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どうしよう……。これは完全にやらかしたのではないか。
仕事帰り、夕飯の買い物にと寄ったスーパーで優梨佳はスマホ片手に固まった。今日はマグロが安かったこともあり、漬け丼にでもしようかと考えていたのだ。相性の良いアボカドと和えてもいい。
そんなことを考えながら、浩之に夕飯を食べに来ないかとメッセージを送った。会計を済ませ、品物をエコバックに詰め終わった頃、返ってきたのは丁寧な断りの言葉だ。
同僚と飲みに行くという内容の返事を読みながら、優梨佳は途方に暮れた。
今朝の様子に今の返信。やっぱり避けられているのだろうか。いや偶然が重なっただけなのかもしれないが……。
せめて自分が何をしたのか覚えていれば良かったのだが残念ながら覚えていないのだ。学生の頃、初めてお酒を飲んだ時からそうだ。飲むと、そこから記憶がない。
謝るタイミングすら掴めない現状に落ち込み、口から零れるのはため息ばかりだ。
どうしよう、どうしよう、どうしよう……答えは出ないまま思考はぐるぐる回るだけ。そんな時。
突然、スマホが着信を告げた。画面を見れば表示されているのは立華芹亜。親友の名前だ。
『久しぶりー!突然だけど今日空いてる?実家から野菜もらったんだけど一人じゃ使い切れなくてさ。優梨佳いらない?』
スマホから聞こえてくる、親友の明るい声。その声に優梨佳はなぜだか涙が浮かんできた。
「せりー!野菜いるー欲しいーあと話聞いてー」
『……どうしたの?何かあった?』
涙声になっているのが電話越しでも伝わったのだろう。芹亜の声に気遣うような響きが混じる。
高校時代からの親友である芹亜は酔った時の優梨佳を知っている。酔った時の行動が分かれば、何か良いアドバイスが貰えるかもしれない。
『とりあえず、行くわ。家にいる?』
「今から帰るところ」
『了解。家で待ってて』
ピロンという機械音を残し、通話が途切れる。
浮かんだ涙をぬぐい、親友の声で少しだけ浮上した気持ちと共に優梨佳はスーパーを後にした。
家に帰って手を洗い、エプロンをつける。芹亜が来るまでに簡単に夕飯の準備をしてしまいたい。
まずは米を研いで炊飯器の早炊きモードをセット。それから酒とみりんを小鍋に入れて火にかけ沸騰させる。アルコールの匂いがしなくなるまで煮切りをし、火を止めてから醤油と白だしを混ぜてボウルに移す。小さめのボウルに氷を入れてタレの入ったボウルと重ねて一気に冷やし、タレが冷えたらごま油とコチュジャン、にんにくのすりおろしを加えて混ぜて、サイコロ状に切ったマグロと和えたら冷蔵庫で寝かしておく。
アボカドも同様にサイコロ状に切って、こちらはレモン汁と塩少々と和えて同じく冷蔵庫へ。
汁物はシンプルにわかめと手毬麩のおすましだ。鍋にだし汁と酒、みりん、醤油、塩を入れ沸騰させたらわかめと水で戻した手毬麩を入れれば完成だ。
ピンポーン
インターホンの音が響き、来客を告げる。モニターで芹亜であることを確認してから優梨佳は扉を開けた。
「芹ー!いらっしゃい。どうぞ入って」
「おじゃましまーす」
部屋に上がった芹亜はリビングに行くとダイニングテーブルに持参した野菜を並べた。
「あ、すごい!立派なこたち!」
野菜を手に取り優梨佳が笑う。テーブルの上にはスナップエンドウにピーマン、モロヘイヤ、サラダ菜、大葉と茗荷が所狭しと並ぶ。
端までしっかり実が詰まったスナップエンドウは澄んだ緑色で、ピーマンは緑が濃く艶やかだ。モロヘイヤは葉が活き活きとして緑が鮮やかで、サラダ菜は葉に厚みがありしっかりとしていて新鮮さがよくわかる。大葉はみずみずしい緑色で茗荷はふっくらと丸みを帯びていた。
「美味しそう!こんなに貰っていいの?」
