百一夜物語。
怪談前夜。
しんと静まり返った部屋の中。一人の男が背筋を伸ばし端座している。既に空は白け出し、小鳥のさえずりが朝日の来訪を告げる。
男の表情にかすかな光条がさした。意を決したように二つの眼が開かれる。
男の目に飛び込んできたのは、山の様な蝋燭。何度も数を確かめた。間違いなく百本――中にはまっさらな新品から、既に云十年も前から仕舞ってあった黄ばんだ蝋燭もある。形も大きさもまちまちだ。四十センチ近い百号サイズの洋蝋燭を筆頭に、八センチ弱のダルマという名の白い和蝋燭まで。
洋蝋燭と和蝋燭では、芯の太さが格段に違う。洋蝋燭の紐に対し、和蝋燭は竹や木の串に和紙を巻き、更にイグサを巻いてある。和蝋燭の方が断然風に強く力強く燃える。
しかし、百物語に向いているのは洋蝋燭の方だ。一息に吹き消せないのでは、具合が悪いが、どうしても数が足らなかった。きちんと芯切バサミも用意しなければ……そんな事がつらつらと男の頭の中に沸き上がっては消えていく。
――何を馬鹿な――
そう思いもする。今宵、この場で催される「百物語」。物語が紡ぎ出される度、一本ずつ蝋燭を吹き消していく、というアレである。百本目の蝋燭が吹き消されると怪異が現れると噂されるが、男は毛ほども信じていなかった。
――しかしそれでも――
男は内に膨らむ疑念を吹き消す。既に後戻りする時間はない……筈だ。
百物語を行うことで何かが起こるのか、何かが変わるのか。それは分からない。いっそ何も起きないのであれば、それはそれで良いのかも知れない。“そんなモノは存在しないのだ”と、強く言うことも出来るだろう。
もし。
もしも何かが起こってしまったら。それは“アイツ”にとって良いことなのだろうか?ここ数日、その事が何より引っかかる事ではあったが……それでも。
妻の身も心配だし、何より“アイツ”本人が望んだ事でもある。
気がつけば、日は更に昇り、ガラス戸の格子の影が男の前の蝋燭にまで伸びつつある。昼になれば、影は濃さを増し、この場は見違えるほど明るくなるだろう。
――そして。
再び日が傾き、夜の帳が迫る頃には、声をかけた面子が一斉に集い、宴が始まるのだ。本当は意味などいらないのかもしれない。ただ皆で集まって、日々の憂さを晴らす、それだけでも今日の会は充実したものになるだろう。
やはり和蝋燭よりも洋蝋燭の方が始末が楽だなぁ――。昼間の内に買いに出かければ十分間に合うだろう。男は陽炎のごとくゆっくり立ち上がり、ガラス戸を開ける。朝から良い天気だ。朝日に木々の緑がよく映える。庭にずらっと並んだ盆栽達も、各々に陰影が出来、存在感を示している。
まずは腹ごしらえだ。顔を洗い、朝食をとり、身支度を整え出かける準備をする。妻は嫌がるが、辛子たっぷりの納豆は何物にも変えがたく美味だ。鬱々とした想いも晴れてくる。
「行って来ます」
一声残して、男は庭につながっている長い石段を下っていった。蝋燭さえ揃えば準備は全て終わる。後はただ、懐かしい顔が集うのを待つばかりだ。その後の事は……成り行きに任せよう。
きっと悪いようにはならないさ、と、希望的観測を抱えながら――。
そして宴は始まった。
第一夜 はんぶん。
寺の副住職しているSさんは、盆になると決まって隣町の檀家廻りをする。三年前、盆廻りの途中、反対の歩道を歩く少女から指をさされた。
「半分坊さんだ」
何が? と気になったSさんだったが、ふと思い至った。この町内の住職さんは、概ね頭を丸めてらっしゃる。今の自分は中途半端に伸びた髪。なるほどだから半分坊さんか。
翌年、今度は少年に指さされた。
「半分坊さんだ」
今年は頭を丸めている。気になったSさんは、思いきって少年に理由を聞いてみた。首を傾げた少年がSさんの顔の右側を見つめた。
「おっちゃんの髪、何で半分だけ肩までのびてるん?」
「今年も僕、半分坊さんなんだそうです」
Sさんは苦笑していた。
第二夜 朝の読経。
OLのTさんは学生時代京都で下宿していた。入居して半年、元来夜型だったTさんは珍しく朝早く目が覚めた。何か聞こえた気がする。耳をそばだてるとどうやらお経らしい。そちらの方面の素養がないTさんには細かい事はわからなかったが、低音でボソボソ聞こえる。
「京都だし、そっち系の学校行ってる友人もいたんで」
朝早くから熱心な事、と感心半分、呆れ半分だったという。それまでもその時間、毎朝唱えられていたのだろう。翌日からも毎朝読経らしきものは続いた。決して耳障りな程大声ではなかったし、時間にして五分強。特に目くじらをたてることなく四カ月余り過ぎた頃、終電を逃した友人が泊まることになった。夜更かししながら酎ハイを片手に恋バナを咲かせた。
翌朝、読経のおかげで半ば朝方になりつつあったTさんは、いつも通り目が覚めた。友人も既に身体を起こしている。隣からはいつもの声。
「……あんた、何、この声」
震える声を友人が絞り出す。
「何って……お経じゃないの?」
「……! ちょっと! ちゃんと聞きなって!」
友人の剣幕に、壁に耳をあて、神経を集中した。確かにお経ではない。契約が更新されるのを待って、Tさんは引っ越した。
何を聞いたかは未だに教えてくれない。
第三夜 セミ。
S君が小学生時代の事。夏休みの自由研究に、セミの脱皮を観察する事に決めた。地面を探して、それらしい穴に枝を突っ込むと幼虫が釣れた。虫かごに入れておくと、直に羽化の準備を始めた。写真を撮り、経過を観察する。一通り終えたS君は、裏庭に羽化したばかりのセミを置いた。
翌早朝、トイレで目が覚めたS君は、何気なく裏庭に目をやる。そこには、S君の胸の辺りまである巨大なセミがいた。
近づくと消えてしまった。足元に目を落とすとセミを食い散らかした痕が残っていた。
「猫にでもやられたですかねぇ、悪い事しました」
S君は今も悔しそうに話す。
第四夜 うをぅ。
Kさんが高校生の頃の話。自転車通学だったKさんは夜道、しかも坂道を登っていた。当時、街灯が少なく、目指す頂上まで辺りは真っ暗。
キシリ、キシリ、とゆっくりチェーンが軋む。通い慣れた道とはいえ、大きくカーブしていて漕ぎにくいことこの上ない。
キシリ。キシリ。キシリ。ギシ。
灯りが近づいてきた。あそこまで行けば、あとは下るだけ。もうちょっと。もうちょっと! もうちょっと! 着いた!
灯りに照らされて、アスファルトに影が伸びる。下り始め、直後スピードがグンと上がる。チェーンがシャーという音に変わった時。
「う"を"を"を"を"を!」
野太い声と共に、耳元に吐息がかかる。Kさんも一緒になって叫んでいた。気が付いたら坂を下り終え、肩で息をしていた。
「すんごい疲労感でした。もぅバッカじゃねぇの」
Kさんは憤って嘆息した。
第五夜 に。
「今でも嫌いなんです」
Yさんは現在専業主婦をしている。学生時代に出逢った旦那との間に既に二人の子を授かっていた。
Yさんは子供の頃、猫を飼っていた。真っ白い子と茶トラ。二匹ともトラックにひかれ死んだ。
次に飼ったのは縁日のヒヨコ。二羽揃って喰い散らかされた姿で見つかった。
中学時代には子犬を飼っていた。そっくりなチワワを二匹。揃って川の増水に巻き込まれた。
今Yさんの前には、そっくりな可愛い双子。
「2、ていう数字、嫌いなんです」
目下、三人目が彼女のお腹に宿っている。
第六夜 影送り。
Nさんが小学生の頃、国語の教科書に『ちぃちゃんの影送り』という話があった。戦後だか戦中だかの日本。幼い子供たちが、手を繋ぎ地面の影をじっと見つめたあと、空を見上げると目に焼き付いた影が空に伸び上がったように錯覚する。そんな遊びをしていた。
戦争の悲しいお話ではあったが、Nさんたちはこの影送りをしたくてたまらなかった。空へ送られていく影を見たくて仕方ない。日差しの強い晴れた日。友人たちと地面を見つめ、空を見上げる。残像が空に伸び上がった。成功だ! 喜んだNさんは何度も繰り返す。
やがて厭きてきた友人が一人、二人と減り、Nさんだけがぽつん、と残された。それでもNさんは一人影送りを繰り返す。
と。見上げると影が増えた。首を動かすたび、一人、二人と増える。不思議に思いながらも、どんどん増える影に心を奪われる。十人ばかり増えた時、影が一斉に手を振った。つられてNさんも手をふった。
「本当に送れた気がして」
少し寂しかったが、精一杯影を見送った。ありがとう、と聞こえた気がした。Nさんの目から、ぽろぽろ涙が落ちていた。
第七夜 嘘から出た・壱。
M君が通っていた高校は、コの字型の校舎で中庭に噴水がある。
ある年の学園祭で、盛り上げる為にデタラメの七不思議を作り出し、冊子にして配ろう、という話になったそうだ。M君が入学するずっと前の事だ。その時の執行部ではまとめきる事が出来ず、何年か越しで完成したという。
その中の一つに『血の噴水』がある。放課後、遅くまで残っていると中庭の噴水が血に染まるのだ。勿論ウソである。
ウソである事を知る前の出来事。
M君は部活で放課後の校舎に残っていた。
その時既に七不思議の冊子は読んだ事はあったそうだが、フィクションだと決めつけていた。そんなもの、あるはずがない、あるなら是非とも見てみたい、と。
その日、果たして噴水を覗きこんだが、夕日にきらめくばかりで、血は見受けられない。
やっぱりな、と苦笑して噴水からふと視線をあげる。三方を囲む校舎と、差し込む夕日。校舎が綺麗な真っ赤に染まっている。
「いやぁ本当に綺麗でよ。これを元に作った話かと思ったんよ」
真っ赤な校舎を堪能した後、M君は妙な違和感を感じた。今背中から照っている夕日――。あちらは真東ではなかったか?そう思った途端、真っ赤な校舎は、影を落とす無機質な壁に戻った。
「いや、実際あん時は『七不思議じゃのぅて八不思議じゃないかっ!』って、やたらと腹が立ったけん」
今ではM君は、あれが『本当の七不思議の一つ』だと信じているらしい。
第八夜 嘘から出た・弐。
M君の高校の話。
Sさんは放送部員だった。といっても大きなイベント以外では、さして活躍する事もなく、ひっそりした部活である。ある日、機材の定期点検をしていたSさんは、急病で早退したUさんの分まで働く事になった。手伝おうかと申し出る友人もいたが、仕事に慣れていたSさんは、直ぐに済むよ、と笑顔で断った。作業は順調に進んだ。一人でも充分片づけられそうだ。
その時、一本のカセットテープが目に付く。
見慣れないテープだ。
「なんだコレ?」
再生すると、少年のものらしい笑い声が入っていた。
ケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタ
「……何だ……コレ」
いつの間にか少年の生声が、放送室一杯に広がる。Sさんは放送室を飛び出していた。この話は『七不思議の冊子』には記載されていない。
第九夜 嘘から出た・参。
続いて同高校の話。本好きのAさんは図書室に行ってはいろんなジャンルの本を借りまくっていた。中には件の七不思議の冊子もあり、当然の如く読んだ。
その一つに「図書室の秘密部屋」という話がある。図書室の一番奥の棚は、ガラスの扉が付いているのだが、その棚の奥――。棚の後ろに更に扉があって、そこは異次元に繋がっている――。そう綴られていた。見に行ってみると、実際に扉があった。本が並ぶ棚の奥。装飾された木製の扉。
先生に聞いた所、以前隣の教室と繋がっていたらしい。しかし、カウンター近くの入り口と、その奥の扉、二カ所出入り口があった事で度々本が無くなるという事態に陥った。丁度学校が荒れていた頃だ。
ちょっと拍子抜けしたAさんだったが、まぁそんなもんだよね、と、奥の棚の前で腕組みをする。
突然――、本の後ろの棚が開いた。あれ、向こう側は板を打ち付けてあるんじゃ……思う間に扉は全開に。顔を覗かせた、小学生位の男の子がAさんを見上げている。
「……間違えた」
少年が恥ずかしそうに呟く。扉が閉まっている事に気付いた時、辺りは夕闇に包まれていた。
以来Aさんは隣町の図書館に通っている。
第十夜 嘘から出た・四。
更に続いて。M君の友人、S君は箏曲部に在籍していた。部の創立以来初の、そして最後であろう、という男子部員。珍しさも手伝ってか、先輩達からも可愛がられたらしい。気に入られたのは先輩からだけではない。講師の先生からも、力仕事の出来る男手を喜ばれた。
さて、この箏曲部、部室が大変狭い。唯一の冷房設備は草臥れた扇風機のみ。
ある夏場。一足先にS君が部室へやってくると、既に鍵が開いている。部屋は空っぽ。鍵は部長が預かる決まりだったので、いつもなら誰かがいるはずだ。まぁその内揃うだろう、と中に入り扇風機の風に当たりながら練習を始める。
ふと。視線を感じて顔を譜面から外す。入り口にチョコンと座った少年と少女の四つの瞳がS君をじっ、と見つめる。
「え…っと?」
話しかけるS君に、「続けて下さい」とニッコリ微笑んで少女が言う。見学かな? そう思ったが、少女の方はともかく、少年の方はどう見ても小学生。直に先輩が来るはずだ、と思いながら弾き続けた。
どれほど経った頃か。夢中で一曲弾いていた。気が付くと入り口の二人は消えている。
時計を見ると、わずか二〜三分しか進んでない。その曲にかかる時間は二十五分強――。
「何か、琴に気に入られた気がしよるんすよ」
卒業以来、S君は琴を弾いていない。
第十一夜 嘘から出た・五。
S君の妹も同じ高校に通っていた。ブラバンに所属していた彼女は、毎日遅くまで練習にはげんだ。ピアノを弾いていると背後に人の気配だけが伝わってきたり、窓の外からじっと見つめる老婆がいたりしたらしい。
四階にある音楽室には各種演奏会のポスターがびっしりと貼られている。ブラバンに入ると、まずポスターをはがしてはならないと教えられる。
理由は教えて貰えない。
第十二夜 嘘から出た・六。
Tさんは高校三年間G組だった。G組の担任になった先生は必ず怪我をしたそうだ。教室の後ろには掃除道具をしまうロッカーがある。Tさんは一度もそのロッカーを開けたことがないらしい。授業中、後ろから髪を引っ張られたかららしい。
勿論、教室の最後尾で。
第十三夜 とらさべら。
Nさんの家には古い墓があった。三年前に総廟にした為、今は綺麗に整地されているが、以前は鬱蒼とした林を越えて山を登った所にあった。小学生辺りには格好の肝試しスポットである。
Tさんが十歳の夏休み。仲良しの友人四人と、夜中集まった。勿論午後八時〜九時くらいのまだ早い時間ではあったが。一人ずつ墓地を一周する。Tさんの番になり、慣れた足取りで進む。ある墓の上に知らないおじさんが座っていた。
「こんばんは」
おじさんが会釈した。
「…こ、こんばんは」
恐る恐る返事する。
「とらさべら?」
そう語りかけておじさんは消えた。帰ってから両親に聞いてみたが、知らないと言われた。未だに意味がわからないらしい。
「だけん、もぅいっぺんあのおっちゃんに会いたいんです」
全く怖くないそうだ。
第十四夜 カエル。
「第一夜」のSさんが、お葬式の後、納骨へ行った時の話。涙雨の中、行列が進む。堀方さんによって既に墓穴が掘ってあった。綺麗な二段階の正方形。
ふと見ると、穴の底にいたカエルと目があった。真っ直ぐ空を見上げている。カエルに気を取られている隙にお骨が納められる。
「あ……」
仕方がないので水と土をかけていく。読経を終えると宅に戻った。
「……それ以来、時々埋められる夢見るんですよ」
決まって雨が降る夜らしい。
第十五夜 ぬけがら・壱。
Sさんが三歳の時、自宅の階段から転落した。年子の姉を横目に、ゆっくりと落ちていったらしい。落ちた、と思う間もなく、横たわっている自分が目に入る。ぐったりした自分が足元に横たわっていた。
姉が、「Sちゃんが落ちた〜」と、内容の割りにはのんびりした声を上げている。母親を呼びに行くその背中を見送った。
次の瞬間、眼も眩むほどの光が目に飛び込んできた。いつの間にか手術台の上に寝かされていたらしい。
「お花畑なんか見なかったっすよ?」
Sさんの額には、一センチにも満たない傷跡が残っている。
第十六夜 ぬけがら・弐。
Sさんが小学三年生の頃の夏休み。
「お盆は死んだ人が帰って来るんだよ」
という話を聞かされたある日。今一つ、死ぬという事が理解できなかったSさんだった。死ぬって何だろう? 死んだらどうなるんだろう? 消えちゃうのかな? 忘れてしまうの? お盆に帰ってくるまで何処にいるんだろう?
