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友達と食事をするだけだ。確かにそれくらいなら浩之も何度かしている。劇団時代の同期や学生時代の友人と飲みに行ったりは男女問わず別段珍しいことではない。それと変わらないと思えばその通りな気もするし、それなら規則に引っ掛かることは無いだろう。
美紅たちにオススメの店も教えてもらった。曰く「ちょっとオシャレなダイニングバーとか子供連れのいない店がいい」「そもそも小さい子のいる家以外ではあまり顔も知られてないから意外と気づかれない」「そうそうバレることなどないから気にするな」だそうだ。確かに友人たちや美紅たちと飲んでいて気づかれたことはほとんどない。まぁ言われてみればそういうものなのだろうとも思う。もしかしたらそんなに気にすることでもないのかもしれない。
昨夜の相談の結果、その結論に達したものの……アプリ画面を開いたまま浩之は再び悩んでいた。
誘いを受けようと決めたは良いが、時間が空いてしまったことが何だか気まずい。こちらから店を指定するのも申し訳ないような気もするし、さらには文面もどうしたらいいものかわからなくなっていた。
友人たちとのやりとりの様に軽い感じは避けたいが、あまり堅苦しいのもどうだろう。そもそも文章を考えるが苦手だ。失礼がない文章を作ろうとして書いては消して、書いては消してを繰り返している。
「はぁ……」
溜息をつきながらスマートフォンをポケットに片づける。電車がホームに滑り込み、最寄り駅に到着する。人の流れに押されるように電車を降りて、改札を抜けた。
外に出ると沈みかけの夕日が空を紅く染めていた。春も終わりに近づいてきている。日が長くなってきたなぁと頭の片隅で考えながら歩き出す。悩み過ぎたのかお腹減ったし。とりあえず帰って夕飯にして。内容はまたそれから考えよう。あぁでも家になんかあったかなぁ……。
基本的に浩之は自炊はしない。炊飯器で米は炊くがその程度だ。よって冷蔵庫の中はコンビニやスーパーで買い込んだパウチ惣菜や冷凍食品で埋め尽くされているし、棚の中はカップ麺やレトルト食品が詰まっている。でも住んでいる物件は無駄にカウンターキッチンでIHの三口コンロ。以前遊びに来た龍生には「宝の持ち腐れだ!」と言われたほどだ。それは自分でも思う。なにしろキッチンもコンロもほとんど活用されていないのだから。
しかしそれも致し方ないと思うのだ。お湯を沸かすのなら電気ポットがあるし、惣菜を温めるなら電子レンジが速いし簡単だ。一回だけ自炊をしてみようと料理本を開いたこともあるにはあるが、見ただけでやめた。だって書いてあることの意味がわからない。適量ってどんだけ?少々って?一片って?ひたひたの水とか言われても……。その時点で向いてないと判断して諦めたのだ。結果、材料を無駄にしないで済んでいるのだから賢明な判断だと自分でも思っている。
結局何があるか思い出せないままマンションに着き、エレベーターホールに向かう。まぁいい。何もなかったら買いに出よう。そんなことを考えているとエレベーターの前に先客がいた。肩より少し長い髪をゆるく巻いたセミロングの小柄な女性だ。
「あ……」
思わず口からこぼれた声に気づいたのか女性がこちらに顔を向ける。目が合うと、ふわりと微笑んだ。
あ、やっぱり可愛いな。小動物のような愛らしさは華奢な体格にもあるのかもしれない。腕の中にすっぽりと収まりそうな感じやふわっとした髪の柔らかそうな感じとか。全体の雰囲気が小動物みたいで抱きしめたくなる。……って何考えてるんだ俺!?
