01.逢魔が時
僕は目眩と吐き気を催した。
今日は散々な日だ。母さんの言う通り、上京なんてすべきではなかったのかもしれない。
ニシナさんが滅入った様子で肩を叩く。これまでの事情を問う彼に、僕はなんとか頷いた。そう、まずはどうしてこんな状況に陥っているのか。僕自身も冷静にならないと。
改めて顔を上げた僕の前には、口元に笑みを浮かべる薄気味悪い男。そして、天井の梁で首を吊った女性。どちらに嫌悪感を覚えたのか定かではないが、僕は渇いた唇を舐めた。情けないことに、握りしめていた着物の裾は手汗で湿っぽい。
「ええっと……この宿についたのはお昼過ぎでした。その後、汽車に揺られて疲れていたので、ゆっくりしてから。荷物をここに預けて出て行く間が……。1時間くらいかと……。どちらも帳場へ声をかけたので、確認して下さい」
「宿で過ごしたその1時間が鬼門だが……。君は嘘をつく性格でもないし、そもそも理由もないが……。あとで確認しておこう」
ため息が止まらないニシナさん。もとい、ニシナ警部のペン先は手帳を力なく引っかいている。
「その後はニシナさんもご存じの通りです」
「うむ……。確か、君との待ち合わせは約束よりも30分ほど早まったからな。2時前後から俺と別れる5時まで。俺が保証できる」
昼間はニシナさんにあちこち案内されて、都会とやらをそれなりに楽しんでいたのに。宿に戻ってくれば。自分の泊まるはずだった部屋で、女性が首を吊って警察ザタなんて、笑えない。
「5時以降は……ニシナさんに勧めて戴いた飯屋で夕飯を食べて……。店を出たのが6時過ぎ、でしょうか……。なので、その間は問題ありません。店の方が覚えていればの話しですけど……」
「残りの1時間は?」
「散歩がてら公園をふらふらと……。なので、何とも……」
公園の樹が綺麗に色づいていたものだから、つい。
僕とニシナさんのため息が重なった。
「とりあえず、ここにある君の持ち物は押収ということになる」
「ああ……。はい……」
自然と肩が落ちる。
なんて日だ。約束の人物は汽車を逃してやって来ないし。偶然、泊まった宿で人殺し扱いされるし。手持ちの荷物までなくなるし。
「すまないヒカル君……。確認なんだが、これで全部か?」
「ええ。今日は元々ここに泊まる予定、ありませんでしたし……」
「その時点で君を容疑者扱いにするのは気が引けるのだが、俺も仕事でな……」
「あの、彼女は本当に……殺されたのでしょうか?」
「まだ分からん。言いだしたのは俺じゃなくて、そこのヤツだからな。だが……鑑識も、自殺ではなさそうだと……。詳しい内容は俺もまだな上、知っていても、あまり話せる立場でもないんだが……」
渋面するニシナさん。彼の視線の先には、死体を梁から下ろしている鑑識の人たち。その更に後ろに、死体を眺めている男がいた。彼は秋に入ったと言うのに着流し1枚だ。そのくせ、何故か右手にだけ手袋をつけている。
ニシナさんの視線に気づいた彼は、目を細めて笑った。長い前髪の間から覗く切れ長な目が、僕を見下ろす。
「追い打ちをかけるようで申し訳ないのだがね、君」
こんな状況の中、やけに穏やかな声だ。彼は死体を眺めながらも、僕と警部の話しは聞いていたらしい。彼はとても身長が高く、僕は顔をやや上げて話さねばならない。
「君と警部補が顔見知り以上の関係ならば。君の証言の信憑性とやらが、問われるかもしれないな」
「うるさいなお前は! 茶々を入れる暇があるなら、自分の心配でもしてろ!」
間髪いれずにニシナさんが男を怒鳴りつけた。
まあ、でも。彼の言う事は最もだ。ニシナさんは僕の血縁者でないとはいえ、こちらに越す前は、近所で家族ぐるみの関係だった。近親者の証言はアテにされない。
ましてや、死体が僕の宿泊部屋にあるのだから。もちろん、それだけじゃない。そこで首を吊って亡くなったキクさんが2階に上がった後、同じ2階へ上がった人物は、僕を入れて2人しかいないらしい。
「俺は7時にここへ戻ったと、先ほど確かにお話ししましたがね。1時間の間に人殺して平然としていられる程。俺も図太い人間じゃあありませんよ」