疑問が渦のように生まれては、澱のように淀んでいく。当然答えは出ないし、誰にも聞くことが出来なかった。至った結論は「死ぬのは怖い」。
意味が分からない状態に置かれてしまう事への恐怖が身を包む。眠る事さえ怖くなった。目を閉じて、このまま目が覚めなかったらどうしよう? 悩み始めて、三日間まともに眠る事が出来なかった。
三日目の晩。ベッドにもぐって目を閉じると、やっぱり死への恐怖がわきあがって来る。しかし、そこは子供。体力的にも限界に来ており、いつしか眠りに落ちていたようだ。
気が付くと、ベッドから見上げる天井がすぐ目の前にきていた。慌てて首を捻ると、ベッドで力なく眠る自分の顔が見える。三歳の時、階段から落ちたあの時の事を思い出した。
やがてSさんは天井を通り抜け、空へと高く高く意識が昇っていく。夜空には満天の星。遠くで瞬く星々に、死への恐怖を忘れSさんは心躍らせた。
だが、更に上昇する意識に不安が生じる。今やSさんは星の一つ一つに近づき上昇する。幾つもの星が光の筋となって、Sさんの後方へと姿を消していく。
どの位過ぎただろうか。Sさんの周りには小さな光の点しか映らない。途端に心細くなった。この広い空間にたった一人。
「……帰りたぃよぉう」
ポツリ呟く。途端に。今まで過ぎてきた光の筋が、逆方向へ流れ出す。遠ざかっていった星たちが、Sさんに近づき、また離れていく。次第に一つ、一際大きく輝く星が迫ってきた。青い、碧い地球だった。
数え切れない星の光が消え、地上へ近づいていく。夜の地球を、人工の明かりが星のように地上を彩る。ぐんぐん近づく我が家。気が付くと、ぐっしょり濡れた自分の頬を撫でていた。
「あの明かりの一つ一つに誰かいる、と思ったら不思議と安心したんですよね」
後年、仏教を学ぶ機会を得たSさんは、
「あれがお釈迦さんと同じ、悟りというヤツだったのだなぁ」
と確信したらしい。
但し今でも寝つきは悪いそうだ。
第十七夜 タヌキ。
S君の妹がある夜タヌキを見たそうだ。つぶらな瞳の可愛い顔が、窓を横切ったらしい。直立不動のソレは高さ二メートルの位置を水平方向に移動した。
「この話をすると皆笑うんよ」
無理もない。
第十八夜 契り。
Kさんのお祖母さんが亡くなった。長い間療養していたが、適わなかったらしい。お祖母さんの連れ合いさん、つまりKさんのお祖父さんも長い事入院されていた。
お祖母さんが亡くなった晩。看護士さんが見回る時間。お祖父さんは病院のベッドから降りて正座をしていたそうだ。
お祖母さんのお葬式を済ませ、暫く日にちをおいてからお祖父さんに訃報が告げられた。
「オシドリ夫婦でしたから……もっと取り乱すと思ってたんですが」
お祖父さんはうっすら涙を浮かべて、「そうか」と一言漏らしただけだった。
「ばぁさん、律儀に挨拶に来よったけぇ」
お祖母さんが亡くなった晩。お祖母さんを病室のベッドに腰掛けさせたらしい。そのお祖父さんも亡くなって早七年。
「きっと二人でまた仲良くやってますね」
Kさんは笑った。
第十九夜 馬の骨。
Nさんの家には馬の墓があるという。それも四百年から前に埋葬された墓。
もともと戦国時代に武士として活躍していたN家だったが、戦に破れて流れ流れて今の家へたどり着いたらしい。その当時、当主の身一つ乗せて、矢の雨の中走り抜いた一頭の駿馬がいたそうな。その馬が傷つきながらもたどり着いた場所に家を建てた。馬はその後力尽き、後からたどり着いた一族郎党揃って、丁重に葬ったという。
以降、敵の斥候が近くへ来ると、当主に嘶きで知らせるようになったという。無論、当主にしか聞こえない。予め先回りをし、残らず返り討ちにしたらしい。
「今でも時々聞こえるんですよ」
若き当主Nさんは、今まで大きなトラブルに見舞われたことがない。毎年馬の供養を忘れないそうだ。
第二十夜 飯岩。
T君の住むH町の町誌には、二十ばかしの昔話が記されている。しかし、この内の半数は話題づくりにと、こっそり編纂者によって作られた物語だそうだ。
その中の一つに「飯岩」というのがある。神話の時代、大きな御結びに乗った女神様がやってきて、その地方を統べる事になったらしい。その時の御結びが岩になり、それを祭った神社を建てたところ、その地は以後豊作に恵まれる地となった。その岩は毎年ちょっとづつ大きくなっているらしい。
この話を聞いたT君は、近所という事もあり神社へ出かけてみた。今まで何度も横を通ってはいたが、一度も参拝した事はない。件の岩は柵に囲まれていた。どう見てもぎゅうぎゅうで、大きくなる余地もない。柵自体も随分古く、作り直した様な跡もなかった。
「なんでぇ、嘘か」
その晩、大量のお米に埋もれる夢を見たらしい。
第二十一夜 夜に散歩。
S君の父親が帰宅途中の事。普段から一時間掛けて自動車通勤している。毎日残業続きで、その日も夜十時を回る頃、自宅近くまで帰り着いた。家の手前に急な坂があるが、田舎の事、ポツンポツンとしか街灯がない。ギアを落として登り始める。
ふ、と前方に老婆が飛び出す。激しいブレーキ音。一旦スピードを緩めていたのが幸いして、惨事にならずに済んだ。しかし老婆は気にすることなく道を横断していく。
「危ないなぁ……何処のお婆さんだろう」
顔を見たが、近所の人ではない。
その日以降、その老婆を度々見ることとなったS君のお父さんは、その老婆が近所で有名な存在であった事を知る。
「誰も素性を知らないっていうんだけど、朝でも昼でもとにかく散歩してるんだって」
今でも散歩は続いているらしい。
第二十二夜 悪夢。
Hさんが中学生の時の話。バスケをやっていたHさんは、毎日足腰が立たなくなるまで必死に練習した。丁度某週刊漫画で、赤髪の高校生が活躍するバスケ漫画が連載中の頃だ。
毎日ぐったりして帰ると、夕食と入浴を終え、すぐベッドに倒れこむ。そんな日々が続いていた。
ある晩の事。
「今自分が夢の中にいる、そうはっきり解ったんです」
それは路上でバスケの指導を受けている夢だった。件の某漫画に出てくる、カーネルサンダース氏に良く似たコーチが、マンツーマンで練習を見てくれる。これが又非常に厳しい。見かけからは想像できないほどの素早さで、Hさんからボールを奪ったり、シュートを阻止したりした。
朝日が昇るまで繰り返し身体を動かしていると、べッドの上で目が覚めた。週に二、三度くらいのペースで夢を見続けた。流石に眠った気がしなくて身体も重たい。
ある日同じ部員の友達が心配そうに顔を寄せてきた。
「大丈夫? 何もあんなに夜遅くまで練習する事ないんじゃないの?」
Hさんの路上練習を見たという。勿論たった一人で。
「あのコーチは誰だったんですかねぇ?」
Hさんは今でもあれは夢だ、と言い張る。
第二十三夜 頭踏み。
Sさんが学生時代、アパートで一人暮らしをしていた。割と規則正しい生活をしていたSさん。毎晩十一時には寝るようにしていた。
ある晩、珍しく夜中に目が覚めた。二階に住んでいるSさんは、窓から光が入る事はめったにないが、一瞬部屋が真っ白になる。同時に頭をグッと押される。うつ伏せで寝ていた為、呼吸もままならない。
動悸もし始めた。何とか顔を横に動かすと、後頭部の感触が足の裏であると確信させた。
「何すんじゃコラ!」
怒鳴ると途端に感触が消えた。
第二十四夜 頭踏む。
Sさんが学校から帰宅すると、消したはずの部屋の電気がついていた。一人暮らしである。鍵も掛かっていた。
ぐにゅぅぅう。
足元を見ると、つま先の右に額が見えた。薄くなった額に白髪がなびく。
「いてぇぇぇ」
Sさんは部屋を飛び出した。
第二十五夜 枝に。
T君が一人暮らしをしていたアパートの近くに大きな神社があった。日曜には骨董市を開くその神社は、平日の昼間は割と閑散としている。
大学のコンパから帰宅したSさんは、酒の勢いで友人、後輩を連れて肝試しとしゃれ込んだ。初夏の夜空に一番星が光る。神社へ入ると、ピンと空気が引き締まる。竹林の力か、暑さだけでなく、すぐ側を通る自動車の音さえ遠くに聞こえた。皆で歩いていると、涼しさに表情も緩んできた。
一番最後を歩いていたSさんが、T君と目配せして後輩を驚かそうと決める。
「よし、今だ! ……って合図したんですけどね」
T君が立てた親指はSさんの目には入らなかったようだ。Sさんはじっと上に視線を固定している。つられてT君も見上げた。マフラー? いや、セーターか? 枝からぶら下がり、風に揺れている。こんな季節に……いつからあるんだろう? Sさんの方へと視線を戻すと、既に顔を伏せていた。ゆっくりSさんに近付いて話しかける。
「どうしたんよ? あのセーターが気になるん?」
「セーター……? お前……」
T君が振り返って、枝を見上げようとする。
「見るなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
他の面子も一斉にSさんを見る。白けた一行は、そのまま解散した。
「今でも遠目で見るとぶら下がってるんですよ」
T君はもうその下を通る気はしない。
第二十六夜 ハクビシン。
S君の母親が、自宅の坂道で見知らぬ動物を見かけた。後でTVで見てハクビシンである事が判ったが、その時は珍しい狸かな、と思ったらしい。思わず話しかけていた。
「こんにちは〜」
元来動物好きだった母親はにこやかに笑いかけた。ハクビシンが立ち止まり振り替える。視線を合わせ、じっとしている。色々と話しかけ続けたらしい。気が付けば30分ばかり話しかけていた。
「あぁ、ごめんね、行って良いよ」
ハクビシンはペコリ、と頭を下げて立ち去った。
第二十七夜 煙。
S君の母方の祖父が亡くなった時の事。S君は中学2年、S君の妹は小学校に上がるか上がらないかの頃だった。葬儀の段取りは滞りなく進み、出棺、火葬へと移った。
斎場にて。S君は、妹が片っぽ裸足である事に気が付いた。
「お前、何しよるん?」
「じいちゃんが欲しいって。ほらあそこ」
木の上を指差す。そこにお祖父さんがいて、枝に腰掛けているのが見えるらしい。
S君には一筋の煙しか見えなかった。
第二十八夜 かげびと。
T君の通う小学校は、昭和四十年代後半から五十年代初頭にかけて完成した建物だった。それまでの木造とは違い、鉄筋の無機質な外観だ。以前田圃だったところに移築されている。T君が通う頃には、既に十数年経っていた。
当時は何度目かの怪談奇談ブームの真っ只中。毎週のように怪奇番組やUFO特集が放送されていた。その頃、その小学校でも一種の集団ヒステリーが起こった。
体育館のステージ、その奥の壁。普段は薄い幕が掛かっているが、その幕を捲ると冷たいコンクリートにシミが出来ていた。水に濡れたようなそのシミは、人間がそこに立っていて、影だけが写し取られた様な形をしている。
瞬く間に全校生徒に知れ渡った。田舎の小学校の事、生徒数は全員でわずかに70人弱。すぐに「あれは人の怨念」「体育館の地下は昔墓地だった」云々、噂は作り上げられた。
いよいよ収拾がつかなくなり、先生側が全校集会を開いて説明する事に決まった。
「見ろ。ただ水が染み出しているだけじゃないか!」
体の大きな体育会系の先生が、幕を捲り声を張り上げる。途端に悲鳴が体育館中に響き渡った。
「逆効果でしたね、あれは」
影は動いて、万歳をしたそうだ。
第二十九夜 ピン球。
Nさんが通う中学校の卓球部は、校舎の三階にある。以前は生徒数が多く、6クラスあった教室も、現在は3クラスまで減っている。その余った教室を部室として使用していた。
ある年、窓から飛び出したピンポン球を追ってベランダに飛び出した生徒が、不幸にも転落する事故がおきた。その生徒は即死。後には慰霊の時計棟が立てられた。ベランダには再発防止のため緑色のネットが掛けられた。
数年後。一人の卓球部員が部室の窓から身を乗り出している所を、同級生に止められた。
「球が廊下に転がっていっちゃってさ」
その生徒は、窓の外に廊下が続いていると言っていた。
第三十夜 続・とらさべら。
T君の実家はS県にある。進学で京都に出てきたT君は、Nさんとサークルで知り合った。共通の趣味に「妖怪」だとか「民俗学」だとかがあった二人は意気投合し、よく呑み明かしたものだった。
ある晩、既に気分の良くなった二人は、酔い覚ましに近所のお寺へ行った。このお寺は、境内に幾つも寺坊があり、湯豆腐で有名な古刹だ。中でお坊さんが生活を共にしているらしい。日曜日には、雲水が近所を練り歩いている。町と混然一体となっていて、中を生活道路としている人も多く見受けられた。
ふとT君が思い出したように語りだした。
「そういえばさ、俺んとこの田舎、まだ土葬だった墓地が残っててさ」
たまに、古くなったお墓は地面が陥没するらしい。桶が腐り、空間が出来るためである。幼い頃、T君は、そうなったお墓を覗きに行った事があるらしい。今居るお寺ほど大きくはないが、立派な門構えに塀が続く、所謂田舎のお寺。本堂の裏へと道が続く。その先は墓地だ。小学校のすぐ近くにあったそのお寺は、カッコウの遊び場であった。
墓地へ着くと、大人が集まりだして穴を埋め始めていた。アブネェ、近づくじゃねぇぞぅ、と声が飛ぶ。好奇心の強いT君は、大人の股座から覗いてみた。微かに黄白い物体が目に入る。
お骨だ。しかもシャレコウベ。暗い眼窩に、みつしり、と泥が詰まっている。不意に、顎が動いたように見えた。
(……とらさべら)
T君の耳に無機質な声が響く。
そこまで語った所でNさんが表情を変えた。
「まさかT君の口から聞くとは思わなんだですよ、この言葉」
それでもやっぱり、意味はわからないらしい。
第三十一夜 古井戸や。
Fさんの家には、今はもう使われていない古い井戸がある。三十年近く前に子供が落ちたとかで、以来蓋で塞いであった。Fさんが小学生の頃、友人達とその井戸を覗いてやろう、という話になった。肝試しである。
そうは言っても、蓋はかなり重たい石で、子供の力では簡単には動かせそうにない。仕方がないので、蓋の上に乗り、だんだんっと足踏みした。横から蹴る者もいる。それでもビクともしない。
「みんなへとへとになっちゃって。すぐに飽きちゃうんですよね、子供って」
一頻り騒いだ後、皆の興味は野球に移った。Fさんの家は小学校近くだったので、グラウンドへ走る。試合(といっても十人程しか居ないため、ほんのお遊びではあるが)が始まると熱中して白球を追いかけた。
Fさんが三塁にいると、大きなフライが上がった。しかし打球は思いのほか伸びていく。必死で追いかけるFさん。やがて校庭を飛び出し、さっきまで居た井戸が目に入る。
ぼっちゃぁぁぁぁん。
ボールが井戸に吸い込まれる。あれぇ、と駆け寄ったが、蓋は相変わらず閉まったままだ。結局ボールは見つからなかった。
第三十二夜 子供飛び込む。
Fさんが野球のボールを見失った頃、残った面子も井戸に近付いてきた。
「どうしたん?」
「ないんか?」
「かんべんせぇよぅ!」
色々な声があがる。友人達の方を振り向いたFさんは、その中に見慣れない少年を見た。帽子を深くかぶり、顔は暗くてよく見えない。いつも遊ぶメンバーの中に、思い当たるヤツがいなかったので不審に思った。
「誰だお前?」
他の子供も一斉に振り返る。
「俺が球、拾っちゃるけん、混ぜてごせや」
見知らぬ少年はそういうと、風のように、すい、と井戸の側のFさんに近寄ると、ひょい、と井戸に飛び上がった。蓋の上に着地する――その瞬間、少年の身体はひゅる、と蓋に吸い込まれて消えた。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……!」
一斉に駆け出す。蜘蛛の子を散らしたようだった。
第三十三夜 未知の音。
Fさん達が不思議な少年から逃げ出した日の晩。興奮気味のFさんは、帰宅した父親に井戸の事を話した。
「あれは絶対、昔井戸に落ちた少年だよっ!」
それを聞いた父親は顔を曇らせる。
「あほう、あれ、落ちたんはワシじゃ」
バツの悪そうに言う。落ちはしたが、水が深くて量も多かった為助かったという。
「ほんじゃぁあの子は誰さ!」
「知らん」
その深夜。腑に落ちないものを感じつつ、Fさんは布団に潜り込んだ。中々寝付けない。そうする内に、餅を手で触るような音がする。
ぴっっっったん ぴったたん ぴっっっちゃ びちゃっ
なんだろう? しかし、昼間の事があったので、とても確かめる気にはなれない。相変わらず音だけが続く。時々、ぱんっ、と乾いた音もする。
あ、ボールの音!
