第7話:最初の「名前」
目覚めの瞬間、私の頬に触れていたのは、硬質で温かな「頼もしさ」だった。
昨晩、私が命がけの実験で焼き固めた、ハニ・ワンの胸部装甲。
素焼き特有の、ザラリとした少し乾いた感触。
けれど、その奥には暖炉の残り火のような優しい熱が蓄えられている。
「……ん、ぅ」
私はハニ・ワンの腕の中から這い出した。
寝ぼけ眼を擦る。
洞窟の中は静かだ。
外の風の音も、分厚い泥壁のおかげで遠い子守唄のようにしか聞こえない。
私の体調は……悪くない。
昨日は魔力を使いすぎて気絶するように眠ったけれど、ハニ・ワンから伝わってくる熱のおかげか、体の節々の痛みも和らいでいる。
何より、空気が綺麗だ。
あの「循環システム(トイレ)」のおかげで、狭い密室なのに深呼吸したくなるほど澄んでいる。
「……おはよ、ハニ・ワン」
見上げると、彼は既に起きていた。
というか、眠らないんだった。
赤褐色の陶器の鎧を纏った彼は、じっと私を見下ろしている。
その瞳(穴)は、昨日よりも深く、理知的な光を宿しているように見えた。
私は伸びをして、ハニ・ワンの体を点検する。
ひび割れなし。
関節の駆動音、異常なし。
魔力のパス、良好。
完璧だ。
物理的なスペックとしては、私の最高傑作と言っていい。
でも。
「……何か、足りない気がする」
私は顎に手を当てて、腕組みをした。
技術屋としての勘が告げている。
器は完成した。
けれど、魂の定着が甘い。
今のハニ・ワンは、私の魔力を垂れ流しにして動いている状態だ。
言わば、私の生存本能と無意識化の命令を反射している鏡のようなもの。
自我が芽生え始めているとはいえ、それはまだ不安定な陽炎みたいなもので、私が魔力供給を断てば、霧散してしまうかもしれない。
それは嫌だ。
この子は道具じゃない。
私の友達で、家族で、相棒だ。
私がいなくなっても、この子にはこの子のままでいてほしい。
そのためには、何が必要か。
魔導書にはこう書いてある。
『使い魔契約には、血の盟約と真名が必要である』と。
血はいらない。痛いのは嫌だし。
でも、「名前」は。
「……そういえば、ちゃんとした儀式、してなかったね」
私はハニ・ワンの正面に座り直した。
ハニ・ワンはコテンと首を傾げる。
その仕草が、強固な鎧姿になっても変わらず愛らしい。
「ハニ・ワン」
私は呼びかけた。
それは今まで、ただの識別コードというか、仮の呼び名だった。
埴輪の1号だから、ハニ・ワン。
安直で、適当なネーミング。
でも、今の私にとって、この音の響きは特別な意味を持っている。
凍える夜に私を温めてくれた名前。
渇きから救ってくれた名前。
牙から守ってくれた名前。
これを、本当の「名前(真名)」として刻もう。
世界にたった一つの、貴方の座標として。
「ねえ、聞いて」
私は居住まいを正した。
少し気恥ずかしいけれど、ちゃんと伝えないと。
「貴方はもう、ただの泥人形じゃない。私の魔力で動くだけの道具でもない。……貴方は、私の大切な『ハニ・ワン』だよ」
私は右手を持ち上げた。
人差し指に魔力を集中させる。
攻撃のためでも、工作のためでもない。
ただ、「意味」を込めるための、純粋な魔力の光。
ハニ・ワンの胸。
昨日焼き固めた、一番硬くて、心臓に近い場所にある装甲板。
そこに、私は指先を触れた。
ジッ……。
微かな音がする。
指先から流れた魔力が、赤褐色の陶器に染み込んでいく。
私はゆっくりと、文字を刻んだ。
『Hani-One』
古代語でも、ルーン文字でもない。
私にしか読めない、私の国の文字で。
「汝、土より生まれし我が半身」
魔導士っぽい詠唱を口ずさんでみる。
柄じゃないけれど、形から入るのも大事だ。
「我が願い、我が孤独、我が希望を糧とし、ここに個としての形を成せ。……その名は、ハニ・ワン」
最後の文字を書き終えた瞬間。
カッ、と。
ハニ・ワンの胸に刻まれた文字が、金色に輝いた。
ドクンッ!!
