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ベランダに続く窓を開けると隣も窓を開けているのだろう、聞こえてくるのは楽しそうな鼻唄。それから鼻腔を擽るコーヒーの香り。
柔らかなメゾアルトで紡がれるそれはしばしば音が外れるものの、浩之は好ましく思っていた。自身も何度か歌ったことのある見知った楽曲。耳になじみやすく覚えやすい歌だ。
子供向け番組の十代目歌のおにいさんに就任してから五年。学生の頃から歌のおにいさんになるのが夢だった。念願叶っての毎日は忙しいけれど充実している。上手くいかなくて悩むことや失敗して落ち込むことも少なくはないし、辛いときや苦しいときもあるにはある。毎日が楽しいことだけで過ぎていくわけではない。
それでも毎日笑って仕事に向かえるのは歌が好きだという気持ちと、一緒に番組を作っている仲間たちや応援してくれる子供たちの存在と。それから……。
「♪~~~」
楽しそうで可愛くてなんだか微笑ましい。聴いているといつも自然に笑みがこぼれてくる。これを歌っているのはどんな人なのだろう。そんなことを考えながら浩之は微かな音に耳を傾けた。
穏やかに過ぎるこの時間が浩之にとって日々の生活の中での小さな癒しになっていた。
***************
玄関の扉を閉めて、手元の時計を確認しながら歩きだす。電車の時刻にはまだ余裕がある。それほど急がなくても大丈夫だろう。浩之がそう思いながら顔を上げた時だ。
「わっ!」
ガンッ
目の前に突如現れた扉。避けられず、そのままの勢いでぶつかって思わず踞る。
「だ、大丈夫ですか!?」
「あ、大丈夫、です……」
頭上から慌てた様子の声がする。思い切りぶつけた額を手で押さえながら言葉を返す。状況が把握できないものの、声がするということは誰かにこの醜態を見られたわけで。それがなんだか気恥ずかしい。いや、でも、あの距離は避けられないよ。うん。
「すみません!もしかしてわたしが開けた戸に……」
「い、いえ!俺が前見てなかったから!」
額から手を離し、顔を上げると膝をついてこちらを覗き込むようにしている女性と目が合った。困ったように眉尻を下げ、気遣わし気な目で見つめてくる女性に浩之は決まり悪そうに微笑んだ。
「大丈夫ですから。本当に」
そう言って立ち上がり、女性へと手を差し出す。自分がしゃがんでいるために膝をつかせているのだとしたら申し訳ない。額は確かに痛むけれど、それだけだ。特に怪我などはしていない。それよりも……。
差し出された手をおずおずとした様子で取り、立ち上がった女性を改めて見る。小柄で華奢な体格、肩よりも少し長めでゆるく巻かれた柔らかそうなセミロングの髪、長いまつ毛に縁どられた綺麗な二重の瞳は黒目がちで小動物のようで愛らしく、淡いピンクに彩られた唇は果実のように瑞々しく艶やかだ。
扉に激突したあげく、それをこんな可愛い人に見られたことがつらい。ぶつけたとか関係なくきっと今、顔は赤い。それくらい恥ずかしい。穴があったら入りたいとはきっとこんな気持ちだ。
「で、でも額とはいえ頭だし……何かあったら……あぁそうだ」
女性はバックから手帳を取り出し何かを書き込むと、ピッと破った。それを浩之へと差し出す。
「わたし、上林優梨佳と申します。もしぶつけた所が痛かったり、それで気分がすぐれなくて病院にかかるようなことがあったら一応わたしにも連絡ください。基本的には寝ている時以外は受けられると思います」
渡されたメモには名前とメッセージアプリのIDが書かれていた。
「あの、差し支えなければお名前をお聞きしても?」
「あ、谷山浩之です」
「谷山さんですね。わたしがもっと注意して開けていれば……本当にすみませんでした」
深々と頭を下げる優梨佳に浩之は慌てて声をかけた。
「俺の前方不注意ですから!気にしないで!顔あげてください。あ、そうだ、時間、大丈夫ですか?」
浩之もだが優梨佳も出掛けるところだったに違いない。何しろ平日の朝だ。普通に出勤時間である。
「え、あ、遅刻し……!」
尋ねられ、手元の時計に目を落とした優梨佳は小さく悲鳴にも似た声をあげる。
「す、すみません!わたしもう行かなきゃ。あの、お大事にしてくださいね」
もう一度、浩之に頭を下げると優梨佳は困った様な笑顔を残し、慌てた様子で駆けていった。その後ろ姿と渡されたメモを浩之は交互に見つめる。
え?何これ?どうしたらいいの……?