「こんばんわ」
「あ、こんばんわ」
笑顔で挨拶をされ、反射的に笑顔を返す。返信をしていないことを思うと少々気まずいが仕方ない。自業自得だ。いや、むしろこれはチャンスか?メールだから文面で悩むのだ。直接会えたのならそんなに悩む必要は……。
「谷山さんはいつもこの時間にお帰りなんですか?」
「あ、いえ、日によって結構まちまちで……。上林さんはこれくらいですか?」
「そうですね。定時で上がれたらこれくらいです」
柔らかく微笑みながらの返答に、そうか、一般的にはこれくらいなのかと納得する。そういえばこれくらいの時間に帰るときの電車は込み合うことが多いかもしれない。所謂帰宅ラッシュというやつか。
エレベーターが降りてきて、扉が開く。揃って乗り込んで、階層ボタンを押す。何階かを聞こうとして、隣であることを思い出した。なんだろう、緊張してるのかな?
「あの、すみません、返信してなくて。ちょっとバタバタしてて……」
我ながら言い訳がましいとは思いつつも、ずっと気にしていたことを口にする。
「お誘いいただいて嬉しかったんですけど、いろいろあって悩んでて、痣といっても本当に大したことなかったし、なんか逆に気を使わせて申し訳ないというか……」
「あ、気にしないでください。いきなり誘われても迷惑でしたよね」
「そんなこと!迷惑とかではないです。本当に」
申し訳なさそうに微笑む優梨佳の言葉を慌てて否定した。悩んでいた理由を言ってしまえば話は早いのだろうがそれを口にするのは何だか気恥ずかしい。
「あの、それで、上林さんさえよければ……」
ぐぅぅぅぅぅ~~~~~。
今度食事に……と言いかけた言葉はタイミングよく鳴いた腹の虫にかき消された。何故、今鳴る!?あまりのことに顔が一気に熱くなる。聞こえなかった……わけないよなぁ。
ちらりと視線を向ければ優梨佳は驚いたように目を見開いていて。それからクスクス笑いだした。エレベーターが止まり、扉が開く。
「あの、カレーで良かったらこれから家で食べませんか?昨日作りすぎて、困ってたんです」
クスクスと笑いながらのお誘いに浩之は真っ赤になったまま頷いた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
我ながら少し軽率だったかなとも思う。けれどお腹を鳴らして真っ赤になった様子が子供みたいで可愛くて、気づいたら誘いの言葉を口にしていた。メッセージやぶつかったときの対応でしか人となりは知らないが、こちらを気遣う優しさが好感を持てるものであったのも大きいだろう。
玄関から廊下を通り、右側にカウンターキッチンとガラス天板の二人用ダイニングセット、左側にはカウチソファとセンターテーブル。全体的に白いインテリアで統一し、あちこちに観葉植物を配置した部屋は居心地良く作っていると自負している。
浩之にソファをすすめ、通勤用のトートバッグを部屋のすみに置いてカウンターキッチンへと入る。エプロンをつけて、手を洗い、冷蔵庫から冷やしたルイボスティーを取り出すとグラスに注いでセンターテーブルにコルクのコースターを敷いてそっと置いた。
「少し待っててください。すぐに準備しますので」
「すみません、ありがとうございます」
緊張した面持ちでぺこりと頭を下げて、固くなって座る姿は借りてきた猫みたいに大人しく、なんだかちょっと微笑ましい。
「雑誌やテレビとか好きに見ていてください。楽にしててくださいね」
ルイボスティーをすすめて笑いかけ、キッチンに戻ると再び冷蔵庫を開けて食材を吟味する。カレーの副菜だと何がいいだろうか。考えながら取り出したのはジャガイモ、ニンジン、キュウリ、ハム。それから玉ねぎ。
