生存のために
「あれがそうだ、あんちゃん」
夕暮れ掛かって行く空の下、とうとうそれを視界に捉えた俺達は、それまでの強行軍の疲れに微かに息を切らせていた。
だがこんなところでへばっている場合ではない。俺は目の前、巨大な山のようにそびえ立つ城を睨んだ。ここを攻略し、ルビーとアメジストを奪還。サノダ村とウノダ村の戦争を止める。
「ここまで有難う、ダルタス。後は自由にしてくれ。俺の事を兵士に密告するのも、全部見なかった事にして逃げるのも有りだ」
「ここまで来て……」
ダルタスは顔をしかめる。微かに前者の選択肢に魅力を感じていたが、彼は首を振り、森へと引っ込んで行った。
去り際、背中側から声が届く。
「……ともかく、幸運を祈るよ、あんちゃん。またあの村を元通りにして、行商とかを襲えるようにさせてくれよな」
「それは保証しかねるかな……」
俺は笑い、城の攻略法を考えた。門は見えるが、形骸化しており、見張りの類は居ないように見える。
だが、窓から見える城内には、定期的に動く影が見える。見回りだろう。正面突破はあまりに無謀だ。
となると、正攻法で城を上がる以外の選択肢が必要となってくるわけだ。
「どうするのじゃ? 適当に兵士を薙ぎ払って進むのか?」
「いや、俺ってそんなに肉体派じゃないし……」
「なーんじゃ、つまらんのう……それにしても、城のゴブリン共は妙に浮足立っておるな。今日は何か祭りでもある日じゃったかの」
「……そうか?」
肩の上のクズハの言葉に、俺は城内へと目を凝らす。見れば確かに、見回りのゴブリン達は妙に警戒しているきらいがある。いや、確かにそれは見回りに必要な事ではあるが……それだけではなく、何かよくないものを待ち受けているようにも見える。
「確かに、そうかも。やっぱり城内を正々堂々って訳にはいかないか」
「ま、そうなるかの。無益な殺生って儂も好かんし……」
俺は再び山のような城を見上げる。そして思いついた案に自分で苦笑いし、しかしこれしかないと感じた。
「なあんじゃ、一人で笑いおって。気色悪」
このクソ狐はいつかきつねうどんにする。
――――
ロッククライミングじみて城壁の穴に手を挿し込み、恐る恐る上って行く。下を見れば、既に俺が立っていた場所は小さな豆粒のように見えていた。
「おー……おー、ナイスアトラクションじゃの。よくよくついて行って飽きん男じゃ、お主は」
「ちょっと、黙ってて、もらえるか……!」
クズハが喋る震動だけで落ちてしまいそうだ。俺は生まれたての小鹿のように脚を震わせ、更なる足場を求めて登ってゆく。パラパラと落ちて行く城壁の破片が、風に吹かれて飛んで行く。
今は何時だ? 月は既に昇り、柔らかい光を俺に投げかける。汗が垂れるのを拭い、俺は一息つく。ここまで来れば、などという目安が一切無いのが地味に辛い。延々と終わりのない壁と格闘し、登っている感覚だ。
「ハァーッ、ハァーッ……」
「疲れたか? 疲れたんか? ん? 辛いか? 辛そうじゃの?」
「こんのクソ狐……」
思わず漏れた本音に、後から気付く。だが俺は取り繕うという事はせず、ただ淡々と登り作業に戻る。
「ひゃひゃひゃ、クソ狐で結構じゃ。こうやってお主の肩から見る風景、マジ超絶景、ツイッターにアップしたい」
「いつか殺す……」
もう本音でいい。このクソ狐はいつか皮を剥いで高級な着物にしてやる。俺は怒りと共に次の一手を上げ、城壁のくぼみに手をかけた。
瞬間、くぼみを作っていたレンガが崩れ落ち、体重を掛けようとしていた腕が勢いよく下にずり落ちた。
「うわっぷ……」
思わず呻き声を上げる。俺の身体は今、片手で支えられている。だが細腕では長くもたない。