何が起こったのかいまいち理解できなくて、頭の中が混乱する。
何も考えずに受け取ってしまったがそもそも連絡先とか受け取って良かったのだろうか?たぶん彼女は鼻歌のお隣さんなんだけど。あぁでも困ったように笑った顔は可愛かったな。
そんなことを考えて慌てて頭を振る。いや違う。考えることはそこじゃない。まず考えるべきは……。
「……って時間!」
時計を見れば余裕があったはずの時間はすでにギリギリだ。メモをポケットに突っ込むと浩之は駅に向かい走り出した。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
優梨佳がホームに駆け込んだのとホームに電車が入って来たのはほぼ同時だった。間に合ったことに安堵し、上がった息を整える。
人の波に流される様に朝の通勤ラッシュで込み合う電車に乗り込んだ。乗降口近くの手すりに摑まり電車に揺られること数駅。時間にして十五分ほどだろうか。優梨佳が使う路線はラッシュ時でもそれほど混雑は酷くはない。まぁ混雑で有名な路線に比べればというだけでそれなりに込み合うし、それほど身動きが取れるわけではないのだが……。それでも周囲と密着し、潰されながら乗るような路線もあることを思えば十分マシであるといえる。
電車に揺られながら先程の出来事を思い出す。玄関のドアを開けた瞬間、上がった音と声。急いでいたとはいえもう少し注意して開けるべきだったと後悔する。まさかタイミングよく人にぶつかるなんて思いもしなかった。ばつが悪そうに微笑んだ顔はどことなく優し気で、こちらの過失にも関わらず気遣ってくれて。相手が親切な人であったのは不幸中の幸いだろう。
ぶつけていたのは額だった。男性とはいえ顔に傷を残すようなことになったらと思うと申し訳ない。それから……。
谷山浩之と名乗った彼の、その名前が記憶の隅に引っかかる。どこかで聞いたことがあるような。でも知り合いにはいなかった気がする。知り合いであれば顔を見たときにわかるはずだ。知っている気がする名前。でもどこで聞いたのか思い出せない。
電車がホームに滑るように入っていく。アナウンスが降りる駅の名を告げる。乗ったとき同様、降りていく人の波に流されるように電車を降りてホームを出た。途中、一枚のポスターが目に留まる。国内に幾つもの専用劇場をもち、年間三千回以上の公演を行っている劇団のロングラン公演のポスターだ。
「あ……」
思い出した。谷山浩之、その名前をどこで知ったのか。でも、まさか……。
「そんなわけないか」
思い当たったものを自ら否定する。そんなに珍しい名前ではない。きっと気のせいだ。そう自分に言い聞かせ、優梨佳は職場へと足を向けた。
***************
収録合間の休憩中、用意された椅子に座った浩之は両膝に肘をついて項垂れた。口から無意識にため息が漏れる。
どうしよう、どうするのがいいのだろうか……。
優梨佳から連絡先を受け取ってから、数日。ぶつかった翌日にとりあえずメッセージは送った。少し腫れて痣にはなったものの体調には特に問題もないし、痣もすぐに消えるだろうから大丈夫だとの旨を伝えておいたほうが良いかと思ったからだ。
返信はすぐにきた。こちらを気遣うような丁寧な文章からは人柄が透けて見え、良い人なのだろうと感じさせる。そこまではいい。問題はその後だ。メッセージの最後に怪我をさせたお詫びにと食事の誘いがあったのだ。
