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仕事が終わり帰途に就く。部屋に帰り着くなり浩之はリビングのクッションに倒れこんだ。疲れた。夕飯どうしよう。何かあったかな。
今日は振り付けの練習日で、今回の新曲は少々激しめのダンスが入る曲だったこともありレッスンにも熱が入っていた。四人で何度も振りの確認もした。レッスンの後も居残り練習や美紅との歌の確認もしていたら、いつの間にか時間はいつもの帰宅時間を大分過ぎていた。
お腹は空いた。しかし動くのがめんどくさい。包み込むように体にフィットして人を駄目にするクッションの効果は絶大だ。
でもこれ、動きたくないのはお腹空いてるからもある気がするな。うん、それだ。よし、頑張ろう。動こう。確か冷食のランチプレートがあったはず……。
気力で体を起こし、クッションから立ち上がる。その時……。
ピンポーン
室内に響くインターホンの音に、誰だろうと思いながら「はいはーい」と返事をしつつ扉を開けた。
「上林さん!どうしたんですか?」
扉をあけるとそこにいたのは優梨佳だ。
「こんばんわ。谷山さん、お夕飯食べられました?」
「あ、今から用意しようと思っていたところで……」
「まだ、用意されてない?」
「はい」
「じゃあ、食べに来ませんか?」
「いいんですか!?」
食い気味の返答に、優梨佳は笑って頷いた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「いただきます!」
ダイニングテーブルに乗った海南鶏飯に目を輝かせながら、手を合わせると、浩之は満面の笑顔でスプーンを手に取った。
皿に丸く盛られたライスと横に並ぶタレのかかった鶏もも肉。添えられたグリーンリーフとミニトマトが鮮やかな色味を足していて食欲をそそる。ワンプレートで提供されるそれはお子様ランチの様で目にも楽しい一品だ。スープはサイコロ状の人参、ジャガイモ、小さめに切られたキャベツ、玉ねぎ、スライスされたマッシュルームが入った豆乳スープだ。
まずはタレのかかった鶏肉を頬張る。柔らかな鶏肉はしっとりとしてジューシーで、ショウガの効いたしょうゆベースでピリ辛でありながら甘酸っぱいタレがよく絡む。ライスは鳥の旨味がしみ込んでいて、鶏肉やタレと一緒に食べても美味しい。
豆乳スープは野菜がたっぷりで食べごたえがあり、まろやかでありながら、あっさりとした優しい味わいだ。
「美味しい!」
「よかった。おかわりもありますから、いっぱい食べてくださいね」
「はい!」
嬉しそうにスプーンを口へと運ぶ浩之を見ながら、優梨佳もスプーンを手に取った。
僅かに頬を紅潮させながら口いっぱいに頬張って、満足そうに眉尻を下げる。スプーンの勢いは止まることを知らず、ライスやチキンを掬っては口にと運び、皿の上から見る間に減っていく。浩之が本当に美味しそうに食べてくれるから、優梨佳は見ているだけで自然と笑顔になってくる。
皿の上の料理をすっかり食べきって、浩之は優梨佳へと皿を差し出した。
「おかわり、いいですか?」
「もちろん」
出された皿を笑顔で受け取り、優梨佳がライスとチキンを盛り付けて持ってくると、浩之はまた笑顔で手を合わせた。
「いただきます!」
スプーンを動かす浩之を見つめる。その食べっぷりの良さに、口だけでなく全身で表現される「美味しい」の言葉に、胸が高鳴る。
ずっと見ていられるなぁとふわふわした気持ちを抱え、優梨佳はスープに口をつけた。
空になった皿に、置かれたスプーンがコトリと音を立てた。
「ごちそうさまでした」
きちんと手を合わせて、浩之の口から満足げな息と共に言葉が零れ落ちる。
「おそまつさまでした」
綺麗に空いた皿に笑みを浮かべながら、優梨佳は皿を重ねると、キッチンへと運び、シンクの中におろす。
「あ!お皿洗います!」
「いいですよ。座っていてください」
「いえ!皿洗いくらいならできますから!」
そう言って胸を張る浩之に優梨佳は小さく吹き出す。そういえば、以前もこんなやりとりをした様な気がする。
「じゃあ、お願いします」
笑いながらシンクからどくと、浩之は「まかせてください!」と腕まくりをしながら笑顔を見せた。
**********
浩之が洗ってラックに乗せた皿を優梨佳がタオルで拭いて片付ける。それほど数があったわけでもない洗い物は2人でやればすぐだ。
「上林さん、すみません。今日もすっかりご馳走になってしまって……」
「優梨佳」
「え?」
話の間に突然名前を言われ、浩之はキョトンとした顔で優梨佳を見る。優梨佳はくすりと笑みをこぼすと浩之を見上げた。170以上あるものの、それほど大きいわけではない浩之だが、小柄な優梨佳ではどうしても見上げる形になってしまう。
「名前、『かんばやし』ではなくて『かみばやし』なんです。言いにくいみたいでよく間違われるんですが……」
