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陰媛

作者: のり

 葛城(かつらぎ)の地には神がいる。一言主(ひとことぬし)と呼ばれるその神は悪事(まがごと)も一言、善事(よごと)も一言、言い(はな)つ神であり、その正体は醜い顔の女神だという。

 一言主は陰媛(かげひめ)を選ぶ。陰媛とは葛城で秘される存在であり、繁栄をもたらす者だ。陰媛の存在故に葛城は繁栄を約束された地なのだ。

 

 さや、と風が渡った。葛城(かつらき)の山に程近いこの郷には、そこかしこに竹林があり、風が吹けば葉ずれの音が風を追うように渡っていく。

「……(ひめ)様が…おか…れに……急ぎ…様に……」

 渡る風に乗り、侍婢(まかたち)達の声が閨の中の音霧(ねむ)の耳に届く。途切れ途切れに聞こえる声は、まどろむ音霧に夢を見せる。

『――音霧、ごめん……あんな事を言ったばかりに……こんな苦しい思いをさせて』

 懐かしい声だ。けれどいつも音霧を元気づけてくれる声は、今は涙にくぐもっている。

(……泣かないで、私は平気。だってこれは私が私である為に、必要な事だから)

 そう声に出して言いたいのに、何故か声が出ない。そればかりか瞼を開けて声の主の顔を見る事すらかなわない。ただ、熱に浮かされたようにはっきりしない頭で、謝り続ける声を聞く事しかできない。

『ごめん……ごめん。音霧、ごめん』

 泣きながら謝り続ける声に、音霧の胸は締め付けられる。お願いだから――

「――謝らないで……」

 呟いた瞬間、目が覚めた。夜明け前の暗闇に、音霧は自分が夢を見ていたのだと知る。まだ耳の奥に、夢の中で聞いた切ない声がこびりついていた。音霧は衾の中からゆっくり体を起こすと、枕元の鏡を手に取った。それはいつも、音霧が目覚めて最初にする事だ。

 鏡に映る自分を確かめる。磨きこまれた青銅の鏡には見慣れた顔がある――はずだった。

「――音霧! 音霧は何処だ」

 遠くで自分の名を呼ぶ低い声に、音霧ははっと我に返った。急いで鏡を戻し、顔を隠す為の薄布を被く。聞きなれた足音が次第に近づき、音霧のいる房の前でぴたりと止まった。

「……入るぞ、音霧」

 言うなり御簾が跳ね上げられ青年が入って来る。青年の無礼を責める声は上らなかった。

「……何だ起きていたのか。それよりもうすぐ人が集まる。お前もさっさと準備をしろ」

 ぞんざいな口調で命令する青年は、音霧の兄である茅也(ちがや)だ。艶のある黒髪を角髪(みずら)に結い、長身の体に白い斎衣を纏っている。

「――まあ茅也様! いけません、ここからお出になって下さいまし。今はどなたも音霧様に近づく事は許されません! お戻りを」

 一足遅れで房に入って来た穂刈(ほうり)がわざとらしくまなじりを吊り上げると、茅也を房から追い出しに掛かる。古参の侍婢である穂刈は元は一族の中でも高い身分の生まれであり、この高宮(たかまど)で茅也に意見の出来る稀有な存在だ。

「おい、俺は音霧の審神者(さにわ)だぞ! その俺を追い出すとは、穂刈め!」

 数人の侍婢に囲まれ、房の外へ追い遣られた茅也が憎々しげな声を上げる。その騒がしい声が遠のくのを待ち、穂刈がひざまずく。

「音霧様、つい先程陰媛(かげひめ)様がお隠れになられました。つきましては――」

 ふぁさ、と薄布が床に舞う。それは先程まで音霧の顔を覆っていた布だった。

「……穂刈、支度を」

 床に手をついたまま口上を途切らせ、恐る恐る顔を上げた穂刈は音霧の顔を見て息を飲んだ。だがそれはほんの一瞬の事だった。

「承知致しました音霧様……いえ、陰媛様」

 恭しい口調で、穂刈は深々と頭を垂れた。


 もうすぐ夜が明ける。

 長年身に纏ってきた斎衣から、まるで婚礼衣装のような豪華な衣に装いを改めた音霧は、何とも落ち着かない気分を味わっていた。昨日までの自分なら身に纏う事を躊躇っただろう美しい衣を前に、長年培われた感覚とはそうすぐには変わらないのだと思い知る。音霧はそんな気持ちを振り払いたくて、房の東側に設えられた物見窓から眼下を望んだ。

