出会いの少女
時間に溺れる感覚があった。胸が締め付けられるように痛み、目に映る光景は暗く歪んでいた。俺が覚えていない記憶が、何重にも張られたモザイクフィルタを通して目の前に溢れ出した。
誰かが笑っている。それは明らかな嘲笑だった。俺は酷く悲しくなった。そして裏切られた心地で居た。それがどんな記憶だったか、俺は思い出そうとした。だが記憶は俺の掌からこぼれ落ちていく。
(アンタみたいな奴が……)
俺のような奴が、何だろうか。その言葉を思い出そうとした直後、またしても時間の奔流が俺を襲った。
奔流は酷くリアルな質感を伴い、俺の鼻に入って来てむせた。……いや、時間の流れってもっとこう、ロマンチックなものじゃない? 普通人の鼻に入ったりする? しないよね?
「なあにを寝惚けた事を。もう一発浴びせかけた方が良さそうだなあ?」
誰かの声が聞こえる。天井に立っている人間が何かを掴み、俺にその中身をぶっかけてくる。俺は盛大に咳き込み、えづいて涙目になりながら、必死に鼻から水を追い出そうとした。これ懐かしい! プールで溺れかけた時の奴だ!
「ゲホッ、ちょ、やめ、何すんだ……」
必死に言葉を絞り出せば、その人物はようやく俺に水を浴びせるのをやめ、桶を足元に置いた。……足元に? ……奇妙だ、地面が上にあり、天井が下にある。
俺はこの時ようやく、自分の身体がぐるぐる巻きに縛られ、天井から逆さに吊り下げられていると悟った。逆さ水責めなんて非道な。人権を守れ人権を。
先程まで俺を拷問していた男は呑気に笑い、その恰幅のいい身体を揺らす。
「はっはっは、ようやっと起きたか。いや、あれだけ強力な睡眠毒を食らって早い方か? ともかく、おはようさん、侵入者どの」
「し、侵入者ァ?」
全く覚えのない話である。俺は今日まで法律を遵守し、人の家屋には勝手に入らないように……あぁ、いや、待て……そう言えば太ももに吹き矢を食らった忌まわしい記憶があるような……。
「ちょっ、ちょっと待て。俺は門に近付いただけなのに、それだけで侵入者扱いになるのか?」
「疑わしきは罰する。これがうちの掟でな」
「んな無茶な!」
俺が異論を申し立てようとすると、男はカラカラと人の良さそうな笑い声を出す。
「無茶も無茶、大無茶よ。うちの村はもうじき大きな……おっと、侵入者どのに言うべきではなかったな。ともかく、まあ、何だ。起きてくれてよかったという事だ。これから村長に会いに行くから、心の準備をしておくように」
「ちょっと待ってくれ、起きたばっかりで心の準備が、というか村長!? なんで!?」
「良い良い、どうせ準備など無駄も無駄よ! さあ行こうぞ!」
そう言うなり、男は天井に括り付けていた紐を外し、俺をひこずって歩き出す。いや待って、それはいかんでしょ。普通に歩かせろ。
「痛い、痛い痛い!! ちょっ、階段、階段くらい立たせっ、てっ、くっ、いたっ、ちょっ、おじっ、おじさまっ、」
「はっはっは、元気が有り余っておって良い事じゃ! これなら村長にも弁が立つ事間違いないのう!」
じじい覚えてろこの野郎。
――――
「……で? この者が件の侵入者か?」
お白州に藁を引いてその上に座らされ、俺は酷く時代錯誤な裁判に怯えていた。
俺の目の前、座敷の上には隻眼のコワモテおじさんが座っている。丁髷が凄い。そして座敷の奥、欄間に掲げられた剣が凄い。何が凄いってどっちも大剣みたいな形してるんだよね。威圧感で潰されそう。ナレーションでふざけてないと俺泣いちゃう。
「随分……ひ弱な見た目だな? これがウノダ村からの間者だと?」
「はぁ、しかし疑わしきは罰すると掟に定められたのは森津もりつ様でございますゆえ」
「分かっておる。ワシ自身がようく分かっておる。が……成程、こんな頼りない見た目の者も罰してしまうのが今の掟か……少し考えを改めた方が良いかもしれんな……」
なんか凄い失礼な事言われてない? 大丈夫? 俺そんなに頼りない?