そのもう1人が、隣部屋にいた、この男な訳だが。僕が廊下で吐きそうになっている中。彼は被害者の息が絶えているのを確認し、宿の人に警察を呼ぶよう指示をして。更には、ニシナさんが来るまでの間。部屋の中に誰も入らない様に、と。そう言って、入口から中をずっと眺めていた。図太い、では言葉が足らないくらいではないだろうか。
「物好きなお前の方がよっぽどやりかねんわ」
「ええ。俺ならこれよりも上手くやってみせる。ご存知でしょう」
「……ニシナさんは、この方とお知合いですか」
意外だったので僕が問いかけると、2人揃って怪訝そうな表情を浮かべた。ニシナさんはここに到着した時から、妙に彼へ風当たりが強いと思ってはいたけれど。顔見知りだったようだ。
「いやいや。ヒカル君、こんなクズとは間違っても知り合いじゃあない」
「でも、今……」
「この男はな。人様の仕事場にこそこそ忍び込んで、そこから得られた情報を元に犯人を導き出した挙句、その情報ごと新聞社や雑誌に言い値で売りつけるクズだ」
「お褒めの言葉をどうも。警部補殿」
要するに、この人は結局、何なのだろう。
視線が合った僕に、彼は軽薄に笑った。
「俺はトバリと言う。物書きだ」
流石にこれだけは僕でも分かる。絶対、嘘だ。
「君は警部補殿と違い、俺の話しが分かる人間に見える。加えて、人を殺すほどの度胸もなさそうだ」
「……ああ。はい。ありがとうございます」
褒められている訳ではなさそうだけど。とりあえず、この人は僕の無実を確信しているらしい。と、言っても。現時点での有力な容疑者は僕と、この人なのだけど。
「ならお前を連行しても異論はないんだな」
「俺がやった証拠があるのなら、どうぞ」
ニシナさんはあからさまな舌打ちをする。よほど、このトバリと言う男が気に入らないらしい。
「自殺じゃないと言い出したのはお前だろうが。そして、彼女以外、2階に上がっていったのは、お前と、ヒカル君だけだ。ヒカル君でないなら、必然的にお前がやったことになるぞ」
「階段で、2階に上がったのは俺とヒカル君だけ。と言う話しでしょう」
「はあ? なら、窓からでも上がったとでも言うのか」
トバリさんの訂正にニシナさんが眉を寄せる。僕も思わず首を傾げた。なんせ、僕たちがいる2階に上がる手段は、玄関正面にある階段ひとつだけなのだ。
加えて。部屋にある窓は全て、大通りの方角に面していて、通行人に気付かれずに2階まで登るのは難しい。実際に、そんな目撃証言は今のところなかった。
吊るされていた彼女の死体を、警察の人たちが運んでいく。袋に入れられた死体の影を、白熱灯がやけにくっきり浮き立たせて不気味だ。僕は自然と身震いした。
彼女とは昼間、少し言葉を交わしただけだけれど、そう歳も離れていない人の死に、何とも言えない感傷に苛まれる。
「さて、流れを整理したい。宿の人間を集めては戴けませんかね。警部補」
「それは俺の仕事であって、お前の仕事じゃあない」
「警部補殿だって、とっととご自宅にお帰りになりたいでしょうに」
廊下に出たトバリさんは、おもむろに。僕の部屋の前にあった、小部屋に入っていく。明り取りの小窓ひとつの室内は薄暗く、大きな櫃が目いっぱいに詰め込んであった。その隙間に、掃除用具や、竹の籠が積んである。見るからに物置だ。彼はそんな狭い空間を下から上まで見回している。先ほどの訂正といい、何か気になることでもあるのだろうか。
一方のニシナさんは、まだ残って現場を調べている人たちに指示を出している。
「何かお探しですか」
不意に、屈みこんだトバリさんに気付いて、僕は入口から声をかけた。そのまま彼は奥へ消えてしまう。櫃の影に隠れて、何をしているのかは見えない。
一呼吸おいて立ち上がった彼はまだ床の一点を見つめている。やはり返事はない。
「何をしているトバリ。言っとくが、そこは廊下が狭いから鑑識の荷物を置かせて貰うために開けたんだ。元々はキチンと鍵がしまっていた。これ以上お前の指紋を増やすんじゃないぞ」
不思議に思っている僕の肩を、ニシナさんが軽く叩いた。促されて廊下へ出ると、古い白熱灯が不規則に点滅している。小さな蛾が、その周りをいったり来たりを繰り返す。
