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朝。玄関扉の前で浩之は立ち尽くしていた。
……もし、ここを開けて、優梨佳と遭遇してしまったら……。
一体どんな顔で優梨佳に会えばいいのだろう。別に普通にしていればいいとは思う。ただ気まずい。
いや、でも出掛けに会うことなどそれ程多いわけではない。たまにはあるし、最初の出会いもそれではあったけど。だからといって毎日会うわけでもない。よし、行こう。
自身の内で気合を入れて、大丈夫だと言い聞かし、玄関の扉を開けて外に出た。その瞬間。
ガチャ
隣からも扉の開く音がして、優梨佳が顔を出した。
「あ!おはようございます」
「お、おはようございます」
目が合って、ふわりと笑う優梨佳に浩之も咄嗟に貼りつけたような笑顔で返す。
このタイミングで!?何で今日に限って!?
「あの、きの……」
「あ、えっと!俺ちょっと急いでて!すみません!!」
優梨佳の言葉を遮る様に慌てて頭を下げると浩之は逃げる様にその場を駆け出して行った。
階段に消えていく浩之の後ろ姿を優梨佳はただ呆然と見送ることしか出来なかった。
気まずい。ただでさえ気まずいのにあの態度は如何なものだろう。せめて何かお詫びを、後は日頃のお礼も兼ねて……。
テレビ局の控え室。赤のインナーに黒の細身のパンツ、黒のライダースジャケットという本日の衣装に着替えを終えた浩之は用意された椅子に座り、スマホを片手にぐるぐると悩んでいた。
何か、贈り物など用意したいところだ。しかし何を贈ればいいのだろうか?そもそも突然のプレゼントなど重たくないか?じゃあやめる?いや、でも……。
「にゃー!」
「わっ!!」
突然の声に驚いてスマホから顔をあげると、そこには三毛猫の被り物を手にした美紅が立っていた。ピンクの開襟シャツに黒地に白のドット模様のサーキュラースカートと太めの黒いベルト、それからスカートと揃いのスカーフを首に巻いている。足元はモコモコの毛皮が愛らしい猫足ブーツで手も同様のグローブだ。ご丁寧に肉球付き。
ちなみに浩之の足元も猫仕様になっている。手はまだ装着していないがモコモコの毛皮が用意されており、浩之はチャトラだ。
「び、びっくりしたー。なに?美紅おねえさんどうしたの?」
「そろそろ時間だし呼びに来たのよ。そしたらスマホ片手に悩んでるみたいだったから」
小首をかしげながら見下ろして、どうしたの?と訊ねてくる美紅。女性視点なら何か気兼ねしないプレゼントがあるかもしれない。
「あのさ、美紅おねえさんはどんなもの貰ったら嬉しい?」
何か良い案が出れば……そう思って聞いてみた浩之に美紅は少し考えるそぶりを見せ、それから自身の左手を翳した。
「わたしだったら指輪かなぁ」
三毛猫グローブの着いた左手の薬指を見つめながらうっとりと言われ、浩之は肩を落とす。
うん、それきっと美紅おねえさんだけだね。しかも人限定されてるよね。
「……ごめん。美紅おねえさんに聞いた俺が馬鹿だった……」
「えぇーっ!?何それ?浩之おにいさんひどい!」
「だってそれ誰からでも良いわけじゃないよね?俺や龍生おにいさんから貰っても困るでしょ?」
「あ、確かにー。ようちゃん以外ならお断りー」
悪気なくころころ笑う美紅に浩之は乾いた笑顔を返した。ちなみにようちゃんとは美紅が高校生の頃から付き合っているという幼馴染の男性だ。
「うん、まぁなんかよくわかんないけど、悩みがあるなら後で皆で聞くよ?」
龍生と亜弥を誘って飲みに行こうと言う美紅に頷いて、浩之はスマホを鞄に入れるとチャトラの被り物と猫手グローブを手に取った。
美紅と二人、スタジオに向かう。
そこでは路地裏をイメージしたセットの中、デニムパンツにオープンカラーシャツとアーガイル柄のジャケットと黒猫の被り物の龍生と赤のノースリーブ前結びシャツとサブリナパンツにチャシロの被り物の亜弥が待っていた。
ドラネコに扮し、路地裏で軽快に飛んで跳ねて歌って踊る。今回のクリップ撮影も滞りなく順調に進んでいくのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
やらかした。
なにをやったのかは正直覚えていないのだけど。
自身がアルコール類に弱いことは優梨佳にも自覚はあった。だからこそ飲まないようにしていたし、酒の席でも気を付けてはいたのだけど。
優梨佳にとってもあれは盲点だった。まさかすすめられたチョコレートにアルコールが入っているとは思っていなかった。そしてまさか、自身がチョコレートで酔うほどだったとは……。
弱いことは自覚していたから今までアルコール入りのお菓子を食べたことがなかったのだ。それがまさかこんな結果になるなんて……。