ボールを高い所から水面に落とすとこんな音じゃないだろうか? 不意に井戸で一人球を落とし続ける、帽子をかぶった少年の姿が目に浮かんでくる。遊びたかったんかなぁ?
ちょっとだけ布団から顔を出してみた。横に白い足首が見えた。帽子の少年だ! 直感したFさんは、こっそり視線を少年の顔の方へずらしてみる。
少年はボールをお手玉のように上に放り投げては、頭で受け止めていた。例の音は、ボールが頭に当たる音だった。
「ふやけて、ぐちゃぐちゃの豆腐みたいになってました」
今でもあの音を思い出す度、吐き気を催すという。
第三十四夜 こっそり。
次のようなアメリカンジョークがあるらしい。
ある地方に引っ越してきた新婚夫婦。やがて二人の子供に恵まれた。しかし、一家が暮らす家は悪魔に呪われた家として、近所には有名な家だったらしい。やがて怪事が起こり始める。ラップ音。ポルターガイスト。ついに被害は子供に及ぶ。下の子供が最初に死亡。死亡時刻は深夜十二時。死因は心臓麻痺。続いて一週間後、同時刻、上の子供も死亡。
悲しみに暮れる夫婦の寝室にあった大きな鏡台に文字が浮かぶ。
「次は母親」
一週間後、同時刻、母親死亡。鏡には再び文字が。
「次は父親」
一週間後に死んだのは、隣に住む男性だった。
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M君が中学時代、こっくりさんが流行った。皆、夢中になって紙に文字を書き、五円玉を滑らせる。M君は概ね見ているだけだったが、たまにはやってみろよ、との誘いに乗り席に着いた。男女織り交ぜ四人。指を置いた途端、勝手に五円玉が文章を紡ぐ。
「Mの父親が死ぬ」
「……何だよ」
M君の呟きと同時に、一緒に指を乗せていた三人が一斉に席を立つ。白けた雰囲気の中、その場はお開きとなった。
帰宅後、気になったM君は父親の携帯に電話をかける。呼び出し音が九回、留守電に繋がった。単身赴任中の父は、月一回のペースで家に帰る。母親と弟の三人暮らし。二度目の電話は通話中だった。
「あの時は結構ビビってましたね」
このまま本当に死んでいたらどうしよう――。不吉な想像ばかりが駆け巡る。
「♪♪♪」
携帯が場違いに明るく軽快なメロディを吐き出す。父親からだ!
「もしもし? 父ちゃん?」
「……お祖父ちゃんが今亡くなったそうだ」
クモ膜下出血だったという。
第三十五夜 全然変わらない。
Oさんのお祖父さんは、昔から写真が好きだったらしい。Oさんには名前もわからない様な、古いカメラを若い時から胸に下げ、事あるごとに写していたそうだ。
Oさんの父親が小学校を卒業する年。学校側が撮る卒業写真とは別に、お祖父さんは自前のカメラで写真を撮っていた。本職さんが三枚写す合間、ふっと気が緩んで、笑みがこぼれる瞬間を狙ってシャッターは切られた。
それから四十七年。お祖父さんが亡くなり、部屋を片付けている時、その写真がひょっこり出てきた。保存状態はあまり良いとは言えない。虫食い痕もある。
だが、誰が見ても、Oさんの父親が何処に居るかは一目で判る。
「父さんの所だけ、やたら綺麗なんですよ」
黄ばんだ写真の中、一人、写真を現像したばかりの状態に見えたそうだ。
第三十六夜 けわい。
Kさんは現在美容院と美容サロンが一緒になった様なお店で働いている。メイクと顔のマッサージが主な仕事だ。髪を切った後、化粧も完璧にしてくれるとあって、働く女性には評判が良いらしい。
そんなKさんがメイクに興味を持ったのは小学三年の頃。多くの女性が恐らく経験したであろう通り、母親の鏡台をこっそり開いては遊んでいたという。勿論本人は綺麗になりたくて真剣だ。しかし、見つかっては叱られる事を繰り返す。
ある日、思いのほか化粧がうまく出来た。口紅が綺麗に引けている。鏡を見て、にこっ、と微笑んだKさんの顔に異変が生じた。真っ赤な唇の両端に一筋の蒼い線。次第に耳の下端に向かってすぅっ、と伸びていく。
「ぇえっ、何これ! やだっ!」
必死で口をこする。顔の下半分が、潰れたトマトの様になった。
「まだ残ってるんですよ」
膨れた顔でKさんがもらす。その筋を隠すためにメイクの勉強に励んだらしい。毎日の化粧は欠かせないそうだ。
第三十七夜 蔵。
Dさんの田舎の祖父の家には古い蔵があった。昔は醤油作りをしていたそうで、今でも中に入ると、ぷぅうん、と香ばしい薫りが鼻をくすぐる。
小学生時代、Dさんはお盆になると両親に連れられ田舎へ来るのが楽しみだった。何と言っても、醤油の薫りと、巨大な醤油樽が魅力的で堪らなかった。一・五メートルはあろうかという樽には梯子が掛かっていて、中に隠れるには格好の場所である。
Dさんが十歳の頃、この蔵の中で行方不明になったことがある。Dさんが蔵に入り、お気に入りの樽の中へ身を潜めた所――。
「ぼぅ……ぼぅ……」
呼びかける声が聞こえてきた。
「私、女だよ?」
不思議に思い樽の上に顔を覗かせた。同時に大人達の嬌声が上がる。
「いたぞ!」
「見つけた!」
「こんな所に……何度も見たのになぁ」
「いや、良かった、良かった……!」
Dさんが行方不明になって十日経っていた。
第三十八夜 ネコ。
Sさんの家には、不思議とネコが集まって来る。Sさんが子供の頃は餌をやっていたが、進学し家を出ると次第に家族も餌をやらなくなった。というのも、Sさんのお祖母さんが大の動物嫌いで、孫が居なくなった途端、餌をやることを禁じたのだそうだ。
Sさんの母親は、祖母とは対照的に動物好きである。嫁という立場上、こっそり餌をやる事も諦めた。家庭円満の秘訣である。
そのSさんの母親は、ネコを「ネコ」と呼ぶ。Sさん達が、いくら「あれはガット、あれはボンボン」と妙な名前をつけても、どのネコに対しても「ネコや、ネコや」と呼びかける。
ある日。裏庭をゆっくり歩く黒猫を見かけた母親は、思わず声をかけたらしい。
「ネコ、ネコ、ネコや」
「あ〜ぃよ」
「賢いコもいるのねぇ」
Sさんのお母さんはいつもニコニコしている。
第三十九夜 悪太郎様。
Tさんの住むM町には古い木造の社がある。中には『悪太郎様』という神様が祭られているというが、Tさんは詳しい事は知らないそうだ。
その社のすぐ側を、M川が流れる。今は整地されて両岸共にコンクリートが連なっている。真新しい階段といにしえの社。土手を下るとちょっとした広場になっていた。
今の穏やかな川の様子からは想像つかないが、戦前までは氾濫が絶えなかったという。その度に家屋が流されたが――不思議と死傷者はゼロ。
流された家がそのままボートとなり、中まで水が入ってこなかったとか、土石流の前に警戒を告げる声が響いたとか様々な話が残っているらしい。そして助かった人は口々に言う。
「悪太郎様が助けてごさぃたわぁ」
今までもこの社だけは、河川工事があっても遷宮された事はないらしい。
第四十夜 なな。
仏教関係の学校に通っていたNさんはある夜夢を見た。最近習ったばかりだった「六道輪廻」の世界。「地獄」「餓鬼」「畜生」「修羅」「人」「天」……それぞれの世界は、すべて灰色に満ちていた。
どの世界にいても、何かに追われる感覚が付きまとう。足がもつれ、次第に前に進めなくなる。膝まである砂漠の砂の中を歩んでいる気になってくる。完全に足が止まった。お手上げである。一息つくと、一歩ずつ足を持ち上げては地面を踏みしめる。
二歩目。
三歩目。
四歩目。
五歩目。
六歩目……。
やがて足元から無数の手が伸びてきた。「ナウシカの王蟲」の様にNさんを持ち上げていく。
目が覚めた。足首には、びっしり、と手形が残る。
「ホント、どの世界みても“現実”より怖い世界はないね」
Nさんは七歩目を越えた様だ。
第四十一夜 石段。
副住職・Sさんの家には長い石段がある。一応六十四段あるそうだが、人によって数はバラバラになってしまう。その原因は、一息に上がる事が出来ない造りにあるのだろう。
途中大きく湾曲した石段は、カーブに差し掛かると「まだこんなに先が……?」と思わず一休みしてしまう。山門が下からは見えないため、ペースが掴めないのだろう。年配の方はなおさらだ。だが、若い人は勿論、歩きなれた人でさえ、時々数が違う事があるという。
Sさんの友人、K君がある日石段に差し掛かった。特に段を数えることなく上る。普段は決してしないそうだが、ふと振り返った。
何かに見られている気がする。付近に人影はない。下の道を自動車が走っていくが、視線は消えない。
視界の上部を何かが掠めた。見上げると、杉の枝に無数のクモの糸がぶら下がっている。一際大きなクモの巣に三つの目玉を見つけ、K君は絶叫した。
人間のものらしいその目は、くにゃり、と歪むと葉っぱの切れ間に消えたそうだ。
第四十二夜 墓標。
F君の住むNという集落は、「褒める所が緑と空気しかない」と言われる様な山の奥にある。戦国時代に戦に敗れた武士達が身を寄せたという伝説もあるが、集落自体はそれ以前からあったらしい。F君の同級生の家からは、弥生時代の土器が見つかった事もあるという。
F君の家の近くには三叉に分かれた峠があり、一本の上り坂と二本の細い下り道が続く。下りの一方は山側と谷側、両方とも急な崖になっている。山側の崖には、一本の細い木が生えていた。誰が呼んだか、「誘いの手」と名づけられている。丁度枝の先が手のように見えるため、そう呼ばれ始めたのだろう。
「でもそれだけじゃなくてのぅ」
以前F君がその道を通った時、上から、おぉいおぉい、と呼ばれたらしい。見上げたら件の「誘いの手」。F君は寒気を覚えて足早に立ち去ったそうだ。
それから数年。土砂降りの雨により、その崖が崩れた。崖からは複数人の遺体が発見されたそうだ。時代は凡そ千年前。事件性もなく、元々墓地でもあったのだろう、と話は落ち着いた。「誘いの手」だけは何処を探しても見つからなかったそうだ。
余談だが、『第四夜』でKさんが声を掛けられた坂もこの坂の事である。
第四十三夜 あのこだれ?
S君の妹が中学生の頃の話。
吹奏楽の練習で遅くなり、最後まで片づけをしていた五人がその場に残った。施錠を確認すると、教室を出る。当時音楽室は、旧校舎を利用していたため新校舎の離れだった。
渡り廊下で繋がる二棟の建物。廊下の先には大写しになる鏡が、微かな光から五人を映していた。
「……あの子誰?」
S君の妹がポツリもらす。鏡に映る五人分の虚像。後ろの方に見かけない子が居た。皆一斉に振り返る。五人全員、見知ったメンバーだ。
「知らない子が映ったのも怖かったけど……誰が映らなかったのかで揉めちゃって……」
今でも皆「自分は映っていた」と言い張っているらしい。
第四十四夜 あのこだけ。
続いてS君の妹の話。それは吹奏楽の演奏中だった。担当はパーカッション。『Tank!』という曲を演奏中だったS君の妹は、急に曲調が変化した事に戸惑った。ジャズ調の曲から一転、ゆったりとしたバラードに変化する。おぼろげながら、どこかで聞いたことがあった。
――あ、中島みゆきさんだ。
思った途端。
「おい、どこ叩いてんだっ!」
先生の怒号が響き、演奏が止まる。S君の妹だけ『涙』という曲を演奏していたそうだ。
第四十五夜 おまえらだれだ。
T君のお姉さんは高校時代、剣道部と美術部と演劇部を掛け持ちしていた。
演劇の練習中。主に脚本や演出を担当していたお姉さんだが、その時は役者として舞台に上がっていた。自分達の創作劇。自分で作ったのだから、お姉さんは完璧にストーリーを把握した上で演技をしていた。演劇部が体育館のステージを使えるのは、週に二回。短い稽古時間にだけ、皆集中して役に入る。
ところが。
通し稽古の第二幕。舞台の中央にお姉さん。幕が上がっても中々他の部員が出てこない。
「おい、どげしたかい?」
お姉さんの呼びかけに、のそのそと数人が歩み寄る。練習という事で、お姉さんはジャージを着ていたのだが、他の面子は今まで見たこともない衣装を身に着けている。頭から布をたらし、仮装パーティーの様相を呈していた。
「ははぁん、こっそり衣装を完成させてアタシを驚かそうってんだな――そう思ったんじゃけどねぇ」
一人のけ者にされた気になったお姉さんは、無視して芝居を続けた。ところが、他の部員はボソボソとしか喋らない。
「何しちょぅかや、腹から声出せや!」
お姉さんが声を荒げる。近付いて一人一人顔の布を剥がす。
――あれ?