俺はカバーのために、下に垂れてぶらりと遊ぶ腕を持ち上げようとした。だがその時、全体重を支える掌の下、レンガが嫌な軋み方をした。
「……ちょっと待ってくれ」
冷や汗がどっと湧き出す。俺の脳内に、地面に叩き付けられてぐしゃぐしゃになる自分の身体のイメージが湧く。それはやめて欲しい。というか、やめてくれ。情けなさ過ぎる。
だが現実は無情であった。レンガはゆっくりと剥がれて行き、俺を落とすための準備を始める。オイオイオイ、死ぬわ俺。ほう、風化ですか。大したものですね。築何百年の建築物はこうして崩れて行くと聞きます。皆は定期的にメンテナンス、しような。
俺は現実逃避じみた思考の中、時間の流れをゆっくりと感じていた。数秒後には俺は死んでいるだろう。まだ何もなしえていないのだが、死は無慈悲だということだ。
せめて肩の上のクズハだけは逃がそうと、その尻尾を掴もうとした。だが彼女は俺の腕を伝ってぴょんぴょん跳ねて行き、俺の掌の上、新たなくぼみにしがみついて尻尾を垂らした。
「ほれ、掴まれ」
俺は瞬時に蜘蛛の糸めいたその尻尾にすがりついた。命の危機で敏捷に身体が動くのは誰でも同じだ。クズハはクレーンのようにずるずると俺の身体を持ち上げ、別のくぼみの前で止める。
「そんでほれ、そこにしがみつけ」
言われるがまま、俺はくぼみに手を挿し込み、足で壁に貼り付く。そうして体勢が安定したところへ、クズハが俺の肩へ乗ってきた。
「……とまあ、これが儂の安定力じゃ。どうじゃ? 今ちょっと見直したろ? ん? 素直に言うてみんかい?」
「……くっ……」
非常にうざったいが、認めざるを得ない。コイツはすごく頼りになる。……というか、人が一人しがみついても毛の一本も抜けない尻尾ってどういう構造してるんだ。
「ちゅーかお主、魔力使わんのか? 使えばこんな壁、ちょちょいのちょいじゃろ」
「魔力……?」
乱れた息を整えていた俺は、肩の上のクズハの言葉に振り向く。
「そう、魔力じゃ。こう、掌に血液を凝縮させる感じで……お主の場合は苦無が出て来るんじゃろ。ほれ、こんな風に」
クズハが差し出してきた掌の上には、黒光りする刃物がのっている。触ってみれば確かに鉄の感触があり、本物であると確認できる。
「血液を……?」
「そう、凝縮させる感じじゃ」
疑心半分で、掌に意識を集中させる。するとどうだ、黒いもやのようなものが集まり、次の瞬間そこには……そこには……。
「……なんだこりゃ」
醜く歪んだ鉄屑のようなものが現れた。とてもではないが先程クズハが見せて来たクナイとは比べ物にならない。
「ヘタクソ」
肩の上から辛辣な意見が飛んで来る。俺は鉄屑を放り捨て、もう一度集中し直す。
すると、さっきよりはマシな……クナイに見えなくはない……形の刃物が形成された。
「ふむふむ、まあクソみたいな形状じゃが即席の足場にはなるじゃろ」
相変わらず厳しい意見に内心傷つきつつ、俺は壁にそのクナイを突き立てる。そして手で強度を確認し、恐る恐る足をかけてみる。クナイが折れる、もしくは落ちようものならすぐに別の足場に移れるように保険をかけつつ、だ。
だが、意外にも、その細い刃物は俺の体重を支え、びくともしなかった。
「ほれ、これでもっと楽になったじゃろ。じゃー儂寝るから」
クズハは適当に言い、俺の肩に尻尾を巻き付けてプラプラと眠り始める。
世話になった手前何も言えず、ただ俺は淡々とクライミングに精を出した。
――――
「……よく眠れたかね、お嬢様」
「あら、皮肉かしら?」
牢の外から掛けられた声に、手錠で縛られた彼女は不機嫌そうに答える。牢の外に居た拷問男は笑い、立ったまま彼女を見つめる。