「え!?すみません!」
「だから、優梨佳で」
慌てる浩之に優梨佳はくすくす笑いながら告げる。洗い物の最後の1枚を拭いてから片付けた。
「えっと……」
普段、子供たちを呼ぶ時は名前で呼んでいるし、仕事でも『おにいさん』『おねえさん』とつきはするが、それぞれ名前呼びだ。なれている筈なのに、何だか気恥ずかしい感じがするのは何故だろう。
「ゆ、優梨佳、さん?」
「はい」
僅かに頬を赤め、少し困った様な顔で浩之が名前を口にすると優梨佳は柔らかく微笑んだ。
下から見上げる形でのその表情に胸の奥がザワリと騒ぐ。
さらりと揺れた柔らかそうな髪と僅かに首を傾げて見上げる黒目がちな二重の瞳。小動物を思わせるその愛らしさに目が奪われる。
「谷山さん?」
「は、はい!?」
声をかけられて我に返る。いけない、見惚れていた。いや、でもあんな可愛い顔で笑われたら仕方なくない?仕方ないよ、うん。
「どうかしました?」
「いえ!あ!あの、俺も浩之でいいです、呼び方」
「えっ……?」
自分だけが名前で呼ぶのもなんとなく気まずくて、そう言うと優梨佳は一瞬驚いた様に目を見張った。
それから僅かに視線をそらし、またちらりと視線を投げる。そして。
「……ひろゆき、さん……」
「……はい」
頬をうっすら朱に染めて、はにかみながら名前を口にした優梨佳に、またザワリと胸が騒ぐ。ただ名前を呼ばれただけなのに、身体中を血が駆け巡る様な、熱が出た時みたいに身体が火照る様な気がしてくる。呼んだ時も恥ずかしかったが呼ばれるのも恥ずかしい気がする。けれどもそれは決して嫌な感じではなくて、胸の奥の柔らかいところを擽られるようなそんな感じだ。
「な、なんか、慣れなくて少し恥ずかしいですね」
人差し指で頬を掻きながら、笑う優梨佳に浩之も「そうですね」と笑いながら返した。
食器を片付け終わると、優梨佳はコーヒーミルに手を伸ばした。豆を取り出し、ミルに入れて、コリコリと挽きだす。
その様子をカウンター越しに見つめていると、豆を挽く一定のリズムに合わせ、柔らかな音が混ざりだし、それに耳を傾けながら、つられる様に浩之も歌を口ずさむ。
今日の歌は雨があがり、虹がかかってきっと明日はいい天気だと歌うものだ。優しく可愛いその歌は優梨佳の紡ぐ音と通じるものがある。可愛くて微笑ましくて、ずっと聞いていたくなる。
ふと、音が止んでいることに気づき、歌をやめて優梨佳を見ると、浩之を見つめていた優梨佳と目があった。
「あ、一緒に歌われるの、嫌でした?」
前も聴いているうちについ一緒に歌ってしまっていた。その時も気づけば豆を挽く音も優梨佳の鼻唄も止まっていたのだ。
「え?一緒って……」
「優梨佳さんが歌ってたからつい……すみません」
浩之が謝ると、優梨佳の顔が見る見る紅潮していく。
「わ、わたし、歌ってました……!?」
「へ?あ、はい。いつも歌ってて、窓開けると聞こえてきて可愛いなって思ってて……」
「うそ!?やだ!すみません!」
完全に無意識だったのだろう。優梨佳は恥ずかしそうに顔を背けてしまう。
豆を挽いていたら浩之が歌いだし、もっとよく聞きたくて、豆を挽くのを止めていたのだがまさか自分が歌っていたなど優梨佳自身は思いもしていなかった。
「ずっと気になっていたんです。可愛くて楽しそうで。これは誰が歌ってるのかなぁって」
「も、もう恥ずかしいんでやめてください」
真っ赤になった顔を隠すように両手で覆う優梨佳の恥ずかしがっている姿も可愛くて、もっと見たいと思う。それだけじゃない、もっと色々な顔が見れたらいいのに。
「俺は好きですよ、優梨佳さんの歌。いつも癒されてましたし」
「そ、それなら、わたしは浩之さんの歌を聞いていたいです……」
手で顔を覆いながら、指の隙間からこちらを見上げるようにして優梨佳が告げる。
「浩之さんの歌ってる声、好きですから……」
その言葉に、見上げてくる瞳に、心臓がドクンと音を立てる。あぁまただ。先ほどからずっと胸の奥がざわついている。
恥ずかしそうに顔を覆いながらも、見つめてくる優梨佳の視線はまっすぐで逸らすことができなくて、嬉しいような、くすぐったいような、こんな感覚は久しぶりで、どうしていいかわからない。
「あ、ありがとうございます」
子供たちや付き添いの母親から歌を褒められることは職業柄よくあるし、その時もくすぐったいような気持にはなるけれど、それとは少し違う、キュッと胸が苦しくなるような独特の甘さを伴って胸の奥に満ちてくる。
「え、えっと、じゃあ……」
途中で止めたメロディをもう一度口に乗せた。紡がれるメロディのように優梨佳の心にも虹がかかるようにと思いを込めて……。
カオマンガイは茹で鳥を作った際のスープで炊くと本格的でおいしいとのことですが私はめんどくさいので炊飯器に鶏もも肉を投入して一緒に炊きます。
それでも十分美味しいです。