 葛城山の東の山麓に沿うように建てられたこの広大な宮は、高宮と呼ばれる聖域だ。ここからはこの大倭(やまと)の一帯を見渡す事ができた。

 音霧は三輪山(みわやま)の方角から徐々に明るんでくる空を見上げた。呼気が早春の冷たい空気に白く染まり消えていく。静謐な朝の光が麓に段々と連なる棚田の霜を白々と浮かび上がらせる。あと二月もすれば葛城山から雪解けの水が下り、豊かにこの棚田を満たすだろう。

――葛城に『陰媛』あり――

 そんな声が聞こえた気がして、音霧は山から吹く冷たい風に耳を澄ます。幻聴だろうか。それともここより南にある、今は亡き陰媛の殯宮(もがりのみや)から漏れ聞こえる(しの)(ごと)の声だろうか。

「おい、音霧」

 だから背後から茅也が呼ぶ声に、風に耳を澄ませるふりで音霧は聞こえないふりをした。

「……おい、聞こえているのに無視するな」

 苛立ち混じりに茅也が再び声を掛ける。三つ年上で同母兄の茅也はいつもぞんざいな態度で音霧を委縮させる。昔は母の元、仲の良い兄妹だったが、五歳で音霧が高宮へ連れて来られてから十年、いつしか茅也は変わった。

(でも、それは茅也兄様だけじゃない)

 音霧も昨日までの自分ではないのだ。

「――いいのですか、決まりを破って私に話し掛けても?」

 物見窓から外を見たまま、さり気なく顔を隠す為の薄布を下ろす。途端に音霧の世界は薄い布越しのぼんやりとしたものに変わった。

 そんな事にはお構いなく茅也は勝気な目を満足そうに細め「ふん、そんなもの」鼻で笑い、ずかずかと音霧の隣に並ぶ。音霧は布越しに茅也の視線が上から注がれるのを感じた。

「なあ音霧。陰媛は一言(ひとこと)(ぬし)に選ばれる事でその顔を変えると言うが、それは本当か?」

 何の遠慮もなく茅也は言った。音霧の胸の奥に冷たい雫が落ちた。それは見る間に胸の中に広がり、音霧の心を冷え冷えとさせる。

「――茅也兄様はそれが嘘だと?」

 質問に質問で返され、茅也は一瞬言葉を詰まらせた。

「嘘だとは言わないが、時の審神者と限られた者しか陰媛の顔を拝めないからな」

 決まり悪げに視線を逸らし、茅也は言い訳めいた言葉を口にする。

「茅也兄様は次期陰媛の審神者たる者。ならば間もなく、それも確かめられましょう」

 音霧はまっすぐ視線を物見窓の外へ向けたまま、興味無げに答えた。

「それは、まあ……そうなんだが」

 納得がいかないのか、茅也が言葉を濁す。

 それとも、と音霧は茅也へと顔を向けた。

「私が陰媛かどうか、今ここで確かめたいと暗におっしゃっているのですか」

 不意に音霧の手が顔を隠す薄布の端に掛かり、それをほんの僅かだけ持ち上げてみせる。茅也がはっと目を見開くのを見遣り、音霧は更に布を持ち上げた。音霧の顔を隠すその布は音霧にとってそうであるように、他の者にとっても(うつつ)と異界を隔てる境界線なのだ。それを無闇に越える事は禁忌だった。