ジャガイモは洗って十字に切り込みを入れるとラップでくるんで電子レンジへ。ニンジンは薄めのいちょう切り、キュウリは薄い小口切りにして塩を振って軽く揉んでおく。ハムは一センチ角に切っておく。レンジから取り出したジャガイモを熱いうちに皮をむいて潰し、酢と塩で軽く下味をつけて粗熱が取れるまで冷ましておいて。ニンジンとキュウリがしんなりしてきたら軽く水で洗ってきゅっと絞って水を切り、ジャガイモ、ハムと一緒にマヨネーズで和えて仕上げに黒胡椒を少々振って完成だ。
玉ねぎは繊維に沿って千切りにして鍋で飴色になるまで炒め、水とコンソメを加えて少し煮込んだら塩と胡椒で味を整えて、器に注いだらパセリを振って彩りを添えれば完成。
カレーを温め直し、出来上がったサラダ、スープと一緒にダイニングテーブルへ運んで並べる。
「お待たせしました。こちらにどうぞ」
出し忘れがないかを確認し、ソファに座る浩之へと視線を向けて声をかけた。
「あ、はい。ありがとうございます」
呼ばれた浩之が手にした冊子から顔を上げてこちらを見た。冊子をセンターテーブルに備え付けられたマガジンラックへと戻す。ちらりと見えた冊子は劇団SEASONSのプログラムだ。そういえば昨夜、棚に戻さずマガジンラックに入れた記憶が……。
見られた。そう思うと何も悪いことはしていないのに何だか妙に恥ずかしかった。
**********
「雑誌やテレビとか好きに見ていてください。楽にしててくださいね」
ふわりと笑って、カウンターキッチンへと入っていった優梨佳を見送る。楽にしてと言われてもどうしていいかわからない。ちょっと待って、この状況はどういうことだ?
誘われてつい頷いてしまったが、そもそも家に上がり込んだりして良かったのか?
白いカウチソファはゆったりしていて座り心地も良いし、同色のセンターテーブルは丸みを帯びたデザインで可愛らしい。サイドにマガジンラックも付いていて便利そうだ。部屋の随所に置かれた観葉植物が白で統一されたインテリアの中に映えていてセンスの良さを感じさせる。本来なら居心地の良い空間だろう。でも、でも……!
部屋で夕飯とか緊張しすぎて落ち着かない。どうしよう!?助けて龍生おにいさん!!
スマートフォンを取り出して龍生にメッセージを送る。現状を説明し、助言を乞うと返事はすぐにきた。直レス!さすが龍生おにいさん、頼りになる!!
そう思いながら開いた内容は簡潔だった。
『爆発しろ』
……え?どういうこと?爆発?わけわかんないし!!
とりあえず落ち着かなくては。大きく息を吸って、吐いて。深呼吸をする。あぁそうだ!これもきっと食事に行くのと一緒で友達の家でご飯って思えば……!ってさすがに女友達の家に二人きりってシチュエーションもなかなか無いですよ!?ど、どうすれば!?
さらに困惑しそうになった矢先、キッチンから良い匂いが漂ってきて、再びお腹がぐぅぅぅと音を立てた。あ、そうか。お腹空いてるから駄目なんだ。そう思ったら何故かふっと肩の力が抜けた気がした。きっとこの手持無沙汰な状態も良くない。何か気が紛れるものでもあれば……。
辺りに視線を彷徨わせ、マガジンラックに目が留まる。そこに入っていた冊子を何気なく手に取った。劇団SEASONSのロングラン公演のプログラム、自身が所属していた頃から今もずっと続いている息の長い公演だ。いつ頃のだろう?そう思いながらパラパラと捲り始めた時……。
「お待たせしました。こちらにどうぞ」
「あ、はい。ありがとうございます」
声をかけられ顔を上げた。プログラムを閉じてマガジンラックに戻す。いつの公演かはわからないがマガジンラックに入っているくらいだ。きっと最近のものだろう。最近は誰が出てるのかな?ちょうどいい、話のタネにでも聞いてみよう。そう思いながら、浩之はソファから腰を上げた。
相変わらず悩んでますが今回はちょっと頑張った?かなと。
さ、誘おうとはしたんだよ!己の腹の虫に邪魔されたけど!
そしてポテトサラダ食べたいです。でもあれ意外とめんどくさいんですよね。熱いし。