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02.暗がり


 階段は体重をかけるとひどく軋む。まるで重みに耐えきれず、悲鳴を上げているみたいだ。

 玄関の外はもう夜中だと言うのに、警察の人と、近所の野次馬で騒がしい。開けっ放しの玄関から入って来る夜風が、僕らの足元を冷たく撫でていく。

帳場の前には、この宿で働いている人間と、折り悪く利用していた人間。僕とトバリさんを合わせて8人。加えて、ニシナさん。

 2階から降りて来た僕に、視線が集まるのを感じる。さすがに僕が疎くたって、それくらいは気付いた。胃が痛い。死体を発見した時とは、また違う吐き気がしてきた。


「それで結局。キクは自殺なんですか。それとも殺されたんですか。警部さん」


 開口一番。ニシナさんにそう問いかけたのは、キクさんと同じ、女給のハルマさんだった。ニシナさんは早口で迫るハルマさんへ向き直る。


「詳しい捜査はこれからで。現場も、まだ調べています。殺されたと、決まった訳じゃあない」

「なら、なんであの人は、キクは絞め殺された、なんて言ったんです」


 ハルマさんへ同意とばかりに、その場の全員の視線がトバリさんへと移った。無論、僕の視線も。

 トバリさんは無言で階段の方を眺めていた。うっすらと無精ひげが生えた顎を指で撫でて、彼は視線すらこちらに向けず、物思いに耽っている。


「おい。トバリ」


 ニシナさんが苛立ち気に彼を促す。容疑者の1人に意見を求めるのもおかしな話しだ。ニシナさんも色々と葛藤があるようで。それでもやはり、聞かずにはいられないだろうか。一体この人は普段、何をしている人なんだ。


「あれだけ見れば、殺されたのではないかと、疑う余地は十分にあるでしょう」

「分からない人間にも、分かるように説明しろ」


 ちらりと、トバリさんがニシナさんを見る。その目は、ひどく気分を害された様子だった。

 彼はため息をつくと、また視線を階段へと戻してしまう。


「ヒカル君。まず、君が死体を発見した時の様子を。簡潔に、客観的に、話してくれ」

「……僕ですか」


 なんで、僕。

 話しを振られるとは思ってもみなかったので、思わず顔をしかめた。みんなの視線が瞬く間に僕へ向く。

 思い出したくもないのに。無実だと分かっているのなら、少しくらい気を使ってくれても良いんじゃないだろうか。


「……まず、部屋の戸を開いて。部屋が暗かったので入口の横にある電源を入れました。灯りがついて、そこで初めて、彼女が死んでいるのが分かりました」

「死体の状態は」


 沈黙に耐え切れず、僕は渋々と口を開く。トバリさんが先を促すので、嫌気がさして目を伏せた。


「キクさんは、天井を通っている梁にかけられた布で、首を吊っていました。ですが、膝から下は畳についている状態で、何と言うか、膝立ちをしている様な姿勢で……」


 ああ。気持ち悪い。思い出して、つい口元を抑える。トバリさんを見たら、目が合った。まだ、しゃべらなきゃいけないのか。


「ええっと……。窓は閉まっていました。僕の荷物も、手をつけられた物はありません。あとは……何か、ありましたか……」


 正直。それ所じゃなかったし、僕はただの一般市民で、警察の仕事なんか手伝ったこともない。だから、トバリさんからそんなに視線で促されたって、困る。


「……彼女の首を絞めていたのは、彼女の着物の帯です」


 盛大なため息の後に、ようやっとトバリさんの口から声が発せられる。始めから、そうして欲しかった。僕はニシナさんが何で彼を気に入らないのか。今さらながらに察する。

 トバリさんは快活とは程遠い口調で話し始めた。


「女性が自殺する傾向として。最期は身なりを気にするものだ。特に、キクは自尊心も高い上に、客に体を売る女です」

「……それは初耳だ」


 ニシナさんが、女将さんであるフサさんと、その隣にいた店主のクゼさんを睨む。慌てた様子で彼らは首を横に振り出した。どうやら、ニシナさんにその事を黙っていたらしい。素直に話したら話したで問題になるのは僕にも分かる。