これは完全に想定外だった。大丈夫だと送ってそれで終わりだと思っていたのだ。まさか食事に誘われるとは思っていなかった。
嬉しくないと言えば嘘になる。可愛らしい人だったし誘われて悪い気はしない。しかし浩之は歌のおにいさんだ。歌のおにいさんには幾つかの規則がある。『海外旅行禁止』『車の運転禁止』『信号無視をしない』『どんなに体調が悪くてもいつも元気に笑顔で振る舞う』『外での食べ歩き禁止』そして『恋愛禁止』だ。
そう、恋愛禁止なのだ。食事ということは多分二人でだろう。女性と二人で食事。それはこの規則に引っ掛かりはしないのか。
別に恋愛関係に発展したわけではない。受けたら受けただ。しかし二人で会うということはたぶんデートであって、そうなるとやっぱり規則に掛かるのでは。ならば断ればいいのだが、お隣という関係上、今後も顔を合わせる可能性がある。無下に断れば顔を合わせた時に気まずくなるのではないか。
そんなことを考えだし、答えが出ないままグルグル悩み、気づいたら数日経過しているのである。
「はぁ」
何度目かわからないため息が口から漏れた時だ。
「おにいさーん、収録再開するよー」
「えっ?!わぁっ!!」
突然かかった声に驚いて顔をあげるといつの間にか巨大なパンの被り物をした女性二人と男性一人に囲まれていた。
「ちょっと、そんなに驚かなくてもいいじゃない」
「あ、ごめん……考えごとしてたから……」
フランスパンの被り物をした女性がぷぅっと頬を膨らませながら怒ってみせる。歌のおねえさんの小藤美紅だ。
……考えごとしてていきなりパンが現れたら驚くよ、うん。わかってても不意打ちだし……。
「なぁに?ため息なんかついて。悩み事?」
赤のスーツをかっちりと着こなしキャリアウーマン風の装いの美紅が小首を傾げて訊ねてくる。童顔で歳より幼く見られることの多い美紅にはそうした少々子供っぽい仕草がよく似合う。ただし顔には顎が少し長いのが特長の大きなフランスパンの被り物だ。
「俺らで良ければ話くらい聞くよ?」
腰に手を当て朗らかな笑顔を見せるのは体操のおにいさんの竿森龍生だ。
青紫のスーツ姿でスラリと長い足が強調されておりスタイルの良さが際立っている。しかしロールパンの被り物に目が奪われ、それらにいまいち気づけないのはご愛嬌だろう。
「収録終わったら飲みに行こう。ほら、とりあえず今は笑顔!」
浩之の背中をポンと軽く叩き、叱咤するのはダンスのおねえさんの坂石亜弥。
白のカットソーに緑のスカート、臙脂色のエプロン姿でカレーパンの被り物だ。
それらの服装はこれから収録する曲の衣装で、それぞれが見ての通りパンに扮している。ちなみに浩之の衣装は黄色の解禁襟のシャツに深緑のパンツで大きなメロンパンの被り物。
「皆……!ありがとう!」
同僚たちの気遣いに礼を言うと浩之は椅子から立ち上がり笑顔を作った。
悩みがあろうとどうしようと子供たちの前では笑顔でいるのが歌のおにいさんだ。今日の収録は歌の撮影だからスタジオに子供たちはいないが、それはカメラの前でも同様だ。カメラの向こうにはテレビを見ている全国の子供たちがいる。笑顔を絶やすことは許されない。
再開された収録を浩之は終始笑顔で軽快に歌って踊り、撮影は滞りなく進んでいった。
某子供向け番組を参考にさせていただいています。わかる人にはわかるかと……。
大人になってから観ると子供の頃とは違う意味で元気がもらえる気がします。大変だなぁ頑張ってるなぁわたしも頑張ろう……みたいな。