第5話:粘土の掃除屋
生存への峠を越えた私を待っていたのは、英雄的な凱旋でも、心安らぐ休息でもなかった。
それは、もっと地味的で、けれど人間としての尊厳に関わる切実な問題。
――悪臭だ。
洞窟の中の空気が、澱んでいる。
原因は明らかだった。
昨日、私たちが命がけで撃退し、そして生きるために解体した「サンドラット」の残骸だ。
食べられる肉は美味しく(と言っても、硬い鶏肉みたいな味だったけど)いただいた。
ハニ・ワンが器用に焼いてくれたおかげで、お腹は満たされた。
問題は、その後に残ったものだ。
剥ぎ取った毛皮、砕いた骨、内臓、そして飛び散った体液。
それらが洞窟の隅に積み上げられ、湿度の高い閉鎖空間の中で、腐敗へのカウントダウンを始めていた。
「……くさ」
鼻をつまむ。
生臭い血の匂いと、獣特有の脂っこい匂いが、ねっとりと鼻腔に張り付く。
入り口を強固な壁で塞いでしまった弊害が、ここに来て牙を剥いたのだ。
換気が悪い。
最悪だ。
外に捨てに行けばいい?
無理だ。
壁の一部を壊して外に出るなんて、自殺行為に等しい。
まだ昼間とはいえ、昨日のサンドラットの仲間が待ち構えているかもしれないし、もっと恐ろしい魔獣がいるかもしれない。
引きこもり生活において、玄関のドアを開けるというのは、人生における最大のギャンブルなのだ。
かといって、このまま同居し続けるわけにはいかない。
衛生環境の悪化は、病気を招く。
ただでさえ過労と栄養失調気味の私の体が、疫病に勝てるはずがない。
そして何より。
もっと深刻な問題がある。
「……トイレ、どうしよう」
顔から火が出そうだった。
誰に聞かれているわけでもないのに、声が震える。
食べたからには、出る。
生命として当たり前のサイクルだ。
今までは極限状態すぎて、そんな生理現象すら忘れていたけれど、お腹が膨れて安全が確保された途端、体は正直に反応し始めた。
ここでするの?
この狭いワンルーム(洞窟)で?
ハニ・ワンの前で?
――嫌だぁぁぁっ!!
私は頭を抱えて蹲った。
無理無理無理。
私は元貴族令嬢ではないけれど、それなりに教育を受けた魔導士だ。
野外排泄なんて、プライドが許さない。
いや、プライド以前に、排泄物の処理をどうするんだ。
ゴミですら困っているのに、汚物まで増えたら、ここはあっという間に「毒の沼地」になってしまう。
理想の引きこもりライフ、早くも詰んだかもしれない。
衣食住の「住」における、排泄処理設備の欠如。
これは文明レベルの敗北だ。
「はぁ……魔法で消滅させられたらいいのに」
火魔法があれば、焼却処分できるかもしれない。
水魔法があれば、水洗トイレを作って地下水脈に流せるかもしれない。
でも、私にあるのは土魔法だけ。
埋める?
ここの床は硬い岩盤だ。
ハニ・ワンに掘ってもらうにしても、限界がある。
私が絶望に打ちひしがれていると、視界の端でハニ・ワンが動いた。
トテトテと、例のゴミ山(鼠の残骸)に向かって歩いていく。
「ハニ・ワン? 触っちゃ駄目だよ、汚いから」
私が注意するのも聞かず、ハニ・ワンはそのゴミ山を見下ろしていた。
そして。
ズブブッ。
えぐい音がした。
ハニ・ワンが、あろうことかその汚物の中に、自分の腕を突っ込んだのだ。
「ひゃっ!? ハニ・ワン!?」
私は悲鳴を上げた。
やめて、何してるの!
せっかく昨日、私がきれいに磨いてあげたのに!
