第8話:荒野の小さな芽
お腹の虫というのは、どうしてこうも空気を読まないのだろう。
ハニ・ワンとの感動的な契約の儀式を終え、涙を拭って「さあ、未来へ!」とカッコつけた直後に、私の腹部は雷鳴のような音を轟かせた。
雰囲気もへったくれもない。
でも、これが現実だ。
精神がいかに満たされようとも、胃袋は物理的な質量を求めている。
「……あー、お腹すいた」
私は洞窟の隅に置いてあった、なけなしの食料袋をひっくり返した。
ポロリ、と転がり落ちてきたのは、昨日採取した謎の木の実が二つだけ。
サンドラットの肉は、昨日の夜と今朝で食べきってしまった。
そもそも、あの鼠の肉は硬くて筋っぽくて、生きるための燃料補給という感じだったけれど、今の私にはそれすらご馳走に思える。
木の実を拾い上げる。
シワシワで、色もどす黒い。
鑑定魔法(といっても、簡易的な毒見レベルだけど)にかけてみる。
「……微弱な毒性あり。食べるとお腹を下す可能性大」
溜息が出た。
下痢になれば脱水症状で死ぬ。
つまり、これは食料ではなく、ロシアンルーレットの弾丸だ。
そっと木の実を戻す。
膝を抱えて座り込むと、急激な虚無感が襲ってきた。
壁は作った。
水も確保した。
最強の相棒も手に入れた。
トイレ問題も解決した。
なのに、このままでは餓死エンドだ。
なんという皮肉。
魔導書には「偉大なる魔導師は霞を食って生きる」なんて書いてあったけど、あれは絶対に嘘だ。
魔力を使えば使うほど、カロリーを消費する。
今の私は、ガス欠寸前の高級車みたいなものだ。
「ハニ・ワン……私、もう駄目かも」
冗談半分、本気半分で弱音を吐くと、少し離れた場所にいたハニ・ワンが、ビクリと反応した。
彼は今、洞窟の奥にある「循環システム(通称:ハニ・ツー設置場所)」の点検をしてくれていたはずだ。
カツン、カツン、カツン。
硬質な足音が近づいてくる。
ハニ・ワンが私の前にやってきた。
その赤褐色の装甲が、入り口からの木漏れ日を反射して鈍く光る。
彼は私の顔を覗き込み、それから自分の背中に隠していた手を、パッと差し出した。
何かを握っている。
また泥団子だろうか、それとも変な石ころだろうか。
「……ん?」
彼が開いた手の中にあったのは、泥だった。
でも、ただの泥じゃない。
黒々として、しっとりと水分を含んだ、あの「特製腐葉土」だ。
そして、その真ん中に。
ちょこんと、小さな緑色が顔を出していた。
「……芽?」
双葉だ。
私の小指の爪よりも小さな、産声を上げたばかりの植物の芽。
ハニ・ワンは得意げに(表情筋はないけれど、雰囲気でわかる)その泥を私の方へ突き出した。
見て、これ。すごいでしょ。
そんな声が聞こえてきそうだ。
「どこで見つけたの、これ」
問いかけると、彼は親指で自分の背後――つまり、トイレエリアを指差した。
なるほど。
昨日、ハニ・ワンが壁を作るために外から運んできた土の中に、たまたま野草の種が混じっていたのだろう。
それが、ハニ・ツー(処理用分体)が作り出した超栄養土壌の恩恵を受けて、一晩で発芽したのだ。
でも。
それにしては、成長が早すぎないか?
