がとても冷たい。でも、立てない。僕は大きく息を吸って、長く、長く。肺が空になるまで息を吐いた。
「これで俺も君も。面倒な尋問を受けずに済んだな」
トバリさんが後ろから、僕を見下ろしてそんな事を言った。彼は相変わらず、腹の読めない笑
みを浮かべている。
そうですね。と適当な相槌を打って。僕はしばし、深呼吸を繰り返した。