「お前達は、本当に……予測のつかん面白さがあるな。先のウズマサと言い、お主と言い」
「あんなナメクジ男と一緒にしないでもらえるかしら。とても不快よ」
「そりゃあ、悪かった……」
男は少々ばつの悪そうな表情を浮かべ、頭を掻く。麗佳は後ろ手に手錠で縛られたまま、諦観めいて顔を曇らせ、目を閉じる。
「やっぱり不安かね、お嬢様?」
「当然よ。お生憎様ですが、牢の中で安心できるような楽観的な性格じゃありません」
「それもそうか。……なあ、あの男が何処へ行ったか言ってくれれば、お主だけすぐにでも牢の外へ出してやっても良いのだぞ?」
「へえ、じゃああなたは私がそんな誘惑に屈する、安くて馬鹿っぽい女に見えてるのね」
キッと飛んできた視線に首を竦め、拷問男は参ったように両手を挙げる。
「そうじゃない、そうじゃないんだが……アレは実際ウノダ村の間者だったのだろう?」
「違います。ウズマサくんはそんな人じゃありません。むしろあなた達の馬鹿な戦争を止めようとしてるわ、今頃ね」
「またそれか。お主といいアレといい、どうにも言う事が一緒だ。本当に戦争を止めるつもりなのかね?」
「何度でも言うわ、私達は……ウズマサくんは、戦争を止める」
確固たる自信と共に、麗佳は言い切る。話にならんと分かったのか、拷問男は何処かへ引っ込んでゆく。
それを見送り、麗佳は祈るように視線を落とした。彼女は胸中で吹き荒れる不安の嵐を無理に押し殺し、へたり込んだ。
「……ごめんなさい、ウズマサくん……」
――――
もう少し、もう少しだ。俺は見上げる視界の中に、徐々に大きくなる窓を見る。極大の疲労により、窓は手を伸ばせば届くかのように思われる。だがそれは錯覚だ。そのせいで何度も落ちかけ、肝を冷やした。
堅実に行くしかない。俺は掌にクナイを作り出し、壁に突き立てる。ここで焦ればこれまでの苦労は水泡に帰す。一歩、一歩、登れ。
朝焼けの空。太陽が顔を出し始める。真っ赤な陽光が大気を切り裂き、俺の視界を半分赤く染める。
更に一本、クナイを突き刺す。あと5メートル。ジャンプすれば届くか? いや、そんな事を考えるな。ここまで支えられてきた事を忘れてはならない。
あと4メートル。サノダ村の村長の、憂いを帯びた顔。ウノダ村の村長の、悲しみを秘めた瞳。
あと3メートル。後悔で満ち溢れていたダルタス。決意の表情。
あと2メートル。俺とクズハ。城壁への挑戦。
あと1メートル。あのいじめっ子の……苦しげな、笑顔。
窓枠に、手が掛かった。俺は呼吸を整えると、一気に息を吸い、手のバネを駆使して窓枠へ登った。そしてクナイで窓ガラスを粉砕し、中へ転がり込む。
中は全き闇のように思われた。だが暗闇に目が慣れるうちに、闇の中でチロチロと燃える炎が目に入った。
「(えっちょっと待って早くない……?)は、はぁーい! 今行きまーす!」
誰かの声が聞こえ、俺は両手にクナイを作り出して警戒した。女性の声だ。こんな城の最上階に居るとなれば、普通の女性ではあるまい。恐らくゴブリンの親玉だ。
天井のシャンデリアに火が灯った。眩しさに目を細め、辺りを見回す。真っ赤な絨毯、そして壁にかけられた絵画。部屋の奥の玉座は、城の主がここに居ると語っている。と、玉座の陰から誰かが飛び出した。
「も、もぉーバル様ったら! 早く来るなら仰ってくれればいいのに、お人が悪いんだからぁっ☆ ルルコ、怒っちゃうゾ☆ ぷんぷん☆……アンタ誰よ」
きっつ。
「すみません、部屋間違えました」
「あ、そうですか。よくある事ですよね、どうかお気になさらず……いや、ねーよ! アンタ誰!? なな、なんでここに人間がいんの!?」
現れたのはゴブリンの女王と思しき女性である。大胆に胸を開いた装束、そして際どいラインで腰に巻いた布。手には鞭を持っている。パッと見、そっちの店の関係者だ。
