第3話:不格好な城壁
水で喉を潤し、少しだけ生きた心地が戻ってくると、今度は別の恐怖が忍び寄ってきた。
夕闇だ。
洞窟の外、どんよりとした曇り空が、さらに重たい紫色へと染まっていく。
クレイ高原の夜は早い。
そして、寒い。
昼間ですら骨まで凍みるような雨風が吹いていたのに、日が落ちたらどうなってしまうのか。
ヒュオオオオ……。
風の音が変わった。
先ほどまでの湿った風ではなく、乾いた刃物のような風鳴り。
それが洞窟の入り口から吹き込み、濡れたままの私のドレスを容赦なく叩く。
「……う、さむ」
思わず体を抱く。
洞窟の奥にいれば雨は凌げるけれど、入り口がこんなに大きく開いていては、風を防ぎようがない。
それに、ここは魔獣の生息域だ。
ギルドの資料室で読んだことがある。
クレイ高原には「鉄喰い狼」や「岩砕き熊」なんていう、名前だけで関わりたくない物騒な生物がうようよしているらしい。
入り口がぽっかりと開いているこの状況は、言ってみれば「どうぞ食べてください」と皿の上に盛られたメインディッシュ状態で待機しているようなものだ。
――無理。絶対に無理。
こんな吹きっ晒しの場所で、安心して眠れるわけがない。
「ハニ・ワン」
私は隣でジッと座っている泥人形に声をかけた。
ハニ・ワンは「ん?」という感じで、コテンと首を傾げる。
そのつるんとした泥の顔には目鼻立ちなんて簡素な穴しかないけれど、私には彼(彼女?)がやる気に満ちているのがわかった。
「……扉を作ろう。ううん、壁だね」
私は洞窟の入り口を指差した。
あそこを塞ぐ。
完全に塞いでしまうと酸欠になるから、空気穴だけ残して、あとは全部土で埋めてしまうのだ。
引きこもりにとって、外界との遮断は何よりも優先すべき生存戦略である。
「土を集めてきてくれる? 入り口を塞げるくらい、いっぱいに」
ハニ・ワンは私の意図を理解すると、ガバッと立ち上がった。
そして、短い足でトテトテと入り口付近へ走っていく。
地面の泥を、あのお椀のように進化した両手で掬っては、私の元へと運び始めた。
偉い。
なんて働き者なんだろう。
ギルドの下っ端魔導士たちなんて、「なんで俺が土木作業なんて」と文句ばかりで、ちっとも動かなかったのに。
この子は文句一つ言わず、黙々と泥を運んでくれる。
「よーし……私も、久しぶりに本気出しちゃおうかな」
私はヘラヘラと笑いながら、ハニ・ワンが運んできてくれた泥の山に手を突っ込んだ。
ひんやりとして、ねっとりとした感触。
クレイ高原の土は、やっぱり質がいい。
適度な水分と、粘り気。
そして何より、微量に含まれる鉱物の粒子が、魔力を通した時に良いアクセントになるのだ。
普通の土魔導士なら、ここで「ウォール(土壁)」と唱えて終わりだろう。
魔力で土を無理やり固めて、一枚の板を作る。
それが一般的だ。教科書にもそう書いてある。
でも、そんなのは「死んだ壁」だ。
強い衝撃を受ければ簡単に割れるし、何より冷たい。
私はそんな即席の壁に、自分の命を預ける気にはなれない。
私が作るのは、もっと有機的で、しなやかな「生きた壁」。
「……ふぅー」
深く息を吐き出し、意識を指先に集中させる。
泥の中に指を沈める。
第一関節、第二関節まで、泥がまとわりつく。
その感触を楽しみながら、私は魔力の糸を紡ぎ出した。
イメージするのは、血管だ。
あるいは、植物の根。
毛細血管のように細かく、複雑に分岐した魔力のパスを、粘土の粒子一つ一つの間に張り巡らせていく。
チリチリチリ……。
指先から、微かな静電気が走るような音がした。
泥が、私の魔力を吸って発熱し始める。
ただ固めるんじゃない。
土の粒子同士を、魔力の糸で結びつけ、編み込むのだ。
こうすることで、衝撃を分散させ、柔軟性を持たせることができる。
鉄よりも硬く、ゴムのようにしなやかな、最強の複合素材装甲。
これこそが、私が編み出した独自工法――『魔導血管構造』だ。
「……んッ、あ……」
額に汗が滲む。
魔力の消費が激しい。
脱水症状から回復したばかりの体にはきつい作業だ。
でも、手が止まらない。
楽しいからだ。
誰にも急かされない。
「効率が悪い」と怒鳴られることもない。
「そんな無駄なことしてないで、早く数を作れ」と罵られることもない。
自分の納得がいくまで、土と対話ができる。
それがこんなに幸せなことだなんて、忘れていた。
ハニ・ワンが、私の横に新たな泥の山を積み上げた。
チラリと見ると、心配そうにこちらを見ている。
私が苦しそうに見えたのかもしれない。
「平気だよ。……ありがとね」
泥だらけの手で、ハニ・ワンの頭を撫でる。
ハニ・ワンは嬉しそうに体を揺らすと、また元気に泥集めに戻っていった。
その背中を見ていると、不思議と力が湧いてくる。
この子のために、最高の家を作ってあげたい。
作業は続いた。
入り口の端から、少しずつ壁を積み上げていく。
レンガを積むのではない。
不定形の泥の塊を積み上げ、それを私の手で均し、魔力で結合させて一体化させる。
継ぎ目のない、滑らかな曲線の壁。
外からの風が、少しずつ遮られていく。
その度に、洞窟の中の空気が澱み、落ち着いていくのを感じる。
風の音も遠くなる。
アオオオォォォォン……ッ!