 布の下からほっそりとした顎が露わになると、痛い程の茅也の視線を感じた。この高宮に暮らすようになってから、音霧が侍婢以外に顔を晒す事は許されなかった。兄である茅也も例外ではなく、音霧の肉親であるという温情で月のものが始まるまでの間は見逃してもらえたが、一旦印を見てからは一切素顔で茅也の前に出る事は禁じられた。だから茅也が知る音霧の顔は、五年前のものなのだ。

 茅也の喉がごくりと鳴る。決まりを破り、ここで自分の素顔を見せるつもりなどなかった音霧だが、茅也の青ざめた顔を見ている内に、いっそ本当にこの薄布を全て取り去ってしまおうか、という昏い衝動に憑りつかれる。

(茅也兄様はどんな顔をするかしら?)

 醜かった自分を知る兄。その醜さを厭い、音霧に心無い態度を取る兄。

(そんな兄様が、今の私の顔を見たら……)

 茅也の反応を想像し、唇が魅惑的な弧を描く。それは持ち上げられた薄布から露わになり、茅也の目にも晒された。茅也が自分を見ている。それだけで音霧の胸は高鳴る。もっと見て欲しい、変わった私を、もっと――

「――よせ、音霧……!」

 薄布が目元近くまで持ち上げられる頃になり、ようやく何かを振り切るような目で、茅也が音霧の手をつかんだ。その手は痛い程の力が込められていたが、微かに震えていた。

「何をしておいでです。音霧様、茅也様」

 ぴしゃりとした声が、背後から飛ぶ。茅也の視線が音霧の口元からその背後へと逸れた。

「薄布が髪飾りに引っ掛かってしまったので、茅也兄様に見てもらっていただけよ、穂刈」

 気まずげな顔をした茅也をじろり、と睨み付け、穂刈は二人の間に身体を割り込ませた。

「……さようでございますか」

 失礼をと短く断りを入れ、穂刈が髪飾りを調べる。本当は穂刈もそれが音霧の嘘だとわかっているのだろう。けれどわざわざ嘘だと騒ぎ立てるような真似はしなかったし、音霧も穂刈がそうするだろう事はわかっていた。ただ一人茅也だけが女達の腹の内を知らず、わざとらしい咳払いで音霧から距離を取った。

「これでようございます。お二方ともご準備はよろしいですね? もうすぐ襲津彦(そつひこ)様達がお渡りになられます。……あの方の前で醜態など晒せませぬ事、おわかりですね茅也様」

 どこか棘のある穂刈の言葉に、茅也の表情が強張る。今日これから行われる事は、茅也にとってもこの先の進退を左右する一大事だ。

「――お前に言われずとも、わかっている」

 固い表情で返し、茅也は謁見の為の広い殿舎の中に一つだけ仰々しく据えられた高座の足元に控える。御簾で仕切られたその高座は音霧の為の物だ。高座に腰を下ろすと、足元に控えた茅也の几帳面に結われた角髪(みずら)を、今度は音霧が上から見下ろす番だった。

「わかってるな音霧、失敗は許されないぞ」

 切れ長の涼しげな目が音霧を見上げる。有無を言わさぬ声音に音霧は沈黙で答えた。そんな音霧の反応に茅也が小さく舌打ちする。

「襲津彦様がおいでです」

 先触れの若い侍婢の声に茅也は正面を向き、穂刈が退がる。音霧は目の前の御簾の向こうに目をやった。広々とした殿舎の中は、二人のいる高座の前に掛けられた御簾以外、全ての仕切りが取り払われていた。ばらばらと複数の足音が入って来たかと思うと御簾の向こうで一斉に止まり、それと引き換えに今度は人いきれと沈黙が舎内に満ちる。