「ルルコさん、俺はルビーとアメジストを取り返しに来た」
「あ、ああ、アンタがルルコって呼ぶんじゃねーよ! 私はゴブリンの女王、カルルシャス! ちゃんとそう呼びなさい!」
喋ってる途中から徐々に冷静さを取り戻し、女王カルルシャスは敵意を剥き出しにした目でこちらを睨み付ける。
「ここは神聖なるゴブリン族の王域! 許しなく立ち入る事は宣戦布告と捉えかねんぞ!」
胸をはり、高らかに威嚇するカルルシャス。だが俺もここまで来て退く訳にはいかない。当然、声を張り返す。
「その宣戦布告が今、人間の世界で現実になってる! アンタが持ってるルビーとアメジスト、それが無ければ大勢が死ぬ! それを止めたくて俺はここまで来たんだ!」
一応の主張を言い終え、俺は女王を見つめる。さあ、どう出るか。
カルルシャスは言葉の意味を吟味し、玉座の裏の壁を鞭で叩く。すると壁の一部が回転し、裏に秘匿されていた二つの宝石を表に出した。燃え盛るような輝きを放つルビー。吸い込まれそうな深みを持つサファイア。壁に埋め込まれたそれらを見詰め、俺は美しさに息を呑んだ。
カルルシャスは鞭を巻き取り、俺を見つめる。
「成程、そちらの事情があるのでしょう。ですがこれらの宝石は既にとある『魔将』に献上すると約束してしまいました。易々と渡すわけにはいかないというのは、分かりますね?」
カルルシャスの言葉に、俺は唇を噛み締める。どうすれば説得できる?
女王は腕組みの姿勢のまま、俺を見つめる。暫く沈黙が場を支配したが、やがて女王は溜め息を吐き、頭痛をこらえるように目を瞑った。
「……ですが、そうですね。私達ゴブリン族にはとある掟が存在します。『勝者には絶対の服従を示せ』。この意味がわかりますか?」
俺はハッと顔を上げる。彼女はきつく目を瞑っていたが、嘆息して目を開き、俺を見た。
「……ええ、私は女王です。たとえ姑息な手だったとしても、ここまで来た事には敬意を表しましょう。忍びの者よ、ゴブリンの女王と対する準備は良いですか?」
急展開だ。だがそれは希望を見出せる展開だ。俺は一も二もなく頷く。カルルシャスは頷き返し、再度床を鞭で打った。途端に天井、床下、廊下側から溢れるゴブリンの大群。
それらはカルルシャスと俺を取り巻き、巨大な輪を作った。
「おーおー、来るところまで来たのう。死ぬなよ、ウズマサ」
「その気はないさ……」
俺の肩からぴょこんと顔を出した狐っ子を見とがめ、カルルシャスが声を上げる。
「1対1の決闘ですよ!」
「わーかっとる、分かっとるわい! そうは言ってもお主、直前までクライミングしてて精も根も尽き果てそうな男にサシで勝つって、武勇どころか恥じゃぞ、恥。ちっとくらいのハンデは見逃さんかい」
「……貴女自身は手を出さないと?」
「誓う、誓うのじゃ! そりゃもう、こんな間抜け面が間抜けに決闘で死ぬなら勝手にしてくれって感じじゃし」
うわぁ……個人でここまでうざくなれるもんなんだなぁ……。
「アドバイスの二つ三つするかもしれんが、見逃せる範囲でのみに留める! それともお主、何か? こんな低級モンスターと小童一人、満足に打ち倒すこともできんと……?」
「……良いでしょう。ただし、貴女に攻撃が当たっても一切関知しませんからね」
「はじめっから余計な気遣いじゃ、小娘め」
こいつ、本当に煽りだけは一級品だよな……。
「では、決闘を開始します。鞭の一打ちで絶命しないよう、せいぜい転がり回りなさい」
冷酷にカルルシャスが言い放つ。俺はクナイを構え、来るべき攻撃の瞬間に備える。要はドッヂボールと同じだ。相手の攻撃を躱し、クナイを投げ込む。そうすれば勝機はある。