「どうぞー。私は優梨佳ほど料理しないし。使い切れないからさ。貰ってくれると助かる」
「ありがとう!早速いくつか使わせてもらうね」
笑いながらそう言って、優梨佳はモロヘイヤとピーマンを冷蔵庫にと片付け、スナップエンドウとサラダ菜を手に取る。それから茗荷と大葉。
スナップエンドウは洗って筋を取り、オリーブオイルを熱したフライパンで炒めて塩コショウで味を調えて完成。サラダ菜は洗って水気を切って一口大にちぎり、ポン酢とごま油と一緒にあえて、皿に盛ったら鰹節を振りかけて完成だ。
冷蔵庫からマグロとアボカドを取り出して、アボカドの入ったボウルにマグロを移して混ぜたら、大葉と茗荷を千切りに。その時、ちょうどご飯が炊きあがったことを告げる電子音が鳴った。
丼にご飯をよそい、マグロとアボカドを載せて、その上に大葉と茗荷の千切りをあしらう。仕上げに白ゴマをパラパラとふりかければこちらも完成だ。
「できたよー」
ダイニングテーブルに作った料理を運ぶ。
「すごい!美味しそう!優梨佳のご飯久しぶり!」
テーブルに並ぶマグロとアボカドの漬け丼、スナップエンドウのオイル焼き、サラダ菜の和え物、わかめと手毬麩のおすましに芹亜の目がキラキラと輝く。
「いただきまーす」
ダイニングテーブルに向かいあって座り、手を合わせる。
まずはおすましを一口。昆布だしの風味が香るおすましは優しい味わいで、コロンとした手毬麩がお椀の中で揺れる様は可愛らしく目でも楽しませてくれる。
次に漬け丼。マグロとアボカドはしっかりめの味付けでご飯がすすみ、脂がのったマグロの旨味とこってりとした濃い味つけはそれだけ食べても美味しいが青じそと茗荷と一緒にすればさっぱりといただけて、また違った美味しさだ。
「おいしい!」
「野菜もおいしいよ」
頬を緩める芹亜に、スナップエンドウをかじりながら優梨佳も笑う。
旬の野菜のうまみを生かすべくシンプルに炒めただけのスナップエンドウはポリポリとした食感が楽しく、自然な甘みが口の中に広がっていく。
「いや、本当おいしい。幸せだわこれ」
タレの染みたご飯とマグロを頬張りながら芹亜がしみじみと口にする。芹亜も少しは料理をする。だからこそ人に作ってもらうご飯は格別だ。料理に舌鼓を打ちながら、幸せとともにスナップエンドウを噛みしめる。カリポリと小気味よい音の響きを聞きながら口を動かし、米の一粒も残さずに完食する。
「ごちそうさまでした!」
満足気に息をつき手を合わせる芹亜。
「おそまつさまでした」
同じく食べ終わった優梨佳が笑いながら席を立った。空いた食器を重ねて、キッチンへと運ぶ。
「コーヒー淹れていい?」
シンクで洗い物を始めた優梨佳に声をかけ、芹亜もキッチンに入ってくる。
「よろしくー。豆は冷凍庫ね」
「了解」
芹亜の申し出に優梨佳は丁寧に食器を洗いながら答えた。遊びに来るとよくコーヒーを淹れてくれる芹亜は勝手知ったるといった様子でコーヒーミルと豆を取り出し、コリコリと挽き始めた。
「そういえば、話って?何かあったの?」
「それ!あのね……」
「……つまり酔って何をしたかを知りたいってこと?」
「そうですね」
食器の片づけを済ませ、コーヒー片手にダイニングテーブルに移動する。
話を聞きながらコーヒーをすすりつつ、優梨佳を見つめた。
うつむく優梨佳の手の中で、フルーツや花々の束を縄でつないだ花綱モチーフで凹凸の型押しが立体感のあるデザインの白いマグが握られる。コーヒーの暗褐色が本人の心を表しているかのようにゆらゆら揺れる。
「……特に何もしてないと思うけど?」
「……でも避けられたよ?」
不安そうにつぶやく優梨佳に芹亜はどう声をかけるべきか悩む。
優梨佳の酔い方は特に人に迷惑をかける様なものではない。ちょっと?かなり?ふっわふわになるだけだ。機嫌よくふにゃふにゃ笑って可愛さが増し、警戒心が無くなる。挙句、そんな自身を翌朝には全く覚えてないと言う。危険極まりない。