 それを客のトバリさんに暴露されるとは、思ってもみなかったんだろう。


「あれはあのコが勝手にやってたんだよ!」

「わしらも止めなさいと言っていたんだ!」

「ええ。知っています。けれど、おかげでそこの、ミハラさんのような常連さんが増えたのも事実でしょう。キクの言いなりになって、この店に金を落としていく客です」


 トバリさんはつい、とさらに視線を。今度はやや離れていた所で聞き手に徹していた、中年の男性に向けた。当然、彼も血相を変える。

 ミハラさんと呼ばれた彼は口を開きかけるが、トバリさんはそれも遮る。


「ついでに。そのお隣の下宿人であるコガさんも。何度かご自身からキクをお誘いになられたみたいだが、断られていたご様子ですね」

「ちょ、ちょっと待って下さい! 私はそんなこと……!」


 トバリさんはどうにも、他人への配慮に欠けるのがよく分かる惨状だ。

 僕は懸命にニシナさんへの弁明を図ろうとしている、いい歳をした男性たちを何とも言えない気持ちで眺めていた。

 そんな惨状も、トバリさんは気にも留めない。


「キクは金銭目的で売春をしていたが……。自分の好みでない相手や、いけすかないと思った相手には、接待をしないと言っていた。いつも化粧には時間をかけているとか……。頼みもしないのに、以前、色々と聞かされたんですよ。彼女は自尊心が高い故に、身なりには人一倍気を配っていた女です。そんな女が、着崩れた着物と化粧で最期を迎えるとは思えない」

「お前、仲が良かったのか」


 ニシナさんが意外そうに問うと、トバリさんはしれっと返す。


「安くするから一度、抱いていかないかと誘われていただけです。その後も彼女は何度か、俺の原稿の邪魔をしに来ましたがね」

「まさか、買ったんじゃないだろうな」

「それこそまさかだ。飯盛り女なぞ、俺の好みじゃない」


 やっぱり。この人は僕の思う所の、一般常識と言う概念から、少しずれている。

 気まずい沈黙もなんのその。トバリさんは自身へ向けられる憤怒の視線も受け流す。


「まあ。これはあくまで自殺の傾向からの、憶測のひとつです」


 もしかしてこの人は内心。他人が慌てふためく様を見て、ほくそ笑んでいるのではなかろうかと言う憶測も。僕の頭に浮んでいた。


「なら、やはり、自殺にしては珍しい体勢か」


 キクさんの遺体は天井に首を吊られてはいたけれど、膝から下は床についていた。僕も、あれで首が吊れてしまうとは初耳だ。ニシナさんの疑問に僕は頷くが、トバリさんの返答は芳しくない。


「踏み台を蹴るのが単純ですし、失敗して苦しむ危険性も少ない。一般概念として定着している首吊り自殺と違う形をとるのは、珍しいと言えば珍しい。ですが今回の様な首の吊り方も、頭部が上体より上にあれば問題ないと分かっている人間なら、誰でもやる手ではあるんですよ。やろうと思えばドアノブでも首吊り自殺は可能です」

「……では、トバリさんはキクさんの何を見て、殺されたと確信したのですか」


 どれもあくまで、疑問点の程度だと言いたげだ。でも、それらを除いて、トバリさんには確証があるらしい。


「死因は窒息ではないとでも言いだすのか」

「いえ。目の点状出血と首に残った痕跡からして、死因は首を絞められたものによる窒息死と、確定して良いでしょう」

「お前……いや、良い。続けろ……」


 ニシナさんが小さく悪態をついている。恐らく、死体を触らないと分からない情報なんだろう。僕は憤慨していたニシナさんの様子を思い出した。

 トバリさんはおもむろに自身の首元を手で押さえる。


「始めに言わせて貰いますが、この犯人は偽造工作が雑です。自分が容疑者から外れていると思い込み、それを過信しているのか。警察を舐め切っているのかは、定かではありませんがね」

