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「返信なし、かぁ……」
帰宅途中の電車の中。スマートフォンを片手に優梨佳はため息をついた。
ぶつかった翌日、浩之から連絡があった。少し痣にはなったものの特に問題は無いだろうという旨を綴った丁寧なもの。無事であったことに安堵したものの、怪我をさせてしまったことが申し訳なくて。すぐに返事を返した。その際にお詫びがしたいからと食事に誘い……。そして返事がこないまま数日が経過していた。
何か変な事を送ったかと何度も自分の送った内容を読み返し、特に失礼はないよねと自問して。忙しいのかなとか、こういうの苦手な人かなとも考えた。気にしなければ良いのだろうが、返事がないというのはどうにも不安にかられて気になって、気になるからますます不安にかられてと堂々巡りを繰り返す。
もやもやしながら電車を降り、ぐるぐる思考しながら家に着くと手洗いや着替えもそこそこに優梨佳は冷蔵庫をあけた。
悩んだ時はとりあえず料理だ。作っている間は無心になれるし、出来上がった頃には気分もすっきりしている気がする。
中にある物を見ながら作るものを考えつつ材料を取り出す。鶏肉、玉ねぎ、ニンジン、セロリ、ヨーグルト、戸棚にトマト缶とカレールウがあったはず……。
「よし。決めた」
鶏肉は大きめの一口大に切り、ヨーグルトとカレー粉を揉み込んでおく。玉ねぎ、ニンジン、セロリは粗みじん切りに。バターを落とした鍋でおろしニンニクとおろし生姜を炒め、香りが出たら粗みじん切りにした野菜類を入れて玉ねぎが透き通るくらいまでまで炒めたらヨーグルトごと鶏肉を入れて炒める。そこにトマト缶と水を入れて、灰汁を取りながらコトコト煮込むこと二十分。一度鶏肉を取り出し、鍋の中をブレンダーでポタージュ状にしたら鶏肉を戻してカレールウを入れて、よくかき混ぜながら十分ほど煮込んで完成だ。
コトコトと煮込んでいる間に何だか少し気分もリセットされた気になる。とりあえず夕飯にして、それから少しお店でも探してみよう。良いお店があれば返事が来たときに誘ってもいいし、来ないようなら友達を誘うのもいいだろう。
***************
局から程近い半個室になった居酒屋は浩之たちの行きつけだ。それなりに賑やかで、煩すぎず、料理は美味しくリーズナブル。カクテルやソフトドリンクの種類、日本酒や焼酎などの銘柄も豊富だ。
「で、何をそんなに悩んでたの?」
料理や飲み物など一通りの注文を済ませると、四人用の座敷で対面に座った亜弥が身を乗り出すようにして尋ねてくる。隣では龍生がテーブルに肘をついて笑いながら見ているし、対角にいる美紅も同様に笑っているだけだ。壁際に座っているせいか逃げ場もなく何だか尋問されているような気がしてくるのは気のせいか……。
「えっと……」
「生二つと焼酎ロック、サングリア、お待たせしましたー!あとこちらお通しです」
浩之が口を開こうとした時、そこに被せるように店員の威勢の良い声が重なった。テーブルの上にビールジョッキとロックグラス、タンブラーがそれぞれ置かれ、お通しが並べられる。店員が去っていくと三人の視線はもれなく浩之に向けられていた。
「あ、実はね……」
ジョッキを片手にまずはビールで喉を潤して、浩之は優梨佳とぶつかってからのことを話し始めた。
「なにそれー!?もうさマンガとかの恋の始まりにしか聞こえないんだけどー!」
一通り話終えると開口一番、美紅の口から飛び出したのはそんな言葉だ。何だかとてもいい笑顔を浮かべている。
「何を悩むことがあるのよ?行けばいいじゃん食事くらい」
ロックグラスを片手にニヤニヤ笑う亜弥も何やらとても楽しそうだ。
「そんであれだ。男ならそこでガツンと!」
ガツンと何ですか!?
