03.宵
「それで、あれと値段で揉めてやったんだろう!」
「待ってください! なんでそうなるんですか!」
だから黙っていたのに!
決めつけた様に僕を責めるミハラさんに、僕は予想通りと言えば予想通りの返事を返した。視界の端でニシナさんが帳場にもたれ掛かり、顔を覆っているのが嫌でも目に入る。
「キクは若い、綺麗なツラが好みだからな! 無理強いを迫られて、勢いで殺したんじゃないのか?」
「そんな根拠もない作り話で、僕を殺人犯にしないで下さい! 僕はちゃんと、この後は用事があるし、夕飯も外で済ませると言ってお断りしたんですから!」
「ほれ見ろ! 誘われたんじゃないか! やっとらんなら、なんで隠してたんだ!」
「彼女とはそれだけだったからです! 僕はキクさんを部屋にだって入れていません!そ、その……僕は、夕食のお話しだと、思っていましたし……」
僕は悪くない。本当のことしか言ってない。悪いことなんてしてない。なのに、どうにも焦ってしまう。周囲の視線が僕を責めるから。僕だと決めつけている。それは違うと言ったって、僕には反論できる材料がない。やっていないと言う、証拠がない。
僕は1時頃、ゲンさんに誘われるがまま帳場で名前を書いて、ハルマさんに簡単な宿の案内をされ、2階へは自分で荷物を持って上がった。その時、階段の軋む音で僕の気配に気づいたのか、キクさんに部屋の戸を叩かれる。疎い僕はキクさんのお誘いを、単なる夕食の話しだと思って、丁重にお断りした。
二言、三言のやり取りは、会話と言える会話でもないはず。だから、ニシナさんに言う必要もないだろうと、僕は状況を楽観視していた。いや、楽観視し過ぎていた。
ミハラさんの浮き出た両目が目の前に迫ってきて、僕は堪らず息を呑む。なんだか妙に息苦しくて、喉が渇く。
「上京してきたばかりで浮かれてたんじゃないのかい? キクに誘われて、満更でもなかったんだろう? だが、あれに値段をピンハネでもされてカッなった。そうなんだろう? え?」
「僕はそんな……!」
もうこの人に何を言っても駄目だ。話しにならない。正直に、真面目に取り合う程。空回りする。でも、何か言わなきゃ。言わないと、僕は犯人扱いされたまま。ここまで庇ってくれていたニシナさんにも迷惑がかかってしまう。
頭の中で、何を話すべきなのか。何を話してはいけないのか。ああでもない、こうでもないと。自分との不毛なやり取りだけが続く。ミハラさんがまた何か言っている気もするけど、それもよく耳に入ってこない。握った両手が手汗で気持ち悪い。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。
「いい歳をした大人が、大人げないですよ」
焦燥が増していくだけだった僕を、気だるげな声が現実へ引き戻す。ミハラさんの苛立ちが、僕からその声の主へと矛先を変えた。
我に返って顔を上げた僕は視線が重なる。彼は自身へ詰め寄るミハラさんには構いもしない。汗を滲ませる僕を見て、大袈裟に息をついている。
「ヒカル君も、その歳なら嘘も覚えなさい。誰もかれもが、そこの警部補殿みたいに、正義なんてものを信じてる訳じゃあない」
彼は切れ長な目を細めて口元を緩める。茫然としている僕に、彼はいくらか、それまでよりも穏やかな声で続けた。
「君みたいな馬鹿正直者。俺は嫌いじゃあないがね」
「……はぁ」
生返事を返すしかない、僕。
相変わらず、この人は僕を褒めているのか。けなしているのか。それとも彼なりのお世辞のつもりなのか。やっぱり、よく分からない。
柱の時計が鳴った。夜の帳はもう随分と深く、深く。辺りを包んでいる。月の細い今夜は、灯り無しでは辺りが見えないだろう。
時計が鳴り止むのを待って、トバリさんはさて。と、切り出した。
「俺も余り悠長にはしていられない。ヒカル君で遊ぶのもこれくらいにしておこう」
訂正しよう。
この人は僕が知る限り、最低の人間だと。
「冗談だ、ヒカル君。なに、君も怒るんじゃないか」
「ええ。生まれて初めて僕は他人に殺意と言うものを覚えました」
最ッ低だ! この人は最低だ。ニシナさんの言う通りのクズに違いない!
人が追い詰められている姿を内心、指さして笑う、そのテのクズだ!
わなわなと拳を震わせている僕を、ニシナさんの声だけが宥めてくれる。
「ヒカル君。君の気持ちは俺も痛いほど分かるんだが、この場でその発言は好ましくない」
「でもニシナさん! この人は今、僕で遊ぶのはこれくらいに、とか……!」
「まあまあまあ……! 落ち着くんだヒカル君……。トバリ、とっとと謝らんか」
「余りにも君が絵に描いたような好青年なものだから、冷やかしてやろうと思った次第だ」
「僕に何か恨みでもあるんですか貴方!」
「強いて言うなら、俺は君のように顔も性格も両立させている人間が嫌いだ」
「ほんっと、最低ですね貴方は!」
「どうも。褒め言葉として受け取ろう」
なんだこの人! なんでこの状況で自信満々に僕を煽ってるんだ! 訳が分からない!