朝の浩之の様子から考えて、多分何かしらやらかしたのだ。
玄関であった時の浩之の笑顔はなんとなくぎこちなかった。いつもより硬い様な、そんな印象だった。
見送るしか出来なかった背中を思い出すと、キュッと胸の奥が苦しくなる。
話をすることなく、走って行ってしまうことも今までなかったことで、本当に急いでいただけかもしれないが、もし、昨夜のことが原因でこのまま避けられるようなことがあったら……。
「それは……さみしいなぁ……」
ぽつりと零れた言葉は偽りない本心で。
舞台の上だけだった歌声を近くで聴けるようになったこと。美味しそうに料理を食べてくれること。一緒にする食器の片づけやコーヒーを飲みながらする他愛もない話。
聴きたかったあの声が特等席で聴けるようになったことや日常になりつつあることが無くなるのはさみしい。
とりあえず、覚えていない以上は聞くしかない。何か迷惑をかけたのであれば謝らなくては。
謝って、そしてまた……。
***************
行きつけの居酒屋の半個室。四人用の座敷を陣取って、枝豆のガーリック炒めにピリ辛きゅうり、厚揚げの明太マヨ焼きにだし巻き卵、タコの唐揚げとポテサラチーズの揚げ餃子に豚とろのわさび醤油がけといった料理が並ぶなか、それぞれの飲み物を手にとりあえず乾杯をしてから切り出された浩之のお悩み相談会。メンバーはいつも通りの浩之、美紅、龍生と亜弥。
「なるほどね。いつもご馳走になってるから何かお礼がしたいと」
「うん」
「でも何がいいかわからず悩んでると」
「うん」
「で、あわよくば彼女も食べたいなと」
「うん……って龍生おにいさん!?べ、別にそんなこと思ってないから!何言ってんの!?」
枝豆をつまみながらされた龍生からの質問に思わず頷いてしまい、浩之は慌てて否定した。相談ごとはお礼のプレゼントの内容だ。決して食べたいとかそういう話ではないし、もちろん昨夜の優梨佳が酔ってからの一件は話していない。なのに何で!?何でそんな話に!?
「まぁまぁ浩之おにいさん。健康な成年男性ならそう思っても不思議じゃないから」
「そうそう。ってか思わない方が不自然じゃない?聖人君子じゃあるまいし」
「いや……でも……」
龍生と亜弥が何やら悟ったようにうんうんと頷いている。だが浩之としては素直に頷けはしない。何しろ職業的なイメージというものがある。
番組の対象である3歳や4歳の子供たちは母親と過ごす時間が長いためか女性の方が親しみやすい様で、大人の男性には引いてしまうことがある。だからできるだけ中性的とでもいうのだろうか、男性的なところは出さないようにしているのだ。
歌のおにいさんは妖精のような中性的な雰囲気の夢の住人でなくては……!
聖人君子であるべきなのだ、きっと。
「もうーめんどくさいなぁ浩之おにいさん。好きなんでしょ?その人のこと」
「それは……まぁ……一応……」
美紅の言葉には頷くがそれすらも浩之には抵抗がないわけではない。何しろ恋愛禁止だ。堂々と認めていいものか……。
「好きならそれ当たり前だから。人間の三大欲求だよ?部屋まで入っちゃってるならストレートに押し倒せばいいんだよー」
呆れた様な口調で口を尖らせる美紅。子供っぽいそんな仕草が様になっているものの、言ってることは結構アレだ。
「お、押しって……美紅おねえさん、さすがにそれは……」
「けどさ、浩之おにいさん、そういうこと考えたことないの?本当に?」
戸惑う浩之に龍生がジョッキを片手に訊ねてくる。ジョッキの中で金色の気泡がパチパチ弾けた。そんな風に浮かんでは消える思考。
「そ、それは……その……」
答えられずに言い淀む。考えてはいけないだろうことだ。それでも考えてしまうこと……。柔らかそうな髪や艶やかな唇、細い肩に華奢でありながらふっくらとした二つの……。それらに触れてみたいと考えたことがないのかと言われたら……。
……考えたよ。そんなのむちゃくちゃ考えたよ。それでも表に出さない様に必死で抑えて隠してるんだよ。
「そんなこと、考えるわけにはいかないよ……。歌のおにいさんなのに……」
何だか三人の方が見れなくて俯きがちになりながら呟く様に答えた。けれどもそれは返答というよりは自身に言い聞かせるかの様だ。ジョッキの持ち手をギュッと握りしめる手は力を込め過ぎて微かに白みがかっている。
何度も何度も考えて、その度に自分を律して。駄目だと言い聞かせて。おにいさんだから。恋愛禁止だから。何よりも子供たちにとって手本でなくてはならないから。品行方正でいなくては。それなのに……。
昨夜の自分の行為に再び嫌悪感がよみがえり、罪悪感がつのる。
あぁ……本当に、最低だな、俺……。
「ねぇおにいさん、前にも言ったけど禁止じゃないんだよ。恋愛なんてさ、止められるものじゃないんだし」