「いや、でも、やっぱり女性と二人はマズいかなぁって……」
苦笑しつつ答える浩之に亜弥と美紅はそろって溜め息をつく。
「何言ってんの?そもそも行かないって選択肢がある時点で意味わかんないし」
「だよねー。そんな棚ぼた状態で……。隣見てみなよ、龍生おにいさんが羨ましがっていじけてるよ?」
「え?え?」
美紅に言われるままに視線を隣に向けるといつの間にかビールから日本酒に変わった龍生が手酌でちびちび飲んでいた。
「……隣が可愛いお姉さん……連絡先……デートのお誘い……何それズルい……」
最初は胡坐で浩之を見ていたはずの龍生が今は背中を向けて膝を抱えて座っている。
「え?龍生おにいさん?何?どうしたの?」
「どうしたのじゃないよ!そんな美味しい状況で!」
訳が分からず困惑気味に声をかけると龍生は勢いよく振り返り、がっと浩之に詰め寄った。勢いに押され思わず壁に凭れ掛かると顔の横に龍生の腕が伸びてくる。
ちょっ、顔近い!
伸ばした腕のリーチ分は距離があるとはいえそれでも近いことには変わりない。突然のことに浩之の困惑は強まるばかりだ。
「何!?何なの!?それは悩みなの!?それとも自慢なの!?」
「え、あ、悩んでます……」
酔っているのか龍生の目は若干据わっていて、正直怖い。思わず口調が丁寧になる。
「何それ!?悩む理由がわかんないし!受ける一択でしょ、男なら!もー俺も扉にぶつかりたいー!!」
「ちょっと待って、龍生おにいさん!落ち着いて!ね!」
さらに詰め寄ってくる龍生を顔の前に両手を出して制する浩之。そんな二人を面白そうに眺めながら亜弥がボソリと口を開いた。
「もしかして浩之おにいさん、女の子に興味ない?そっち系の人?」
その言葉に辺りの空気が一瞬静まりかえった。龍生と浩之は詰め寄った体勢はそのままに亜弥へと視線を向けてからお互いに顔を見合わせる。数秒見つめ合うかたちになった後、龍生がそそくさと離れていった。
「や、ちょっと待って龍生おにいさん!違うから!そんなことないから!」
何やら在らぬ誤解をされている気配に浩之は慌てて否定する。
「じゃあ何で受けないのよ?」
「だってデートとか規則に引っ掛かるかなって。恋愛禁止だし」
当然のことのように言う浩之。三人は浩之をまじまじと見つめると顔を寄せ合い揃って溜め息をついた。
「ねぇ、あれ本気で言ってるの?」
「いまどき高校生でも気にしないよねぇ、そんなこと……」
「どんだけ真面目だよ、浩之おにいさん……」
亜弥と美紅が驚いたと言わんばかりにつぶやくとそこに被るように龍生が呆れたような声を出す。こそこそ言い合う三人を浩之は不思議そうに見つめるだけだ。
あれ?俺なんか変なこと言った?あ、やっぱりこの店の鳥つくねのタレ焼きおいしい。ビールに合うなぁ。
「ってかさ。恋愛禁止じゃないし。バレなきゃいいんだよー」
「あー美紅おねえさんはずっと付き合ってる人いるしね」
笑いながら言う美紅に龍生がうんうんと同意する。別に上からも特に禁止とは言われていなかったはずだ。世間に気づかれなければいいのだ。何事も。
「ちょっと待って、あれが本気だとしたら浩之おにいさん今まで恋人とか……」
亜弥の言葉に思わず三人が固まる。いや、そんな、まさか……。
「浩之おにいさん!?そんなことないよね!?」
「今まで何かしらあるでしょ!?」
「魔法使いになるのは番組とかステージ上だけでいいんだよ!?」
三人同時に浩之へと視線を向けると一気に詰め寄った。何年も一緒にやってきてるだけあり、計らずとも息はぴったりだ。
「え?え?何の話?」
鳥軟骨の唐揚げに大根サラダと生春巻、牛タンの鉄板焼やカマンベールチーズ揚げなどテーブルに並ぶ料理に舌鼓を打っていた浩之は訳も分からず目をしばたたく。
「浩之おにいさん、もしかして童貞だったり……」
