第4話:高原の隣人
朝は、痛みと共にやってきた。
胃が痛い。
キリキリと内側から雑巾絞りされているみたいだ。
水で誤魔化した昨日の空腹感が、一晩寝たことで倍返しになって襲ってきている。
うっすらと目を開ける。
視界に入ってきたのは、昨日私が必死こいて積み上げた、歪で愛おしい泥の壁だった。
隙間から漏れ出る朝の光が、壁の凹凸に陰影を作っている。
空気は冷たく、湿っている。
吐く息は白いけれど、壁の内側は不思議と外気より数度高い気がした。
魔力を含んだ土が、わずかに発熱しているおかげだ。
「……お腹、すいた」
寝起きの第一声がこれだ。
色気もへったくれもない。
でも、これが生存をかけたサバイバルの現実だ。
隣を見ると、ハニ・ワンが昨日と同じ体育座りの姿勢で、じっと入り口の方角を見張っていた。
微動だにしない。
この子は本当に眠らないんだ。
私のために、一晩中こうして番をしてくれていたのかと思うと、胸がキュッとなる。
「……おはよ、ハニ・ワン。異常なし?」
声をかけると、ハニ・ワンはクルリと首を回して(180度回った。ちょっと怖い)私を見た。
そして、コクンと頷く。
優秀すぎる。
私はよろよろと体を起こした。
関節がギシギシ鳴る。
服は泥だらけで、乾いてカピカピになっている。
お風呂に入りたい。
温かいスープが飲みたい。
フカフカのベッドで二度寝したい。
欲望は尽きないけれど、今はまず食料だ。
外に出なきゃいけない。
あの「泥の壁」を一部崩して、外の世界へ踏み出す必要がある。
怖い。
昨晩の狼の遠吠えが耳に残っている。
でも、ここで座して死ぬよりはマシだ。
高原には何か食べられる草とか、木の実があるかもしれない。
最悪、虫でも……いや、それは最終手段にしよう。
「ハニ・ワン、出かけようか。ご飯を探しに――」
私が言いかけた、その時だった。
カリカリ、カリカリ……。
微かな音がした。
壁の外じゃない。
もっと近く。
足元だ。
「え?」
視線を落とす。
地面の隅、岩盤と土の境目あたり。
そこの土が、モコモコと盛り上がっている。
まるで、土の下から何かが突き上げているみたいに。
カリッ! ボコッ!
一瞬だった。
土が弾け飛び、茶色い影が飛び出してきた。
一匹じゃない。
二匹、三匹……五匹!
「キシャーッ!!」
耳障りな鳴き声。
大きさは猫くらい。
でも、その姿は愛玩動物とは程遠い。
薄汚れた茶色の毛皮に、巨大な前歯。
そして、スコップのように平たく発達した前脚。
サンドラットだ。
クレイ高原に生息する、凶暴な肉食性の鼠。
集団で獲物に襲いかかり、硬い骨までガリガリと齧り尽くす厄介な害獣。
どうやら昨夜の壁作りで、地下からの侵入ルートを警戒し忘れていたらしい。
私の馬鹿!
「ひっ……!?」
私は悲鳴を上げて後ずさった。
壁に背中がぶつかる。
サンドラットたちの赤い目が、一斉に私を捉えた。
涎を垂らした口から、黄色い牙が覗いている。
あいつらにとって、今の私は無防備な肉塊にしか見えていない。
飛びかかってくる。
速い。
魔法の詠唱なんて間に合わない。
終わった。
そう思って目を瞑った瞬間。
ドゴォッ!!
鈍い音が響いた。
痛みはこない。
恐る恐る目を開けると、そこには仁王立ちするハニ・ワンの背中があった。
飛びかかってきたサンドラットを、その泥の腕で薙ぎ払ったのだ。
鼠が壁に叩きつけられ、ピクピクと痙攣している。
「ハニ・ワン……!」
安堵したのも束の間、残りの四匹が一斉にハニ・ワンに襲いかかった。
一匹が腕に噛みつく。
もう一匹が足に食らいつく。
ガリッ! ボリッ!