 やがて一人の恰幅の良い男が進み出た。音霧がその男を見るのは、これで三度目だった。

「我は葛城襲津彦、この葛城を束ねる者だ」

 びりっと空気が震えた。よく通る声ではないが、ざらざらとした低い声はさすが葛城の長といった迫力のある、独特の力を持つ声だ。

「聞き及んでいるだろうが陰媛が殯宮に入られた。我々は新たな陰媛を立てねばならぬ」

 胴間声ともいえる襲津彦の声が述べる。殯宮とは死者を葬るまでの間、安置する葬祭宮の事だ。死者はそこで長い時間を掛けその肉体を腐敗させる事で現との繋がりを断つのだ。

 この男は一体何人の陰媛を見てきたのだろう、と音霧は思う。襲津彦が一族の長となってから長い年月が経ち、娘の磐之媛(いわのひめ)(おお)鷦鷯(さざきの)大王(おおきみ)の皇后に立った。それに対し陰媛は十年と経たず生涯を終える者がほとんどだ。神に一言を奉じる行為は、命を削る事なのだ。

「……では、わたくしが陰媛に立ちましょう」

 音霧は予め定められたその言葉を口にした途端、何故か俄かに心が高揚するのを感じた。

(そう、私はずっとこの時を待っていた)

 じわじわと湧き上がる歓喜は、心の奥底の願望を揺り起こす。音霧は次の言葉を待った。

「ならば皆の前に、陰媛たるその証を」

 穂刈が進み出て、襲津彦達と音霧を隔てる御簾を上げる。その僅かの時間がまどろっこしい。やがて御簾が完全に上げられると、居並ぶ重鎮達の視線が一斉に自分に向けられるのを肌で感じた。それさえ今の音霧には心地よく感じる。次いで足元に控えた茅也が立ち上がり、厳かに音霧の頭部を覆う薄布をゆっくりと持ち上げた。顔が徐々に露わになるに従って、布の下で籠っていた自らの呼気が生み出す僅かな息苦しさが無くなり、ひんやりとした空気が音霧の頬に触れた。

(……ああ、茅也兄様の匂いだわ……)

 薄布越しではない新鮮な空気は、同時にすぐ目の前に立つ茅也の匂いも運んで来る。それは子供の頃のどこか甘く乳臭い匂いではなく、男を感じさせる雄々しい匂いだ。

 やがて薄布越しに見えていた景色が、現実感を伴ったものへと変わる。今、視界に映るのは、茅也の纏う斎衣の白一色だ。音霧の胸は期待と歓喜に破裂しそうな程昂ぶった。

(さあ、私の顔を見て!)

 やがて訪れる瞬間を音霧は待った。今朝の穂刈のように皆が自分を見て驚くその時を。

 けれどそれは、なかなかやって来なかった。いつまでも音霧の視界を遮るように、茅也が立ち塞がったままなのだ。音霧は苛立ちに視線を上げ、茅也を睨んだ。けれどその先にあったのは、目を大きく見開いた茅也の顔だった。息を詰めるように自分を見る茅也。

 茅也は音霧に見惚れているのだ。それを悟った瞬間、音霧の苛立ちがすうっと消えた。

(――どう? 茅也兄様)

 挑発するように茅也を見た。音霧の瞳にそれを読み取ったのか、茅也ははっと我に返ると音霧の顔から強引に視線を逸らし、再び高座の足元に控える姿勢に戻る。その途端、声にならない複数の声が場に満ち溢れた。ゆっくりと視線を巡らせば、殿舎の中の男達が息を詰めて音霧の顔を注視していた。

 流れ落ちる艶やかな黒髪。見る者を惹きつける、長く豊かな睫毛に縁どられた大粒の宝玉の瞳。細く整った鼻梁。紅が引かれた艶やかな唇は瑞々しい花の花弁。そして娘らしいふっくらとした頬は、思わず触れてみたくなる柔らかい曲線を描いている。

 息を飲む美しい顔がそこにあった。そして美しい顔の中で、目元に刻まれた深い藍色と血のように鮮やかな朱色の紋様が、禍々しく音霧の顔を飾っている。次期陰媛として幼い頃に刻まれたその刻印は、顔の変わってしまった音霧を音霧本人だと証明する為のものだ。