「なんでそんな話に!?違うよ!?そんなことないからね!」
どことなく聞きづらそうな龍生の問いを浩之は即座に否定した。何故だろう、先程から色々と誤解が生まれている。
「いや、だってあまりに真面目なこと言ってるから……」
「もしかすると女性経験がないのかなぁとか……」
亜弥と美紅がそれぞれ「そうだよね」とか「びっくりしたー」とか言いながら安堵の息をついた。龍生も同様に胸を撫で下ろしている。
「あのね、歌のおにいさんになってからはともかく俺だって学生時代や劇団いた頃は人並みには色々あるんだよ」
なんの話だとは思うものの誤解は解いておきたい。とりあえずその気はないし、豊富だとは言わないがそれなりに経験はしているつもりだ。
「あぁそう言えば劇団SEASONSいたんだっけ?」
「うん。SEASONに歌のおにいさんの募集がかかったことがあるって聞いたから」
思い出したように言う亜弥に浩之が頷く。
歌のおにいさん、おねえさんの募集は幾つかの音大やミュージカル劇団にかけられたり、歌手に直接かけられたりするだけで一般には行われない。そのために浩之は先代の歌のおにいさんも所属していたという劇団に入団したのだ。
「歌のおにいさんになるためにSEASONS入るくらいだしねぇ。その熱意を思えば真面目なのも仕方ないのかな?」
「SEASONSも簡単に入れるようなところじゃないからね」
「それにしたってさぁ……」
納得したように呟く美紅と頷く龍生。そんな二人に亜弥は呆れたような息をつく。
「もう少し緩く考えて良いと思うよ。別に恋愛は禁止じゃないし。バレちゃ駄目だってだけで」
ロックグラスを傾けながら言われた言葉は呆れながらもどこか優しい響きを含んでいた。
「……それって禁止じゃないの?」
「違うよ!バレちゃ駄目だけどしても良いってことだよ!禁止とは全然違うよ!」
首をひねる浩之に間髪入れず答えたのは美紅だ。歌のおねえさん就任前から付き合っている相手がいる美紅にとってこの違いは大きいのだろう。
「…ってかさぁ、そんな悩まなくても友達と飲みに行くと思えばそんなもんじゃない?女の子の友達と出かけることくらいあるだろうし」
「「それな!」」
鳥軟骨の唐揚げをつまみつつ龍生が事も無げに提案し、美紅と亜弥が声を揃えて頷いた。二人同時に手にしたロックグラスとタンブラーをドンっと置き、浩之を指差す。
「……あ」
そういうこと……?
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
夕飯の片付けを終えた優梨佳は本棚からタウン誌を探していた。並んだ雑誌の背表紙を指でなぞり、目当てのものを探していく。確かダイニングやビストロの特集が載っている号があったはず……。
その時、ふと一冊の冊子が目に留まった。以前観に行った舞台のプログラム。演劇観賞が趣味の優梨佳は国内でも大手とされる有名なミュージカル劇団のファンクラブに入っており、よく観に行っている。そして観に行くとついプログラムを買ってしまう。同じ公演であっても時期が違えばキャストが変わっていたりするからと購入し、気づけばプログラムだけで本棚が一段埋まる程だ。
「谷山浩之……」
知っている気がした名前。そんな、まさか……。そう思いながらも何冊かプログラムを取り出した。パラパラと捲り、キャスト紹介を見ていく。そして……。
「……あった」
それはだいぶ前の公演のものだ。優梨佳がその劇団の舞台に行き始めた頃のもの。その頃のプログラム三冊に名前と共に載っている顔写真は、僅かな印象の違いはあれど間違いなく彼だった……。
飲み会シーンがわちゃわちゃしてて書いてて楽しいです。それにしても浩之はいろいろめんどくさいですね(笑)
他の三人同様に自分で書きながらそんなことで悩むなよと突っ込んでました。