第32話:スパイの見た「地獄の菜園」
**ガイスト帝国諜報員 サーシャ視点**
小鳥のさえずり……ではなく、地下特有の静寂と、微かな換気ファンの音で目が覚めた。
目を開けると、目の前には無防備な寝顔があった。
私のターゲット、「泥の魔女」テラだ。
彼女は私の腕を枕代わりにして、すーすーと気持ちよさそうな寝息を立てている。
昨夜、私が潜り込んだベッド。
温かい。
帝国の養成機関で、コンクリートの床や粗末なベッドで寝てきた私にとって、この布団の柔らかさと人の体温は、猛毒のような甘さを持っていた。
(……隙だらけね)
私は音もなく体を起こした。
今なら、部屋の中を物色できる。
巨人の制御キー、あるいは魔導書の類がどこかに隠されているかもしれない。
私はテラを起こさないように、そっとベッドを抜け出した。
「……んぅ……サーシャちゃん……いっぱい食べてね……」
テラが寝言を漏らす。
夢の中でまで、私に餌付けしようとしているらしい。
その無邪気さに一瞬絆されそうになったが、私は首を振ってスパイの顔に戻った。
チャンスだ。
テラが寝ている間に、この地下工房の構造と戦力を把握しなければ。
特に気になるのは、あの巨人の待機場所と、テラの力の源泉である「カボチャ畑」だ。
上層部からは、カボチャの生産能力を探れとも言われている。
私は足音を殺して廊下へ出た。
番犬のハニ・ワンは、入り口付近で直立不動のままスリープモードに入っているようだ(赤い目が消えている)。
よし、今のうちに奥へ。
***
地下通路を奥へ進むと、甘い植物の香りと、濃厚なマナの気配が漂ってきた。
突き当たりの重厚な扉を、ピッキングツールで音もなく開ける。
そこには、息を呑むような光景が広がっていた。
「……すごい」
広大な地下空洞。
天井一面に張り巡らされた発光苔が、星空のように空間を照らし出している。
眼下に広がるのは、見渡す限りの黄金色のカボチャ畑。
一つ一つが巨大で、宝石のように輝いている。
これが、帝国の喉から手が出るほど欲しい「戦略物資」の生産プラントか。
私は畑の中へ足を踏み入れた。
葉をかき分け、奥へ進む。
土の状態、灌漑システム、肥料の種類。全てが調査対象だ。
その時だった。
「……ぅぅ……」
「……殺し……て……」
微かなうめき声が聞こえた。
風の音ではない。人の声だ。
それも、一人や二人ではない。
(生存者!? 捕虜がいるの?)
私は緊張して身構えた。
声のする方へ、慎重に近づく。
畑の手前側のエリア。
そこには、異様な光景があった。
地面から、人の頭が生えていた。
三十個ほど。
等間隔に、綺麗に整列して。
「ッ……!?」
私は口元を押さえ、悲鳴を噛み殺した。
生首ではない。首から下を埋められた人間だ。
全員、男。顔は泥と涙で汚れ、目は虚ろで、頬はこけている。
彼らの首元にはカボチャのツルが絡まり、脈打つように何かを吸い上げている。
(この顔……見覚えがあるわ。指名手配書で見た、裏社会の傭兵団『黒犬』のメンバー!?)
精鋭と名高い傭兵たちが、まるでキャベツのように植えられている。
だが、恐怖はこれで終わりではなかった。
さらに奥。
もっと広大なエリアから、より多くの、より絶望的な気配が漂ってくる。
私は震える足で、さらに畑の奥へと進んだ。
そこで私は、真の絶望を見た。
「……う、嘘でしょ……?」
そこには、百を超える「頭」が並んでいた。
彼らの顔つきは、手前の傭兵たちよりも精悍で、軍人特有の覇気が残っている――いや、残骸が残っている。
(鉄機兵団……!?)
行方不明になっていた、帝国軍の部隊。
一個中隊、約百名。
最新鋭の魔導装備で身を固め、小国の軍隊なら単独で制圧できると言われた最強の部隊。
彼らが、全員ここにいた。
カボチャ畑の肥料として。
「あ……あぁ……」
一番手前に埋まっている男と目が合った。
中隊長だ。以前、私も作戦会議で顔を合わせたことがある、厳格な髭の男。
今の彼は、泥まみれで、頭の上にカボチャの葉を茂らせていた。
「……帝国の……スパイか……?」
中隊長が、枯れ木のような声で私に話しかけてきた。
「は、はい……コードネーム『猫』です……」
「……逃げろ。今すぐ、逃げろ」
彼は焦点の合わない目で、虚空を睨んだ。
「ここは地獄だ……。あの魔女は、俺たちを『甲虫』だと思っている……。硬い殻(鎧)を着た、栄養満点の虫だと……」
「虫……?」
「鎧ごと叩き潰され、殻を剥かれ……ここに植えられた。俺たちの魔力が尽きるまで、カボチャに吸い取られるんだ……。もう、死ぬことさえ許されない……」
中隊長の言葉に、周りの兵士たちもズルズルと首を動かした。
百人の亡者たちが、私に訴えかける。
「助けてくれ……いや、殺してくれ……」
「帝国の誇りは……肥料になった……」
「カボチャが……俺を食べている……」
悪寒が背筋を駆け上がる。
これは戦争ではない。虐殺ですらない。
食物連鎖だ。
この地下世界では、人間は頂点ではない。テラとカボチャの下位に位置する「栄養分」なのだ。
「あー! サーシャちゃん、そこはお手洗いじゃないよ〜!」
背後から、明るい声が響いた。
心臓が口から飛び出るかと思った。
振り返ると、テラが笑顔で立っていた。
手にはジョウロを持っている。