「油断するでないぞ。本気で死ぬからの」
クズハの言葉が終わるか終わらないかのうちに、俺の足元の床が爆ぜた。俺はバランスを崩し、転がった。そして鞭が振るわれた事を理解した。いくら何でも速すぎる。
辛うじてカルルシャスの手元に引き戻される緑の残像が見えた。女王の腕が霞んだ。俺は死の予感の中で、がむしゃらに跳躍した。
またしても爆発が起きた。鞭が床を抉り、蛇のようにのたうっている。
「ほっほーう! やるのうウズマサ! まだ五体満足とは、儂も少々驚いておるぞ!」
肩の上、大興奮のクズハが叫ぶ。言い返す事もできず、俺は無様に横に転がった。一瞬前まで俺の頭があった場所に、鞭の先端が叩き付けられた。
俺は反撃のクナイを投じた。カルルシャスは気にも留めずに鞭を振るう。高速の鞭は俺の脇腹を捉え、弾き飛ばす。
クナイはカルルシャスに掠りもせず、壁に突き立つ。俺は転がって苦痛に耐え、更にクナイを精製して投げる。今度は当たる軌道だ。
が、カルルシャスの腕がまたしても霞んで見えるほどの速度で動き、クナイを掴み取って放り捨てた。
「随分とノロマだこと。一体何日かけて我が城を攻略したのやら」
「聞いて驚くなよ、なんとこの馬鹿、丸一日掛けてここの城壁をよじ登って来たのじゃ!」
「ナメクジめいた所業。よく体力がもった事です」
クズハと女王が交わす会話を他人事のように聞き、俺は必死に転がり回る。鞭が次々に床を穿ち、確実に俺を目掛けて襲い掛かる。
無情にも、城壁を登って来た疲れが牙を剥き始めた。加えて、麗佳と分かれてからここまで不眠不休で動き続けた疲れ。限界が見え始めていた。
「もう限界ですか、呆気ない」
そして簡単に看破される疲れ。俺はあらためて、自分が途方もない事をしようとしていたのだと悟った。今更になってダルタスの警告が脳裏を過った。
だが諦める訳にはいかない。当然だ。繋がれたバトンを落とすわけにはいかない。
俺は反抗のクナイを精製しようとした。だが喉に鞭が巻き付き、動作を阻害された。
「小僧ッ……」
クズハの焦ったような叫び。カルルシャスは容赦なく鞭を握り締め、俺を鞭の先端に巻き付けたまま、身体を捻って回転を始める。
凄まじい膂力。俺はロクな抵抗もできず、回転に巻き込まれ、遠心力に振り回され始める。鞭の竜巻。
壁を削り、ガラスを割り、玉座をぶち破り、シャンデリアを突き抜け、俺は床に大の字に叩き付けられた。痛みはすぐにはやって来ず、ただ、鈍い軋みのような感覚が全身にまとわりついていた。
尻尾で全身を覆っていたクズハは、俺の身体の下からもそもそと抜け出し、不安げに俺の顔を覗き込んだ。朦朧とする視界の中、それがわかった。俺は皮肉な笑いを飛ばそうとし、出来なかった。ダメージが。深すぎる。
「……ここでやめれば、命までは取らないでおきましょう。あなたは勇敢でした。その行いは誰にも責められません。よくやりました、人間の戦士よ。命を粗末にする事はない」
カルルシャスはもう終わったような口調だ。実際、もう終わっているのだろう。俺は笑おうとし、やって来た痛みに顔をしかめた。こんな苦しみの中で、麗佳は笑っていたのだろうか。冗談ではない、こんな場面で笑えるなど、正気の沙汰ではない。
そう、正気ではない。俺の口元は笑みで歪んだ。引き攣るような声が喉から漏れた。
「は、は、は、は……」
「……何故笑うのです、人間。何が可笑しいのです」
「だってさぁ……悔しいだろ、あんな女に、負けるなんてよ……まだ俺は動けるってのに……寝てる場合じゃないよな……」
俺は床に手をついた。全身を鋭い痛みが駆け抜けた。カルルシャスが警戒し、鞭を構えるのが分かった。
