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プロローグ1

挿絵(By みてみん)

 オセアニア付近洋上に、一隻の豪華客船の姿があった。

 

 客船の名前は【クラウン・オブ・ジ・アース】

 この客船は日本流に言うと一般的に『豪華客船』の部類に入るのだが、厳密に言うとタイタニック号などの有名な客船とは違う趣がある。

 【クラウン・オブ・ジ・アース】は正確には『MASS』。全長200M強。総重量が6万t程度のこの船は、何もかもが超の付く高級レベルの豪華客船とは少し違い、例えば一泊の値段が100$〜350$程。普通の客船なら客室のランクはスタンダード・ミニスウィート・スウィートに別けられるが、【クラウン・オブ・ジ・アース】にはスウィートは存在しない。リーズナブルな宿泊費の他、カジノの面積を広げその分の収益を多く見込める工夫を施したり、有料サービスの数を増やしたりなどする、いわゆる我々庶民に比較的手の届きやすい『安価な』豪華客船として分類されるものだったのである。


 今回の【クラウン・オブ・ジ・アース】のクルーズは、主にミクロネシア連邦を中心に就航計画が組まれていて、旅の目的地はパラオに設定されている。今はミクロネシアでは季節が乾季に入り、急激に天候が変化することはまず有り得ない。カロリン諸島のほぼ手付かずの自然と、広大でどこまでも澄み切った海洋風景を前に、客船の乗客たちは至極の二週間を過ごす予定となっていた。


 この客船の甲板から4階に当たる宿泊区の一画に、ある日本人の夫婦がいた。夫妻の名前は高村史也(ふみや)魅雪(みゆき)

 夫妻は日本ではいわゆる大手下請け関連の中小企業と呼ばれる小さな会社を、数名の従業員と共に経営している、あまり羽振りの良くないイメージの雇われ社長夫婦である。

二人は結婚して20年の節目を記念し、また親会社の何やらゴタゴタにより、別の子会社の取締役としての転勤ための準備期間に時間に余裕ができたため、前から妻の魅雪が憧れていた海外でのクルーズに思い切って申し込んでいたのだった。


 しかし妻の希望は叶えられたものの、意外に客船での生活は時間を持て余すものがある。最初こそ見るものやることどれも珍しいものばかりだったが、船での生活も一週間が過ぎた頃からそれらにもすっかり慣れてしまった。

 元々ギャンブルには縁の無い生活をしている史也は、この船の売りであるカジノのルーレットやスロットマシンにはほとんど興味を示さない。魅雪が2〜3度バカラに挑戦してみたものの、たった数度でその魅力を感じ取れるわけでも無く、ましてや周りはそのほとんどが日本語の通じない外国人ばかりである。数名の日本語のスタッフはいるものの、彼らの脚はすっかりとカジノからは遠のいていた。

 客船の甲板には大きなプールやバスケットとテニスのコートがあり、二人は主にテニスとプールはよく活用している。しかし基本的にスポーツは嫌いでは無いが、ドリンク片手に日光浴で肌を焼くのは性に合ってはいないし、若干の倹約生活が身に付いている二人には、有料の余計な飲み食いも気が引けるような後ろめたさがある。

 乗客を飽きさせないために船内で頻繁に開かれる各種の講座に参加し、アクセサリーを作ったりチェスの仕方を学んだりはしているものの、それ以外の時間は二人で客室からボンヤリ風景を眺めたり、BSの日本語の番組を見ながらおしゃべりをして過すという時間が増え始めていた。


「あなた。なんだかヒマね〜。」

「そうだな。意外に時間を持て余すもんだな。」


 この二人に子どもはいない。

 もちろん史也も魅雪も子どもを望んだ時期は長くあった。しかし彼女の体質はそれを拒み続け、いつしか史也もそれを口にすることは無くなっていた。


 もう10年ぐらい前のことになるだろうか?

 あの時はまだ、二人には小さな希望があった。不妊治療を続け、何度も何度も病院に通った。いくつも医者を変え、その度に小さな希望を植え付けられ、そしてその後には必ずその芽は摘み取られていた。

 不仲な時期も長かった。魅雪は自分が子どもを産めない体だと知った時、離婚も考えたし、なんとなく自殺を企図したこともある。史也は口では「大丈夫だよ。」と言ってくれてはいたが、その不満は態度になって現れてくる。

 史也には魅雪の気持ちが、魅雪には史也の気持ちが。それぞれのお互いの気持ちは痛い程に伝わっているはずなのに、まだ若く不器用だった二人には、乗り越えなければならないものは多かった。


 史也も魅雪も、もちろんまだ子どもをあきらめたわけでは無い。

 しかしあのやるせない気持ちが大きかった時期から少しだけ、史也も魅雪も今は前に進んだような気がしている。時が過ぎたからなのか、それとももっと別の理由があるのかは二人には判らない。

 ただ今はお互いに、苦いも甘いも噛み合った伴侶がすぐ傍にいるという安心感が、二人に心の安定と平静をもたらしているのだろうと、心のどこかでほんのりと思っていた。

 