「サノダ村を守るためです。ここはひとつ、やはり森津様自身からの問答掛けをしていただくのが通常かと思い、ここにこうして儀式の場を作ったのでございます」
「……それもそうか。蔵元くらもと、貴様の村を思う気持ちを尊重するとしよう……では、侵入者よ」
隻眼がこちらを見据える。その空気の変容に、俺は自然と姿勢を正し、目を見返してじっと動けなくなる。
「貴様の名を言え」
「お、俺の名は広隆こうりゅう 太秦うずまさです」
「コウリュウ。聞いた事も無い苗字だ……」
村長は顎に手をやり、しばし沈思黙考する。が、やがて諦め、また問いを発する。
「ではウズマサよ。貴様がここへ来た目的は何だ?」
「元の、世界へ帰る、方法を……知りたくて、来た」
「元の世界?」
村長と拷問男が目を合わせる。そして二人とも視線を戻す。
ここまでで分かってる人とか居るだろうけど、俺は別に返答したくてしてるんじゃない。この場に居ると、何故か村長の問いに答えなければならないように感じてしまうのだ。それは……そう、言うなれば、魔法のような強制力を感じさせた。
「嘘を吐いているか?」
「いいや、吐いて……ない」
「フゥーム……ますますもって怪しい男よ。頭がおかしいのか?」
「俺は……まともだ」
いや、自信がない。俺はこの世界で正気を失った一人なのかもしれない。元の世界など最初から無くて、俺はこの世界の住人だったのかもしれない。全部全部、俺の妄想だったのかも。
「……ではウズマサよ。仲間は居るか?」
その問いに、俺ははっと目を見開いた。そうだ、俺の存在証明とも呼べる女が居た。アッチに居た時は憎い敵だったが、こちらに来てからは多少頼りになるハズ。というかあのゴリラ侍は何処へ行ったのだ?
「居る……いや、居たはずなのに何処へ行ったのか……」
「そやつの名前は?」
「泉 麗佳」
「ハッ、やはり聞いた事も無い苗字よ。さては貴様ら、流れ者か。ならば納得がいく話ではあるがな。……さて、ともかく妙な連中の目的は割れたが、妙な動きをされて村内を荒らされてもかなわん。蔵元、こやつを牢につなぎ直せ。戦争が終われば出してやる」
「御意に」
なんだかまた牢屋に入れられそうな雰囲気になっている。俺は縄で縛られたまま、ぴょんぴょんとエビのように跳ね、必死に無実を叫ぶ。
「待ってくれ、これを外してくれればさっさと消える! アンタ達の村からも出て行く! 牢屋に逆さづりは勘弁してくれ!」
「諦めろ坊主、戦争は準備から戦争なのだ」
キセルから灰を落としながら、村長は呟いた。
――――
「なあーー、おーーーーーい。出してくれーーーーーー。俺は無実だーーーーーー」
逆さまに吊り下げられたまま、俺は格子の外へ向けて無実を訴える。誰も聴いていない事は知っていたが、それでもこの身の潔白を証明したい衝動は止められなかった。それでも僕はやってない。
というか何の容疑だ。何もしてないのに牢屋行きなんてちょっと酷過ぎるんじゃないか?
そこまで考え、俺は村長の言葉を思い出した。『戦争は準備から戦争』。まさか、この村はどこかと戦争を起こそうとしているのだろうか?
