1-1 死の儀式
庭園とは神の庭。また楽園への道しるべの意。
罪の正しい償い方を知っている?
庭園には白き花が咲き乱れている。白い陽射しが優しく、吐息のような柔らかな風が吹いている。
そこで女は彼の頭を膝に乗せ、白い指で髪を梳いていた。銀の糸のように輝く青年の髪が女の手で弄ばれても彼のきつく閉じられた瞼が開くことはない。
なのに女は愉しげに口元に笑みを浮かべている。髪を撫で、頬をなぞり、目覚めぬ男を待ち続ける。
この白き庭で、罪が償われるその時まで。
※
死とは人間の有限性の証明だ。
生まれてきたものはいつか死ぬ。それが摂理であり、この世の全てのものが背負った運命である。 青年は棺の中で眠る。棺で、眠る。言葉の通りであり、そうではない。死者としての二度と目覚めぬ眠りではなく、生命あるものが深い眠りの中で夢を視る眠りだ。
彼の夢は現実と錯綜し、目覚めた時には全て忘れる。綺麗さっぱりと。
けれど水底に沈澱するように記憶は身体や頭、あるいは心のどこかに残ってしまう。全てを消し去ることは、できなかった。
青年の眠る石棺は重々しい石の蓋で閉じられている。これまで一度も開かれたことのない石棺は塔の海に面した側、白い柱の東屋の中にひっそりと置かれている。忘れ去られることはないが、取り立てて何かをする者はいない。放っておかれて久しい棺だ。
しかし今日はこの塔に多くはない、けれど少なくもない人間たちがいた。皆が一様に暗い顔をしている。
葬儀を執り行なっているからだ。
棺で眠る、彼のためではない。
死は有限性の証。この国の王も限り有る命を終え、死の床についた。
国王の葬儀にしては荘厳さもなく、よくよく見てみれば俯く参列者たちは哀しみに暮れているのとは少し違った様子だった。人々は憔悴しやつれている。それほどまでに国王の崩御が国へ何らかの影響を及ぼしたのだろうか。
国王にしては控え目な意匠の棺に眠る男はすでに老いさらばえ、長い間王としての責務を果たしただろう苦労が刻み込まれた皺に表れていた。そして国王の棺の前に跪くのは二人の王族であり、すでにどちらかが代替わりを果たしているであろう。となれば、なぜ彼らは深い哀しみに溺れているのか。
王を送る鐘が鳴り響く。
この国で一番高い場所にある塔の上で人間たちは国王が安らかに神の御元へ昇れるように祈る。
塔の上部は神を奉るための祭壇になっていた。白い柱に囲まれた円形の広場。東西には扉があり、東から入り、西から出る習わしがあった。南には鐘塔が。そして北、海が望める場所に石棺が奉られている。
国王の棺は中央に。人間たちは東側に跪いて、司祭の祝詞に頭を垂れていた。重く垂れ籠める曇天が鬱々とした雰囲気をさらに重いものにさせる。
鐘が、鳴る。
夢を視る時は終わりだ。
(起きて)
呼び声はどこか懐かしい。
(時間だよ)
人間には聞こえていない。葬儀はしめやかに進んでいく。
(ずっと待ってた)
夢は消えた。良い夢だったろうか。全てが露と消えて、彼は目覚める。目覚めは必然であり、望んだものではなかった。
でも望まれたものではあった。
粛々と行われている葬儀の直中で辺り一面に爆破音が轟いた。頭を垂れていた人間たちは不意をつかれ、飛び退く者や腰を抜かす者、または剣を抜く者。場は一気に騒然とする。
音がした方向に視線が集まると一層ざわめいた。困惑。疑念。その中に一抹の希望。
爆発したのは石棺だ。粉々に粉砕された棺の欠片が周囲に降り注ぐ。大きな欠片が国王の棺に落下してきたのに気がついた王族のひとりが身を挺して父王を庇う。悲鳴が起こった。王子までも亡くしたら。
誰もが予想した最悪の結果には到らなかった。
降り注ぐ石の破片は彼らの頭上を覆う金色の結界に弾かれ、水滴のように跳ねて塵となり掻き消えた。
誰かが呟いた。
「神の御業である!」
