帰還へ向けて
「・・・ティム、ホント!?ホントに帰れるの!?」
ここは、今から5日前の海底都市ルルイエの閉ざされた一室。そこに、まだ地上に戻る前の高村神酒と、銀色の毛を持つ不思議なネコ・ティムの姿があった。
今から2年前のこと。その頃神酒は、まだどこにでもいるごく普通の女の子だった。普通の学校に通い、たくさんの気の合う友人に囲まれ、勉強や部活に励み、ステキな男の子に想いを寄せて・・・・。
しかしある事件を境に彼女の運命は大きな波へと飲まれていった。突如地球を覆い始めた旧き支配者の驚異。【黒い海】と呼ばれる外宇宙からの邪神ハスターの襲撃を退けるための重い使命を背負うことになってしまったのである。
そして、彼女たちの苦しい戦いは始まった。神酒は『運命の少女たち』と呼ばれた仲間たちと共に戦い、次元の扉と鍵を司る不思議なネコ・ティムの助力を得、信頼と友情を武器に、遂にハスターの地球への降臨を阻止する事に成功した。彼女は辛い運命に打ち勝ち、安らかな幸せを手に入れるはずだったのである。
しかし、皮肉な運命の女神はそれを許さなかった。
本来ならば失われた海底都市ルルイエで眠っていた大いなる邪神・クトゥルーが、ハスターの気配を敏感にも感じ取り、新たな地球の覇権を求め、海の底より目覚めようと活動を始めたのだ。
そこで神酒はティムと共にルルイエに向かい、再びクトゥルーを眠りに戻そうとしたのだが、この時神酒は、もう一つの過酷な運命を背負ってしまった。
それは全ての人々の記憶と記録より、神酒の存在が抹消されてしまうということ。
クトゥルーの存在はあまりにも大きく、それに関わる人間ですら地球の運命に大きな負荷をかけてしまう。その負荷を軽減するために、神酒の存在は最初から無かったものとされてしまうのである。
ルルイエに向かうということは、ある意味では究極の自己犠牲なのかも知れない。しかし神酒は友人たちのために、笑顔でその運命を受け入れたのだった。
そして、それから2年の月日が経った。あれから神酒とティムの必死の対処により、遂に大きな困難は取り払われた。
クトゥルーの地球への驚異を完全に消すことは出来ない。しかし、少なくともまだ【黒い海】ハスターが地球に影響を与える前の状態。神酒たちが独自にParameter Sanity(正気度)と呼ぶ周辺の狂気を表す数値が平常値を示すようになったため、ティムは神酒の自己犠牲的な使命はここまでと判断した。
つまり彼女がルルイエに留まる必要が無くなり、後はいつ地上に戻っても良いことになったのである。
『うん。もう大丈夫だと思うよ。今までよく頑張ったね、ミキ。』
「・・・・やったー!!」
神酒は両手を大きく上に伸ばし、飛び上がって喚起の声を上げた。
この2年間は、彼女にとっては本当に信じられない生活が続いていた。神酒が本来クトゥルーの封印の強化のためにルルイエに赴いた理由は、彼女がなんらかの理由でクトゥルーに関連のある『切り出された星の銘版』の所持者(巫女)になったことと、古くから旧支配者を封じることを生業としていた皇の血筋を持つことにある。つまり彼女はルルイエにいる間は、常にクトゥルーと精神的な対峙をしていたのだ。
いくらクトゥルーが『死せる』状態にあるとは云え、相手はかつて宇宙の支配すら目論んだ旧支配者の統率的存在で、『死を超えるもの』。寝返りを打つだけで世界を滅ぼすと言われた邪神である。ティムやアルマの協力があるとしても、そしてクトゥルー自身が巫女としての神酒に興味を示し、比較的好意のある感情を抱いているとしても、その苦痛は計り知れないものがあっただろう。
況してこの地は狂気に満ちた海底の古代遺跡。元々一介の中学生の少女だった神酒にとっては、とてもでは無いが安らげるような場所では無い。
短い時間だけなら地上に戻ったことはあるし、その際に無二の親友たちと顔を合わせたこともあったが、今あの親友たちの記憶の中に神酒の姿は無く、彼女の想いの中に晴れるようなものは全く無かった。
だからこそ神酒の喜びの声には、いっそう感慨の深いものがあったのである。
しかし、その時神酒にある考えが浮かび、彼女はティムの顔をしげしげと眺めた。
「・・・ねえ、ティム。ティムも一緒に帰るんだよね?」
『ボクかい?ボクは・・・ここに残るよ。』
「え・・・?」
ふっと神酒の表情が曇る。