「冗談じゃないぞ、俺は戦火に巻き込まれて死ぬのはまっぴらごめんだからな……!」
体のバネを使い、びょんびょん跳ねて拘束を脱しようとしながら、俺は理不尽に対する怒りを燃やす。ああ、傍から見ればなんと間抜けな光景だろう。御仏様も照覧あれ。カンダタは天から垂れる蜘蛛の糸に希望を見出したが、俺は雑なSMロープより酷いものに絶望を味あわされている。
と、牢の外で何かが動いた。俺は見回りが来たのだと思い、ぴょんぴょん跳ねるのをやめて瞬時に逆ケバブのように立派な彫刻になる。
その小さな影は牢の鍵を開くと、いかにも抜き足差し足といった風に俺の頭の下に歩み寄って来た。俺が片目を開いて見下ろすと、少女が見上げてきているのが分かった。今時見ないような、派手な紫色の着物を着ている。
少女の耳は黄色く、三角に尖っていた。尻の辺りからは4本ほどの黄金のふさふさ尻尾が生えている。その少女(と呼んでいいのだろうか)は、興味津々に輝く瞳で俺の身体の縄を見上げている。
おいおい悪いがケモナー歓喜のデリバリーヘルスを頼んだ覚えはないぞ。なんだコイツは。
「……えぇと、誰?」
「おぉっ、起きてたのじゃ……儂は儂じゃ」
誰だよ。儂儂詐欺やめろよ。
「いや、儂って言われても分からないです……」
「なんとぅ!? お主、儂の名を知らんのか! 遅れとるのぅ、それは実に遅れとるぞ!」
ハァーーーーー?? 遅れてんのは今更ケモミミロリババア属性で出てきたテメェのキャラデザだボケ、と言いそうになり、一旦深呼吸して辛抱強く会話を続けようとする。これは脱走のチャンスだ。ふいにするのは惜しい。
「すみません、田舎から出てきた者でして。この辺の事情に詳しくないんですよ」
「そうか、なら仕方ないかのぅ。だがいずれ儂の名はその辺りのクソド田舎にも響かせてやるからの! 案ずるでないぞ!」
「はぁ……」
頼むから会話が成立するタイプの性格であってくれ。俺の祈りは悲痛だった。
「あの、この縄……」
「やっぱり気持ちええのか!?」
「ほどいて……え?」
今なんつったお前。
「な、縄が肌に食い込む感触はたまらんのか!?」
少女は目を爛々と光らせ、食い入るように俺の身体、そして身体を縛る縄を見詰めている。その鼻息は荒い。何この子怖いんだけど……。
「いや、たまらんって言うか、痛くてたまらんと申しましょうか……」
「は、はぁぁぁぁ~~っ。そ、それは何と言うか……羨ましい限りじゃのう……」
オイ誰か! 頼む! 助けてくれ! こいつ頭おかしいよ!
「いや、その……ほどいて……」
「痛みが快感に変わってくるんじゃろう? 肌に食い込む荒縄の感触が徐々に甘い痺れを伴い始め、快楽に戸惑うように身をよじれば更なる痛みが体を締め付け、ままならないじれったさがまた甘い蜜を」
ふえぇ……官能小説の読み過ぎだよぉ……。頭おかしいトークに付き合わされてたら俺までおかしくなりそうだ。早いところ脱出の手立てを見つけなければ。
少女の瞳は未知なる快楽を求めて蕩け始めている。勝手にヒートアップしてるんだから世話ないよこの子……。というかどうやってこの牢屋の鍵を手に入れたの?
