第9話:旅商人の遭難
時間が経つのは、泥をこねている時と寝ている時が一番早い。
あの日、偶然見つけた岩芋の芽がハニ・ワンの魔力で急成長してから、半年が過ぎた。
私の「引きこもりライフ」は、順調そのものだった。
洞窟はもはや、ただの穴倉ではない。
ハニ・ワンと共に拡張工事を繰り返し、今では「地下要塞」と呼んでも過言ではない規模になっている。
居住スペース、工房、食料庫、そして自慢の「バイオトイレ」。
入り口の防壁はさらに厚みを増し、多重構造にすることで断熱性を高め、外からの侵入者を完全にシャットアウトしている。
ただ一つ、深刻な問題があるとすれば、食卓の「色」だ。
今日のメニューも、蒸した岩芋。
昨日のメニューは、焼き岩芋。
一昨日は、岩芋の練り団子。
その前は、岩芋の薄切り干し。
ハニ・ワンの魔力を帯びた土壌のおかげで、岩芋だけは爆発的に増えた。
味は悪くない。むしろ甘くてホクホクしていて美味しい。
栄養価も高いし、マナの回復効率も良い。
サバイバル食としては百点満点だ。
でも、さすがに半年間、来る日も来る日も茶色い芋を見つめ続けるというのは、精神的にくるものがある。
人間の尊厳に関わる問題だ。
たまにハニ・ワンが捕まえてくるサンドラットの干し肉が、唯一の「ご馳走」という状況。
これでは、私の体が芋になってしまいそうだ。
「……はぁ」
私はスプーンで、マッシュポテト状になった岩芋を突きながら、深い溜息をついた。
贅沢な悩みだとはわかっている。
外は死の世界。
飢えずに済むだけで奇跡なのだ。
でも、私は思い出してしまう。
おばあちゃんが作ってくれた、あの黄金色のスープを。
太陽の味がする、甘くてとろけるようなカボチャのポタージュを。
鮮やかなオレンジ色。
クリーミーな舌触り。
半年前にギルドを出た時、ポケットに入っていた一粒の種。
あれはまだ、大切に小瓶に入れて保管してある。
たった一粒しかないのだ。失敗は許されない。
もっと完璧な温室環境が整うまで、植える勇気が出なかった。
もし枯れてしまったら、私の夢もそこで終わってしまうから。
――天国だ。
芋ばかりだけど、ここが私の終の棲家でいい。
もう人間社会になんて、死んでも戻るものか。
そう固く心に誓っていた、ある嵐の日のことだった。
ゴオォォォォォ……ッ!!
外は猛吹雪だった。
クレイ高原の冬は厳しい。
雨季が過ぎると、今度は凍てつくような暴風雪が吹き荒れる。
視界はゼロ。気温は氷点下を遥かに下回る。
でも、壁の中はポカポカだ。
ハニ・ワンが魔力炉代わりになっているし、発酵熱を利用した床暖房システムも稼働している。
私はぬくぬくと工房の作業台に向かい、新しい粘土板に設計図を引いていた。
次に作りたいのは「自動芋洗い機」だ。
冷たい水で芋の泥を落とす作業にも飽きてきたからね。
『……マスター』
不意に、脳内にハニ・ワンの思念が届いた。
警報だ。
切迫した「赤」の感情。
ハニ・ワンが作業の手を止め、入り口の方角を凝視している。
「どうしたの? また北の熊が壁をガリガリしに来た?」
私は顔を上げずに答える。
あの「岩砕き熊」もしつこいけど、私の作った「多重積層装甲壁」は破れない。
放っておけばいい。
『違う。……微弱な生体反応。人間』
ピタリ、と私の手が止まった。
ヘラがカランと音を立てて机に落ちる。
「……人間?」
背筋が凍った。
一番聞きたくない単語だ。
人間=敵。
私の脳内では、その方程式がガッチリと組み上がっている。
ギルドの追っ手か?
それとも、こんな辺境をうろつく盗賊か?
どちらにせよ、ろくな連中じゃない。
見つかったら、また馬鹿にされる。利用される。あるいは殺される。
「無視しよう。ここには誰もいない。ただの岩壁だと思わせておけば、そのうち通り過ぎるよ」
私は震える手で作業に戻ろうとした。
けれど、ハニ・ワンの思念は消えない。
むしろ、より強く、悲痛な色を帯びて訴えかけてくる。
『死にかかってる。……鼓動、微弱。体温、低下』
ハニ・ワンの高性能センサーが、外の状況をリアルタイムで伝えてくる。
壁の向こう、雪の中で、誰かが倒れている。
命の灯火が、今にも消えそうだ。
「……うッ」
私は唇を噛んだ。
ハニ・ワンは優しい。
私が彼に与えた「守る」という概念は、私だけでなく、弱きもの全てに向けられているのかもしれない。
彼が、泥だらけだった私を助けてくれたように。
見捨てるのか?