私の心臓と、ハニ・ワンの核が、同時に脈打った。
空気が震える。
目に見えない波紋が、洞窟の中に広がっていく。
重い。
魔力がごっそりと持っていかれる感覚。
でも、それは不快な消耗ではなかった。
むしろ、川の水が海へと注ぎ込むような、自然で力強い流れ。
私の魔力が、ハニ・ワンの中で循環し、定着し、彼自身のエネルギーへと変換されていく。
パス(経路)が太くなる。
一方通行だった命令系統が、双方向のホットラインへと進化する。
「……あ」
頭の中に、何かが響いた。
声じゃない。
言葉ですらない。
もっと原始的で、純粋な感情の塊。
――嬉しい。
――温かい。
――大好き。
そんな、子供のような、あるいは子犬のような、無垢な思念。
それが、私の脳内に直接流れ込んできた。
「ハニ……ワン……?」
顔を上げる。
ハニ・ワンが、私を見つめていた。
その瞳の光が、今までとは明らかに違っていた。
ただの点滅じゃない。
揺らめき、瞬き、語りかけてくるような「眼差し」。
『……マスター……』
聞こえた気がした。
鼓膜じゃなく、心に。
次の瞬間、ハニ・ワンが動いた。
ゆっくりと両手を広げ、私を包み込むように抱きしめた。
昨日までの、ぎこちない動作じゃない。
壊れ物を扱うような、繊細で、慈しみに満ちた抱擁。
硬い胸板に顔が埋まる。
そこから、ドクン、ドクンと、力強い鼓動が伝わってくる。
泥の心臓が、本当に生きているみたいに。
――ありがとう。
――僕に、名前をくれて。
――僕を、見つけてくれて。
言葉にならない感謝が、波のように押し寄せてくる。
私の胸が詰まった。
鼻の奥がツンとする。
あぁ、ずるい。
泣くつもりなんてなかったのに。
「……バカ」
私はハニ・ワンの胸に顔を押し付けたまま、呟いた。
「お礼を言うのは、私の方だよ。……私なんかを、見捨てないでくれて、ありがとう」
涙が滲んで、陶器の肌を濡らした。
ハニ・ワンは何も言わず(言えないけど)、ただ大きな手で私の背中をポンポンと優しく叩き続けた。
そのリズムが、私が幼い頃に母にしてもらったそれと重なって、余計に涙が止まらなくなった。
一人じゃない。
もう、絶対に一人じゃない。
この繋がりは、誰にも切れない。
たとえ神様だって、ギルドマスターだって、この絆だけは奪わせない。
しばらくの間、私たちはそうやって抱き合っていた。
言葉はいらなかった。
ただ、互いの体温と存在を確かめ合うだけで、世界は満たされていた。
ふと、ハニ・ワンが体を離した。
そして、私の顔を覗き込むと、その硬い指先で私の目尻の涙を拭った。
くすぐったい。
泥臭い指先だけど、どんな絹のハンカチよりも優しい。
彼は立ち上がると、洞窟の入り口の方を向き、ドンと胸を叩いた。
刻まれた『Hani-One』の文字が、誇らしげに輝く。
『任せて』
そう言っているのがわかった。
――貴方の敵は、僕が全部砕く。
――貴方の涙は、僕が全部拭う。
――僕は、貴方のための最強の剣で、盾だ。
そんな決意が、ビシビシと伝わってくる。
「ふふっ……頼もしいなぁ」
私は涙を拭いて、笑った。
顔はぐしゃぐしゃかもしれないけれど、心は晴れやかだった。
ハニ・ワンが進化したことで、私の魔力許容量も拡張された気がする。
まるで、外付けのハードディスクを手に入れたみたいに、思考がクリアだ。
これなら、いける。
もっと色々なことができる。
ただ生き延びるだけじゃない。
もっと快適で、もっと楽しい「我が家」を作れる。
「ねえ、ハニ・ワン」
私は立ち上がり、彼と並んで立った。
身長差は頭二つ分くらい。
彼の方がずっと大きい。
「名前もついたことだし、これから忙しくなるよ? なんたって、私たちはここで一生暮らすんだから」
ハニ・ワンがコクンと頷く。
その顔は、やる気に満ち溢れていた。
「まずは……畑だね。それから、もっとちゃんとしたベッドも欲しいし、お風呂も作りたい。あと、工房も必要だよね」
私の妄想……いや、事業計画が膨らんでいく。
それを全部、ハニ・ワンにテレパシーのように伝える。
彼はその一つ一つに、「了解」「任せて」「それ楽しそう」といった感情で応えてくれる。
孤独な独り言じゃない。
対話だ。
こんなに会話が楽しいなんて、知らなかった。
相手が土人形だとしても、私にとっては最高のお喋り相手だ。
――グゥゥゥゥ。
またしても、盛大な音が洞窟に響いた。
私のお腹だ。
感動的なシーンの余韻をぶち壊す、現実的な警告音。
ハニ・ワンがキョトンとして、それから肩を揺らして(笑った?!)私の背中を押した。
早く何か食べよう、と。
「……うん。そうだね、腹が減っては戦はできぬ、だし」
私は苦笑いしながら、食料のストック(残り僅かな干し肉と、謎の木の実)を確認しに向かった。
ハニ・ワンが後ろをついてくる。
その足音は、もうペタペタという頼りない音ではなく、カツン、カツンという、確かな存在感を放つ音に変わっていた。
名前を得たことで、彼は「個」になった。
そして私もまた、彼と繋がることで「孤独」から卒業した。