立て。負けっぱなしじゃ終われないだろ。
もう二度と、食堂で隅っこの席には座らない。もう二度と、下駄箱を開くたびに出て来るゴミに怯えたりしない。もう二度と、誰も居ない教室で誰かを恐れて席に座しはしない。もう二度と、後ろ暗さで目を閉ざしはしない。もう二度と、あの女から逃げない。
立て。俺はまだ、戦える。
膝をついた。背中に突き刺さっているシャンデリアの破片がこぼれ落ちた。俺は生きる責任と重圧を背中に感じ、必死に歯を食いしばった。なんと、なんという重さだろうか。俺は今日まで、この重さから目を逸らし、死に続けていたのだろうか。いじめられているのは仕方がないと、空虚に笑って過ごしてきたのだろうか。
「……本当に死にますよ」
カルルシャスの声が聞こえた。俺は今度こそ歯を剥きだし、笑って答えた。
「……違うさ。俺はようやく、生き始めたんだ」
そして、俺は掌の中、輝きを放つ二つの宝石を持ち上げた。カルルシャスは気付き、玉座の後ろ、壁に飾ってあったルビーとアメジストを見た。だがそれらは、そこにない。
何故ならば、先程の大回転の時に、俺が咄嗟に奪ったからだ。
「卑怯な……」
カルルシャスは鞭を振り上げようとした。俺は掌の中、宝石が一層強く輝いたのを感じた。
直後、俺の全身から炎が噴き出し、カルルシャスへ向かって飛び掛かった。
「!!」
咄嗟に鞭で炎を切り裂くカルルシャス。しかし炎は爆発し、広間の天井まで届くほどの火柱を立ち上がらせた。
「ほーう、こりゃたまげた。ウズマサお主、遁術の素養も目覚めたか。ドーピングみたいなもんじゃが……」
火柱を見上げ、クズハが感心したように呟く。俺は掌の宝石から断続的に供給される未知の力を感じていた。それが溢れ出し、形となって女王へ牙を剥いたのだ。
火柱を突き破り、鞭が襲い来る。それを腕に巻き付かせ、俺は炎の向こうを睨んだ。カルルシャスが、歩いて出て来た。
「正直なところ、少し侮っていたという所を認めざるをえません」
女王は炎をものともせず、気品と余裕の仮面を貼り付けている。だがその瞳には隠し切れない動揺、そして微かなダメージの兆候が見える。
俺は俄然やる気になり、よろめきながら立ち上がる。勝てる。勝って遺恨なくこの場を納めることができる。若さゆえの思考だったのだろうか。俺は直後に考えを改めることになる。
俺達の戦いがヒートアップする中、周囲で輪を作っていたゴブリンの一匹が窓の外に気付き、視線をそちらへやった。雷雲が城の上空を覆い、外は真夜中のように暗くなっていた。
その『気付き』は次々に伝播し、一匹、また一匹と、窓の外へ視線を移し始める。その時には流石に俺とカルルシャス、クズハも気付いた。
雷鳴が轟いた。カルルシャスは顔面蒼白になり、数歩後退った。俺は何が何だか状況が飲み込めず、ただ外を、外から迫りくる謎の存在感を感じていた。
「……来るな、これは」
クズハがぼそりと呟いた。何が来るのか問おうとしたその瞬間、巨大な龍が城の壁を突き破り、玉座の間に突入した。
俺は咄嗟に構えようとしたが、巨大な龍はすぐに搔き消えた。俺は直ぐに、それは威圧感が見せる幻覚だったのだと悟った。
黒い甲冑。腰に帯びた大きな黒曜石色の剣。優に2メートルはあろうかという巨体。
「あ……ば……ばっ……」
カルルシャスは威圧されてしまい、口をパクパクと動かし、声にならない声を発している。
黒い騎士は首をかしげてカルルシャスを見ていたが、視線を滑らせ、俺に兜を向けた。兜の奥の眼光が俺を射抜いた。掌が汗ばみ、宝石を取り落としそうになるのを必死でこらえた。
「おーう、バルバトスじゃ、久しぶりじゃのう!」
ただ一人、クズハだけは呑気に手を振り、笑顔を振りまいていた。