 不意に、二人の部屋のドアをノックする音が聞こえた。

 魅雪が覗き穴から廊下を見ると、そこには見覚えのある老夫婦の姿が見える。

 それは史也たちが船内で知り合った数少ない友人で、オーストラリア人のルーク・バーデンとルル夫妻だった。

 バーデン夫妻は70近い高齢だが、豪州特有の人懐っこさがある。夫のルークが日本商社で働いていた経歴があり日本語が流暢で、しかも週末の度に客船でのバカンスを堪能しているということで船旅にも慣れている。どうやらこの夫妻には世話焼きの趣味があるようで、初めての客船での生活におどおどしていた史也たちを見つけると真っ先に声をかけてきて、あれよあれよという間に世話係のようになってしまった間柄だった。


「ヘイ、史也、魅雪。一緒にディナーに行かないか?」

 ルークは自慢の白い口ひげを揺らしながらフォッフォと笑い、その後ろから妻のルルが手招きをしている。ここではほぼ日常と化してしまったこの老夫妻の行動に、史也たちはヤレヤレと思いながらも温かくバーデン夫妻を迎え入れた。


「ルーク、今日の夕食のお薦めはなんだい?」

「史也、今日のシェフはロブスターにご執心のようだ。」

「へ〜、ロブスターか!美味しそうね。」


 史也の肩口から魅雪が顔を覗かせ、そして自分の腕を彼の腕に絡めながらニッコリと笑う。そんな仲の良い若い夫婦を見てルークもルルも、まるで彼らが自分の息子や娘のように思えていた。

 

 【クラウン・オブ・ジ・アース】での食事は、その全てが船内に設置されたレストランでビュッフェスタイルで行われる。もちろん食事は宿泊費に含まれているので、一部のアルコールや特別料理を除いたものは、毎食が食べ放題のようなものである。しかし食事の場は公のもので、Tシャツやジーンズでの入店は認められてはおらず、正装かそれに近い服装に着替えなければならない。

 自室でラフなスタイルで過ごしていた史也と魅雪は、一度室外でバーデン夫妻に待ってもらい、いそいそと着替えを始めた。

 

 今は現地時間で夜の7:30ほど。窓からの景色はすっかりと闇に包まれ、一見するとカーテンの向こうには黒い壁がそびえているようにも見えるが、しかしそんな中でも穏やかな波音は二人の耳元に微かに届いていて、自分たちが海の上にいるということを紛うことは無い。よくよく水面を眺めれば船の灯里が海に反射し、波音に呼応して柔らかく揺らめく波をほのかに確かめることができる。

 先にベージュのドレスに着替えた魅雪は、史也を待つ間に窓辺の手すりに腰掛け、そんな夜の海辺の歌声にそっと耳を傾けていた。


 しかし、その時だった。不意に魅雪の耳に、不自然な水音が響いた。水音は先程まで規則正しく奏でていた海の音階を砕き、激しく滝のような爆音を響かせる。

 驚いた魅雪がベランダに飛び出すと、そこに彼女は異質なものを目撃した。暗闇の中ではっきりとは判らないが、巨大な何かが海中から姿を現しつつある。それは動きは鈍いが生物特有の揺らぎのようなものがあり、その周りを複数の奇妙な物体が蠢いている。魅雪にはそれが触手を持つ海坊主のようにも思えたが、とにかく姿がはっきりしないために確信が持てない。しかしそれは確実に【クラウン・オブ・ジ・アース】に近づいてきていて、むせ返るような潮の臭いと海産物の腐った臭いが入り交じったような特有の悪臭を放っていた。


 そして、そのすぐ後だった。客船の中に緊急事態を報せるサイレンがけたたましく鳴り響き、赤い警告灯が点滅を始めた。続いて船内に英語のアナウンスが早口で何かをまくし立てているが、史也と魅雪にはその内容が理解出来ない。


「ルーク!ルーク!」

 史也は廊下に飛び出ると、ルークとルルを室内に引きずり込んだ。


「ルーク!アナウンスは何を言ってるんだ!?」

「何かにつかまるんだ!強いショックが来る!」


 そして、その直後だった。

 激しい衝撃が、【クラウン・オブ・ジ・アース】の空間を一直線に貫いていった。


 正体不明の物体との衝突の衝撃は激しく、巨大な客船を大きく揺らす。船内からは乗客たちの悲鳴が数多く聞こえ、何かが倒れ、崩れ、そして砕ける音が連鎖し重なるように響いていった。

 史也たちの室内も大きく揺れ、備え付けのテーブルやベッドが煽られるようにずれたが、たいがいの備品は船が嵐に遭っても危険が無いように固定されているために、それらに必死にしがみついていた4人に特にケガは無い。揺れとしては震度7の地震程度で、車の衝突事故ほどのショックは無いが、この時史也と魅雪を奇妙な感覚が襲った。激しい揺れの中で、二人の意識が一瞬だけ遠のいたのである。

 それは、本当にただの一瞬のことだった。時間にして3秒ぐらいのものだろうか。おそらくすぐ傍にいたバーテン夫妻でさえも、二人が気を失ったことになど気付いていないだろう。


 しかしこの僅かな時間は、あるいは世界の構造を根本から変えてしまうかも知れない、例えようも無い『大きな3秒』だったのである。


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