学生時代、飲みの席では優梨佳狙いの下心丸出しな男どもを威嚇しては追い払い、お開きと同時に早々に連れ帰るまでが芹亜のルーティンだった。
今回も優梨佳自身は対して何もしていないだろう。それで避けられるのだとすればそこは相手側の問題ではなかろうか。
「というか優梨佳、男の前で酔ったりして大丈夫だったの?」
「なにが?」
「変なことされてない?」
それこそ覚えてないのかもしれないが親友の貞操がかかっている。事と次第によっては隣人だという相手の元に乗り込み、警察に突き出さなくてはならない。
「服が乱れてたり、何か無くなってたりとか」
「ないよ!?え?そこの心配!?」
「それ以外何を心配すんのよ」
呆れたと言わんばかりに溜息をつく芹亜。自覚がないのも考え物である。
「……そんな人じゃないよ、浩之さんは」
「ふぅ~ん、ひろゆきさんねぇ……」
「……なに?」
「別に~」
にやにやと笑いながら言われた言葉はどこかからかう様な響きを含んでいて、優梨佳はわずかに眉を顰めた。
「まぁ私が言えるのは酔った優梨佳は可愛いってことだけだよ。迷惑かける様な酔い方はしないし、そこは安心していいよ」
「……本当に?」
「うん」
「……じゃあ何で避けられてるの?」
はっきりと頷いた芹亜に優梨佳は尚も不安げな様子だ。
「それはもう本人にしかわからないことだから。むしろ何で優梨佳はそんなに気にするの?隣人と気まずくなったところで関わるのやめればよくない?」
隣人とはいえ毎日顔を合わせるわけでもないのだ。時間をずらせば会うこともないだろうし、しつこく付き纏われるのなら問題だが、避けられるのであれば特に害はないのではなかろうか。
「それは……だって……さみしいじゃない。せっかく仲良くなれたのに……」
「それだけ?」
「え?」
「仲良くなれたからさみしい。それだけなのかなぁって」
芹亜の含みがあるような言い方に優梨佳は首を捻るだけだ。
それ以外に何かあるだろうか?
「別にさ、仲良くなったからって疎遠になることはよくあることだし、さみしいけどまぁそんなもんじゃん。そんなに気にするのは何でかなぁってね」
「それは……だって……」
大好きだった歌声が特等席で、しかも独り占めして聴けるのだ。そんな贅沢なことがあるだろうか。一緒にする片づけやコーヒーを飲みながらする他愛もない話は楽しいし、名前で呼ばれたときは嬉しくて自然と笑顔になっていた。美味しそうに料理を食べてくれて、「おかわり」と告げる笑顔が嬉しかった。こんなに美味しそうに食べてもらえるならまた……。
「また、一緒にご飯食べたいなって思うから……」
そう口にしたら、何故だかストンと腑に落ちた。
あぁそうか。ご飯、一緒に食べたいな。喜んでもらいたいな。いつだって美味しそうにたくさん食べてくれるから。あの全身で表現されるような「美味しい」を。あの笑顔をずっと見ていたいと思うから。だから……。
「一緒に食べる相手が欲しいだけなら私がいつでも食べにくるよ?」
「ありがとう、芹。でも……」
芹亜と食べるご飯も、もちろん楽しい。芹亜だって美味しそうに食べてくれるし喜んでくれる。それは嬉しい。けれど、浩之とはやっぱり違うのだ。「美味しい」と言われて胸が高鳴るのは、ふわふわとした温かい気持ちになるのは、ずっと見ていたいと思うのは、浩之だけだ。
「そっか……わたし、浩之さんが好きなんだ……」
「うん。それが答えだろうね」
するりと零れた言葉に、芹亜はただ優しく笑ってくれた。
美味しいご飯を作って待っててくれる相手がいるっていいですよね。
わたしもご飯作ってほしい!マグロ丼食べたい!
あと人に淹れてもらうコーヒーは美味しいです。




