2-1 開門の儀
二人は暗闇の中を進む。少女の灯す朧げな光と王の竜滅の剣を頼りに。“闇”を斬り裂くたびにライゼは自分を責めて、少女は黙って隣にいた。
「なあ」
東側の階段を上りながら随分と憔悴してしまったライゼは掠れた声でウーアを呼んだ。彼女の様子はあまり変わりなく「はい」とだけ答えた。
「あれはどこからきたのか知ってるか。城のみんなはどうなった……?」
「ライゼ。知らなくていい話はあると思う」
「俺は何も知らなすぎる。何も知らないままで何を変える?」
少女は顔色を変えないまま、けれど彼女なりに心配している。この極限状態において今の彼にはウーアしか信頼すべき人間がいない。表情も感情も不明瞭、不可解な少女ではあるがなんとなくライゼを心配してついてきてくれている気がしていた。そこに何らかの使命があるのだろうが、あれだけ「できない」と言っていた少女の頑なさが和らいだ。そんなふうに思えた。
「あれはこの城で創り出されたもの。でも研究室の扉は封印によって閉じられていたはず。誰かが故意に開いたんだと解釈する。誰かはわたしもわからない」
ウーアは言葉を切ってライゼの手を握ったかと思えば目を閉じた。微かに魔の気配が漂う。
瞼を開き、手を放した彼女は小さく首を振る。
「全員が死んだわけじゃないと思う。気配を感じるけどどうなったかはわからない」
「そうか。誰が何のためにこんなことを……」
「あれは、憶測するにライゼを狙っていた。どうしてそんなことになったのか理解不能。試練は『門』の先で行われるはずなのに」
試練とは何だ。どうせ無理難題を押しつける気だ。反抗する気力もなく、また理不尽が課されるのだと諦めの境地で質問しなかった。それを読み取りでもしたのか、ウーアは説明を続けた。
「ロルロージュに会いにいくための試練。ライゼはそれを突破しなければならない」
会いにいくだけなら簡単すぎる。そんなことで神の赦しが得られるわけがないということか。試練というくらいだ。きっとろくでもないものなのだろう。
階段を上がり終えると開けた広間に出た。天井が高く、陽が出ていれば硝子張りの屋根から陽光が差し込み、清浄な光に包まれるのだろう。今は夜の闇に煌めく星と張り巡らされるように灯された火によって清浄とは別種の神聖さを醸し出していた。
そう。今まで“闇”の中を進むしかなかったのに火がある。“闇”を排除しているのだ。
広間の真ん中に大きな、人間の背丈の三倍以上はある扉が立ち塞がっていた。不思議なことに扉の前にも後ろにも繋がる部屋があるようには見えない、一枚の板が建っているだけという造りだ。
『門』というほうがふさわしい大扉の前に設えられた祭壇の周りに人がいる。祭壇の前に跪くのは司祭だ。儀式の準備をしていたのだろう。その近く、『門』を見上げているのは王族兄弟だ。重厚なローブではなく、身軽かつ簡素な防具を纏い剣を佩いていた。緊急事態に対応しつつ、ここは清浄であり大事な場だから守りにきたのだろうか。あとは何人かの従者らしき騎士がいるだけで、他の避難者は見当たらなかった。
ライゼがそれらを注意深く観察していると背中に何かが押し当てられた。首を捻ればウーアが身を隠すようにしてライゼの背中に頭を押しつけている。
「ライゼ。わたしはこのままでは彼らに姿を現せない。でもこうじゃないと『門』を開けない」
「なるほど。見た目が竜の子と似ているせいか?」
「そう」
あっさり肯定された事実には疑問が残る。問い質したい気持ちに駆られながら、今はそれどころではない。
すでに数人の騎士たちがライゼに気がつき、兄弟がこちらを見ている。司祭もすぐにやってくるはずだ。
少し思案し、若干戸惑われたが自分のマントを脱いでウーアに被せた。返り血を浴びたのだ。こんなものを着せるのは可哀相だが仕方ない。頭をすっぽり覆う。小柄なせいでずり落ちそうだ。何か留めるものがないかと見回し、自分の上着にたくさんついていた装飾品のひとつを外し留めてやった。
「これで髪はなんとかなったか? 瞳の色はどうにもならないな」
くりくりの金色はどうしたって異彩な光を放ってしまう。
「目だけ黒に戻らないのか」
「できない。瞳が一番力を宿す」
「わかった。じゃあ俺の後ろにいて俯いてろ。静かにな」
黙って頷くのを確認したタイミングでシャオムが駆けてきて王の手を握り締めた。
「王よ! よくぞご無事で。お部屋におられなかった時はどうしようかと思いました」
「それより大丈夫か。ここにはあれはこないみたいだけど……残っているのはこれだけ?」
抜け出したのを微妙に咎められたのを素知らぬ顔で受け流す。司祭とてそれどころではないのだろう。昼間は血色の良かった顔色が蒼白い。
「我らは『門』を死守し、王を中へ導かねばなりません。そのためには全てのしもべは命を賭することも厭わぬのです」
「それだけのためにここに?」
「もちろんです。我らしもべは王のために」
ライゼはわかりやすく眉間を寄せた。これは忠誠などではない。救済が必要だから竜の王に従うと言っているだけ。そんなことで命を懸けて欲しくはない。