 やがてたっぷりと皆が自分の顔を眺められる時を置き、音霧は言った。

「……これが証でございます」

 どよめきが場を満たした。

「―――認めよう。これからそなたがこの葛城を繁栄に導く陰媛となる事を」

 ただ一人、何の感慨もない表情で襲津彦が宣言した。

「ではこれ以後、わたくしは人前に出る事は罷りなりません。よって兄であるこの茅也を、わたくしの審神者と致しましょう」

 襲津彦が頷き、茅也に視線を向ける。その視線を茅也は挑むような目で受け止めた。陰媛にはその身内の男から審神者がつく事が慣例となっている。茅也が音霧の審神者になる事は、茅也が十五になった年に決まっていた。

 今夜のこの儀式は全てが事前に定められた形式上の事に過ぎない。けれどその中にも真実はある。それは陰媛となる者は、その醜い顔が一夜にして美しい顔に変わるという事だ。これはそれを確かめる為の儀式に他ならない。

「今よりわたくしは、命を尽くして一言主に奉じましょう。ただ一言、葛城に繁栄をと」

 音霧の声は高宮を吹き抜ける朝の風に乗り、葛城の郷を渡っていった。


 古来、月の最初と十五番目の夜に陰媛は一言主の社に籠るのが定めであり、その時ばかりは郷の者も心得たもので皆が早々と眠りに就く。その夜、音霧は陰媛となって初めて一言主の社へ渡った。高宮から北に位置する社へは輿で半刻程の距離だが、夜の闇に紛れ黒塗りの輿に揺られていると、まるで黄泉の国へ下っていくかのような錯覚を覚える。

 やがて夜陰に沈む山間の一角に、一つだけ焚かれた篝火が見えた。炎に誘われるように進めば、そこが目指す場所だ。周りを背の高い木々で囲われた一言主の社は、造りは立派だがこじんまりとしており、社の内は過分に質素で、祭壇と座る為の褥があるだけだ。

 社の中には音霧と茅也、穂刈の姿があった。

「――では明日の朝、お迎えにあがります」

 穂刈がそう言い残して社から去ると、後には音霧と茅也の二人だけが残された。祭壇の前の褥に座った音霧は、さりげなく斜向かいに座る茅也の横顔を窺う。わざと視線を逸らしているのだろう、茅也は社の扉を見るばかりでちっとも音霧の方を見ようとしない。

(あれから茅也兄様は、ずっと私を見ない)

 音霧は落胆と苛立ちの目で茅也を見つめる。気詰まりな沈黙が社の中を満たしていた。

「……俺もそろそろ外の見張りに立つ。お前はしっかりと自分の務めを果たせ」

 ぞんざいな口調は相変わらずだが、やはり音霧の顔を見ないまま茅也が腰を上げた。

 まただ。やはり茅也は自分を避けている。

「……何故茅也兄様は、私を見ないのですか」

 堪らず音霧は立ち上がり茅也の背中に問うた。先日の儀式以来、明らかに茅也は音霧を避けていた。茅也はぎくりとして立ち止まる。

「……私が、恐ろしいのですね」

 神に選ばれ、一晩にして顔の変わった女。それを恐れる事は当然の事だ。

「恐ろしくなどない」

 吐き捨てるような声。茅也の背中が自分を拒絶しているようで心が沈んだ。結局陰媛となりどれだけ容姿が美しくなろうとも、何も変わらないのだと打ちのめされた心地がした。

「――もう、結構です。任に戻って下さい」

 落胆を滲ませ音霧は言った。声が震えそうになったが、何とか堪えた。けれど茅也はそこから動こうとはしない。音霧がそれを訝しく思った時、不意に茅也が振り返った。

「音霧、お前は――」

 何かを訴えるような茅也の目は、音霧が初めて見るものだった。

「茅也兄様……?」

 返事は無かった。視線だけが絡み合う。

「――美しくなって、嬉しいか」

 やがて茅也は低い声で問うた。音霧は一瞬言葉を失った。醜いと蔑まれてきた女が美しく生まれ変わる。それを喜ばない女などいない。それを蔑まれてきた当事者の音霧に問うのかと、激しい憤りが胸の奥に湧き上がる。