クレイ高原は、死の大地だ。
マナが枯渇し、土地が痩せ細っているからこそ、植物が育たずに荒野になっている。
たとえ肥料があったとしても、こんなに元気な緑色をしているのはおかしい。
生命力に溢れすぎている。
「……ちょっと、見せて」
私はハニ・ワンの手から、その泥の塊を受け取った。
手のひらに乗せる。
温かい。
泥の温度だけじゃない。
この小さな双葉から、熱い脈動のようなものを感じる。
私は魔眼(魔力視)を発動させた。
瞳に魔力を集中させ、物質の構造を透かし見る。
――え、何これ。
息を呑んだ。
双葉の根元、土の中に張り巡らされた根っこが、光っていたのだ。
淡い金色の光。
それは、さっき私がハニ・ワンに「名前」を与えた時に発生した、あの契約の光と同じ波長だった。
「まさか……」
仮説が脳裏を駆け巡る。
ハニ・ワンは私の魔力で動いている。
そして、この土壌(肥料)を作ったのはハニ・ワン(の分体)だ。
つまり、この土には、私の魔力が濃厚に含まれている。
そこに、「Hani-One」という名前を与えられたことで固定化された、高密度の魔力循環が加わった。
ハニ・ワンがこの土に触れるたび、彼から溢れ出る余剰魔力が、肥料としての効果を爆発的にブーストさせていたとしたら?
土魔法とは、本来「操作」と「固定」の魔法だ。
でも、もしその本質が、物質的な変化だけでなく、生命エネルギーの「定着」にあるとしたら。
私は、とんでもない勘違いをしていたのかもしれない。
土魔法は地味な「土木工事」用の魔法なんかじゃない。
これは、「育成」の魔法だ。
枯れた大地に、無理やり命をねじ込んで定着させる、強引で慈愛に満ちた力。
「……試してみる価値は、あるかも」
ゴクリと生唾を飲み込む。
私はその泥の塊を、日当たりの良い地面に置いた。
そして、ハニ・ワンの手を取る。
「ハニ・ワン、私と一緒に、この芽に触れて。……魔力を流すんじゃなくて、貴方の体の中の『余り』を、お裾分けするイメージで」
ハニ・ワンはコクンと頷き、人差し指をそっと双葉の横に添えた。
私も、その反対側に指を添える。
私の指と、ハニ・ワンの陶器の指。
その間にある、小さな命。
意識を集中する。
名前のパスを通じて、ハニ・ワンの魔力炉と同期する。
ドクン、ドクン。
二つの心臓のリズムが重なる。
そこから溢れ出した金色の粒子が、土へと染み込んでいく。
瞬間。
ボッ!!
音がした。
燃える音じゃない。
細胞が爆発的に分裂する音だ。
見る見るうちに、双葉が震え出した。
茎が太くなる。
葉が増える。
グングンと背を伸ばし、私の膝丈くらいまで一気に成長する。
「うわわっ!?」
私は驚いて手を引っ込めた。
しかし成長は止まらない。
ツルが伸び、地面を這い、白い小さな花が咲いたかと思うと、すぐに散って、そこに緑色の実が膨らみ始めた。
早回しの映像を見ているみたいだ。
数秒、いや十数秒の出来事。
目の前には、青々とした葉を茂らせた、立派な植物が鎮座していた。
そして、その根元には、握り拳ほどの大きさの茶色い塊が、土から半分顔を出している。
静寂。
私とハニ・ワンは、顔を見合わせた。
ハニ・ワンの穴のような目が、まん丸に見開かれている気がする。
「……これ、芋?」
私は恐る恐る、その茶色い塊に触れた。
ゴツゴツしている。
『岩芋』だ。
荒野や岩場に自生する、非常に生命力の強い野草の一種。
普通なら、親指大に育つのに数年はかかるはずの代物だ。
それが、こんなサイズに。
引っこ抜いてみる。
ズボッ。
土の良い香りがした。
ずっしりとした重量感。
泥を払うと、薄皮の下に、瑞々しい中身が詰まっているのがわかる。
「……食べられる」
確信があった。
毒はない。
むしろ、私の魔力を吸って育ったこの芋は、最高のマナ回復薬でもあるはずだ。
「ハニ・ワン、火! 火をつけて!」
私は叫んだ。