その言葉はさざ波のように人々に浸透し、今起こっていることが『預言』そのもののであると理解するのは早かった。
神のしもべである人間たちは金の光に守られ現われた男に自然と平伏する。
「我らが王よ、我が国をお救い下さい」
壊れた石棺の中で立ち尽くす青年は仰々しい場にそぐわぬ様子できょろきょろ辺りを見回し、唖然としていた。
「は? なんだここは、どうなってる?」
全く知らない場所にいる、とこの男は思った。だが自分が何者なのか、どこにいたのか、目覚める前は何をしていたのか、よくよく思い出そうとしても靄がかかったように何も浮かんではこなかった。
ただ、自分の名がライゼ・アインザームカイトであるとだけ浮かべることができた。
それ以上は何もわからず、周囲の状況で判断するしかない。とはいえ周りの状況もとても普通とは言えなかった。
散らばった瓦礫。これはライゼが破壊した石棺のせいだとわかる。なぜ石棺に閉じ込められていたかは不明だ。でも出るために「壊せ」と言われたような気がしたので破壊した。簡単に破壊というけれど、自分がそんなことを当然のようにできることにも驚いた。石棺を殴りつけた拳には傷ひとつない。まず意味がわからない。
そして出てきたはいいが、今度は黒服に身を包んだ人々がライゼに頭を下げて口々に「王よ」と呼んでいる。これにも覚えはなく、全く意味がわからないこと二つ目だ。
観察するに誰かの葬儀をしていたらしい。棺の中を覗くと立派な装いの老人が安らかな眠りについている。近づいたライゼを遮るように、これもまた身分の高そうな青年が立ち塞がった。害を加えるつもりはもちろんない彼は二、三下がって距離を取るが、この青年は訝しげにライゼを睨んでいた。何が何だかわからないのに敵意まで向けられてはたまらない。
「国王陛下の魂を神の御元へ送ると同時に神は我らの元へ王を賜られた! 王よ! 我らを楽園へとお導き下さい! 我らが竜王様!」
ライゼが必死に状況把握に務めているというのに周りの雰囲気は熱を帯び始め、圧される。歓声は歓喜ばかりではなく、どことなく必死さを内包しているように感じられた。その追いすがるような視線を一身に集めた男は周囲を今一度確認し、やはり自分に向けられている事実にたじろいだ。
「王ってまさか俺のことか?」
「あなた様の他に誰がおられるのですか!」
それまで茫然とライゼを見上げていた司祭は感きわまった様子で彼の手を取って跪いた。白い神官服の女は手を握ったかと思えば腕を撫で回し始める。
「なっ、何してるんだ!」
慌てて振り払った彼はここでやっと自分の格好を顧みた。一糸纏わぬ姿で大衆の目に晒されているのだ。
「何でもいいから着るものをくれ!」
「あら、その神々しいお姿でいらしても構いませんのに」
「馬鹿を言え! 俺は構う!」
ローブでくるまれ、「ではお召し替えを」なんて司祭に手を引かれるまま城内に連れていかれたライゼは何も理解できていない内に知らない国の王として迎え入れられてしまったのだった。
「神に約束せし、楽園へのしるべとなる王よ。不滅なる肉体を持つ、滅びし竜の国の王よ。深き眠りから目覚めし刻、その身を捧げ、神の地で眠る王の妃を娶り、神のしもべたる民らに悠久の幸福をもたらすことを誓わん」
王となるための誓約を朗々と読み上げた司祭がちらりと顔を上げて目配せする。ここで返事をしろということらしい。
とは言うが、無理矢理着替えさせられて玉座に押しつけられるように座らせられたライゼが是と言うわけがない。何度も口を挟もうとしたのだが、国の大司祭だというこの女、シャオム・ラーゼンは上手い具合にライゼの言葉を遮り誘導し、まんまとこの場に連れてきてしまったのだ。お陰で王と呼ばれるこの青年は先程からぶっすりと不機嫌を露わにし始めていた。
「王よ、お返事を」