「具体的に、どのあたりが」

「普通に、検視をすれば。自殺でないとすぐに分かるんですよ。それこそ、素人の俺でもね」


 彼は指で首筋をなぞる。長い指は細く、確かに節にペンだこがあった。


「まず、首に残っている、絞められた痕。あれが、首にかかっていた帯と一致していません。キクを絞め殺したのは、俺の目視した限りでは、もっと幅が細いものだ。そもそも、キクの帯はそこそこの値の女物。見るからに首を絞めるのには適していません。身なりに気を使っていた女が、わざわざ首の絞めにくい、自分の着物を着崩してまで。それを選ぶとは考えにくい。ですから、彼女の死体に触れて、ソコを確認したんです」


 僕が廊下で吐きそうになっている間。トバリさんはそんな所まで考えていたらしい。

 僕はここにきて初めて彼に感心を覚えた。


「これでまず、自殺でないのは確定だ。死んだ人間が首を吊りなおすのは不可能ですからね。加えて、彼女の首には細い傷も見られた。引っかき傷です」

「首を絞められた際に、外そうとした痕か」

「ええ。でしょうね。自殺する人間ならそんな必要はない」


 ニシナさんは肩を落とした。僕もため息をついた。

 トバリさんの見立てが確実であれば。問題はこの後なのだから。


「それじゃ、誰が一体キクさんを殺したんです」


 先ほどトバリさんから暴露され慌てふためいていたコガさんと言う男性が、トバリさんと、僕を交互に見ている。コガさんだけじゃない。この場のニシナさんを除く全員が、僕か、トバリさんか。どちらかだと。そう思っている。

 冷や汗を浮かべて唇を噛みしめる僕とは裏腹。トバリさんはやはり、顔色ひとつ変えずに肩を竦めた。


「まだ定かではありません。だからこうして、集まって戴いた訳なんですけどね」

「キクが2階に上がってから、2階に上がったのは、アンタたち2人だけなんだろう」

「……それは確かですか」


 先ほどトバリさんに名指しされて腹が立っているのか。ミハラさんはトバリさんを責め立てる口調だった。

 ニシナさんが、帳場の席に座って黙り込んでいたゲンさんを覗く。初老に入ったほどの彼は、秋の始まりにしては随分と着こんだ羽織をかけ直した。

 僕をこの宿に引き入れたのは、店先で客引きをしていたこの人だ。今日の宿に困っていた僕は、彼の「お安くしますよ」の一言に簡単に釣られ、宿泊先にここを選んでしまった。今思えば、もう少し治安の良い、ニシナさんの務め先周辺に泊まるべきだったろう。そんな後悔も後の祭り。


「ええ。ええ。私は足が悪いんで、玄関と、階段が見えるこの帳場にずぅっと座りっきりです。事故で足を悪くしてからは、ここで帳簿の整理をしながらお客様を出迎えるのが、私の仕事でしてね……。

キクが酔いつぶれたミハラ様の部屋を出て、2階に上がった後、彼女はそれっきり下りてきておりません。酔いを覚ましてから下りてくる、と言ったきりです。そして、その後。2階にいたのは、ヒカル様と、トバリ様のお2人だけだ」


 ゲンさんはニシナさんを見上げて、しっかりした口調で答えた。

 頭を抱えたい。僕は居心地が悪くなって、無意識にニシナさんの背中を上目遣いに見ていた。


「2階へ上がるには、その階段を上がる他ありませんし。私がここで帳簿を眺めていたとしても、その階段はもう古いものでしてね。先ほど通った際に聞いたと思いますが、軋みが酷いんです。耳がいくらか遠くなったと言え、私が気付かない訳がない」

「本当にここを、一時たりとも離れてはいないんですね」

「ええ。ハルマにも聞いて下さい。彼女はそこの部屋を、長いこと掃除していましたから」


 ゲンさんはそう言って、階段の隣。帳場の横にある大部屋を指さした。10人くらいは雑魚寝ができそうな、この宿で一番広い座敷だ。

 ハルマさんもゲンさんの言葉に頷く。彼女は肩にかかったタスキを手で直して、柱にかかった時計へと目をやる。


「今日は、隣の飯屋に団体様がいらしていて、忙しくて……。女将さんとご主人はそちらに付きっきりでした。なので、今日は宿屋をゲンさんと私と、キクで回していたんです。ミハラさんが酔いつぶれてしまうまで、キクが付き合っていたおかげで……。私が1人で、1階の廊下や水回りと、そこの大部屋を掃除していました。ですから、私もゲンさんと一緒に、キクが1時ごろに2階へ上がって行くのを見ましたし。その後、そこのお2人が上がって行くのも見ています」