嫌な音がした。
ハニ・ワンの体は土だ。
乾いているとはいえ、所詮は固めた泥。
鉄を食らうとも言われるサンドラットの牙の前では、あまりに脆い。
ハニ・ワンの腕が削り取られる。
足の表面が剥がれ落ちる。
それでも、ハニ・ワンは退かなかった。
私を背に庇ったまま、不格好な拳を振り回して応戦している。
痛みを感じている様子はない。
でも、私には痛いほど伝わってくる。
魔力パスを通じて、ハニ・ワンの「守らなきゃ」という焦りと、自己犠牲の精神が流れ込んでくるから。
――やめて。
私のために、傷つかないで。
私のせいで。
私が弱っちいせいで。
生まれたばかりのこの子が、ボロボロになっていく。
ギルドを追い出された時と同じだ。
私はいつも、誰かの後ろに隠れて、守ってもらうことしかできなかった。
「魔導士失格だ」「役立たずだ」
そう言われても、言い返せなかった。
でも。
今は違う。
ここには、意地悪な上司も、理不尽なルールもない。
あるのは土と、私と、ハニ・ワンだけだ。
私がやらなきゃ、誰がやるんだ。
この子は私の友達だ。
道具じゃない。
使い捨ての盾なんかじゃない!
「……離れろ、クソ鼠ッ!!」
私は叫んだ。
恐怖で震えていた足に力を込める。
ポケットから、緊急用の「予備粘土」を取り出した。
質の良い、精製された最高級の粘土だ。
私はハニ・ワンの背中に飛びついた。
「ハニ・ワン、じっとしてて!」
私の接近に気づいたサンドラットが一匹、私の腕を狙って跳躍する。
私は構わず、ハニ・ワンの肩に手を押し当てた。
噛まれる?
知るか。
私の腕の一本くらい、ハニ・ワンの修理代だと思えば安いもんだ!
……まあ、実際には噛まれる前に、ハニ・ワンが裏拳で鼠を吹っ飛ばしてくれたんだけど。
ナイス、相棒。
私はハニ・ワンの「傷」に粘土を押し込んだ。
ただ穴を埋めるだけじゃない。
今、ハニ・ワンが苦戦している理由。
それは「硬度」が足りないからだ。
そして同時に、牙の衝撃を逃がす「柔軟性」がないから、大きく削り取られてしまう。
硬ければいいってもんじゃない。
硬すぎる土は、衝撃で割れる。
柔らかすぎる土は、貫通される。
なら、どうする?
答えは簡単だ。
両方やればいい。
「イメージしろ……テラ・クレイモア。お前の理想の装甲を!」
脳内で設計図を展開する。
表面は、ダイヤモンドのように硬く、滑らかなセラミック質の装甲。
内側は、衝撃を吸収して分散させる、高密度のゲル状粘土。
二重構造。
それを、魔力による分子振動で瞬時に成形する。
指先が熱くなる。
魔力が奔流となって粘土に流れ込む。
ジジジジジッ……!
粘土が焼成されるような音がした。
ハニ・ワンの体表が、鈍い土色から、金属的な光沢を帯びた黒褐色へと変質していく。
削られた腕が再生する。
いや、ただの再生じゃない。
前腕部分が太く、逞しく隆起し、まるでガントレットを装備したような形状へと進化した。
「――装甲展開!」
私が叫ぶと同時に、ハニ・ワンの全身が硬化した。
タイミングを合わせるように、サンドラットたちが一斉に噛みついてくる。
ガキンッ!!