ニシナさんに腕を掴まれてなかったら殴りに行っていたかもしれない。いや、あの涼しい顔に一発入れないと、僕の気は収まらないだろう。
人を傷つけてはいけないよ。と、今はもう亡き父の教えが耳元で囁くのだが、僕にも沸点と言うものは存在する。
下手をすれば、僕は殺人犯にされてしまうのだ……!
ぎりぎりと歯ぎしりする僕をしり目に、トバリさんはにやにやと、実に不誠実な笑みを浮かべていた。
「そんな真面目で、素敵な好青年なヒカル君に。君が最低だと罵る男から、救いの手を差し伸べようと思うのだが、さて、どうする」
「そんな手を掴むくらいなら僕は谷底に落ちる方を選びますよ!」
「そうかそうか。ならば俺が今日、今ここで、盛大に君へ恩を売ってやろう」
「何桁積まれようとそんな恩は買いません!」
「ヒカル君……。ここは我慢しなさい……」
「ニシナさんはこの人の押し売りを買えとおっしゃるんですか……!」
「いや、すまん……。俺ならまず買わんが……」
ニシナさんがさっきから僕と目を合わせようとしない。絶対にいけないやつだ。そうに決まってる。どんな高利貸しなんだか想像もつかない。
憤る僕をさし置いて、トバリさんは一人その場に腰を下ろした。睨みつける僕を眺めながら、あぐらをかいた膝の上に頬杖をつき、これまでとは一転して饒舌に話し始める。
「ではまず、結論から言いましょう。ヒカル君に犯行は無理です。死体発見時の反応、顔色や発汗を見ても、まず演技ではなかった。加えて、キクの身長は160前後。ヒカル君は細身な上に、身長はあっても165。いくらキクがミハラさんに付き合い、酒で酔っていたとは言え。彼女もヒカル君とは初対面です。警戒心が無い訳じゃない。そんな彼女を悲鳴を上げる前に押さえ付け、首を絞めるには、ヒカル君の体格では些か苦労する。あの雑な偽造工作も考慮すれば、1時間以内にこの宿を出て行くのは難しい。何より、そこまで隣部屋で事が起きていれば、俺が気付くでしょうね。特に、ミハラさんがおっしゃったような。感情的、突発的行為なら尚更です。彼女の誘いをヒカル君が断っていた会話の内容も覚えています。必要だと言うのなら、そちらも全て証言しましょう。期待を胸に上京してきた若者に冤罪を擦り付ける程、俺も薄情ではありませんからね」
始めから、トバリさんが全て話してくれていれば。僕はこんな思いを微塵もせずに済んだのではなかろうか。
言いたいことは山ほどあるけれど。ニシナさんが僕の隣で安堵の息をつくのが聞こえた。
でも、疑いが薄れたのに。僕自身が手放しに喜べないのは何故か。嬉しいどころか怒りが募る。僕のしかめっ面は直らない。
気付けば辺りは静まり返っていた。詰め寄っていたミハラさんも、何か言いたそうにしているけど、トバリさんを見下ろして黙っている。言いたい事は多分。ミハラさんも僕も、その他の面々も一緒だ。
「他にも理由はありますが、ヒカル君が犯人である可能性については、この辺で構わないでしょう。現時点で何を言おうと、俺の疑いを消さねば、皆さんも納得しませんでしょうからね」
察したように、トバリさんはやれやれと肩を落とした。
「俺が犯人でない証拠ですが。ヒカル君と同じくありません」
「なら、どうするんだ」
「無い物は無いので。どうしようもありません」
え、と。思わず声が漏れた。隣でニシナさんの同じような声がした。だって、それじゃあ、彼が犯人と言う結論に至ってしまう。何せ、僕の無実はたった今、トバリさんが証言してくれたが、トバリさんの無実を証明できる人はいないのだから。
トバリさんは淡々と自らの行動を振り返り、僕らに聞かせる。
「俺は夕餉と、私用があって4時ごろにここを出ました。戻って来たのは、皆さんが仰る通り、7時前後です。そこから8時まで、1人で原稿を書いていたので、証人もいません。俺はヒカル君と違ってキクとは体格差がありますから。要領と手際が良ければ、隣の空き部屋で休んでいた彼女を殺して、ヒカル君の部屋に吊るすことも不可能な話ではありません。キクとも顔見知りです。ヒカル君よりよほど容疑者として有力でしょう。
まあ、俺がヒカル君を犯人に仕立て上げるなら。ヒカル君の手荷物のひとつを凶器に使って、血まみれにしておくぐらいはしますが」
本当に。この人は僕に何の恨みがあるのか。
「なので、俺がキクを殺していない証拠でなく。彼女がキクを殺した証拠をあげましょう。そうすれば俺もヒカル君も、必然的に無実だ」
彼女、と。確かに彼は言った。
そして、トバリさんの視線の先にいたのは、帳場の傍らに立つ。ハルマさんだった。