「当然です! 茅也兄様だって醜い女などわざわざ相手にしたくないでしょう!?」

 音霧は感情に任せ言葉を投げ付けた。怒りに燃える瞳で茅也を正面から睨み付ける。僅かの間睨みあい対峙していた二人だったが、先に視線を引き剥がしたのは茅也の方だった。

「……そうか。お前はそんな風に思っていたのか。お前は……変わってしまったのだな」

「いいえ私は何も変わらない! その証拠にこの顔が変わっても、茅也兄様にとって未だ私は厭わしい存在のまま! 美しくなれば、陰媛になればそれもきっと変わる。茅也兄様だってきっと、……そう思っていたのに!」

 鬱屈した想いが堪えきれず溢れ出た。何故醜いからと蔑まれなければならないのか。何故美しくなっても何も変わらないのか。美醜だけが人間の価値ではないと強く思うのに、反面、美に執着する自分が滑稽に思えた。音霧は納得できなかった。世の中の全てが、自分の心すら納得できなかった。

「俺が……憎いのか」

 冷え冷えとした瞳が音霧を貫く。だがその奥にはちらちらと昏い炎が見え隠れしている。

「……ええ。憎いわ、茅也兄様が」

 陰媛候補は神託を受ければ親元から引き離される。音霧はどこの誰かも知らない父はもとより、神託が下るまで共に暮らした母の顔すらおぼろげにしか思い出せなかった。けれど兄の茅也だけは音霧の審神者候補として繋がりを持つ事を許された。それは音霧にとって唯一の心の支えだったけれど、茅也には違った。音霧など疎ましいだけだったのだ。

「でももっと憎いのは、茅也兄様と同じ血が流れる私自身。妹と生まれた、この私!」

 蔑まれようと疎ましく思われようと、どうしても音霧の目は茅也を追ってしまう。会う度に逞しく男らしくなっていく茅也。侍婢達が茅也の訪れにこっそり囁き合うのを見る度、茅也が兄である事を誇りに思った。けれど同時に、無邪気に喜ぶ彼女達に嫉妬を覚えた。

(醜い。私の心は、こんなにも醜い!)

「――一言主の神も、私のこの心までは美しくはしてくれなかった」

 音霧の頬を一筋の涙がこぼれ落ちた。茅也の男らしい大きな手が、不意に音霧の頬に伸ばされる。音霧は一瞬びくりと震えた。

「……お前は醜くなどない」

 けれど伸ばされた茅也の手は、音霧の頬に触れる事はなかった。すんでの所で茅也は思い留まったようにその手を引いた。

「そんな嘘など今更! 聞きたくもない!」

 それは望んでも望んでも決して与えられなかった言葉。音霧が望む事すら手放してしまったその一言。音霧が茅也を力なく睨む。その視線から逃れるように茅也は目を逸らした。

「――嘘か。そう思わせたのは俺なんだな」

振り切るように茅也が背を向けたその時。カタリ、と扉の向こうで音がした。

「……誰かいるのか?」

 社の外へ向け茅也が問う。返事はなかった。社の中にたったひとつだけ灯された小さな灯が、頼りなく辺りを照らしている。

「それが陰媛と審神者の会話ですか」

 聞き覚えのある声が扉の向こうでした。

「穂刈! 聞いていたのか!」

 茅也が舌打ちし、俄かに緊張を走らせた。

「穂刈? どうしてあなたが……」

「陰媛はこの葛城の繁栄を一言主に願い奉じるが務め。それ以外の願いなど許されぬ事」

 とくん、と音霧の心臓が大きく跳ねた。

(穂刈に知られてしまった!)