「俺は君たちをしもべだとは思ってない。思うとするならそれは民であり、民は王のために存在するのではない。王が民のために在る。だから王のために、それも俺なんかのために命を賭するなんて言わないで欲しい」
言い切ったはいいが、自分には全くそぐわない言葉にしか思えない。司祭も兄弟も騎士たちもが、これを聞いて黙ってしまった。彼らはライゼを王とは認めていないからだ。肌で感じたそれに軽く笑う。そんなこと当然だと理解していた。王と持て囃されても一日も国を治めていない。その上これは国家の危機ではないのか。
だからライゼが楽園への扉を開く必要がある。そうして皆を楽園へと導くことができたらこの国は救われる。そうであればこの理不尽も自分のためだけでなく有意義なものになる。
確かな足取りで『門』の前に立つ。威圧される。開きもしないのに圧倒的な力が――呼んでいる? 張り詰めたざわめきが空気を伝う。他に誰かこの威圧に気づいていないかと様子を窺った。人間たちは何も感じてはいないようだ。ウーアだけはライゼの横に並び、『門』に手を這わせた。
白い門。両開きの扉の真ん中には黄金でできた竜の紋章がかたどられている。近くに寄ればとても細かい意匠が刻まれているのが見て取れる。
竜を撫でる女。杖が振り翳され、天から降り注ぐ稲妻。珠を大事に抱えたまま眠る娘。
神話が刻まれている。神話だけど事実。そうは思えど意味を読み解くことはできない。
しんとした広間にウーアが唱える開門の呪文が響き渡ってしまい、彼女が何をしているか知らない司祭は驚きに声を上げた。まさか見習い巫女が開門の儀を行えるとは思っていなかっただろう。今は見習い巫女だとも思っていない正体不明の娘が王の傍にいることすら不可解に見えるはずだ。
邪魔をされる前にライゼが司祭たちに小さく首を振り制した。何か言いたそうにしていたが、少女の詠唱によって『門』に力が通っていくのを見せられてしまえば黙るしかなくなる。金色の魔力が竜の紋章を巡り、刻まれた神話を巡る。
「ライゼ。手を」
言われた通りに扉に手を合わせる。
「庭園で眠る王の妃よ。あなたの求むる唯一の竜の王のために閉ざされし刻を開きたまえ。全ての空間と限りある時間を繋げ、その道を神の下へと至らせよう」
ライゼに視線をやったウーアは「名を」と促した。もうそれがどういう意味か理解している男は自分の名を宣誓する。
「ライゼ・アインザームカイト・フルゲオクルスの名の下に」
光が溢れる。光に飲まれる。無音のうちに発せられた光の中で視界が奪われた。手を添えていた扉が開いてゆく感触だけが伝わってくる。
目を開いた時に広がる光景は、特に何も変わっていなかった。開いた『門』の向こう側はこの広間の向かいでしかない。
「どういうことだ?」
「見えていないだけで繋がってる。手を触れてみるとわかる」
ウーアが手を差し入れると空間が揺らぎ、腕が向こう側へ見えなくなった。
「なるほど。じゃあ、いくか」
「うん」
躊躇もなく、さっさといってしまおうとする王に司祭は慌てる。ここに何のためにいたのだと文句でもありそうな勢いだ。
「陛下! 私もお供致します」
「いや、いい。危険だ」
「何をおっしゃいますか。危険だというならなおさらです。陛下おひとりにするわけには」
「ひとりじゃない。彼女もいる」
「誰なんですかそれは!」
「ええと、俺の――俺の従者、だな。うん」
「取ってつけたようなこと言わないで下さい!」
キーキー喚く司祭を制したのはライゼではなくブルタールだった。
「王よ。我らを伴って下さい。これは陛下だけの問題に非ず。我らの国の一大事なのです」
国を掲げられてしまえば連れていかないわけにはいかない。彼らのほうがよほど国を愛し守ってきた。いうなればこの国はライゼにとって何でもなく、彼らにとっては生きてきた家なのだ。自分の国の大事に何もしないで余所者に任せるのは、有り体にいえば信用ならないということだ、と自嘲気味に納得する。一応これでもこの国が自分の国になるという覚悟はしたつもりだったけれど、気持ちの重さで適うはずもない。
「わかった。だが無茶はしないでくれ。中がどうなってるかわからないが、これは試練だそうだ」
「覚悟は元より。王を命に代えてもお守りしますわ」
「いや、だからそういうのはやめてくれ。自分の身を守るんだ、いいね」
「ライゼ」
王を呼び捨てにした少女にシャオムの目が怖い。ウーアは俯いたままでいたが、何かを言いたそうにして、でも言葉を飲み込んだ。
「どうした?」
小さく首を振って「いこう」とだけ言って『門』に向き直ってしまった。
ウーアが最初に『門』をくぐった。空間の境目に吸い込まれるようにして身体が消えていく。次にライゼがあとを追う。境界に触れると平然としていたウーアが信じられないくらいに気持ちが悪かった。全身を撫で回されるような、中身まで確認されているみたいに魔が渦巻いた。思わず「うっ」と呻いて、仕方なく一気にくぐり抜ける。気持ち悪さは一瞬だった。
そうっと開いた目の前に何が待ち構えているのか。期待が少しと不安が大半。そのどちらもが満たされなかった。
続く回廊は城の一画にしか見えない石造りの通路だった。