「テ、テラお姉ちゃん……!」
「もう、勝手に歩き回っちゃダメだよ。ここは迷子になりやすいんだから」
テラはニコニコしながら近づいてくる。
そして、私の足元にある「中隊長の頭」を見て、嬉しそうに言った。
「あ、先輩の肥料さんたちに挨拶してくれたの? 偉いね〜!」
「せ、先輩……?」
「うん! ちょっと前に迷い込んできた、硬い殻を被った虫さんたちだよ! 『鉄機兵団』だっけ? よく分かんないけど、すごく硬くて剥くのが大変だったんだ〜」
テラは中隊長の頭に、容赦なく水をかけた。
中隊長が「グボアッ!」と呻く。
「でも、中身は栄養満点! おかげで今年のカボチャは過去最高の出来だよ!」
笑顔。
一点の曇りもない、聖母のような笑顔。
彼女は百人の精鋭兵士を「虫」と呼び、その命を搾取することに何の疑問も抱いていない。
狂気という言葉すら生温い。
これは災害だ。意思疎通の不可能な、天災そのものだ。
「サーシャちゃんも、お水飲む?」
「い、いえ! 結構です! 喉乾いてません!」
私は必死に首を振った。
ここで「はい」と言ったら、私もここに植えられそうな気がしたからだ。
***
朝食の時間。
リビングのテーブルには、焼きたてのカボチャパンと、温かいスープが並んでいた。
「さあ、召し上がれ! 鉄機兵団さんたちの栄養がた〜っぷり詰まった、特濃スープだよ!」
テラが満面の笑みで勧めてくる。
私はスープの皿を見つめ、ゴクリと喉を鳴らした。
(……このスープのマナは、あの中隊長たちの……)
同胞の命。
カニバリズムに近い忌避感が胃をせり上げる。
だが、スパイとしてこれを拒否するわけにはいかない。
それに、昨日の味を体が覚えている。本能が「飲め」と叫んでいる。
私は震える手でスプーンを取り、スープを口に運んだ。
「……っ!」
美味しい。
絶望的に美味しい。
百人の魔導兵のマナが濃縮され、カボチャの甘みと融合している。
一口飲むだけで、全身の細胞が活性化し、脳が快楽で痺れる。
「どう? 美味しい?」
「……うん。すごく、美味しい……」
涙がこぼれた。
同胞への罪悪感と、抗えない食欲。
私は泣きながらスープを飲み干した。
「よかったぁ! いっぱい食べて大きくなってね!」
テラは私の頭を撫でる。
私はその温もりに縋りながら、心の中で誓った。
絶対に、この娘を怒らせてはいけない。
帝国のため? 違う、自分のためだ。
「可愛い妹」の座を死守しなければ、次の「虫」として処理されるのは私だ。
***
その日の深夜。
テラが寝静まったのを確認して、私はこっそりと工房を抜け出し、地上の岩陰へ向かった。
外の空気は冷たいが、あの地下の濃密な「死と生の気配」よりはマシだった。
懐から通信魔道具を取り出す。
定時連絡の時間だ。
『……こちら「毒針」本部。応答せよ、コードネーム「猫」』
ノイズ混じりの上官の声。
私は深呼吸をして、震えを抑え込んだ。
「こちら『猫』。……緊急報告があります」
『どうした? 声が震えているぞ』
「行方不明だった『鉄機兵団』を発見しました」
『なにっ!? 生存しているのか! 場所は!』
「……ターゲットの地下農園です。全員、生存しています。ですが……」
私は言葉を詰まらせた。
どう伝えればいい?
彼らがカボチャの苗床になっているなんて。
「彼らは……捕獲され、農作物の肥料として利用されています。首から下を埋められ、マナを搾取され続けています」
『……は? 肥料? 何を言っている?』
「事実です! 私兵団三十名、帝国兵百名、計百三十名が、生きたまま植えられています! 救出は不可能です。彼らは既に、この地下の生態系の一部です!」
私の悲痛な叫びに、通信の向こうが静まり返った。
『……貴様、正気か? あの帝国最強部隊が、カボチャの肥料だと?』
「正気です! だから警告します! 絶対に、これ以上兵を送らないでください! 強襲部隊など送れば、奴らは喜んで『追肥』として受け入れます! 帝国の戦力が、ただ敵の物資を潤すだけになります!」
『……』
「この魔女にとって、武装した兵士は脅威ではありません。『殻付きの栄養価の高い虫』なんです! 数が多ければ多いほど、彼女は喜びます!」
私は泣き叫ぶように訴えた。
これはテラを守るためではない。
帝国軍という「新たな肥料」が来て、カボチャがさらに強化されるのを防ぐため……そして何より、私がこの狂気の連鎖に巻き込まれないためだ。
『……分かった。上層部には「物理的攻略は不可能、かつ敵を利するのみ」と伝える。……猫、貴様は大丈夫なのか?』
「……私は、まだ『ペット』として認識されています。肥料にされないよう、必死に可愛く振る舞い続けます」
『……健闘を祈る』
通信が切れる。
私は魔道具を握りしめ、夜空を見上げた。
「……健闘なんて、できるわけないじゃない」
自嘲気味に笑う。
私はもう、あのスープの虜だ。
同胞の命を啜り、魔女の腕の中で眠る。
スパイとしての魂は、とうにカボチャ畑の土の下に埋葬されてしまったのかもしれない。
私はふらつく足取りで、地下への入り口へ向かった。
戻ってきた私を、入り口で待っていたハニ・ワンの目が、一瞬だけ赤く光った気がした。
「おかえり、餌」と言われているようで、私は小さく悲鳴を上げ、急いでテラの寝室へと逃げ込んだ。