ハニ・ワンが慌てて昨日の焚き火跡に駆け寄り、残り火をかき集めて薪をくべる。
火魔法が苦手な私でも、焚き火くらいは維持できる。
芋を洗う時間も惜しい。
泥がついたまま、焚き火の中に放り込む。
ワイルドだ。
でも、今の私には三ツ星レストランの調理法よりも、この直火焼きの方が魅力的だ。
パチパチという音と共に、香ばしい匂いが漂い始める。
土の匂いと、焦げた皮の匂い。
そして、甘く濃厚な澱粉の香り。
グゥゥゥゥ……。
本日二度目の腹の虫。
今度は期待に震える音だ。
「……もういいかな。熱っ、あちちっ!」
木の枝で芋を掻き出す。
真っ黒に焦げた塊。
それを、冷めた灰の上で転がし、手で割る。
パカッ。
湯気が立ち上った。
黒い皮の中からは、黄金色に輝くホクホクの中身が現れた。
――美しい。
宝石よりも綺麗だと思った。
生命の色だ。
フーフーと息を吹きかけ、熱々の欠片を口に放り込む。
「んむッ、はふッ、ふぅ……!」
口の中を火傷しそうになりながら、ハフハフと噛む。
カリッとした皮の香ばしさ。
その後に広がる、ねっとりとした甘み。
素材の味なんてレベルじゃない。
大地のエネルギーそのものを食べているような、濃厚な旨味。
「……おいしい」
涙が出そうだった。
いや、実際に一滴こぼれた。
ただの芋だ。
味付けもしていない、野生の芋。
なのに、今まで食べたどんな料理よりも美味しく感じる。
飲み込むと、胃の腑からじんわりと熱が広がっていく。
枯渇していたマナのタンクに、一滴ずつ水が注がれていくような感覚。
指先の痺れが消える。
視界が明るくなる。
「ハニ・ワン、これ、すごいよ……!」
私は残りの半分を、ハニ・ワンの方へ差し出した。
彼は食べられない。わかっている。
でも、共有したかった。
この喜びを。
この奇跡を。
ハニ・ワンは困ったように首を振り、それから私の手を押し戻した。
『全部食べて』というように。
そして、私の頭をポンポンと撫でる。
その仕草が、「よく育ったね」と孫を見るおじいちゃんのようで、私は笑ってしまった。
芋を完食し、満腹感に浸りながら、私は先ほどの抜け殻――急成長した岩芋の葉っぱを見つめた。
土魔法は、作れるんだ。
壁や武器だけじゃない。
食べ物を。
命を。
ギルドでは「生産性のない魔法」と笑われた。
攻撃力もなければ、派手さもない。
でも、違った。
土魔法こそが、全ての命の根源だったんだ。
私はポケットに手を突っ込んだ。
指先に触れる、硬くて平べったい種。
ギルドを出るときに持ってきた、たった一粒の「カボチャの種」。
大好きだったおばあちゃんが、「カボチャは太陽の味だよ」と言ってくれた、思い出の種。
これを植える場所を探していた。
どこか、平和で、静かな場所を。
でも、そんな場所はどこにもなかった。
だから。
作るしかないんだ。
「ねえ、ハニ・ワン」
私は立ち上がり、洞窟の奥、うっすらと光る苔が生えた広場を見渡した。
今はただの岩場だ。
でも、私には見える。
そこが一面、黄金色のカボチャ畑に変わる未来が。
「私、ここで農業やるよ」
引きこもりの魔導士が、農家になる。
おかしな話だ。
でも、今の私には、王宮魔導士になることよりも、立派なカボチャを育てることの方が、ずっと価値のある「偉業」に思えた。
ハニ・ワンが拳を突き上げた。
やる気満々だ。
どうやら彼にとっても、土いじりは本能的な喜びらしい。
「まずは土作りからだね。ハニ・ワン、貴方の『お腹』には頑張ってもらうよ?」
『任せて』
脳内に、頼もしい声が響く。
外の世界は、戦争だの魔獣だので騒がしいらしい。
勝手にやっていればいい。
私はここで、泥にまみれて、芋を食って、カボチャを育てる。
誰にも邪魔されない、最高の楽園を築くのだ。
小さな野草の芽が教えてくれた可能性。
それは、絶望的な荒野に落ちた、最初の一滴の希望だった。