知らない顔ばかりだった。
「お前ら誰じゃ!」
お姉さんが叫ぶと、ふっと目の前が真っ白くなった。
気が付くと、白い天井と蛍光灯が見下ろしている。保健室で寝ていた。
「バレーボールぶつけられたんよ」
今でも舞台上に居た人々が誰だったか、気になって仕方がないらしい。
第四十六夜 ムササビ。
副住職のSさん宅の本堂の大屋根には、昔から色々な生き物が住み着いていた。元々茅葺であったが、茅普請がままならなくなりだした頃、大屋根に鉄板を被せる形で覆う事に決まった。茅を剥がすのも大事なので、茅を残したままスッポリと周りを覆っている。そのお陰か、屋根裏は暖かく、居心地が良いらしい。
Sさんが小学生の頃、キシィキシィ、と夜空に声を響かせ飛ぶものと出逢った。本堂の屋根裏から飛び出したソレは、器用に夜の森へと姿を消す。
「あらぁ、ムササビだなぁ」
父親にそう言われ、Sさんは観察しようと、帰ってくるのを心待ちにしていた。しかし、睡魔に勝てず、ムササビが帰るまで待てないSさんは何度も寝てしまう。夜が明ける頃には、既にムササビは塒に帰っていたようだ。
次の日、一計を案じたSさんは、夕方一杯昼寝した。夜の七時頃に起きだして、ムササビを待つ。キシィキシィ、と音を立てた後、ミシィギシィ、と一際大きな音が響いた。小さな影が、すい、と木陰を横切る。
続いて黒い大きな影が屋根から飛び出した。
「ゲラゲラゲラゲラ!」
高笑いを上げて消えていくソレは、黒い衣を纏ったお坊さんに見えたそうだ。
最近まで、Sさんはソレを「ムササビの親分」と呼んでいた。
第四十七夜 きになる。
D君は後輩のAさんと合コンに参加していた。合コンとはいえ、気心の知れた友人同士の紹介で集まった面子だった。その席でD君は、Aさんの友人のNさんと親しくなった。
折りしも夏真っ盛り。生中をあおり、気分も良くなる。一次会はお開きとなり、二次会のカラオケに場を移した。その間、Nさんは何かとD君に話しかけてきた。酒が強い方のD君だったが、頬が紅潮してくるのがわかる。やがてマイクが周ってくるとD君が十八番のロックを熱唱する。
カラオケが終わっても、NさんはD君と別れ難そうに話しかけてきた。根が真面目で当時フリーだったD君は、本気でNさんに惚れかけていたらしい。
「もうちょっと酔いを醒ます?」
D君の問いかけに、Nさんは喜んで同意した。
ファミレスに入ると、コーヒーを頼む。
「ところでNさんは最初から俺に話しかけてたよね? 俺の事知ってたの?」
告白するつもりになっていたD君は、Nさんの気持ちを先に聞いておきたかった。向こうも自分を想っていてくれたならそれに越した事はない。
「いえ、……あの最初に見たときから……その、気になっていただけなんです――ちょっと……」
妙な言い回しに、(あれ、俺の一人相撲?)とD君は少し肩を落とす。
「へぇ……どこが?」
とはいえ、このチャンスを逃す手はない、と努めて明るく問いかける。
「はぁ、あの……その背中――」
「背中?」
D君が振り返る。特に何も変わった様子は無いようだが――。そう思ってふとガラスに映った自分と目が合う。自分の顔、その耳元に見知らぬ女の顔が映っている。口元が微かに動くたび、その女は困ったような表情でこちらを窺っていた。D君は固まってしまって動けない。
「んなんなんん……っ!」
視線をそっとNさんの方に戻す。
「……さっきからその方、“とらさべら?”ってDさんに聞いてるんですけど――聞き覚えは無いですか?」
――無いです!
そう叫んでD君は店を飛び出した。Nさんにはそれ以来会ってないそうだ。
第四十八夜 かど。
T君には怖がりの後輩、Kがいた。二人で呑んでいると、大概怪談話に持ち込みKをびびらせるのがT君の趣味だった。悪趣味である。
いつものように二人してT君の下宿するアパートで呑んでいた所、珍しくKの方から怖い話を持ち出してきた。
「俺、風呂とかトイレがやっぱ一番怖いっすね。なんつうか、ホッとしている瞬間に、こう、わっ! とかね、有り得んすよ、ぶっちゃけ」
――これはつまりフリやな?
関西人であるT君はチャンスが来たらすぐ脅かそうと決めた。
そのチャンスはすぐに訪れた。Kがトイレに立つ。ユニットバスになっているため、Kの後姿がぼんやりと曇りガラスに映った。T君はそっと立ち上がり、まずはトイレの電灯を消そうとスイッチに手を――
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
――かける前に絶叫が響く。ごおぉぉぉぉ、という水洗の音が鳴り止まないうちにKが飛び出してきた。潤んだ涙目を一瞬T君に向けるが、無言で玄関へとダッシュ。そのまま帰宅したらしい。
「……何やねん」
一人残されたT君だったが、ひょっとして逆に自分が一杯食わされたのではないか? と疑い始めた。試しにKに電話してみたが、その晩は一向に出ようとしない。仕方がないので風呂に入って寝ることにした。
いつも通りシャワーを浴びて身体を洗う。いつも通り出る前に軽く浴室を掃除する。そして“いつも通り天井の角に手を合わせ”――ふと気づいた。
「なんや、やっとアイツも気ィ付いたんかいな」
以来、呑む時はKが自分の部屋に誘うようになった。
第四十九夜 だるま、
Sさんのお祖父さんは若い頃から達磨の絵を描き続けていた。戦争中、大陸に渡っていたというお祖父さんは、戦地で沢山の友人と別れ、本人もまた銃創を負い高熱を出した事も度々会ったらしい。
終戦後、帰国するとSさんのお祖父さんはすぐ真宗末寺の住職になった。元々得度をしていたお祖父さんは、早くに先代の住職である父を亡くしていた。命からがら帰ると、家族は勿論、地元の人々も諸手を上げて喜んだそうだ。時に一九四七年――二十七歳の秋であった。
やがて住職として落ち着いてくると、毎日戦中の夢に魘された。手足を失った友人達が助けてくれぇと見えない腕を伸ばす。見えない腕に掴まれたお祖父さんは、必死に彼らへと自らの腕を伸ばす。もう少し、もう少しだ! 仲間の服に手がかかる。良しっ! さぁ、帰って来い! 帰って来るんだぁぁぁぁ……!
汗ぐっしょりになって目を覚ます。見ると、お祖父さんの身体には縄が巻かれたかの様に、全身に痣が残っていた。嗚咽と共に、涙がボロボロと布団に染みていく。
以来五十年間、お祖父さんは達磨を描いては、戦争で家族を失った門徒さんへと手渡した。
「達磨さんも手足がなかったけぇのぅ」
生前お祖父さんはそう漏らしていたらしい。達磨の他に、真宗寺院には珍しく、本堂には五〜六十センチはあろうかという大きな戦没者の位牌が一基、据えられている。
第五十夜 さんが、
Sさんのお祖父さんから達磨の掛け軸を貰ったWさんは、大層達磨を大事にしていたらしい。
戦争で祖父の弟を亡くしたというWさんだが、当然その弟という人には会った事がない。二十歳そこそこで亡くなったその弟さんは、名古屋の空襲で命を落としたらしい。達磨を貰った当初、Wさんは掛け軸を押入れの天袋にしまっていた。日に焼けさせてしまうのが勿体無いと思ったそうだ。
とある年忌法要の席で、Sさんのお祖父さんがそれを見咎めた。法要の席は「南無阿弥陀仏」を掛けて、法要の後に達磨を掛けてはどうか? 早速Wさんは達磨を引っ張り出した。しっかり仕舞われていた為、見た目に古さは感じられない。開いてみてその場に居た一同、驚きの声を上げた。達磨の目尻の部分が滲んでいる。墨が溶け出し泣いている様だった。
その後、ふとした事からWさんは名古屋の方から祖父の弟の遺品を受け取る縁をもった。
以来尚更達磨は大切にされているらしい。
第五十一夜 笑った。
Sさんのお祖父さんが描いた達磨の中に、一幅だけ付き返された絵がある。
Oさん一家は達磨を受け取ると押入れにしまっておいた。やがて決まって毎月十七日に、微かに家のどこかから笑い声が聞こえる。かっかっか、と笑うその声の出所は掴めない。
半年も怪異が続き、一家総出で探した所。どうやら達磨の掛け軸から聞こえてくるようだ、と結論づいた。
「落語じゃないんだから」
Oさんの父親だけは信じられない、といった様子で、
「笑うんならこうすればえぇ」
と、達磨の口の部分に朱墨で×と描いた。その晩から毎晩、更に笑い声は大きくなった。絶えられなくなったOさん達はSさんのお祖父さんに相談した。
「ほんなら返せや」
以来この達磨は笑っていない。
第五十二夜 うるさい。
OLのTさんが、新しく引っ越したアパートの話。狭い土地に建っているため、一つのフロアに二軒ずつ。四階建ての計八軒入ることの出来るアパートだった。
すっかり朝型の生活が身についてしまったTさん。夜も、遅くても十二時までには寝てしまう。最近は呑む機会も減ってきた。
暫く経つと、同じアパートに同年代の女性がいる事がわかった。朝のゴミ出しなどで顔をあわせる。どちらかというと大人しそうな感じで、スーツを着た若い女性だ。
ある日、その女性が大家さんにネチネチ苦情を言われている場面に出くわした。
「あんたねぇ、前から言っているでしょう? うるさくて仕方ないって苦情が出てんだから」
「はい、……あの、すみません」
心から反省しているのが見て取れるほど憔悴した様子だ。涙に潤んだ眼が大家さんを見上げている。
「これが演技なら女優だ――そんな風に思いましたよ」
とにかくお願いしますよ、と大家さんは釘を刺し、その場を後にする。
「……大丈夫ですか?」
シカトして部屋へ帰ることが憚られたTさんは声を掛けてみた。
「! あ、はいっ、あの、スミマセン……!」
彼女はN、と名乗った。聞けば、Nさんも夜うるさいと感じる事があったそうだ。部屋はTさんの一つ上の三階。今まで騒音を耳にしていないTさんには俄かには信じられないが、Nさんの隣の部屋からは一晩中何かを引っかくような音がするらしい。
「でも隣の人からは、“うるさいのはお前の方だ”って言われて……」
Nさんの隣の部屋の住人には、全く心当たりはないらしい。
「ははぁ……」
状況は把握したものの、これはどちらかが嘘を言っているに違いなく、真相は藪の中。変に首を突っ込むのはヤバイ――Tさんはそう判断したが、先を越された。
「あの、もし時間があったら……一緒にその音を聞いてもらえませんか?」
頼まれると断れない性格のTさん。仕方なく週末の夜行く事を約束した。
そして週末。Nさんの部屋に入ると、こざっぱりとした――悪く言えば無機質な部屋だった。無駄と思われるものは一切ない、簡素な部屋。入ってすぐにその音は耳に付いた。
あれ? Tさんは動けない。その音に聞き覚えがある。耳にカサカサと引っかかるような――。読経のような声――。
すぐさまNさんを連れて自分の部屋へ飛び出した。
第五十三夜 もうひとり。
Yさんは幼少時代八人家族で育った。やがて祖父母が亡くなり、二人の兄も成長しバラバラになった。現在は結婚し、六人暮らし。三人の子供と夫、そして叔父さん。
叔父さんとは昔から暮らしている。一向に老ける事のない叔父で、いつも同じ服を着ている。夫は結婚当時から叔父さんを無視している。子供達はなついている様だ。
久しぶりに実家に帰ったら、叔父さんが先回りしていた。父や母も叔父さんに関しては昔から徹底して無視している。それでも叔父さんは笑っている。いつもニコニコしている。
「せめて挨拶ぐらいしてもいいのに」
Yさんは釈然としないそうだ。
第五十四夜 全然写らない。
写真撮影が趣味だというZ君。といっても、写すのは風景より人物が多い。専らイベントなどに行ってはレイヤーさんを写しまくっている。
「ちゃんと声かけてから撮影しているので無問題!」
わきまえてはいる様だが、たまたま隅に写っている人などを見ると、明らかに気付かずに入ってしまった人も見て取れる。そんな彼が撮影中、ファインダーに彼好みの可愛らしい女性が横切った。巫女姿で黒髪が腰まである。顔までしっかりと見えた訳ではないが、静々と歩くその姿に、どこかときめくものを感じた。
慌てて顔を上げ、女性を探す。巫女の後ろ姿はざらにあってどちらに行ったか見当も付かない。見失ったか――? 太い眉毛をへの字に曲げるZ君。仕方ない、と気分を一新、他のレイヤーさんに視線を移す。
新撰組の格好をした厳つい兄ちゃんを撮影させてもらうとお礼を言って次を探す。次は男女織り交ぜた神父さんだ。美男美女が黒衣に映える。
と。
撮影した直後、神父の集団の後ろを先ほどの巫女さんと思しき女性が遠ざかっていく。偶然ではあったが、恐らく先ほどの写真に写りこんでいるだろう。だが一応許可を得ておきたかったし、やはり正面からも写したい。慌てて後を追う。
が。
やはりまたも見失う。縁がなかったものと諦めて家路に着いた。早速現像した写真を見て、Z君はため息をついた。全ての写真に、何故か例の巫女さんが写っていたのだ。
「……たまたま似た服着てたんじゃ?」
「違う。ホレ見てみい」
女性は右腕に何かをぶら下げていた。赤っぽくて細長い――。
へ そ の 緒 だ 。
「でもなぁ……正面だけは全然撮れてなかったんだよなぁ」
二度とその女性を撮ろうなんて思うな、と彼に釘を刺しておいた。
第五十五夜 厭な手紙。
漫研に所属していたT君の後輩Kが、とある漫画を描いた。T君たちが卒業した記念に、後輩が有志を募って作った本の中の一編である。
それは「呪われた写真が毎日届き、その家の旦那が失踪する。隣に越してきた女性がその話を聞き、引っ越そうかどうか迷っていると、今度はその女性に写真が届くようになった」という内容だ。
T君はこの話を聞いて悪戯を思いついた。実際にKの家に毎日写真を送りつけてやろう、と。とはいえ、写真ではプリント代が馬鹿にならない。そうだ、手紙にしよう――こうしてT君の作業が始まった。
毎日毎日短い手紙を書く。内容は同じだ。朝、仕事に出る時にKのアパートの前まで行き、こっそり投函する。元来Kは怖いものが苦手である。親しくしていたT君の筆跡もある程度は憶えているだろう。T君は、すぐにKから連絡があるものと踏んでいた。
ところが、一週間もするとKと連絡が取れなくなった。試しに郵便受けを覗いてみたが、手紙は全て消えている。それどころか部屋のネームプレートも消され、白い板になっていた。
怖くなったのはT君だ。よもや自分の手紙の所為で……とは考えなかったが、よっぽどの事がないと連絡が取れなくなるとは思えない。
しかし、その後Kとはあっさりと連絡が付いた。
「いや、スミマセン〜変な脅迫状が来たんすよぅ〜」
聞けば、「この部屋を出なければ殺す」といった類いの手紙が、しつこく何日も届けられたのだそうだ。次第にエスカレートし、終いには解読不可能な手紙になり、玄関扉の外側に血らしき液体がぶちまけられていたらしい。
大家さんと相談して、人が住んでいないように見せかけるためにプレートを修正し、実家まで帰っていたそうだ。
勿論、T君は自分が手紙を出していた事は内緒にしていた。
T君は手紙には「今夜十二時に行く」としか書いてないなかったからだ。
第五十六夜 せすじ。
S君の後輩にMさんがいた。
かなり細身で「爬虫類のような」と形容されるその眼は甲高い彼女の声にピッタリ似合っている。何処となく近寄りがたいMさんだったが、彼女が自転車に乗る姿は一層その雰囲気に拍車をかけていた。
彼女が自転車に乗る時、ひたすら背筋が真っ直ぐなのだ。漫画の某教授のように歩く姿もピシッとしている。
一度S君はMさんに聞いてみたことがある。