「俺は王じゃない」
「何をおっしゃいますか、あなたはまごうことなき王にあらせられます。あの神々しいお姿……」
「顔を赤らめるな! さっきのは忘れてくれ!」
「もったいのうございます」
「何がだ!!」
溜息しか出ない。豪華な肘掛けに頬杖をついて、王の間に集まった人間を見回す。司祭であるシャオムと王族二人と臣下らしき者が何人か。それだけしかいない。葬儀に参列していたのはもう少しいたはずだが、後片付けでもしているのだろうか。それにしてもこの広い城の割には人数が少なかった気がする。国王の葬儀だというのに。
だが城の人員構成よりも当面の問題は彼らがライゼを王として擁立させようとしていることだった。頭を抱えたい。いや、抱えた。
そしてもっと問題なのはライゼ自身が本当に王ではないと言い切れないことだった。自分の名前以外の記憶がないのだ。何か思い出そうとしてみても闇の中に落ちてしまったように何も見つからない。
「それで、何だったか?」
仕方なくシャオムの話を聞くことにするが、彼女の視線はどうも苦手だった。絡みつくように見つめられては話もしにくい。
「これより陛下には王としての宣誓を行なって頂きます」
「そうじゃなくてだな……」
混乱している頭を何とか順を追って整理していく。
彼らが言うにはライゼは『預言』にある復活の竜の王なのだとか。石棺から目覚めし竜の王が神の楽園へと誘うとされている。その王がライゼだと彼らは信じてやまないのだ。
竜の王だとか楽園だとか言われても心当たりがない。そもそもライゼがあの石棺で千年もの間、眠っていたという。そんなに長い間寝ていたつもりは全くない。物理的に不可能じゃないか。できたとしたならライゼは一体何者なのだ。
整理した結論から言えば考えてもわからないし、話を聞いても納得はできないということだけが確かになっただけだった。
額を押さえあまりにも深く溜息を吐いてしまう。
「陛下、お嘆きなさらないで下さい。我らはあなた様のしもべ。王のためにこの身を捧げる覚悟がこの国の民にはあるのです。ですからどうか我らのために王になるお覚悟を」
「そう簡単に言うけどな。俺が王になって何ができるっていうんだ。国のこともわからない。まともに王族としての教育だって受けていないだろう。執政は誰がする? 軍の配備は……」
言いかけて口を閉ざした。一体自分は何を考えている。記憶はないのに王としての責任が頭の中にずらりと並んだのだ。ふるふると頭を振って考えを消そうと試みたが、時すでに遅し。口に出してしまった言葉は皆が聞いていた。
「やはり我らが王はすでに王としての自覚が!」
「今のは違う。常識的に考えれば到る考えだ」
即座に否定すればシャオムも即座に言い返した。
「もう何でもいいから王になって下さい」
「説得するのも面倒になったか」
「いいえいいえ。そのようなことありません。陛下がいくら駄々を捏ねたところで王である事実は変えられないのです」
「駄々って。俺は目が覚めたら知らない場所にいていきなり王になれと言われてるんだぞ。そんな状況になったら君も混乱するだろう?」
「そうですね。私ならさくっと王になってみますわ」
「平気で嘘をつくな! そんなわけあるか!」
「王になれば贅沢三昧ですよ」
「……お前たちはそんな王でいいのか」
それに人員の少なさや彼らの着ている服、また血色の悪さなど見ている限りでは贅沢三昧なんてしている余裕はない国家なのではないかと思えた。
「この国は何か困っているのか?」
確証があったわけではない。だが言った瞬間空気が凍りついたのを感じた。
訳あり国家らしい。それもそうだ。理由がなくてはこんなどこの馬の骨とも知れぬ記憶喪失の男を一国の王に据えたいと考えないだろう。
どうしたものか。
ライゼはまた深く溜息をついて答えの見えない思考に沈んだ。