「むっ、少年が徐々に儂の有能さに気付き始めたようじゃな! そう、儂は今日、縄で縛られている貴様に縛りプレイの現地調査をするため、牢屋番に化けて牢の鍵を手に入れて来たという訳じゃ!」
「その無駄な努力を他に活かすという発想は」
「むっ、無駄と言うな! これでも儂はプレイングに対する調査は超念入りにしているのじゃ! これぞ相手を思いやる心!」
「いや、我欲だろ……」
もう助かる見込みは絶望的だ。こんな頭の沸いた子狐一匹じゃ助けてもらえもしないだろう。俺はふてくされ、好きな曲を口笛で吹きながらクルクルと回転し始めた。
その時、微かな足音が聞こえて来た。俺は口笛を吹き止め、狐少女に目配せする。少女は俺の腹に飛びつくと、まるでカメレオンのように擬態した。いやどうやってんのそれ……。
数秒後、刀を携えた女侍が牢の外に現れた。
「レッ……」
思わず叫びそうになったが、麗佳は唇に人差し指を押し当て、静かに牢の中へ侵入してきた。そして刀を構えると、俺の足から全身を縛る縄を断ち切る。
頭から床に落下し、呻く俺。擬態が解け、俺の下腹部で身体を現す狐少女。それを見て固まる麗佳。
「……へえ」
麗佳の瞳が冷たく輝く。これはやばい。本気でキレた時の顔だ。
「私が必死に情報を集めて村を駆けずり回ってたって時に、あなたはケモミミ風俗少女とお楽しみだったって訳ね」
「待ってくれ、誤解がある気がする」
「縄は気持ちよかったらしいぞ!」
「お前ほんと黙ってろ、今だけは黙っててくれ」
「……とにかく来なさい、変態ドMロリコン野郎」
――――
「……まあ、そういう訳なんだよ」
説明を終えても、麗佳はいぜん穢れたものを見る目付きで俺を睨んでいる。何もなかったんです。襲われそうになってたのは僕です。信じて下さい。
「まあまあ麗佳ちゃん、許してやんな! そんくらいの年頃の男ってのは誰でも一発や二発かましたくなるもんさ!」
御盆に茶漬けを載せて運んできながら、おばちゃんが気さくに笑う。フォローしてくれるのは有難いけど違う。一発もクソも無かった。俺は縛られてたんだからな!
村の中の飯屋にて。麗佳が女性店主に掛け合ってみれば、店主は快く場を貸す事を承諾してくれた。その上飯まで作ってくれるという大サービス付きだ。
「はぐはぐ……美味いのう、この茶漬けは。店主ー、おかわりー」
この駄狐娘はなんでついて来てるの。そしてなんで俺の分の茶漬けまで食ったの。ツッコミたい事が満載すぎるよ。
「……取り敢えず、状況を整理したい。この村は今どうなってるんだ」
「……戦時下。正確には戦争に向けて着々と準備が整ってる状況よ。何がどうしてこうなったのか、その辺はあまり聞き込めなかったけど……」
「嫌なご時世さ! サノダ村とウノダ村がどっちかの宝を奪ったってね。どっちも互いに『盗られたのはこっちだー』って譲らないもんだから、とうとうこんな状態になっちまった。全く、どっちかがさっさと折れればいいのにねえ」
小声で話していたが、厨房に入って行ったおかみさんには聞こえていたらしい。村の中だというのに、恐れる事も無い大声を飛ばしてくる。
「人間という生き物はいつまで経っても変わらんのう。命より面子が大事な生き物なんぞ、昨今じゃあ人間だけじゃぞ。おーつまらん」
「違いない! 嬢ちゃんは見た目の割りに賢いんだねえ!」
おかみさんと狐少女が言うのを聞き、何故か少し複雑な気分になりながら俺は沈思黙考する。
戦争を止めるか? 止めるとすればどうやって? 逆に見過ごせばどうなる? 皆が死ぬ。あの人の良さそうな拷問男も死に、このおかみさんも死ぬだろう。
止めたい。止めたいが、その手段が浮かばない。それに俺は、もう一つ、根本的な疑問を抱えていた。
……この世界は、俺の刹那の夢ではないのか? 俺は、たかが夢の為に必死になれるのか?
「……言っておくけど夢じゃないわ、ウズマサくん。ここは紛れもない現実よ」
思考を看破されたのだろう。幼馴染は俺の目を真っ直ぐ見詰め、その言葉を叩きつけてくる。思考までいじめてくるとは流石生粋のいじめっ子だ。俺は苦笑し、また運ばれて来た茶漬けに手を付けようとした。
だが直後、店ののれんを押し退け、大量の武士たちが雪崩れ込んできた。
「動くな! 脱走者がここに居ると聞いた!」
俺は思わず立ち上がり、一歩退いた。麗佳も立ち上がり、腰の刀を抜く。
「ちょっとなんだい、物騒なことは表でおやりよ!」
「斬り捨て許可は出ている! 早々に降参し、お縄に付けい!」
「お断りよ、剣技でさせてみせなさい」
「おうおう、物騒じゃのう……」
一触即発の空気が充満する。茶漬けの椀に乗っていた箸が転がり落ちた瞬間、剣戟は開始された。