「何でそんなに背中に力入れてるのん?」
「はい、背中を真っ直ぐにしていないと、とらさべらが乗りかかってくるのです」
「とら……何?」
「はい、とらさべらです」
S君は追及するのを諦めた。
第五十七夜 きざし。
Sさん夫婦が沖縄旅行した帰りの飛行機の中での話である。
窓の下に広がる透き通った海原を眼に映し、楽しかった旅行の思い出を反芻する。Sさんの隣では、妻のAさんがスヤスヤと寝息を立てていた。幸せそうに目元が笑っている。
どれくらい経っただろうか。Aさんの息がピタッと止まる。気になったSさんが、眼を隣へ向けると同時に息をのんだ。
Aさんの膝の上に見知らぬ少年がちょこん、と乗っている。それも、草を編んで作ったような古風な服装だ。
Aさんは薄く目を開け、少年を見つめている。少年もAさんを見上げ、ニコッと微笑む。
SさんとAさんが、同時に息を吐き出す。
少年は既に何処にもいなかった。
※
二人の間に第一子が授かった事が判明したのは、それからわずか三日後のことだった。
第五十八夜 だぶる。
Sさんは奇妙な夢を見続けている。幼少の頃から行った事もない町で見たことのない店に入り、あり得ない商品を買っていた。
それは例えば『陽の鳥』の「地上編」や「アトラ編」だったり、『斬悪剣伝』の「北海波濤編」だったり『マバラ』「完結編」といった、未完の大作だったりした。とうぜん、中身に眼を通す事は出来なかったそうだ。
Sさんが成長するにつれ、町並みも変わっていった。現実よりも早く夢の中で免許を取得し、既に車で町中を回っていた。現実で免許を得た後、夢の中で事故を起こす事もあり、そんな日には殊更慎重に運転をするよう心がける。
そんなある日、某TV番組で不思議な出来事の特集をしていた。ある老人が、最近近所の人に覚えのない事を言われるようになったという。時には、隣町で見かけた、とか、さっきまでどこそこの店に居たよねぇ? 等と聞かれる。そんな時は決まって自宅から一歩も出る事はなかったのだが。
その老人が、昔から見る夢があった。見たこともない神社に時々行く夢である。あまりにリアルで、「先週行ったあの神社、なんて所だっけ?」と母親に聞くと「あんた神社なんて行ってないじゃない」と叱られた。
この歳になって、初めて訪れた村で老人は驚愕した。あの、夢で見たとばかり思っていた神社が目の前にあったのだ。その夢を見始めたのは、老人が幼い頃、二階の窓から庭まで落ちた時からである。
そして、「もう一人の自分」は段々老人の家の近くで目撃されるようになってきたという。もうすぐ、自分に会うことになるかもしれない――と、その番組はそう結ばれていた。
見終わったSさんは胸の高鳴りを押さえられなかった。この老人は俺と同じだ、と、Sさんは確信してしまった。
今もSさんは見知らぬ町でもう一つの生活を送っている。今からその町を訪れるのが楽しみだそうだ。
そしてもう一人の自分に会うことも――。
第五十九夜 幻陰。
T君は小学校の修学旅行で広島を訪れた。原爆資料館や原爆ドームなど、ショッキングな場所を何箇所も眼に焼き付けた。
T君の地元は「永井隆博士」という人物の出身地である。この永井博士は、原爆投下後の広島と長崎へ赴き、被爆者の治療に従事した人だ。故に、T君達は幼い頃から原爆や戦争に対しての知識は一般より多く教わってきた。
しかし知識は経験や体験には遠く及ばない。資料館で再現された被爆者の方々の人形は、T君の頭の中に濃く刷り込まれて離れなくなった。
それ以来、T君は自分の後ろをついて来る黒い影に怯えだした。どんな時も、自分の後ろを着かず離れず歩いている。家の中に入ると、家の周りを一晩中彷徨っているようだ。
旅行から十五年、未だに背後の影は消えないらしい。
第六十夜 はち。
幼少時代、F君は蜂に襲われた。
何百匹にも及ぶ蜂の大群。一斉に全身を刺される。刺された部分には卵が植え付けられる。ほんの数分後、卵は孵化を始めた。体中を蜂の子が這いずり回る。みりみりと皮膚の下で音を立てる。幼虫達は心臓めがけて突進を始めた。血の気がどんどん引いていく。刺された穴からはゆっくりと、だが確実に鮮血が這い出てくる。紅の大河は美しい幾何学模様を描き上げていく。寒さに全身が震えだした。手が見る間にカサカサに萎れていく。爪がぼろ、と剥がれて落ちた。
絶叫と共に――F君は目を覚ました。幼いF君には、状況説明できるほどの語彙がなく、ひたすら泣き続け両親を困らせた。
F君の全身には、今も無数のクレータ上の傷痕が残っている。
第六十一夜 つわものどもが。
T君の暮らすM町にはM城跡がある。今から八百年近く前に築城されたこの城は、四百四十年前にその城主の血筋が絶えている。戦国時代の話だ。
当時この城下には、主要な街道があり多くの人、物、情報が行き来したらしい。その中に「首狩峠」なる険しい峠があった。中央道からは外れた細い道だったが、それ故裏道として役立ったらしい。時には隠密行動をとる者が深夜通過したり、逆に侵入して来たと思しき者が捕らえられたりした、という伝説が残されている。
一番激しかったのが毛利と尼子の合戦の最中。ある年尼子方の某武将がM氏の懐柔に掛かった。「今日は東、明日は西」の世の中。尼子に寝返ったと見せて案内し、「首狩峠」で尼子勢を強襲した。切り立った狭い峠。前後と崖の上からの攻撃にさらされた尼子氏はその半数を失い、辛くも逃げ去ったという。
逆に、毛利を導こうとしたM氏も、同様に隠れ潜んだ尼子方に多くの首を取られたという。
しかし、一雑兵の印を上げるとは考えにくい。多くの命が奪われたことは本当でも、首狩まではなかったのではないか――T君はそう思っていた。
十五年ほど前の夏休みの晩。今は見る影もなく開けた峠。用事で出かけたT君は、偶々近くを通りがかった。町の灯りが皓々と夜空を照らす。星の見せ場がない程明るい。ふと耳を澄ますと、自動車の音に混じって怒号が聞こえる。
ざっざっざっざっざっ、という大地を響かす音も混ざった。規則正しい音とそうでない音。中には悲鳴らしき金切り声まで上がる。音の主を探すが一向に見つからない。
――と。
前から車が近寄ってくる。まだ百メートルほど先だが、ヘッドライトが真っ直ぐT君を照らし出す。車には伴走する物があった。黒い大きな塊。明るさに眩む眼を凝らす。馬……か? 背中には人影もある。ライトとは別に細長い光がキラキラ反射していた。
日本刀だ。見る間に車は迫ってくる。馬に跨った人物は必死でになって刀を振るっている。そして刀は幾度となく運転席へ吸い込まれ、何事もなかったように車を通過する。斬っても斬っても首は狩れない。
「うまくいかず、やけになって知恵の輪をペンチで曲げた……そんな人を思い出しましたよ」
やがて馬は、対向車線の車のライトを浴びて消えた。今ではその峠があった場所には病院が建っている。
第六十二夜 ウシ。
Tさんの地元には個人でやっている小規模の酪農家が何軒もある。
ここ三〜四年の間に二回程Tさん宅の庭に放牧地から逃げ出した牛がやって来る事があった。近くで聞く牛の声は、壊れたクラクションに匹敵する。
大学で実家を離れていたTさんにとっては、畏怖の対象になる程の衝撃だったらしい。迷い牛は飼い主が迎えにきたり、自分で帰ったりした。
ブバァァァァァァー!
先日も、迷い込んだのか庭中に嘶きが響いた。
「またかいな…………あ? どこやねん?」
声はすれど姿は見えず。窓を開け、庭に顔を突き出してみる。
ブゴフゥゥゥゥゥー!
窓のすぐ真横で脳を揺らされた。しっとりと、粘り気のある独特の鼻息を顔に浴びせられた――がやはり姿は見えず。
「ほんまに迷ったんですかなぁ」
今でも時々、声だけが響くらしい。
第六十三夜 虚像。
Aさんの家には古めかしい鏡があった。銅鏡を髣髴とさせるが、所謂「魔鏡」というヤツである。鏡面を外すと裏に神仏や文字が逆さまに彫ってあり、光を当てると壁に彫られたものが正位置で映し出されるというアレだ。
Aさんも何度か試した事がある。綺麗な女性の裸像や、筋骨隆々の不動明王や仁王らしき神仏像。時には小さな男の子が遊んでいる様子が映し出された。猫や犬と思しき動物の類いも見えたらしい。
「……え? 見るたびに変わるの?」
「はい」
その鏡は割れてしまって処分したらしい。
第六十四夜 かわりに。
Sさんの従姉はよく事故を起こす。
ある年、新年明けてすぐ車を大破させた。雪道を走っていた所、カーブに入った対向車がスピンしたらしい。車のボンネットはペッシャンコ。だが本人は無傷で済んだ。自分で路肩に車を移動させたそうだ。現場に到着した警察官が呆れるくらい、とても運がいい。
更に前になるが、信号で止まっている時後ろから衝撃を受けた。見ると、助手席の後ろに無数の竹が突き刺さっている。
どうやら、竹を積んでいた後ろの車が余所見をしていたらしい。赤信号に気付いて急ブレーキを踏んだ所、竹がフロントガラスを突き破ったのだ。折りしも七夕前。施設に届ける途中だったという。
事故の前、彼女は決まって夢の中で殺されるらしい。大抵追いかけられた挙句、五歳くらいの子供に刺されるのだそうだ。
「お陰で気をつける日が判るんよ〜」
ニッコリ笑う彼女には、微塵も暗さが感じられない。
第六十五夜 しつこい。
Kさんにはしつこく擦り寄る男が居るらしい。
最初は満員電車の中。気が付くと後ろに、居た。その日以降、注意して辺りに気を配ると視界の中に男の姿が、在る。学校へ通っている時も、卒業して仕事を始めても、居る。既に五年目になるが、朝晩決まってKさんの近くに、居る。
気持ち悪いな、とは思ったが、声を掛けられた訳でもないし、無理に近付いてくる事もない。
夜道を歩いている時、少し離れた所を歩いていたが二人きりであるにも拘らず近付く事もなかった。気にしないようにはしていたが、ある日割りと近くで顔を見ることがあった。
長髪と眼鏡に隠れていたが、意外とスラッとした顔をしている。
――イケメン? 当たりかも……?
「どう思う?」
Kさんは友人のSさんに相談した。
「あんた……いい加減にしてよ」
「何よその言い方〜」
「……あんた、もう死んでから五年も経つのよ?」
あぁ、そうか、と呟きを残してKさんは消えた。
第六十六夜 そして、いまも。
M君が学校の帰り道、ふと目があった少年に睨まれた。生来気の強いM君は、これ以上ないくらい顔を左右に歪めて凄んでみた。瞬間、少年は目をそらし――消えた。
その日から、少年がM君の後をついて回るようになった。消えた当初から「怖い」という感情がM君の中に渦巻いていたが、少年は決してM君の目に付く所には出てこない。鏡越しに目が合いかけたときなど、少年の方から目をそらす。次第に恐怖心も薄れていった。
ある日、家から出かける前、M君は少年に怒鳴った。
「うろちょろしやがって……この部屋から出てくんじゃねぇぇ!」
以来、少年はM君のアパ−トの中でしか姿を現さない。
「野郎、引きこもってやがらぁ」
そのままM君は引っ越した。
第六十七夜 まってろ。
Fさんの祖父母は、同じ年の内に揃って亡くなった。先に亡くなったのはお祖母さんの方。晩年は寝たきりで、お祖父さんは老々看護であった。四十九日が過ぎ、初の盆も迎える。秋になり涼しくなると、お祖父さんも眠るように亡くなった。
亡くなる一週間程前。穏やかな顔で、三人の息子達にこんな事を仰ったそうだ。
「夢の中でなぁ、ばあさんが墓の横に家を建てて、そこで住もう、言うちょるんじゃぁ」
満足な死であったろう、と皆囁いた。
第六十八夜 イヌ。
W君は愛犬家だ。今までに何頭か一緒に暮らしてきた。迷子予防に備えて首輪は着けるが、リードは殆ど着けた事がない。というのも、W君の実家は山奥で庭も広い。普段は、二メートル四方の囲いの中を好き勝手に放し飼いにしている。山の中を散歩させる時などリードはむしろ邪魔になる。道に出る時だけしっかりと繋いでいた。そのためリードが着いている時は妙に気を散らせることが多い。
高校時代に飼っていたのは、芝っぽい雑種だった。名はレオ。どちらかと言えばリードをつけることに対して抵抗の少ない犬だったという。散歩に連れて行ってもらえるという事を判っていたのだろう。このレオ、時々何もない方向をじっと見てはウゥ、と唸る。ある日散歩に出た時など、カーブミラーをキッと見上げて唸っていた。
W君が高校卒業を控えた頃。レオの様子が一変した。W君を見上げてはウゥ、と唸り始める。無事進学し、一人暮らしを始めた。レオの面倒は、弟がみる約束をした。
半年後、W君が実家に帰省した。
相変わらず、レオに唸られたらしい。
第六十九夜 密室。
Nさんは、漫画喫茶大好きな友人T君に連れられて初めて漫画喫茶を訪れた。初めて入ったその中は、立派な個室でベッドまである。友人とはいえ、そこは男女の間。別々の方がよりゆったり出来るだろうという事で、別々の部屋に入る。……単にT君の「男の」事情ではあったのだが。
さて、一人になって見ると、益々居心地がよい。聴けばシャワー付きの個室まであるらしい。漫画好きなNさんは、「今まで気にはなっていたけど量が多い」という理由で読めなかった漫画を借りてきた。最初は某妖怪漫画。TVアニメにまでなったのだが、作者の都合で途中で切り上げられた印象の残る作品だった。次は三十冊を越える、これまた妖怪漫画。太い線に最初は躊躇したが、気付けば一気に読み終えていた。ティッシュペーパーが空になる勢いで涙と鼻水を拭った。
その頃になると、夜も遅く――というより、既に朝に近い。思いっきり伸びをして、ベッドに身を預ける。と――。同時に両手両足を引っ張られた。仰向けの状態で、ベッドの両脇から白い毛が見える。毛は腕と足首をぐるぐる巻きにすると、ぎちぎち、と左右に引っ張り出す。
「いだだだだだだだだっ!」
叫ぶと一瞬にしてベッドから放り投げられた。
「……もう二度と行かない」
未だに妖怪の漫画を読むと、その時の痛みを思い出すらしい。
第七十夜 出逢ってた系。
S君が成人を迎えた年の事。彼の町では、夏休みを利用して成人式を挙行する。久々に会う友人達との語らいを終え、集合写真を撮影。
その後小さな集団に別れ、気の合う者同士でささやかな同窓会を始めた。既に誕生日を迎えたものは大っぴらに、未だの者もこっそりと祝杯を重ねる。
それから二週間。出来上がった集合写真が送られてきた。すっかりおっさんぽくなった友人や、ネクタイ姿が浮いている友人。見違えるように綺麗になった女性陣。中には妊娠中の人もいる。
「いやぁ、判らない人も多かったですよ」
その写真を家族に見せた。子供の頃から知っている友人などは、両親共に懐かしがって目を細める。
すると。S君の妹が、写真を手にピタッと手を止めた。
「この人……」
うっすら化粧したその顔は、S君には見覚えのない顔だった。
「この前……学校で――見た」
鏡に映って消えたらしい。(第四十三夜参照)
第七十一夜 ゆきふる。
M君の中学時代、学校行事のスキー旅行中の事。
昼間は威勢良くスキーを満喫した生徒達ではあったが、疲れてぐったりしている者と、あまり体力を使わなかった者と半々くらい居た。
初心者向けコースでだらだらしていたA達などは、むしろこれからが旅行の醍醐味だと言わんばかりに一部屋に集まっていた。既に教師に話をつけていたらしく、怪談好きで有名なI先生と共に数名の女子生徒を伴っている。明日のために体力を温存しておこうと思っていたM君だったが、部屋に来たある女の子の顔を見て態度は一変。
――Rさんだ!