美紅が浩之のジョッキを握る手の上にそっと手を重ねた。諭すようにその手をポンポンと叩く。なんでそんなこととは思うけど、それでも本人が真剣に悩んでいるのはわかるから。だからいつもほっとけない。
触れた手の優しさに、浩之は顔を上げて美紅を見た。呆れたような、困ったような、それでもどこか優し気に微笑んだ美紅と目が合う。
「好きなら仕方ないじゃん。それは何も悪いことじゃないんだよ。それに、子供たちだって恋愛の末に産まれてくるわけで、恋愛否定しちゃったらそもそも子供たちの存在否定になっちゃうよ」
「……美紅おねえさん?それはちょっと飛躍しすぎじゃ……」
なんだか良いことを言われていたような気がするが後半で一気に吹き飛んだ。そもそも浩之も恋愛自体を否定しているわけではなく、歌のおにいさんとして規則は守らなくてはいけないだろうと悩んでいるわけで……。
「うん。存在否定は飛躍しすぎとして、何が言いたいかというとだね」
あははと乾いた笑いを浮かべた美紅が一度ゴホンと咳ばらいをする。気を取り直したように改まり……。
「禁止だろうがなんだろうがバレなきゃいいんだよ!事実わたしは歌のおねえさんになってもようちゃんと付き合い続けてるよ!」
どうだ!と言わんばかりに胸を張る美紅。その顔はどこか誇らしげですらある。
「ねぇ浩之おにいさん。好きになるのは仕方ない、気持ちは止められないよ。そしてそれは決して悪いことじゃない」
だから、素直になって良いんだよ。そう言って微笑む亜弥も呆れたような、けれどもどこか優しげな、そんな顔をしていた。
「それに、禁止されてるのは恋愛というよりスキャンダルだよね。好きな人がいようが結婚してようが構わない。ただ世間に公表できないような関係は困るってだけでしょ。子供たちのお手本なんだし」
「「それ!!」」
ジョッキを傾けながら言われた龍生の言葉に美紅と亜弥は声を揃えて頷いた。
「だってさ!人を好きになることは悪いことではないし!不倫とかですっぱ抜かれるのはどうよ?って感じだけど」
「真剣交際ならいいんでない?って思うけどね」
口々に言う美紅と亜弥。
幾つかある規則は全て、自分たちは代えがきかない存在だからというものだ。歌のおにいさんおねえさんや体操のおにいさん、ダンスのおねえさんは自分たちだけなのだ。それは自分たちと番組を守るためのものである。けれども決して、気持ちを縛るものでもない。
「好きなら好きでいいし。それに、好きな相手に触れたくなるのも当然の心理だよね」
「まぁ浩之おにいさんがプラトニックだと言うなら?ちょっと言い過ぎたかな?とは思うけど」
「けどぶっちゃけさ、好きになったら欲しいって思うでしょ。距離感さえ間違えなければ悪いことではないよね」
何でもないことのように言う三人の話を聞いていると自分が考えすぎなだけなのかと思えてくる。
「……いいのかな?好きになっても……」
この感情を抑え込まなくても、いいのだろうか?
「もちろん」
揃って頷く三人に、浩之はなんだか泣きそうな気持ちになる。ごまかすように揚げ餃子を口にと放り込み、もぐもぐと咀嚼しながら思いだすのは優梨佳の手料理だ。
……ここの料理も確かに美味しい。
でも……。
優梨佳の作ったご飯が食べたい。
そう思った。
「……って!ちょっと待って!?話ズレてる!相談事が違うよ!?」
俺が優梨佳さん好きだとかって話じゃないから!
思い出したように言う浩之に今度は三人揃って首を傾げる。毎日のように顔を合わせているだけあり息はぴったりだ。
「そうだっけ?」
「お姉さん食べたいって話じゃなかった?」
「好きなら行動しろよってことだよね?」
「違うから!お礼の話!」
ダン!と拳でテーブルを打つ浩之を見ながら三人はそれぞれ好きな料理に箸を伸ばす。そういえばそんな悩みだったかもしれない。
それはそれとして豚トロ美味い。わさび醤油かけようと思った人天才だな、脂っこさが緩和されていくらでも食べられそうだ。だし巻き卵はだしの香りが感じられてしっとりしているし、ごま油と唐辛子で和えられたピリ辛きゅうりは間違いのない鉄板の組み合わせでビールのつまみに最適だ。
「消えモノでしょ?やっぱ。一番後腐れないやつじゃん」
「美味しいケーキとかでいいよね」
「植物好きなら花とかね」
料理に舌鼓を打ちながらどこかめんどくさそうに言う同僚たち。
消えモノ……。とりあえず食べ物にするならアルコールの入っていないものにしなくては。それだけは固く心に決めた浩之だった。
わさび醤油って万能調味料だなって思うんですよね。肉も魚も野菜も大体のものを美味しく頂ける。わさび醤油っていうか醤油か。
基本の調味料なんだから当然なんだろうけど、味付け困ったらとえりあえず醤油使えばなんとかなる気がするよね。
醤油を生み出した人天才だな!いつも助けられてる!ありがとう!!