駆け寄ろうとした私の足が止まる。
様子がおかしい。
ハニ・ワンは汚物をかき回しているのではない。
吸い込んでいる。
ジュルルルル……ゴボッ、ゴボッ……。
ハニ・ワンの腕の表面が、スライムのように液状化し、波打っている。
その波に飲み込まれるように、骨が、皮が、内臓が、ハニ・ワンの体内に取り込まれていく。
まるで、底なし沼だ。
「……た、食べてる?」
違う。
咀嚼音じゃない。
もっと静かで、化学的な分解音。
ハニ・ワンの体内で、私の目には見えない微細な振動――魔力による分子崩壊が起きている気配がする。
呆気にとられて見守ること数分。
あれほど山積みになっていたサンドラットの残骸は、跡形もなく消え失せていた。
床にはシミ一つ残っていない。
血の匂いすら、綺麗さっぱり消えている。
ハニ・ワンが振り返る。
その体は、心なしか以前よりも艶やかになり、サイズも一回り大きくなっている気がした。
そして、コロン、と。
お尻のあたりから、黒い塊を排出した。
「……うんち?」
私は恐る恐る近づく。
もしそうなら最悪だ。
ゴミがうんちに変わっただけなら、事態は悪化している。
でも。
鼻を近づけても、嫌な匂いはしなかった。
むしろ、雨上がりの森のような、芳醇で深い香り。
手で触れてみる。
しっとりとしていて、柔らかく、温かい。
「これ……腐葉土?」
それも、最高級の。
王立植物園で使われているような、栄養たっぷりの熟成された黒土だ。
信じられない。
この子は、有機物を体内で分解し、不純物を魔力で浄化して、純粋な「土のエネルギー」として還元したんだ。
捕食じゃない。
循環だ。
自然界が数ヶ月、数年かけて行う分解プロセスを、この子は魔力を使って数分で完了させてしまった。
私の脳裏に、電撃が走った。
ゴミを処理できる。
匂いを消せる。
そして、最高の土が手に入る。
ということは。
つまり。
私の「生理現象」も……?
「……ハニ・ワン」
私は震える声で呼びかけた。
ハニ・ワンが「なぁに?」と首を傾げる。
私は決死の覚悟で、昨日の粘土細工の残りを手に取った。
作る。
今ここで。
文明の利器を。
「協力して。貴方のその『お掃除機能』を組み込んだ、特製の椅子を作るの」
ハニ・ワンには意味がわからなかったかもしれない。
でも、私の熱意(と切迫感)を感じ取ったのか、彼は力強く頷いてくれた。
作業は早かった。
もはや生存がかかっているのだ、集中力が違う。
まず、座り心地の良い椅子型の土台を作る。
お尻にフィットする流線型のフォルム。
ここ重要。冷たいと嫌だから、微弱な魔力で常に人肌に温まる「ウォーム便座機能」も付与する。
そして、その椅子の下部、タンクにあたる部分に、ハニ・ワンの「分体」をセットする。
ハニ・ワン本体から少しだけ泥を分けてもらい、分解機能を持たせたミニ・ハニワ(通称:ハニ・ツー)を常駐させるのだ。
「……完成」
洞窟の奥、ちょっとした岩陰に設置された、泥色の玉座。
見た目は素朴だが、その機能は王宮のトイレすら凌駕する。
水を使わない。
臭わない。
排泄物は即座に分解され、良質な肥料として蓄積される。
究極のバイオトイレ。
「ふぅ……」
私は一度、外の空気を吸うように深く深呼吸をしてから、その玉座に向かった。
(※中略。プライバシー保護のため、描写はカットされます)
――感動だった。
終わった後の、この清々しさ。
不快感ゼロ。
匂いゼロ。
タンクの中のハニ・ツーが、良い仕事をしてくれたおかげで、残ったのはほんの少しの黒土だけ。
私は服を整え、晴れやかな顔で戻ってきた。
洞窟の空気が、澄み渡っている。
先ほどまでの殺伐としたゴミ捨て場の空気はどこへやら、今はまるで神聖な神殿のような清浄さだ。
「すごいよ、ハニ・ワン……」
私は本体のハニ・ワンに抱きついた。
この子は、ただのゴーレムじゃない。
環境保全装置だ。
ギルドでは「土魔法は汚れる」と言われてきた。
でも、真実は逆だ。
土こそが、全てを浄化する。
死んだものを、汚れたものを、もう一度命の苗床へと還す、母なる循環システム。
この子が、それを証明してくれている。
私はハニ・ワンが吐き出した黒土を、両手で掬い上げた。
栄養満点のマナ・ソイル。
これがあれば、植物だって育てられるかもしれない。
そういえば、ギルドを出るとき、ポケットに一つだけ種が入っていたはずだ。
お昼のおやつに食べようと思って持っていた、炒る前のカボチャの種が。
「……ねえ、ハニ・ワン」
私はニヤリと笑った。
衣食住の「住」は整いつつある。
次は「食」の安定供給だ。
鼠の肉も悪くないけど、やっぱり私は野菜が食べたい。
甘くて、ホクホクの、カボチャが食べたい。
「ここを、農園にしよう」
外は死の大地。
でも、この壁の中は楽園だ。
トイレの悩みから解放され、肥料の確保も約束された今、私の引きこもり計画は「開拓生活」へと華麗にジョブチェンジを果たした。
ハニ・ワンが、私の手の中の土を見て、嬉しそうにパチパチと拍手をした(泥が潰れる音がした)。
私の周りだけ、空気が異常に綺麗だ。
穢れ一つない精霊の息吹すら感じられそうなほど清浄な空間で、私は未来のスープの味を夢想して、小さく舌なめずりをした。