物静かな図書委員系――といった風貌のRさん。M君の想い人である。早速M君も“怪談部屋”に参加した。I先生の語る怪談は、多くがよく知られたポピュラーな話だった。 曰く「赤いチャンチャンコ」。
曰く「メリーさん」。
曰く「てけてけ」。
しかし、そこは自称「怪談師」。絶妙に間をとり、部屋の中は空気をピン、と引き締める。
ふと、M君は寒気を感じた。話の所為かな、と顔を上げると、視界の隅を白い塊がかすめる。手のひらにすっぽり収まりそうな大きさだ。なんだろう――うす暗い部屋を見回すと、白い塊は、一箇所に集まりだしていた。
無数の塊が部屋の中をグルグル渦巻き、やがてM君の右側にある壁へと集まる。他のメンバーは一切気付いている様子はない。その内に塊は天井に達するほどになり、フラフラと揺れだす。
――倒れる、危ない!
手を伸ばした先にはRさんがいた。倒れた、と思った塊は壁の方へ向けて倒れ、そのまま壁の中に染み込むように消えた。後に残ったのは、「Rさんに襲い掛かった」という汚名と、叩かれた頬の痛みだけだった。
第七十二夜 三センチ。
Nさんは戸締りに厳しい。必ずドアや扉が閉まっているか確認する。少しでも開いていると気になってしょうがないという。こんな事があったそうだ。
Nさんが母方の田舎へ遊びにやってきたときの事。
田舎ののんびりした空気が好きなNさんだったが、三日も居るとやることがない。農業も既に引退した祖父母は、持病はあるもののゆったり暮らしていて手伝う事が料理や洗濯、掃除位しかないのだ。それも、「少し身体を動かした方が具合がいい」という祖父母の意見で、殆ど手が出せなかった。
仕方ないので、自分が使っている部屋位は、と掃除を始めた。六畳ほどの和室に押入れが付いている。建てつけが悪く、右側の衾は開かない。布団は専ら左側から出し入れされている。ピシッと閉めれば、ネズミ対策もバッチリ、といった按配だ。
ある夜。寝苦しさを覚えてNさんは目を覚ました。水を飲みに部屋を出る。戻ってきて違和感を感じた。どこかから見られている――そんな感じだ。
しかし部屋も廊下も暗く、視線の主は見つからない。しっかり戸締りして布団に潜り込む。横になると、自然、押入れの方へ目が行った。
何かが変だ。押入れに――隙間が開いている。そんな筈はない、と否定してみても、しっかり三センチほど部屋の暗さよりもなお暗い影が出来ている。“閉めたはずだ”、その事よりも一層Nさんを恐怖させる部分があった。
隙間は。
衾と衾の袷の部分、つまり“真ん中”の部分に開いていた。物理的にありえない。
これではたとえ衾を移動させたとしても、端の方は開いてしまう。それでも気になって仕方がない。このまま眠ってしまう方が、そのまま隙間に吸い込まれてしまいそうで嫌だ。
意を決して押入れへ近付く。すると中から人の声らしきものが聞こえた。酷く低い声でボソボソ喋っている。衾に手をかけた。なるべく見ないように、と思っても、隙間から目が離せない。
ゆっくりと、衾を、スライドさせる。ぎぃ、と音を立て、隙間はなくなった。不思議と端の方もぴたりと閉まっている。
良かった、助かった――気を抜いた途端。
足元に黒いライン。畳と畳の間に隙間が。三センチほどの隙間。中の人と目が合う。もごもごと口を動かした。
「とらさべら?」
翌朝、Nさんは押入れの中で震えていた所をお祖父さんに発見された。
第七十三夜 ねず、み。
Kさんは一時期不眠症に悩まされていた。
大学の推薦入試前、「寝なきゃ寝なきゃ」と思うほどに眠れない事があったそうだ。結果面接はボロボロ。その後暫く、失敗した試験を反芻してしまい、眠れなくなった。
夜寝ようとすると、天井をタッタッタッタッ、と音がしだしたのは、試験の日から一週間もした頃だろうか。以前からネズミらしき足音は聞こえたのだが、何処となくもう少し大きな生き物のような気がする。子猫じゃあるまいし……鳥が住み着いた訳でもないよね?
作り自体は古い日本家屋。幾らでも隙間はありそうだ。音はまだ続いている。どうせ眠れないのなら、とまずは天井を軽くノックしてみた。
コンコン――
ゴンゴン!
「っひ……」
Kさんが叩いた直後、天井から叩き返された。ネズミじゃない! まして鳥でもない!
ノックする前は屋根裏に顔を突っ込んで探るつもりでいたKさんだったが、その気は一瞬にして失せた。そのまま、寝ずに天井を見続けた。
足音は三日後、不意に消えたという。
第七十四夜 買い出し。
Kがコンビニで深夜バイトをしていた時の事。
もうすぐ真夜中、という頃二人の女性が連れ立って店に入ってきた。こげ茶色の髪をしたスーツの方はKよりも少し年上、もう片方の黒ロングヘアーはKと同じか年下に見えた。
喧嘩でもしているのか、殆ど会話はない。かといってぎすぎすしている様でもなく――まるで初対面同士で探り合っている、そんな風にも見受けられた。
やがて二人は店内を一回りし、一つの籠に十本近く缶酎ハイを入れる。つまみも買い込んでいた。
良いなぁ呑み会かなぁ……コンパでもあったのかな? 二次会?
元来酒好きなKはぼんやりと二人を目で追った。店内は閑散としており、他には漫画雑誌を立ち読んでいる若者しかいない。二人もまだレジの方へは来ない。またもう一周し始めた。今度は様子が違う。
何やらボソボソ会話している。こげ茶の方は今にも泣きそうだ。
やがて、更にお酒が追加された籠を持ってレジへやってきた。二人で呑むとしては少々多い量だ。きっと他にも待っている人がいるのだろう、と思いつつ、会計を済ませる。二人は相変わらず暗い表情で店を出て行った。
「何やったんやろう、あの二人……」
Kが呟くと。
「ちゃう、三人や」
Kの耳元で声がした。
第七十五夜 キノコ。
Sさんが子供の頃。
裏山の林の中は自然の宝庫であった。カブトムシやクワガタ、セミにハチ。季節ごとに、桑の実もあれば、木苺にアケビ、ポポの実まで食べ放題。
秋には父親に連れられてキノコ狩りに行ったものだそうだ。平茸やネズミ茸、香茸にイッポンハギ、シメジまであったという。Sさんも負けじと探したが、殆ど父が先に見つけてしまう。なんとか一本でも……そう思って父から少し離れた所を探す。
やがて見慣れないキノコを見つけた。引っこ抜いて父親に見せる。
「をを? 珍しいな、冬中夏草じゃないか」
一応食べられるらしい。詳しく聞くと、漢方薬にもなるという。
しかし、根っこについたセミの死骸が気持ち悪くてSさんは持ち帰るのをやめた。他にもっと良いのないかなぁ、ともう少し奥へ進む。
「あんまり離れるじゃないがぁ」
父の心配をよそにキノコを探す。すると。低い茂みに隠れた、少し開けた場所に出くわした。畳一畳分くらいの広さに、びっしりとキノコが生えている。さっきの「冬中夏草」だ。凄い凄い、と最初ははしゃいでいたが、落ち着いてくると、この一本一本がセミから生えている――その事に寒気を覚えた。
「おぅいどうし……」
父の声が止まる。
「……帰るぞ。ほら、早く」
手を引っ張られながら家路に着いた。
「今思うと、あれ生えてたの、丁度人間の体くらいの範囲だったんですよね」
それ以来、その場所へは一度も行っていないらしい。
第七十六夜 続・しつこい。
「何とかなんねぇかな……」
D君は所謂イケメンだ。髪が少し長めで、普段は黒くて縁が厚い眼鏡をかけているので気付かれにくい。視力の低下が著しく、裸眼ではほとんど見えない。
ある日の事。バイトからの帰りに電車に乗り込んだ。眼鏡の汚れが気になったので拭いていると、向かいの席の女性と目があった。少し怒ったような顔をしていたが、目が合った瞬間、表情が和らぐのを感じた。
どこかで見た顔だなぁ――思い出す間もなく、止まった駅で女性は降りていった。眼鏡をかけなおして女性を探すと、既に改札を出ていた。
あれ? 今、眼鏡を外していたのにも拘らず、女性の表情がはっきりと見えた――?
思い返すと、その女性はここ数日道端や買い物に寄った店屋で何度か見かけた気がする。そういえば、何度かガンつけられた気がする。
直接話をしたわけではないので、名前までは知らない。
暫くすると、女性を見かけなくなった。代わりに、ファミレスに入ったりすると必ず一人分、多く水が用意されるようになった。無論、一人の時にも、だ。
第七十七夜私のせいじゃない! 壱。
Sさんの妹が一人暮らしを始めた。
寮生活を一年経ての、初の一人暮らし。寮ではルームメイトがいた為、寂しさ半分、トキメキ半分。とはいえ、アパート自体には既に友人・知人が何人か住んでいる。同じ学校の同級生も居た。これだけ揃えば毎晩宴会でもおかしくない。実際、週末など時間が合えば誰かの部屋に集まって一杯やっていた。
そんなある日、友人からメールがあった。
「助けて! すぐ来て!」
何だろう? 首を傾げつつも、三つ上の階へ急ぐ。途中電話を掛けてみたが、通話中だった。五階の友人宅へ着く。ベルを鳴らしても反応がないのでノブを握ってみた。開いている。すぐさま扉を開け中へ入る。
その部屋の住人である女性が、別の友人を介抱していた。
「……なに? どげしたん?」
恐る恐る話しかける。
「がぁぁぁぁ」
ぐったりしている友人の男性が苦しみだす。
「……っ! ごめん! あんたが居ると酷くなるみたいっ……!」
さっさと追い出された。
後日、その部屋の女性が謝りに来た。その件については別に怒っていないと告げると、安心したようだった。
「……でもナイスタイミングで来たね?」
「は? あんたがメールくれたけん……」
送った覚えはないらしい。
第七十八夜 私のせいじゃない! 弐。
Sさんの妹が別の友人宅へ行こうとした時の話。
三人の友人と共に少し広い家に住んでいる友人Yさん宅へ向かった。学生には勿体無いくらい広い――のだが、見るからに古い。築三十年程らしい。この建物に近付くにつれSさんの妹と友人Iさんがまず耳鳴りを感じ始めた。次第に強まる耳鳴りに、頭痛も伴い始める。
更にもう一人耳鳴りに苦しみだした。もうすぐ家だ、そこを登ったら部屋です――そんな会話が続く。
だが、いよいよ部屋に入る段になり、Sさんの妹は我慢の限界に達した。
「ごめ……私帰るっす……」
Iさんは動くのもキツイのでYさん宅で少し休むという。暫く歩いていると耳鳴りが止み始めた。
――おお、大丈夫かな?
再びYさん宅へ引き返そうか迷っているとメールが届いた。Iさんからだ。
「不思議なんだけど〜、あんたが帰ったら楽になってさ〜アハハハ」
ふくれっ面でSさんの妹は帰宅した。
第七十九夜 私のせいじゃない! 参。
Sさんの妹が友人達と海へ泳ぎに行った。
五人ほどでビーチバレーをしたり、浮き輪に乗っかってプカプカ浮かんだりしていた。遠くで悲鳴が上がる。車が運転を誤って堤防から落ちたらしい。
Sさんの妹が彼氏とプールへ行った。
流れるプールや、大きな滑り台もある。丁度入ろうとした時、救急車が出て行った。滑り台を滑っていた小学生が溺れたらしい。
Sさんの妹が兄夫婦と花火を見に行った。
川岸から見上げると既に数発の花火が上がっている。暗くなった一瞬。横合いにぼぅ、とした灯りが灯る。火の粉で火傷を負う人が居た。
「お前、あんまり人ごみに行かん方がえぇんと違うか?」
「私のせい違うワッ!」
第八十夜 石が見せた。
S県には、通称「賽の河原」と呼ばれる場所がある。
いつの頃から訪れた人が石を積んで帰るようになった。巨大な岩と岩の隙間、鍾乳洞を髣髴とさせる洞窟だ。無数の石で積み上げられた山と、地蔵が沢山並んでいる。
折角近くに寄ったから、とM君とKが川原までやって来た。夏なお冷え込むそこは、黄泉の国に繋がっている――そんな幻想を生む。崩れかけた石の山が哀愁を漂わせている。同時に、これだけの数を積み続けてきた多くの人々の事を思うと胸が痛む。
子供に先立たれた親。幼少時に親と別れなければならなかった子達。他にも様々な事情があるだろう。
M君は、昨年若くして病に倒れた友人を想った。かつてM君が恋心を抱いた女性――Rさんを。中学時代、相手を怒らせるようなことをしてしまったが、それがきっかけで友達として付き合いだした。恋心は消えることはなかったが、それ以上に友情を感じられた。尊敬できる人だった……と目頭を熱くする。
病気の発症後の生存確率は30%だったらしい。
Kの方は失った女性と幼子の命を想っていた。若さゆえの過ちで、付き合っていた女性との間に子を授かった。
へらへらした生き方がモットーであったKだが、この時ばかりは真剣に考えた。考えた末――結婚を決意した。学生結婚である。相手の女性は年上。既に働いていたので、経済的にはおんぶに抱っこだ。それを承知してくれた。しかし子供が呼吸をする事はなかった。事故だったという。
二人して沈痛な面持ちで石を積む。積んでは崩れ、また一つ積む。知らず、涙が頬を伝った。
「もう一回くらい、話したかったなぁ……」
「もっと一緒に居たかったなぁ……」
同時に口から洩れた。お互い顔をあわせて苦笑する。
「帰るかぁ……」
どれ位そうしていたろうか、不意に腰を上げたM君が促す。頷いて立ち上がろうとするKの足に触れるものがあった。柔らかい、五本の指。力の弱いその指は、だが決して離れようとはしない。指の感触。それだけがKの心を暖めた。
Kの方へ振り向いたMくんもまた、固まった。数え切れないほどの子供が石を積み始めている。決して積む事を止めはしない。一斉にM君のほうに目だけ向けると――子供達はニッコリ微笑んだ。
汚れのないその目に見送られ、二人は川原を後にした。
第八十一夜 あか。
Fさんの妹はKさんという。八年ほど前京都で暮らしていた。移動の大半は自転車。たまに地下鉄を利用するくらい。バスにはあまり乗らなかったらしい。
理由を尋ねてみたことがある。
「え、だって赤いカーテンが気味悪いし」
バスを見るたび車内は真っ赤に見えるらしい。
第八十二夜 リサイクル。
Sさんが中古書店で古い小説を買った。
既に版元の会社は無く、絶版というヤツである。一連のシリーズ物だったが、Sさんはその一冊だけが未入手だった。
喜んで家に帰ると早速読み始める。しかし、不思議な事に物語に没頭出来ない。アレだけ待ち望んでいた瞬間であるのに、どうにも目が活字をスムーズに追えないのである。
何の気なしにパラパラページを捲る。白黒の世界に、一瞬鮮烈な赤が目をかすめた。
「ん?」
物語の後半――。赤いインクで文字が綴られていた。目にした瞬間背後に視線を感じる。
Sさんはすぐにその本を売り払ったらしい。
赤いインクで何が書いてあったかは聞いていない。
第八十三夜 再会。
OLのTさんはNさんと半年ぶりに再会した。
ちょっとそこでお茶でも、との誘いにTさんは微妙な笑顔で肯いた。NさんがTさんと同じアパートから引っ越して早一年。最後に会った時も今日と同じように向こうから声をかけて来た。
「まだ聞こえるんです」
ぽつりとNさんは呟く。Tさんの全身に鳥肌が立った。相変わらず引っ越した先でも、夜中に妙な声が聞こえるのだという。
こんな事で頼られても困るが――。そう思った時、不意に同級生で坊さんのSさんを思いだした。
「面倒そうな話なので押し付けてしまえ、そう思って」
後日SさんからTさんに連絡があった。自分は拝み屋とか霊能とかそういった類いの事は門外漢だ、この人に何をしてやれというのか――という内容だった。
「良いじゃない、嘘も方便。お経の一つもあげれば彼女も落ち着くんじゃない?」
適当にあしらったらしい。
その後、実際にNさんの前で読経してみたそうだ。
Nさんは前以上に言葉がはっきり聞こえるようになってしまったという。
第八十四夜 リピート。
Tさんが深夜のドライブを楽しんでいたときの話。
近所の温泉に浸かった帰り、少し遠回りしていこうと決めた。すっかりリラックスした後、マッサージチェアにしっかり揉んでもらい気分は爽快だ。疲れも吹っ飛び、眠気も失せていた。
山道の途中、いくつかトンネルが続く。全てのトンネルを越えれば綺麗な夜景が目の前に広がる――筈だったのだが。
最初のトンネルに入った途端、ヘッドライトが消えた。思わず急ブレーキをかけると、同時に車に衝撃が走る。
――どこかにぶつけたか?