トバリさんは案外、素直に物置の奥から戻って来た。着流しを彼が軽く払うと、僅かに埃が舞う。
「警察の人間が入る前は」
「見た通りの、物置だ。普段は滅多に開けんそうだ」
「なるほど」
「少しは自重しろ。お前は容疑者だ。しかも俺たちが来る前に、また事件現場に入ったな」
「今回は見逃して下さったって良いんじゃないですか。ヒカル君は彼女の生死確認や、通報どころではなかった様子でしたからね」
トバリさんはやれやれと、右手だけの手袋を外した。そうして、ニシナさんへ大袈裟に両手を上げて見せる。
「彼女が死んでいるのは一目瞭然でしたので。死体に触るのは最低限を努めましたし、触れた際には、ほら、手袋もつけました」
「お前……! 死体に触ったのか!」
「ええ。些か。死因と、だいたいの死後経過が知りたかったので」
「あれほど現場に手をつけるなと言っただろうが!」
耳がじんじんする程の声に、僕は耳を抑える。手袋をニシナさんがひったくった。それを冷ややかな目で見下ろすトバリさん。はたから見ても、彼がニシナさんを相手にしていないのは明白だ。先ほどから何故か「ニシナ警部」のことを「警部補」と呼んでいる。
その彼が、何故か僕を見て薄く笑う。
「ヒカル君は、俺が殺した様に見えるかい」
彼の声は平淡な上に薄笑いと相まって、先の死体に負けず劣らず不気味だった。言い過ぎかもしれないが、その時、僕は確かに。冷たいものが背筋を這っていくのを感じた。
彼が彼女を殺したのが事実だったとしても、僕はさほど、驚かないだろう。
「いえ……。トバリさんが犯人なのでしたら、わざわざ殺人事件だと騒ぎ立てる必要もありませんから……」
けど、彼が信用できないからと言って、彼が犯人だと言う事にはならない。
首を吊った彼女を、ニシナさんは始め、自殺かもしれないと言った。それはもちろん、家族ぐるみで知り合いの僕が、この部屋に泊まっていたこともあってだと思う。そこへ、トバリさんは「殺された」と言い切った。そのおかげで僕だけでなく、隣部屋だった彼自身も、こうして立場が危うくなっている。
彼が犯人だとしたら、余程マヌケなのか。あるいは、それ程までに警察から逃げきる自信があるのか。どちらかだろう。
「俺の見込み通りで良かったよ」
一言、彼は頷いた。それだけだ。トバリさんはそのまま下の階へと下りていく。一体、僕に何を見込んだと言うのだろう。つくづく腹の読めない男だ。
気だるそうに階段を下りて行く背を眺める僕に、ニシナさんがそっと耳打ちをする。
「君は宿にいる間、あの男と口をきいたのか」
「いいえ。この部屋で死体を見つけた時に初めてお会いしました」
僕が部屋へ荷物を置きに来て、出て行くまでの間。彼のいた隣の部屋は静かだった。先客がいると聞かされていなければ、無人だと思う程に。
散歩から戻ってきた僕が、部屋へ戻って来た時。入口横の電源を指で探り、つけた瞬間。天井の梁で首を吊っている死体が、それまで真っ黒だった空間に現れた。僕は始め、何が起こっているのか理解できず。一息遅れて思わず悲鳴をあげた。腰を抜かして、廊下に座り込んだ。寒気と怖気が、体中を駆け巡って、見たくもないその死体から、何故か目が離せなかった。唯一の救いは、死体の顔がこちらではなく、窓の方向を向いていたことくらいだ。
混乱する頭で助けを呼ぼうと口を開いても声が出ず、ただただ、その光景に歯を鳴らしていたばかりの僕。そこに、隣の部屋から彼がやってくる。トバリさんは腰を抜かしていた僕の様子を見ても、僕が凝視しているその先を見ても、さして顔色を変えることはなかった。
その時の僕はそれどころではなくて、気にしてもいなかったけれど。普通の人間なら、どう考えたっておかしい。それこそ、犯人だと疑われても仕方ない。なんせ、目の前で人が死んでいるのだ。葬式なんかとは違う。日常に突如と現れた「死」だ。今になれば、その時のトバリさんはおかしく思えるし、奇怪だった。
「へえ。これはこれは……」
トバリさんはそう言って、僅かではあったけれども。確かに、笑っていたのだ。