旅立ちの朝
俺はセピア色の夕焼けの中に立ち、誰かを待っていた。凄く親しくて、好いていた誰かを。そして俺は、その人に告白しようとしていたのだと思う。なにせ現れた記憶はうすぼんやりとしたもので、直視しようとすれば途端に霞んだ。
ああ■■■■メールは読んでくれただろうか。ちゃんとここに来てくれるだろうか。その時■■■自分の決意に酔っていたのだと思う。自分の『好き』が何より大きく、眩しく見えていた。■■■にこの想いを伝えたら■■■■と思い込んでいた。
■■が■■■■■■■■■■■■、俺は■■■■■■■■■■■■■■■■、彼女は黙っていて、それを見た俺は理解してしまった。■■■■■■■■■■■■、
だから、■■■■■■■■だから俺は■■■■だから俺は死んだのだ。
――――
嫌な夢を見ていた気がする。目を開いた時、俺はまず全身にまとわりつく冷や汗を感じていた。
俺は当然自分の部屋のベッドに寝ているのだと思った。だが違った。知らない天井が視界に広がっていた。頭がようやく働き始め、気絶する直前までの記憶が一気に戻って来た。そうだ、俺は宝石を取り戻し、村長達に渡し、バルバトスから逃げおおせて……。
ここは何処だ。俺は起き上がろうとし、痛みに呻いた。目だけが辛うじて動かせる中、板張りの天井を、襖を見た。俺は布団の中に居るらしかった。
頭に乗った何かがずり落ちた。濡れた手ぬぐいだ。苦労して首を曲げ、視界をずらす。すると、柱に寄りかかり、寝息を立てる容姿端麗な女が見えた。見覚えがある。小・中・高と俺をいじめてきた女、泉 麗佳だ。
麗佳の手元には予備の手ぬぐいと水入り桶があった。俺は大体を察し、また借りを作ってしまったと考え、それでも後で感謝を伝えようと思い、静かに床に手をついた。
痛みが体を苛むが、大した問題ではない。今は何時で、ここは何処なのか知りたかった。起き上がったその時、俺の身体の上から、ころんと何かが落ちた。
「いったぁ……おっ、ようやくお目覚めかの」
寝ぼけまなこで涎を拭い、起き上がるのはクズハだ。俺は胸に濡れた感触を覚え、見下ろした。案の定ヤツの涎がべっとりと付着している。
「いやぁ、ようく眠っとったの、お主。三日ほど起きなんでな、そこの小娘が煩いのなんの……『ウズマサくん死なないわよね?』だの『死んだら私のせいよね?』だの『助かる方法はないの?』だの色々と……死なんと言っとるのにあんまりしつこいからぐぎゃぶっ」
愚痴をこぼすクズハの頬が横から掴まれ、畳の上を引きずられて激怒のお膝元へ連行される。いつの間にか起きていたらしい麗佳は、怒りに顔を赤くし、クズハにチョークスリーパーをかけながら俺を睨んでいる。
「言っておくけど」
第一声。氷のように冷たい。
「この狐が言ったことにはひとかけらの事実もないわ。アナタをからかって遊んでいただけだから、本気にしないように」
「ぐぎぎぎぎ……嘘じゃ、あれだけ必死になっとったクセに……しまいには泣きながら儂に縋り付いてきたクセに……」
「それ以上口を開くと首の骨を砕くわよ……!」
「うごごごごご……」
よく分からないが二人とも仲良くなっているようで何よりだ。おふざけのための声さえ発する事ができず、俺はもう一度布団に背中を預ける。二人のやり取りを見るために上体を起こしていただけで、どっと疲れが押し寄せた。
「マサマサくん、起きたならこの薬を服用して。肉体の治癒を促進する薬よ、明日の朝には段違いに楽になるわ」
「……ああ」
麗佳から薬包と湯呑を受け取り、枕元に置く。もう少ししたら飲もう。そう思いながら、天井を見つめる。
今は夜らしい。襖の外からは虫の鳴き声しか聞こえず、時折吹く風が草葉を擦らせている。
「飲まないの?」
「……もう少ししたら飲む」
「ふぅん……」
……なんだろうか、このそこはかとないぎこちなさは。アレかな、礼を言い忘れたのが悪かったかな。
「……ありがとう」
「……別に、礼を言われるような事はしてないわ。そっちこそ、……マサマサくんにしては頑張ったんじゃない?」
「そうか……」
認められているのやらいないのやら。連続で声を発するのが想像以上に辛く、俺はまた黙り込む。またしても沈黙が場を覆う。
「……マサマサくんは、あっちでの事、どれくらい覚えてる?」
「あっち?」
麗佳のか細い声に、俺は様々な事を思い起こす。
「ああ、覚えてる。……確か俺はあっちで高校二年生だったはずだ。それで……気が付いたら、ここに」
「ええ、そうね。でもそうじゃなくて、例えば私の事、どれくらい覚えてる?」
「お前の……?」
麗佳は何が言いたいのだろうか。俺は不思議に思いながらも、記憶を掘り起こそうとする。
「そりゃお前は、一番インパクトがある記憶で……幼馴染で、俺をいつもいじめてて、お前はクラスでいつも人気の優等生で……」
だが、そこまでだった。俺の記憶はまるで霧がかかったようにぼやけ、言葉にしようとすれば掻き消える。消えた部分が一番大事なような気がして、俺は必死に思い出そうとする。しかし、無理に記憶を辿れば辿るほど、覚えている場面は漠然とした映像になってゆく。
結局俺は諦め、記憶の海から意識を浮かせた。
「……駄目だ、思い出せない」
「……そう。なら、いいの」