落ち着いてルームライトを着けようとしていると、ヘッドライトに光が戻った。前方には特に何もない。トンネルの壁が薄オレンジに照らされている。
……あれ? さっきまでトンネル内も真っ暗だったような……気になったが、車体の下も異常はないので車を発進させた。
不意にバックミラーに赤い光が反射する。後ろから車が来たのかと一瞬考えたが、よくよく考えればヘッドライトが真っ赤な車などそうは見ない。改造車にしてはエンジン音も特にしないな、と後ろを見てみると真っ赤な後光を背負った女性がすたすたと歩いてくる。
時速は既に50キロに達しようとしていた。どんどん近付いてくる。恐怖に駆られスピードを上げると、やがてトンネルの出口に差し掛かった。
その瞬間女性は消えた。安心したのもつかの間、次のトンネルに入ると再び車に衝撃が走る。今度はどう考えても車の下に何かがある。タイヤが乗り上げ、車が傾いているのがわかった。そのままギシャグシャッ――ッパンと何かがはじける音を耳にしながら、急ブレーキ。急いで車から降りて確認したが……やはり何も無い。
呆然と立ち尽くしていると今入ってきた方のトンネルの入り口付近に先ほどの女性が立っていた。またもすたすたと近付いてくる。
「うををををっをををををっををを……!」
Tさんは絶叫しながら車に戻り急発進。二つ目のトンネルを抜け、三つ目のトンネルに差し掛かる。またドゴッという衝撃が走ったが、今度は止まらずに走り抜けた。
夜景を楽しむ余裕も無く帰宅したそうだ。
第八十五夜 嘘から出た。七
M君が二十歳になった時、高校の同級生から同窓会の連絡を貰った。
大げさな会ではなく、数人で呑もう、という話だった。二つ返事で参加したい所だったが、生憎仕事の日と重なり、M君は不参加だった。
後日、参加した一人から連絡が来た。何でも、呑む前に一度高校へ足を運んだのだそうだ。異動で少なくはなっていたが、知っている先生にも挨拶をして回ったらしい。
その後、七不思議を思い出した一人が、検証しようといい始めた。初夏の夕暮れ時。ロケーションはバッチリだ。
まずM君が見たという「真っ赤な校舎」。これに関しては見ることは出来なかったそうだ。
続いて「少年の声の入ったテープ」。M君たちの先輩であるSさんが聞いたというテープは何処にも見当たらなかった。
次は「図書室の扉」。行ってはみたものの、図書室自体が既に鍵が掛けられていて入れなかったらしい。司書の先生も帰宅した後だったようだ。
その次は「筝曲室の女生徒」。ここは熱心な部員がまだ残って練習していたので、覗かないで後に回した。
お次は「音楽室のポスター」。だが、こちらもまた鍵が閉められていて入れない。高価な楽器があるので仕方ないよな、と言い合い立ち去った。
続いて訪れたのは「G組のロッカー」。一階から順にG組に入ってみた。ロッカーを開けてみると、雑然とした掃除道具が転がっているのみだった。三階まで上がって、全てのG組のロッカーを開いてみたが何も出ては来なかった。
「んでよ、最後に武道場に行ったんだわ」
「武道場? なんで?」
「は? アレが最後の七不思議だろ? “人がいないのに鳴る畳”」
M君は初耳だった。武道場というのは、体育館とは別に建てられた剣道部と柔道部の両方が使用している建物である。といっても見た目はプレハブに近く、威勢のいい掛け声などは外に丸聞こえだった。その道場の畳が、まるで誰かが柔道の乱取りをしているかのように音を立てるのだという。
一行はその武道場へ向かった。暫く待ってみたが音は聞こえない。中に入ろうと扉に手を掛けたが、鍵が閉まっている。
まぁ、夏休みだから当然か――そう一人が漏らしたとき、皆一斉に違和感を感じた。
「何で筝曲部に人が居たんだ?」
あわてて筝曲室に取って返す。まだ音は鳴っていた。そっと窓から顔を覗かせると――誰もいない。思い返せばこの筝曲室、上履きを脱がないと畳の部屋には入れないのだ。誰かが中にいるのならば、靴置きの無い廊下に、並べられている筈――。
顔を見合わせた彼らは、琴の奏でる音色を背中に階段を駆け下りたらしい。
第八十六夜 続・嘘から出た。
友人からの七不思議の報告を受けたM君は強い焦燥感に駆られた。
“自分の知る七不思議と違う”
その思いが頭の中を駆け巡る。M君の「真っ赤な校舎」以外の五つの話は“作り話である”と友人のS君が言っていた。筝曲部に属していたS君が、M君が卒業する時に教えてくれたのである。こんな話があるが全て嘘だよ、と。その代わりに「これは本当にあった事なんだが」と前置きして話してくれたことがある。
以前、この高校の卒業生が、同窓会を兼ねて学校へ遊びに来たらしい。先生方に挨拶をした彼ら彼女らは、懐かしむように校舎内を巡った。その中に、美術部に所属していた女性がいたらしい。彼女は一人、美術室に寄ったそうだ。そしてそのまま行方不明になった。
当然騒ぎは大きくなる。警察も駆けつけ調べたが、美術室には鍵が掛かっており、失踪届けは出されたものの家出かなにかだろうと結論付けられた。事件として噂が大きくなることを恐れた学校側が何か手を打ったという話は残ったが、未だに解明はされていないらしい。
噂の結論からすると、女生徒は殺されたらしい。一緒に学校を訪れた男子生徒達に襲われ、弾みで死んでしまったのだという。
「……何でそんな事知ってんの?」
首をかしげるM君に、S君は薄く笑うだけだった。
「僕の兄貴が犯人だからさ」
M君はS君に兄弟がいないことを知っている。
亡くなったお姉さんはいたそうだが。
第八十七夜 多弁。
AさんはNさんから呑みに誘われた。
NさんはAさんの夫の同級生の知り合いらしい。回りまわって知己を得た。Aさんより一つ年上のNさんは社会人三年目。仕事の愚痴でも溜まっているんだろうなぁと心配する。
生来心根が「静」であるAさんは人と衝突するという経験はあまり無かった。嫌な事ははっきり断るのだが、それ以外のことは大概笑って流す。故に、よく愚痴り相手に選ばれることがある。
今回もそれだろう――そう見当をつけていた。自分が何かの役に立てるなら……それはAさんの望む所であった。
「妊娠したの」
頬を染め俯くNさんは酷く儚く見えた。相手にはまだ告げていないそうだ。驚きはしたが、嬉しそうにはにかむNさんに「おめでとうございます」と告げる。Nさんもありがとう、と微笑んだ。ついては、相手の男性に話す心の準備は出来ているが、「結婚して子供を生む」という事に対してアドバイスが欲しいらしい。
Aさんも既に一児の母。実務的な事を話してみた。
「ふん……なるほどね」
真剣に話を聞く様子に微笑ましいものを感じる。
「……それでね」
Nさんが切り出す。
「お腹の中から話しかけてくるのってさぁ、いつから他の人にも聞こえるようになるのかな?」
極自然に、真面目な顔をして聞いてくる。
「え?」
「いや、ほら話しかけてくるじゃない、子供。最近はアレが聞きたいとかアレを見せろとかさ」
胎教用のCDやDVDを要求するらしい。
「……うちの子は口数が少なかったもので」
Aさんは空寒いものを感じて誤魔化した。
第八十八夜 つきおんな。
満月の夜。
Kさんは一人、帰路を急いでいた。皓々と照る月の光に影が伸びる。ふと自分の影に目を落とした。やたら、長い。遠くに行くほど先細りするはずの頭の部分が、大きい。
「まるでもう一人、いるような……」
ますます影が大きくなる。Kさんは振り向かず駆け足で家へ向かった。
第八十九夜 あたしだ。
Rさんは朝目が覚めると荒らされた部屋に愕然とした。
就寝前はなんとも無かった。まるで部屋の中をひっくり返したように物が散乱している。怖くなって警察へ通報した。調べた所、無くなっている物は無いようだ。
むしろ、身体の方を心配すべきでは――冷静になってくると漸くその事に気付いたが異変はないらしい。指紋も採ってもらったが概ね自分のものだけであった。他に数人の指紋もあったが、多くはRさんの指紋の下に重なっている。
次の日の朝も部屋は散らかっていた。警察に来てもらったが同じような結果しか出ない。
三日目には警察はRさんの悪戯だと半ば決め付けたらしい。
毎朝部屋を片付けるようになって一週間。相変わらずなくなるものは無いのだが、気味が悪い。思い切ってビデオをセットして部屋を写す事にした。
朝。やはり荒らされている。ビデオを見てみた。部屋の中に、誰かがいる。暗い影を帯びていて部屋の中をのそのそ歩き回っている。髪を振り乱した姿は女性のように見える。部屋中のものを荒らしまわった後、何処へとも無く消えた。
「……何さこれワ」
呆然とするRさんに友人数名が声をかける。
「おはよぅさん〜」
「何してるん?」
「ビデオ?」
事情を話して見せてみた。
「……あ……」
中の一人が反応した。
「あたしだ」
それ以来部屋が荒らされる事はなくなった。
第九十夜 怪宴之終。
暗い部屋にほのかなローソクの明かりが揺らめいている。
三十畳余りの部屋に九人の男女が座っている。ピンと張り詰めた空気がその場を支配していた。ローソクの側の人物が紡ぐ物語を、他の八人が興味深げに耳を傾けていた。
百本あったローソクも、残す所後一本。誰もが固唾を呑んで「その時」を待つ。やがて語り終わった人物が細長い息を吐いた。
「……ふぅこれで終わり」
息を呑む音がお互いの存在を伝え合う。
話し終わった人物がローソクを手にし、別の人物に目を向けた。
見られた人物は怪訝な表情で答える。無言の内にローソクを持ち上げると一瞬間を取って――一気に吹き消した。
闇。
暗転の後、月明かりが室内にわずかな陰影を作り出す。――と。ローソクを持った人物に異変が生じる。
その人物を取り巻く闇が、瞬間払われた。口を開く。そこから紡がれた言葉は――。
「私は――あなたに殺された」
第九十一夜 怪宴之壱。
真如堂から連絡が来てから二週間になる。
久々に会って一杯やろう、と言われた。ついては余興――というか肴に『百物語をやるから各自考えておくように』と付け加えられた。余りないんだがなぁ……とぼやきながらも、寺武是典は二年ぶり位に揃う友人達を想い、胸を高鳴らせる。
最近は皆、仕事に忙殺されて中々会う時間が取れない。しかも今回は、話にだけ聞いていた真如堂の奥さんにも会える。挨拶もろくにしていなかった為、お土産の一つも持っていかねばなるまい。他にも、初めて会う人も何人か誘うらしい。
真如堂を中心として、思わぬ親交の広さが分かった事がある。友人の兄弟の知人も真如堂と知り合いだった――そんな事もあった。
未だに彼の顔の広さには果てが見えない。ひょっとしたら、気付いてないだけで自分の友人の中にも真如堂をよく知っている人がいるかもしれない――そう思うと寺武の心は弾む。基本的に人付き合いが好きなのである。
人間観察、などと意地悪な事を言うつもりは無いが、人と人との繋がりが織り成す“人生”というタペストリーは、寺武の心を楽しませる重大な要因であった。
そしていよいよ今夜。
真如堂が副住職を務める相楽坊に集まる事が決まっている。怪談や百物語といった物に縁が無い寺武ではあったが、そこはサービス精神の塊と呼ばれた男。今夜話す内容を何度もチェックした上で出かける準備を進める。
他のメンバーの話と被らないよう祈りつつ。
第九十二夜 怪宴之弐。
角倉から久しぶりに会おう、と電話があったのは、深夜近くの事だった。仕事で疲れた頭を奮い立たせ、三日星限は携帯を耳に当てていた。何やら合わせたい人達がいるらしい。
その中の一人に“何とか堂”という人物がいて、その人物は角倉と三日星の共通の知人である坂田和慎司とも友人であるらしい。坂田和も呼ぶことにしているから、と角倉が告げた。
角倉と坂田和とは、同じ高校で出会った。
角倉は妙に軽い性格で人懐っこい。反対に坂田和は生真面目な性格をしていた。
喧嘩っ早い三日星と坂田和が衝突すると、いつも角倉がいつの間にか場を治める、そんな関係だった。かと言って三日星と坂田和が特別仲が悪いわけではない。何処と無く似た雰囲気を持っている。
だからこそ――食い違った時はとことん合わないが、かみ合った時は見事なコンビネーションを発揮した。懐かしき高校時代を思い出し、ふっと頬が緩む。三人が顔を揃えるのはどれ位ぶりだろうか。成人式の時だとしたら――ざっと四〜五年ぶりになる。
更によくよく聞いてみると、件の“何とか堂”氏の妻は、彼らと同級生だった草壁アケビであるらしい。そちらとは更に高校時代ぶりという事になる。どちらにせよ、懐かしい顔だ。それはそれで楽しみだったのだが……。
一つネックがある。
呑み会に併せて『百物語』に挑戦すると言うのだ。そちらの方面に対して、最近は特に興味の無い三日星にとっては、なんとも居心地の悪そうな席である。しかし、呼んでもらった以上何も話がない、では申し訳ない。
ふっと坂田和の顔が浮かんだ。高校時代、彼と盛り上がったネタが、そういえばあった。
「学校の七不思議」
これでいこう、と三日星は決めた。
第九十三夜 怪宴之参。
角倉からの電話を終えた直後、寺武からも同じ内容の連絡があった。
妙な事があるものだ、と坂田和は苦笑する。角倉とは高校時代、そして寺武とは大学に入ってから知り合った。角倉とは数年ぶりの再開になるが、寺武とは年に四〜五回は会っている。今回は大人数での宴会らしい。
集合場所は相楽坊という寺の本堂。主催はその寺の副住職をしている真如堂幸貫。同じく寺坊に住み、住職候補になっている坂田和も既知を得ていた。たまたま住職である父が用事で寺の会に出席できなかったため、代わりに坂田和が顔を出したことがある。そこで真如堂と出会った。
聞けば歳も近く、既に副住職としてこういった会合にも何度も出ているらしい。
――何とも御立派な事で――。
最初は呆れた。似た立場とはいえ、坂田和はまだ寺の庶務について手を出す気は無かった。
父が元気である事を幸いに、怪談雑誌の新米記者……のような事をしていた。フリーライターと言えば聞こえはいいかもしれないが、その実、坂田和はまだ大した記事を物していない。やりたい事をやれ、という父の言葉に甘えているのは重々承知している。