硬質な音が響き渡った。
肉を裂く音じゃない。
金属を噛んだような、甲高い音だ。
「キッ!?」
サンドラットたちが驚愕に目を見開く(ように見えた)。
彼らの自慢の牙が、ハニ・ワンの肌に突き刺さるどころか、滑って弾かれたのだ。
表面の超硬化層が牙を弾き、その衝撃を内側の軟質層が完璧に殺した。
ダメージ、ゼロ。
ハニ・ワンが私を振り返る。
その瞳の光が、「これならいける」と輝いた。
「やっちゃえ、ハニ・ワン!」
私の号令。
ハニ・ワンが踏み込む。
先ほどまでの鈍重な動きとは違う。
装甲の重量バランスが最適化され、運動エネルギーが効率的に拳に乗っている。
ドゴォォォォンッ!
右の拳が、先頭のサンドラットに直撃した。
鼠の体がボールのように吹き飛び、洞窟の壁に激突して動かなくなる。
一撃必殺。
残りの鼠たちが怯む。
野生の勘が告げているのだ。
こいつはさっきまでの「泥人形」じゃない。
「動く城塞」だと。
ハニ・ワンは追撃の手を緩めない。
左腕を振るう。
裏拳。
さらに一匹が吹き飛ぶ。
残った三匹は、蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
私たちが作った壁の隙間ではなく、自分たちが掘った穴へと一目散に潜り込んでいく。
「……勝った」
私はへなへなと座り込んだ。
足の力が抜けて、立てない。
心臓がバクバクと五月蝿い。
手のひらは汗でびっしょりだ。
ハニ・ワンがゆっくりと振り返る。
その体は黒光りしていて、以前よりも一回り大きく、逞しく見えた。
もはや「可愛い埴輪」というよりは、「歴戦のゴーレム」の風格が漂い始めている。
でも、私に近づいてくるその足取りは、やっぱりペタペタとしていて愛嬌があった。
私の目の前でしゃがみ込むと、心配そうに私の顔を覗き込んでくる。
怪我はないか、と全身を確認するように。
「私は大丈夫だよ。……凄かったね、ハニ・ワン」
黒く硬化したハニ・ワンの腕に触れる。
ひんやりと硬い。
叩けばカンカンと音がしそうだ。
でも、その奥には確かに、私と同じ魔力の温もりが脈打っている。
ただ守られるだけじゃなかった。
私の知識と技術が、この子を強くした。
それがどうしようもなく嬉しくて、誇らしかった。
「私ね、わかったの」
まだ荒い息を整えながら、私はハニ・ワンに語りかける。
「土魔法は、地味なんかじゃない。弱くもない。……工夫次第で、何にだってなれるんだって」
ギルドで馬鹿にされていた「硬めるだけ」「穴掘るだけ」の魔法。
でも、極めればそれは「最強の盾」になり、「最強の矛」になる。
素材を知り、構造を知り、理を組み込めば、土は鉄すら凌駕する。
私の手の中にあるのは、ただの泥じゃない。
無限の可能性だ。
ハニ・ワンがコクコクと深く頷いた。
そして、倒したサンドラットの方を指差す。
……あ。
そういえば。
「……あれ、食べられるかな」
私の呟きに、ハニ・ワンは首を傾げた後、一匹のサンドラットを足で掴んで持ってきた。
ずっしりと重い。
毛皮は汚いけど、肉付きは良さそうだ。
正直、気持ち悪い。
王都にいた頃なら、絶対に見るのも嫌だっただろう。
でも、今の私の胃袋は、そんな感傷を吹き飛ばすほどに絶叫していた。
背に腹は代えられない。
「……よし。ハニ・ワン、解体できる?」
ハニ・ワンの指先が、スチャッと鋭利なナイフ状に変形した。
便利すぎる。
一家に一台欲しい機能だ。
まあ、私しか持ってないけど。
こうして、私たちは高原での初めての朝食にありつくことになった。
味のことは……まあ、今は考えないでおこう。
大事なのは、生き延びたということ。
そして、私たちが昨日よりも少しだけ「強く」なったということだ。
洞窟の外では、雲の切れ間から青空が覗き始めていた。
泥臭くて、血生臭い、けれど充実した一日が始まろうとしていた。