ここで私が「知らない」と言えば、その人間は間違いなく凍死する。
それは殺人と同じじゃないか?
でも、もし助けて、その人間が私を害したら?
また「役立たず」と罵られたら?
私の大切な城を、奪われたら?
葛藤で胃が痛くなる。
平和な半年間で忘れていたストレスが、一気に押し寄せてくる。
『僕がいる』
ハニ・ワンが、私の震える肩に手を置いた。
硬くて、温かい、陶器の手。
『貴方が嫌なら、追い出す。貴方が怖がるなら、砕く。……でも、今は助けたい』
ハニ・ワンは、私よりも人間らしい心を持っているのかもしれない。
こんな泥人形に諭されるなんて。
私は自分の狭量さが恥ずかしくなった。
「……はぁー」
私は盛大なため息をついた。
負けた。
私の良心に、ではない。
ハニ・ワンの真っ直ぐな瞳(穴)に負けたのだ。
「……わかったよ。回収してきて。でも、変な動きをしたら即座に拘束してね。絶対に、私の後ろには通さないで」
ハニ・ワンが嬉しそうに頷くと、彼は壁の一部を音もなく液状化させ、吹雪の中へと飛び出していった。
ビューオォォォッ!
一瞬だけ開いた穴から、冷気が雪崩れ込んでくる。
寒い。痛い。
外の世界は地獄だ。
こんな中を生身で歩くなんて、正気の沙汰じゃない。
数分後。
ハニ・ワンが抱えて戻ってきたのは、雪だるまのように凍りついた男だった。
ボロボロの毛皮のコート。
背中には、自分よりも大きな荷物を背負ったまま。
顔色は青を通り越して土気色で、髭には氷柱が下がっている。
生きているのが不思議なくらいだ。
「うわぁ……ガチガチだ」
とりあえず、焚き火のそばに寝かせる。
ハニ・ワンが男の濡れたコートを剥ぎ取り、温かい毛布(岩芋の蔓の繊維を編んで作った私の自信作)を掛ける。
私は少し離れた場所から、工房の柱の陰に隠れて様子を伺っていた。
武器は持っていないようだ。
商人のような格好をしている。
ギルドの魔導士じゃないことに少し安心する。
温かい岩芋のスープ(また芋だ、ごめんね)を少し飲ませると、男の喉がゴクリと動いた。
そして。
「……う、あ……」
男が目を開けた。
焦点が定まらない目で天井を見上げ、次に焚き火を見つめ、最後に目の前に仁王立ちしているハニ・ワンを見た。
「ヒッ……!?」
男が飛び起きて、後ずさる。
無理もない。
身長2メートルの、赤黒い陶器の鎧を着た巨人が目の前にいるのだ。
魔王の眷属か何かだと思ったに違いない。
「お、お助け……! 荷物は全部置いていきます! 命だけは……!」
男が土下座の姿勢で震えている。
ハニ・ワンが困ったように私の方を振り返った。
『どうしよう、怖がらせちゃった』と言いたげだ。
私は柱の陰から、恐る恐る声をかけた。
「……あ、あの」
半年ぶりの対人会話。
喉が張り付いて、うまく声が出ない。
コミュ障が悪化している。
心臓が口から飛び出しそうだ。
「た、食べたり、しない……です。そいつは、私の……とも、だち……だから」
男が顔を上げる。
薄暗い工房の奥に立つ、小柄な少女。
泥だらけの作業着に、ボサボサの髪。
手にはスコップ。
傍から見れば、私の方も十分に不審者かもしれない。
「に、人間……? ここは、魔物の巣では……?」
「ち、違います。私の、家……です」
私は勇気を振り絞って、焚き火のそばまで歩み寄った。
男はまだハニ・ワンを警戒しているけれど、私を見て少しだけ安堵したようだった。
「助けて……いただいたのですか? この、ゴーレムと、お嬢さんが?」
「……うん。外で、死にかけてたから」
男は涙目になって、何度も頭を下げた。
オットーと名乗ったその男は、遠方の国から来た旅商人だった。
話を聞くと、大陸の東側にある「ガイスト帝国」という国が戦争を始め、無理やり兵士として徴収されそうになったため、命からがら逃げ出してきたのだと言う。
地図もなしにクレイ高原に迷い込み、遭難したらしい。
「いやぁ、本当に死ぬかと思いました……。まさか、こんな荒野の真ん中に、こんな温かい場所があるなんて」
オットーは私の差し出した岩芋のスープを啜りながら、感嘆の声を上げた。
「それに、このスープ! 見た目は素朴ですが、とろみがあって体が芯から温まります。塩気もちょうどいい。……これは、ロックポテトですか? こんなに甘い品種は初めて食べました」