しかし、真面目に勉強して真面目に進学して真面目に生きるには、坂田和はどうやら向いていないらしかった。
高校時代は成績もそこそこ良く、特に苦手もなし。何事も平均並みにこなして来た彼だったが、大学で自分の行き先を見失った。ただ大学に入る為だけに過ごして来た何年かが重くのしかかる。自分は本来“不真面目な人間であった”と確信してしまったのである。
大学の授業すら皆勤である、そんな坂田和にとっての不真面目さ――。それは「物事の一面しか知らずに生きる事」だった。自分の範疇を越える事柄には目を閉じ耳を塞ぎ、疑問さえ持たずに生きる。そんなそれまでの人生に嫌気が差した。
何故勉強して何故進学して、どう生きるのか。そんな事は一度も考えてこなかった。これからも考えないのではないか、そんな不安に襲われる。その結果が――怪談だった。
「目に見えない部分」の「何か」を感じたい、そういう気持ちもあった。同時に、人生の不安を覆い隠すほどの恐怖、それを感じてみたかった。高校時代の坂田和を知る者が今の姿を見たら恐らく首をかしげる事だろう。
現実主義の塊だった男が妄執に取り付かれた、そんな印象を受けるかもしれない。久しぶりに会う角倉や三日星もそう思うだろう。
宴の日には『百物語』を開催するらしい。
――望む所だ――。
更なる恐怖を求めて坂田和は相楽寺の境内に足を入れた。
第九十四夜 怪宴之四。
真如堂からの誘いに大国祐輔は二つ返事で了承した。
祐輔は真如堂の大学時代の後輩に当たる。過去、何度か奇妙な出来事に巻き込まれては相談に行った。
一度は「背中にぶつくさ言う女」が張り付いた時。
または「生きているとは考えにくいストーカー」に憑きまとわれた時、等等。
思えば女運が芳しくないのかもしれない。飼い犬に避けられた事もあったが。そんな時真如堂に会いに行くと決まって困った顔で迎えられる。決して拒絶を示すものではないが、必ず釘を刺される。
「俺では力になれんよ」
柔らかい物腰で話だけは聞いてくれる。すると不思議に気が楽になるものだから、祐輔はいつも満足して帰る。だからこそ、いつもの恩返しに、と、真如堂から呼ばれたときは何をおいても駆けつける事にしていた。
今回の呼び出しは宴会と『百物語』。
人数が少ないと百も話が続かない、ついてはいつぞやの君の体験談を話してはくれまいか――そういう要請だった。あれだけ幽霊だとか霊感だとか言ったものに無関心(に見える)な真如堂が、何故『百物語』なんてものに携わるのか。
奇異に思った祐輔ではあったが、相撲や落語といった日本の文化が好きな真如堂の事、これも講談の趣味であろう、と深くは追求しなかった。
そしていよいよ宴は始まった。真如堂の話から始まり、ゆっくりと物語りは紡がれていく。この場のメンバーの中で、祐輔が知っているのは、真如堂を除けばその妻、アケビだけである。
アケビは祐輔より一つ年下で妙に馬が合った。男女間の友情が成り立つ、と教わったのは彼女のお陰だと思う。妹のように可愛がり、兄のように慕われた。それはアケビが結婚した今でも変わらない。
むしろ、その繋がりは、真如堂と言う楔のお陰で強くなったように思う。兄のように慕う真如堂と妹のように大切なアケビ。この二人に出会えた喜びが、いつの間にか湧き上がっていた。
吹き消された八本のローソクをよそに、持参したブランデーをあおる。
次は、とおもむろにアケビが話し出した。高校時代の怪談らしい。ゆっくりと話すその体験は、懐かしさを感じさせる。丁度、祐輔が十代の頃見た『学校の怪談』という映画を髣髴とさせた。
そして、九本目のローソクが、そっと吹き消される。
第九十五夜 怪宴之五。
角倉からの連絡を受けた時、戸田弓涼子は言葉に詰まった。
小中高と、十八までの殆どを同じ教室で過ごした角倉とは、昨年末、恩師の葬儀の席で再会した所だった。五十代という若さでなくなった、小学校時代の教師を偲んで同級生が集まる。叱られて怖いと思ったときもあったが、卒業式の日に流す涙を隠そうともせず卒業証書を渡してくれる姿が忘れられない。
本当にいい先生だった――誰もがそう言って焼香を供える。角倉が、今度結婚するんだ、先生に生きてるうちに報告したかったな、と呟いていた姿を思い出す。
その角倉も妻を亡くした、という報せが届いたのは、それからわずか半月のうちだった。
「……ちょっとは落ち着いた?」
戸惑う涼子の言葉に、昔の調子で角倉が答える。
「をう、ぼちぼちなぁ」
言葉は少ないながらも、お互いの表情が目に浮かぶようだ。角倉の家にお悔やみに言った時とは随分違う。多少元気が戻ったのだろう。
しかし、そうは言ってもまだ半年も経っていない。空元気で無理をしなければいいけど、と心配になった。角倉によると、今度呑み会をするらしい。
同じ高校の坂田和と三日星も来るそうだ。聞く所によると、相楽寺というお寺の副住職さんが角倉を元気付けようと計画したらしい。
そして『百物語』。
意図は知れないが――寺の本堂というロケーションにはぴったり合っている。
最愛の人と死に別れた角倉の前で怪談など不謹慎な気もするが――角倉本人の希望でもあるという。涼子は参加を決めた。昔から不思議な話には縁があった。
怪談ならお手の物である。
第九十六夜 怪宴之六。
真如堂からその話を持ちかけられた時、富士実研作は直ぐに協力を約束した。
真如堂と富士実は中学校で出会った。当時から既に実家である寺の跡継ぎになることを選び取っていた真如堂に、研作は驚いたものだ。当時の研作は、漫画で描かれる姿に憧れる、バスケに夢中な少年に過ぎなかった。
高校で進路が分かれ、その後も進む道は異なったが、互いの家を行き来する関係は未だに続いている。それは、研作の妹の供養も兼ねての事であった。
研作の妹は中学時代に亡くなった。名はコヨリ。明るいが少々ワガママな子だった。中学では吹奏楽の練習に励み、夏には大きな大会に出場予定だったが――儚いものである。
少し年の離れた妹は、兄の友人である真如堂が好きだといっていた。中学生から見て五つも年上の人間。男の研作からしてみれば理解しがたいものがあったが、女性から見れば大人の男として魅力的に映ったのだろう。
男より女性の方が精神の成熟が早い、そんな事を感じたなぁ、と研作は思い返す。妹の死から既に八年。今でも信じたくない思いで一杯だ。
そこに囁かれた真如堂の声。
「百物語で呼び出せないだろうか」
研作は耳を疑った。この手の話には、どちらかと言うと否定的な真如堂が持ちかけてきた。今までの彼を知っているだけに、妙に「出来るのではないか、出来てしまうのではないか」と、そう思わずにはいられなかった。
「何をすればいい?」
そして研作は、三十三本目のローソクを吹き終えた。
第九十七夜 怪宴之七。
「阿呆、お前、一生俺を暗くさせる気か!」
真如堂に肩をつかまれ、角倉薫はハッと息を詰める。
頭がぼぅっと痺れていた。足元に目を落とし、愕然とする。下はレンガの歩道。道行く人が親指の爪くらいの大きさに見える。いつの間にこんな所に来てしまったのか。
「……高っ! 怖っ!」
いつもの調子でおどけて見せた。真如堂の表情はまだ硬い。
「……スンマセン」
真面目な表情をつくって頭を下げる。漸く真如堂の顔が緊張を解いたようだった。
減っていくローソクを眺めながら、半年ほど前の事を角倉は思い出していた。あの時真如堂に止めてもらえてなかったら、今この場に自分はいなかった。久々に会う人間もいる。
懐かしい顔がローソクの揺らめきに、一瞬見慣れぬ顔に変わる。見知らぬ人から紡がれる不可思議な話。それを耳にするだけで角倉の心は幻影に包まれる。
――死者との邂逅。
それを果たした、と思われる物語の群れ。それが真実であろうと無かろうと――角倉にとってはどちらでも構わない。何と言っても、今日は無理を押して真如堂に開催してもらったこの会。何があろうと成功させたい。
さて次は、と真如堂がメンバーを見渡す。
「ある先輩の話なんですが……」
角倉が手を上げた。
やがて、五十四本目のローソクが、角倉の手でかき消された。
第九十八夜 怪宴之八。
闇が強まり始めた。
アケビが幸貫から最初に話を聞いたとき、それは止めた方が良い、と即答した。出来る、出来ない、では無い。“やるべきではないのだ”と、そう強く進言した。
確かにここ最近、身近に「それ」を感じる事はあった。だが、だからと言って……いや、だからこそするべきではないのだ、と思う。思っていた。しかし――。
「それ」をはっきり耳にしたとき諦めた。「それ」は日々強くなりつつある。幸貫の話を信じるなら……時間は余り無いはずだ。そして。
アケビもまた覚悟を決めてその時を待った。
「……その鏡は割れてしまって、もう無いのだそうです」
話し終えてアケビがろうそくに手を伸ばす。六十三本目のローソクがその役割を終えた。
第九十九夜 怪宴之九。
――思ったより時間が掛かった――。
真如堂は内心、汗を拭う。既に心の中は重苦しい汗で一杯のようだ。予定通りに……と言いたい所だったが、一人欠席者が出た。
OLの寺川叶芽だ。真如堂や富士実とクラスメイトだった。那賀澤瞳の為にも、何とか来て、「発端の話」をして欲しかったのだが、仕事が入ったらしい。
それも怪しいな、と真如堂は思う。元々この話に乗り気ではなかった。それ以前に、那賀澤に真如堂を紹介した時も、「後はよろしく」といって早々に立ち去った時も素早かった。止める間もなく姿は消えうせていた。
今日仮に来ていたとしても……最後まで持たなかったかもしれないな、と苦笑する。そう。もう直ぐ最後だ。この後どうなるかは分からない。それでも。何かしら反応はあるはずだ。
このままでは――とアケビに目をやる。寺川が今も元気なのは、彼女のその逃げ足にあるのだろう、と思う。アケビを守る為にも……成功させなくてはならない。
九十九本目のローソクが、闇に身を溶かす。
そして真如堂は語り始めた。
那賀澤瞳という女性がいた。その女性が一人暮らしをしていると、ある日を境に、部屋で妙な声が聞こえるようになった。恐らく隣の人だろう、そう結論付けた彼女は、トラブルになるのが嫌で、我慢する事に決めた。
ところが声の主だと思っていた隣から苦情が来た。
「夜中にブツブツうるせぇぞ!」
この時初めて、その声に恐怖を感じたらしい。その建物は一つの階に二部屋しかない。
――相手じゃないのならこの声はどこから……?
途方にくれていると、管理人からも文句を言われた。
その時に、同じアパートに住む寺川という女性と知り合う事になる。那賀澤は寺川に相談してみた。顔をしかめつつ、寺川はその部屋を訪ねる約束をした。寺川はその部屋に入ると、直ぐに那賀澤を連れて外へ飛び出したらしい。
何故なら、寺川にはその声に聞き覚えがあったから。二人はコンビニに寄ると大量の酒を買い込んだそうだ。寺川の部屋で呑み明かすつもりだったらしい。そして寺川は那賀澤に事情を話した。
その声はしきりに――「とらさべら?」と言っていたらしい。
第百夜 怪宴之後。
「私は――あなたに殺された」
不自然に髪の毛が増えた真如堂の口から、女性のものと思しき声が洩れ出た。
「……瞳……!」
角倉が目を見開く。真如堂によって指をさされた人物――。
富士実研作が狼狽した。
「ま、待て、待ってくれ! 俺が……何? 殺した? 誰を……?」
角倉の暗い目が研作を捉える。怒りに打ち震え、必死に立ち上がるのを我慢しているように見受けられる。他のメンバーも一斉に研作に目を向け――。絶叫した。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……!」
研作は皆の視線を追う。己を指したと思っていた指は、研作の少し上、虚空を指していた。ゆっくり振り返る。
近すぎて分からなかったのだ、と後に研作は振り返っている。彼の目の前には――一人の少女がいた。アケビに呼びかけられ、少しずつ研作が他のメンバーに近付いていく。近付くに連れて……研作の目に、はっきりとその姿が映った。
「コヨリ……」
真如堂の体から闇よりもなお暗い塊が萌え出でる。
「瞳……」
角倉の目からはぽろぽろと涙があふれていた。塊は次第に形を整えていった。うっすらと青白い光に包まれている。生前――那賀澤瞳であったものが、キッとコヨリであったものを睨みつけた。
『と ら さ べ ら』
那賀澤の口から発されたその音は、真っ直ぐコヨリに届いた。コヨリの顔が苦痛に歪んでいく。短い絶叫の後――コヨリと那賀澤の姿はその場から消えていた。
「――南無阿弥陀仏」
意識を取り戻した真如堂が呟く。ガランとした本堂に暗闇が戻る。後には角倉と研作の嗚咽だけが残った。
第百一夜 策太郎と虎三郎。
むかしむかし、出雲の国に策太郎と虎三郎と言う兄弟がいた。
兄の策太郎はやんちゃで体力自慢だった。心根の真っ直ぐな兄は悪太郎と呼ばれ子供達の憧れだった。弟の虎三郎は兄思いの心優しい子供だった。大人しくて争いごとの嫌いな弟はハナタレ虎と呼ばれていた。
ある年、二人の住む村を大きな洪水が襲った。兄の策太郎は村人を助ける為、先頭に立って川付近を回った。弟の虎三郎は、近くを流されていく少年を見て、思わず川へ飛び込んだ。流れは速く、一瞬にして二人の姿は消えた。
その頃、策太郎は別の子供を救って助けた所だった。虎三郎達が流されていくのを見たという大人がいた。
「虎三郎を助けようとして子供が流されていった」
その大人は途中からしか見ていなかったので、まさか虎三郎が飛び込んでまで人助けをするとは想像も出来なかったのだ。虎三郎のせいで子供が死んだ事にされた。
策太郎は泣いた。泣いて泣いて、声がかれても叫び続けた。
「とらさべろぉ〜とらしゃべらう〜」
以来、この村で「とらさべら」と呼ぶと「あ〜い」と答えが返ってくると言う噂が生まれた。
後年、この噂に一つ加わった要素がある。
「とらさべら」とは「共にさぶらう」つまり「共に行きましょう」という意味である、と。「とらさべら?」と聞かれ、同意すると、一緒に「行かなければらなくなる」のだそうだ。