 何故か穂刈は昔から、兄妹が関わる事を危惧した。音霧の気持ちはどうあれ、茅也は醜い音霧を目の敵のように扱うのだから、何を警戒するのかと思いつつ、音霧もできるだけ感情を穂刈に知られぬよう気を付けてはいた。

「なのに血の繋がった兄妹がそのような汚らわしい願望を持つなど。あの方の顔に泥を塗るような真似がよくおできになる」

 氷のような冷たい声が音霧の心に突き刺さる。同じ母を持つ者同士が結ばれる事は禁忌だ。神に一言を奉じる為だけに存在する陰媛の音霧が、その禁忌を心の奥底に抱くなど許されない事なのだ。音霧は唇を噛んで俯いた。

「黙れ! あいつの事は言うな!」

 茅也の鋭い声に、音霧ははっと顔を上げた。

「――あの方をあいつなどと、二度とおっしゃいますな。葛城の長であるお父上のお陰で、今の審神者の地位にいるというのに!」

 扉の外の穂刈の声が、一気に怒気を含んだ。

(え……今、何て? 葛城の長……父上?)

 言葉の意味を理解できず、音霧は呆然と茅也を見る。茅也は黙って扉を睨みつけていた。

「いやらしくも妹に血迷うなど恥を知るのです! 昔から怪しいと疑っていたのです。でもあの一件以来茅也様の態度が一変したので、懲りたのかと思ったら案の定この有様」

 憎々しげな声が呪詛のように音霧を捕えた。

「あの一件……?」

「お忘れですか。その顔に刻まれた模様は茅也様が命じられたのですよ。陰媛になり顔が変わっても、妹とすぐにわかる目印があればいいのにと無邪気におっしゃって。だからその顔に紋様が刻まれ、その傷が元で何日も高熱が続き生死を彷徨う事態になったのです」

 鼻で笑うように穂刈は言った。音霧には全てが初耳だった。けれど何かが引っ掛かった。

(あの夢の中の声は……茅也兄様……?)

 音霧は呆然とした。夢だと思っていたものは夢ではなく、過去の記憶だったというのか。

 突然茅也が社の壁をどん、と叩きつけた。

「俺はあれ程自分を呪った事はない! お前の口車に乗せられ余計な事を言った自分をな。 まさか音霧の顔に刺青を彫るなんて!」

「だからあなた様は小賢しくも、わざと音霧様にぞんざいな態度を取るようになられた。お陰でもう少しで騙されるところでした。けれどそれももうどうでもいい事――」

 ガタリと扉の外で固い音がした。茅也がはっとした様子で扉に取り付くが、扉は開かなかった。閂を掛けられたらしい。

「――くそっ! 閉じ込める気か!」

「父であるあの方に死をもって償うのです」

 感情の起伏のない声が言い、微かに焦げ臭い匂いが扉の向こうからしはじめた。

(まさか、社に火を……?)

 茅也の顔からも血の気が引いていた。

「――下がれ、音霧!」

 言うが早いか茅也は音霧を押しやり、堅く閉じた扉に体当たりを食らわした。けれど閉じたまま扉は開く気配はない。それでも茅也は何度も体当たりを繰り返した。

(どうしよう、誰か……!)

 やがて炎が壁を侵食し始め、次々と呑み込んでゆく。穂刈は本気で自分達を焼く気だ。

 いつの間にか灰色の煙が社の中に満ち、目や喉が痛んだ。ちろちろとした赤い炎は、茅也が体当たりをしている扉にも飛び火していた。死がすぐそこまで迫っているのだ。

「煙を吸うな!」

 鋭い声で茅也は叫ぶと、音霧を引き寄せその顔を自分の胸に押し付けた。

「ち、茅也兄様……!?」

 こんな時だというのに、茅也の逞しい胸の感触に音霧の胸は高鳴ってしまう。死に直面した場面で同じ血を分けた兄相手にこんな感情を抱くなど、自分はおかしいのだろうか。 音霧は自分の心が恐ろしかった。どきどきとうるさい自分の鼓動に気付かれるのが怖くて、音霧は腕を突っ張り茅也から離れようとした。けれど茅也の腕はまるで戒めのように音霧の体をとらえて離さない。やがて壁を這った炎が天井に達する。逃げ場はない。社が火に包まれるまで時間の問題だった。