「2人が上がっていった時間は」

「ヒカルさんが……ここにいらしたのも、1時頃だったかしら」

「はい。そうです……」


 返事がどうしてもぎこちなくなる。嘘をついたって仕方ないから、そう答えるしかない。


「トバリ様が一度、外へお出かけになったのは4時……。戻って来られたのが、7時ごろ、でしょうか」

「ああ。そうだ」


 ゲンさんの視線を受けてトバリさんは素っ気なく返した。彼は物思いに耽るのを止め、僕たちを見回すように、一歩退いてこちらを眺めている。


「ではキクさんは1時から、ヒカル君たちが発見する8時までの間に死んだと言うことになる」

「いえ。7時ごろまでと見て良いでしょう。検死で詳しく出るでしょうが、死体には死斑……。ああ……。死後、一定の時間が経つと、体の表面へ浮き出てくる痣のようなもの、とでも思ってください。死体にはそれが見られた。キクを殺した後。首を吊り直して、彼女をあの体勢へ。更に、死斑が出る時間まであの状態だったと言うことになる」

「…………」


 ニシナさんがまたトバリさんを睨みつけるが、今度は何も言わず、咳払いのみとした。

 トバリさんは僕を横目に見て、再び顎に手をやる。どうやら、物事を考える際に出る、彼の癖みたいだ。


「さて、彼女の死亡時刻を、1時過ぎから7時頃と仮定しておきましょう。最も、殺害時刻は検死で詳しく分かるでしょうがね。だからと言って明日まで待つのも野暮だ。犯人に逃げられては警部補殿がお困りでしょう。」

「お前が妙な事せんように、今日明日。この宿には警官を残すから安心しろ」

「そんなことしなくとも! そこの2人を連れて行けば良いだけの話しじゃないかい! そんなことされたら商売あがったりだ!これ以上、警察に居座られたら、有りもしない噂まで立っちまう!」


 フサさんがトバリさんを指さして警部に詰め寄った。そこへ示し合わせたかのように、ミハラさんとコガさんがそうだそうだと加わる。

 分かってはいたけど、僕らの肩身は狭くなる一方だ。現状から見て、彼らの言っていることは間違いではないだろう。もちろん、僕が無実だとしても、だ。


「警部さんの知り合いだか何だか知らんが、身内だからと甘やかすのはどうかね。さっきから何度も言ってるじゃないか。この2人だけが、キクがいた2階へ上がって行ったんだ」

「そうですよ。私はこの向かいの部屋。ミハラさんは階段横の部屋。女将さんやご主人は隣の飯屋。キクさんが死んだと知らされるまで、私が外に出たのなんて厠くらいですよ! 向かいの帳場には、ゲンさんがずっといたんですから。とにかく、私らは無実です!」

「ですが、皆さん、被害者と接点がお有りだ。だが、ヒカル君はというと、彼は今日の昼間。汽車で上京してきたんです。彼女を殺す動機も、接点すら薄い」

「キクの事だ。若い男が泊まると聞いて、2階へ上がったついでに、その坊やの部屋に顔を見せに行ったんじゃないのか」


 ミハラさんの問いに。ニシナさんの視線に。僕は嫌な汗を流していた。目がまともに合わせられない。

それだけは聞かないで欲しかった。それだけは。


「ヒカル君、彼女と話したのか」


 ニシナさんが恐る恐ると言った様子で聞いてくる。答えない訳には、いかない。

 口から出て来た僕の声はぼそぼそと。我ながら情けないくらい、今にも消え入りそうだった。


「……部屋に入る前、彼女と、少しだけ……」


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