褒められた。
ただの芋だけど、褒められた。
岩塩を少し加えただけの簡素なものだが、極限状態の人間にはご馳走なのだろう。
それだけで、少しだけ彼に対する警戒心が薄れる。
悪い人じゃなさそうだ。芋の味に感謝できる人に、悪人はいない(私の新しい持論)。
オットーは「命の恩人にお礼がしたい」と言って、背負っていた荷物を広げ始めた。
中から出てきたのは、見たこともない道具の数々だった。
「私は主に、珍しい種子や農具を扱う商人をしておりましてね。これは帝国の最新式剪定バサミ、こっちは東方の香辛料、それから……」
私の目が釘付けになった。
彼が取り出した、麻袋に入った大量の種。
その袋の口から、平べったい、白い種が覗いている。
「そ、それ……なに?」
思わず身を乗り出す。
見覚えがある。
私のポケットにある小瓶の中の、たった一粒の種と同じ形。
オットーは商人の顔になって、ニカリと笑った。
「お目が高い。これは『西方カボチャ』の種です。甘みが強く、保存も効く素晴らしい野菜なんですが……この辺りの土地じゃ育たないらしくて、どこに行っても売れ残ってしまいましてね」
ドクン。
心臓が跳ねた。
カボチャ。
夢にまで見た、カボチャ。
しかも、袋いっぱいにある。
一粒だけなら失敗は許されない。
でも、これだけの量があれば。
実験もできる。
失敗もできる。
そして何より、あの夢の「カボチャ畑」が、現実のものになるかもしれない。
喉から手が出るほど欲しい。
芋だけの生活とおさらばできるチャンスが、目の前にある。
あの黄金色のスープが、私の食卓に並ぶ未来が見える。
「……でも、私、お金ない」
現実は非情だ。
銅貨一枚持っていない。
ここは資本主義の及ばない地下帝国なのだ。
芋なら山ほどあるけれど、通貨としては通用しないだろう。
オットーは私の絶望的な表情を見て、何かを察したように頷いた。
「お金なんていりませんよ。命を救っていただいたのですから。……それに、どうやらお嬢さんは、この種の値打ちをわかってくれる人のようだ」
彼は袋ごと、種を私に差し出した。
「持っていってください。私のような素人が持っているより、この温かい場所で育ててもらった方が、種も喜ぶでしょう」
「い、いいの……?」
「ええ。その代わりと言ってはなんですが……この吹雪が止むまで、ここに置いてもらえませんか? それと、もし可能なら私の壊れた橇を修理していただけると助かるのですが」
オットーは苦笑いしながら、ボロボロになった自分の荷車を指差した。
車輪が外れ、軸が折れている。
これでは雪の中を進むのは不可能だ。
私はハニ・ワンと顔を見合わせた。
修理?
お安い御用だ。
土魔法の本領発揮だ。
「……わかった。商談成立、だね」
私は種が入った重たい袋を受け取った。
ずっしりとした重み。
それは、未来の希望の重みだった。
嬉しくて、涙が出そうになるのを必死でこらえた。
それからの数日間、洞窟の中は少しだけ賑やかだった。
私はオットーの橇を修理した。
ただ直すだけじゃつまらない。
ハニ・ワンの装甲と同じ技術で、橇の底面をセラミックコーティングし、雪との摩擦係数を極限まで減らした。
さらに、荷台のバランスを魔力計算で最適化し、少しの力で軽く引けるように改良を加えた。
数日後。
嵐が過ぎ去った朝、オットーは旅立っていった。
ピカピカに生まれ変わった特製の「セラミック橇」を引いて。
その橇は、驚くほど軽く、岩場でも雪の上でも滑らかに進む最高傑作になってしまった。
「ありがとう、テラ様! このご恩は忘れません! いつかまた、珍しい種を持ってきますからね!」
オットーは大きく手を振って、白銀の世界へと消えていった。
私は壁の隙間から、その背中が見えなくなるまで見送った。
また一人になった。
静寂が戻ってくる。
でも、もう寂しくなかった。
私の手の中には、袋いっぱいのカボチャの種がある。
そして隣には、頼れる相棒がいる。
「ハニ・ワン、忙しくなるよ」
私はニヤリと笑った。
芋地獄からの脱出。
カボチャ天国への第一歩。
明日の種まきが楽しみで仕方なかった。
久しぶりに人間の温かさに触れたけれど、やっぱり私は、土いじりをしている時が一番幸せだ。