「くそ!」

 悔しげに歯噛みし、茅也は炎から音霧を守るようにその胸に抱き込んだ。茅也の荒い息遣いが、音霧の耳のすぐ傍にある。

「やっとお前の審神者になれたのに! それだけが唯一俺に許された道だったのに!」

 押し殺した声が音霧の耳をかすめた。音霧は炎の凄まじい熱に弄られながらも、茅也の言葉の意味を求めずにはいられなかった。

「茅也、兄様?――」

 息をするだけで肺が焼けてしまいそうだ。

「――お前も運のない奴だな」

 そう呟く茅也の声も苦しげだ。

「父親には捨てられ、俺のせいで散々な目にあった上に、せっかく陰媛になれたと思えば、こんな所で俺なんかと――」

 音霧は茅也の腕の中で、大きくかぶりを振った。違う。運がないのは自分ではない。

「茅也兄様のせいじゃない! 私が陰媛に選ばれたばかりに……こんな――」

「お前は悪くない。選ぶのは一言主だ」

 茅也が腕の力を緩め、音霧の顔を上から覗き込む。その目には炎と煙に晒される苦痛とは違う、切ないまでの苦悩の色があった。

「……結局俺もお前を苦しめてばかりだ」

「それは、穂刈から私を守る為……?」

「それもある。だがせめてそう振る舞いでもしなければ、俺はきっと禁忌を犯していた」

 苦しげに吐き出される言葉に耳を疑う。

「……お前が妹じゃなければと何度も思った」

 切羽詰った声が炎のように音霧を翻弄する。

「驚いたか、俺がこんな歪んだ想いを持て余していた事に。醜いのはお前じゃない、俺だ」

 茅也の熱い手が音霧の目元をそっとなぞる。

「――痛かっただろう。なのにお前は一言も俺を責めなかった。俺のせいでこんな物を彫られたっていうのに俺を許した。お前はそういう奴だ。醜くくなんかない。お前を嘲る奴らの心こそが醜いんだ」

 今まで心に重く圧し掛かっていた物が、茅也の言葉で音霧の中から解き放たれるのを感じた。音霧を醜いと蔑んでいたのは、茅也ではなく音霧自身だったと、その瞬間気付いた。

 音霧の頬を熱い涙が伝った。けれど燃え盛る炎の熱に、涙はすぐに乾いてしまう。

 茅也の両手が音霧の頬を包み込むように伸ばされ、引き寄せられる。互いの吐息が感じられる距離で、額同士が遠慮がちに触れ合う。

「随分変わってしまったな、俺も…お前も」

 唇さえ触れ合いそうな近さで、茅也が囁いた。音霧の瞳からこぼれては頬を伝う涙が、茅也の手を僅かに濡らす。

「お前がもし一言主に選ばれなければ、俺達の運命はもっと違うものになったのか……」

 切ない瞳で茅也が音霧の唇を見つめる。音霧の瞳も、自然と茅也の唇に引き寄せられた。炎の熱のせいで乾いてひび割れた茅也の唇。

「それでも私は茅也兄様を好きになった……」

 茅也の目が一瞬驚きに見開かれる。そして

茅也は何かを噛みしめるように、目を伏せた。

「知ってるか音霧。俺達審神者は陰媛が永遠の眠りに就く時、それに殉じて共に陵に葬られるんだ。俺はずっとそれを望んで生きてきた。それが唯一俺に許されたお前への――」

 突然轟音をたて梁が崩れ落ちた。西からの乾いた風が炎を煽り、全てを灰塵に帰す。


 やがて時は全ての物に平等に降り積もり、陰媛の名も絶えて等しい。

『葛城に陰媛あり』

 そう囁かれたのは今はもう遥か昔の話――


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― 新着の感想 ―
[良い点] 文章はとても読み易いです。こんなに専門用語が多いと当方など混乱するのが常ですが、意外にも最後まですらすら読めました。 設定がだいぶ込み入っていて長編さえ書けそうに感じました。それで、「こ…
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