贋作変身
ある朝、アルフレッド・アザムが不安な夢からふと覚めてみると、和布団の中で自分の姿が一匹の、とてつもなく可愛らしい子猫に変わってしまっているのに気がついた。
掛け布団をはねのけようとしてその重さに愕然としたアルフレッドは、まずは己の毛深い右手が黒く艶めく毛皮に覆われているのに目を瞠り、続いて見慣れた天井が遥か上方にあることに動揺した。
(どうなってるんだ……?)
布団から出てみると体が軽い。いつものろのろと目覚し時計に向かって畳を這いずっていた巨体はなく、振り返っても見えるのはゆらゆらと揺れる真っ黒な尻尾だけだった。
もつれそうな四足歩行で、埃にまみれた鏡をそっとのぞいてみる。短い右手で鏡についた埃を落とすと耳障りな爪音が響いた。鏡にうつった自分は完璧なこどもの黒猫である。ひげはぴんと張り、発達途上の筋肉がしなやかに動く。なによりも美しいのは人間だった頃と同じ真っ青な瞳だ。もともと猫が好きなアルフレッドが思わず自分にうっとりすると、真っ黒な耳がはためいた。
ふと空腹を感じた。はなをひくつかせる。化学調味料のにおいに顔をあげると、昨晩の夕食のカップ麺がスープを残したまま机の上に乗っていた。跳躍。着地。美しい。猫や犬にとっては塩分が強すぎるんだっけか。不意にそんなことを思い出したが、可愛らしくきゅるきゅる鳴く胃袋の前にはどうでもよくなった。容器に顔をつっこみ、スープを舐める。浅めのカップで幸いした。
部屋にはしばし、獣のたてるぴちゃぴちゃという音が充満した。
ひげまでスープにひたし、夢中でカップ麺の残りをすすっていたアルフレッドは、襖の向こうにある気配に顔を上げた。ついつい右手で顔をこすってしまう。
「アルフレッド……?」
控え目なノックとともに、控え目な呼びかけ。妹のよしこ・アザムだ。
エネルギーがめぐってきた脳がようやく回りだす。
このような姿、どう説明すれば分かってもらえる?
それよりもまず、どうやって説明する?
というよりも、なんでこんなことになってるんだ?
わからない。昨日だって別に今までと変わったことはなかった。昼起きて、夕方までネットをしつつアニメをみて、届いたフィギュアを組み立てて、カップ麺を食べ、夜明け前に布団に入った、そんな今までと同じ日々を過ごしていたはずなのに。
反応が返ってこないことに焦れたのか、襖の向こうでよしこがぼそぼそと話しかける。
「あの、ごはん持ってきたからここに置いておくね。それと、洗濯物とかあれば今もらっちゃうけど……」
よしこの口調も今までと変わらない。兄の異変に気づいてもいないようだ。
アルフレッドは咄嗟にどうしたらいいのかわからず、乱雑な机の上をうろうろする。
「……聞いてるの?返事ぐらいしなよ。お母さんも泣いてるよ。正社員にならなくたっていいからまずはハロワぐらい行ったらって。ていうか外にぐらい出ればって」
アルフレッドの返事がないのも、息子と母の仲介役になっていることへのよしこの愚痴も今までと変わらない。しかし今は話が違う。非力な子猫となってしまった今ではもはや、家族しか頼れるものはない。
アルフレッドはスープのついた手ををぺろりと舐めると、机から跳び下りて襖を目指した。
この襖を開ければどうにかなるんじゃないか。
とにもかくにも家族という頼りになる人間たちがいる。
できる限りの歩行スピードで襖に辿りついたアルフレッドだったが、可愛らしい黒いおててでは横にスライドする襖が開けられない。
「もういいよめんどくさい。兄がニートでデブでオタクでひきこもりってだけでもめんどくさいのに、こうやって気にかけてくれてる家族のことなんて一切考えてないんでしょ。もういや。知らない。あとはお母さんが直接やればいいんだよ。あたし彼氏んち行くから。しばらく帰らないから」
苛立つよしこ。焦る黒猫。
その場から去ろうとする気配に、とにもかくにも襖をひっかいてみた。
かりかり。
「なによ」
かりかり。
「言いたいことがあるなら言えばいいじゃん」
「……にゃー」
「きもっ」
どうにもならなかった。