「……」
その時俺は、麗佳が何かを隠しているという確信を持った。だがそれは言葉にせず、ただ天井を見詰めた。
麗佳はクズハを解放して立ち上がり、襖を開いて廊下に出た。
「薬、飲むの忘れないでね」
襖が閉じられた。俺はそれを聞きながら、何を言えば良かったのかをずっと考えていた。
「……お主らって本当……」
クズハが溜息を吐いたのが聞こえた。
やり場のない苛立ちに襲われ、起き上がり、薬を白湯で流し込む。酷く苦く、飲んだ直後から目が回るような錯覚にとらわれた。俺は痛む身体を無視し、布団をかぶって襖とクズハに背を向けた。ささやかな反抗のつもりだったが、肩が痛み、すぐに仰向けに戻った。
――――
翌朝、目覚めた時から俺の身体は快調だった。俺はまず起き上がり、屋敷の主に会いに行った。すなわち、サノダ村の森津村長である。
森津村長は川面村長との話の途中だったが、座敷の外で待っている俺に気付くと、手招きして招き入れた。一通りの挨拶と礼を済ませ、俺は本題を話した。
「……元の世界の手掛かりが欲しい、ですか」
森津は白いひげを撫でながら唸る。俺は頷き、川面を見る。川面は一本しかない腕で頬杖を突き、考え込んでいる。
やがて森津はためらいながら口を開く。その隻眼には話して良いものかという迷いが見て取れる。
「手段が無い訳ではないですが、これが何とも眉唾なものでしてな……」
「何でも構わない。とにかく、俺がここに来た原因と、元の世界があるならどうなってるかが知りたい。頼む、森津村長。教えてくれ」
「フゥーム……」
森津村長は未だに迷う。だが観念したように目を閉じ、とつとつと語り始めた。
「……ここより北へ、北へと進んでゆけば、このような片田舎よりもっと発達した都市があります。そこを支えるは魔力、魔法の使徒たち。その都市の名は『アリスダム』」
「森津、そこは……」
「分かっておる。ウズマサどの、よく聞いて下され。アリスダムには一人の魔法使いが居ると聞きます。その者は人の全ての欲を、その末を見通し、助言を下すと。その名は『ラカン』」
アリスダムのラカン。しっかりと記憶した俺は、礼を言って立ち上がろうとする。だが川面村長が手で制し、俺を立たせない。
話の続きがあるのだ。森津村長は重々しく咳払いし、話し続ける。
「……ですが近頃、アリスダムは荒れておると聞きます。次々襲来する『魔将』、それを食い止める『聖騎士』、そして……その戦火の混乱に乗じて人を攫う謎の勢力。良いですか、今のアリスダムは混沌のるつぼと言っても過言ではない。それでも行かれるか、ウズマサどの」
俺は迷いなく頷く。森津村長と川面村長は顔を見合わせると、立ち上がり、俺に向けてお辞儀した。
「どうかご無事で。我々一同、ウズマサどのに救われた事は生涯忘れず、語り継ぎましょう」
「そして願わくば、全て終わったらもう一度ここを訪れ、顔を見せて下さい……」
二人の礼を受け、俺も立ち上がってお辞儀した。そして屋敷から出て行った。
村の中を抜け、向かう先はあの飯屋だ。待ち合わせがあった。
「いらっしゃい! 英雄さんじゃないか、安くしとくよ!」
店に入り、おばちゃんの元気な声を耳にしながら、俺はそいつらの机に向かって座る。
腰に帯刀した美少女侍の麗佳は、長い黒髪を払いのけて湯呑からお茶を啜り、目を開いて俺を見た。
「遅かったんじゃないかしら?」
「長引いたんだ。俺が行くべき場所は決まった。次は『アリスダム』へ向かう」
「おおっ、アリスダムか! あそこはええぞ、なんと言ってもカジノがある!」
狐耳と尻尾をぴくぴくさせながら、幼い容姿からは想像もできないような発言をかますクズハ。
「お前、まだついて来る気か」
「つれぬ事を言うものではないぞ! 旅は道連れ世は情けと言うじゃろが!」
「ええ、そうね。そう言えばマサマサくん、知っているかしら? アリスダム周辺の魔物は強いらしいわよ? アナタだけで太刀打ちできるかしら……?」
「……」
麗佳の言わんとするところは分かる。分かるが、俺の口からそれを言うのはとても……恥ずかしいし、何より腹が立つ。
「不器用な生娘なりのアプローチというやつじゃな。男は黙って意向を汲むのが甲斐性という……いだだだだだだ!!」
「だ、ま、り、な、さ、い……!!」
麗佳の机越しのアイアンクロウがクズハの頭を捉え、軋ませる。俺は短い時間で悩み抜き、こっちに来る前なら考えられないようなセリフを口にした。この女から逃げない。それが俺の決意だったはずだ。こんな序盤で曲げる訳にはいかない。
「……お前も来てくれると、助かる」
「…………!! コホン、ええ、しょうがないわね。そこまで言うなら、嫌々だけど力を貸してあげるわ。本当に嫌々、だけどね」
「けッ」
「な に か?」
「なんでもないのじゃ……」
既に主従関係ができつつある二人を見ながら、俺は肩を竦めた。
ここからの旅路は長く、激しいものになると予想される。だがこいつらが居れば、乗り越えられないものはないように思える。果たしてそれは錯覚か、それとも俺の忍者としての直感か。
なんにせよ、俺はこの世界を生き抜く事が最優先事項となったわけだ。全く、誰か助けてくれ。よりにもよって、いじめっ子と異世界転生しちゃったんですが。