不意に、遠くで獣の遠吠えが響いた。
空気がビリビリと震えるような、太く、低い咆哮。
あれは間違いなく、大型の魔獣だ。
それも、一匹や二匹じゃない。
ビクリと肩が跳ねた。
ハニ・ワンも作業を止めて、入り口の外、暗闇の向こうを警戒している。
「……急ごう」
のんびり楽しんでいる場合じゃなかった。
夜が来る。
捕食者たちの時間が来る。
私は作業のピッチを上げた。
丁寧さは維持しつつ、手数を増やす。
こねる、混ぜる、流し込む、編む。
左手で大まかな形を作り、右手で魔力を注入して固定する。
職人の勘と、生存本能がフル回転する。
高さが腰のあたりまで来た。
まだ足りない。
天井まで塞がないと意味がない。
「ハニ・ワン! もっと高いところ!」
私が叫ぶと、ハニ・ワンは自分の体をグニュリと変形させた。
足が伸びる。
胴体が伸びる。
即席の脚立みたいになって、高い位置に泥を盛り付けてくれる。
相変わらずの適応能力だ。
本当に、私の欲しい機能をすべて備えている。
私たちは阿吽の呼吸で壁を築いていった。
言葉はいらない。
私が「そこ」と目線で合図すれば、ハニ・ワンが土を盛る。
私が「厚く」と手を動かせば、さらに上乗せする。
まるで長年連れ添った熟練の職人コンビみたいだ。
壁は徐々に高くなり、やがて天井の岩盤に届こうとしていた。
残るは、私たちが今いる内側への出入り口(といっても、完全に塞ぐつもりだが)のわずかな隙間だけ。
外はもう完全に真っ暗だ。
漆黒の闇が、あと少しだけ残った隙間から、ねっとりとこちらを覗き込んでいるようだった。
その闇の奥で、二つの赤い光がギラリと光った気がした。
――見つかった?
心臓が早鐘を打つ。
風に乗って、獣臭い匂いが漂ってきた。
近い。
「ハニ・ワン、最後! ここを塞ぐよ!」
私は残った泥を全て掻き集めた。
ハニ・ワンも必死に泥を押し固める。
赤い光が近づいてくる。
ジャリッ、ジャリッという足音が聞こえる。
怖い。
でも、負けない。
ここは私の城だ。
私の聖域だ。
誰にも踏み込ませない!
「――閉じろおおおおっ!」
私は両手を最後の隙間に叩きつけた。
渾身の魔力を流し込む。
泥が生き物のようにうねり、急速に硬化しながら隙間を埋め尽くす。
血管のような魔力回路が一瞬だけ赤く発光し、そして岩のように静まり返った。
ドンッ!!
壁が塞がった直後、外側から何かが激突する音がした。
重たい衝撃。
壁全体がミシリと鳴る。
パラパラと土埃が落ちてくる。
……けれど。
壁は、崩れなかった。
ヒビ一つ入っていない。
私の『魔導血管構造』が、衝撃を見事に吸収し、分散させたのだ。
グルルルル……ガリッ、ガリッ……。
壁の向こうで、悔しげな唸り声と、爪で引っ掻くような音がする。
でも、それだけだ。
爪が突き抜けてくることはない。
数分ほど粘っていたようだが、やがて諦めたのか、気配は遠ざかっていった。
「……はぁ、はぁ、はぁ……」
私はその場にへたり込んだ。
全身から力が抜けていく。
泥まみれの手も、顔も、もう拭う気力すらない。
真っ暗な洞窟の中。
光源はないはずなのに、不思議と完全な闇ではなかった。
私が作った壁の中に通る魔力回路が、蛍のように淡く、琥珀色に発光していたからだ。
ぼんやりとした光が、狭くなった空間を照らし出している。
不格好な壁だった。
表面はボコボコだし、急いで作ったから歪んでいる。
王都の建築家が見たら「なんだこの粗大ゴミは」と鼻で笑うだろう。
でも。
私は壁に背中を預けた。
じんわりと、温かい。
魔力が循環しているせいで、壁自体が微熱を持っているのだ。
まるで、巨大な生き物に守られているような安心感。
風の音も聞こえない。
獣の臭いもしない。
ただ、湿った土の匂いと、静寂だけがある。
「……あは」
乾いた笑いが漏れた。
落ち着く。
なんて落ち着くんだろう。
狭くて、暗くて、ジメジメしているけれど。
ここは、世界のどこよりも安全な場所だ。
「……きゅぅ」
ハニ・ワンが私の膝に頭を擦り付けてきた。
よくやったね、と褒めてほしいのかもしれない。
私は泥だらけのまま、ハニ・ワンをぎゅっと抱きしめた。
「最高だよ、ハニ・ワン。……これ、私の人生で一番の傑作かもしれない」
ギルドで納品したどんな高級な魔道具よりも、この歪な泥壁の方がずっと愛おしい。
だって、これは私とハニ・ワンを守るためだけに存在する、私たちの「家」なのだから。
お腹は空いている。
体は冷えているし、服は濡れている。
状況は依然としてサバイバルの真っ只中だ。
だけど、今日のところはこれでいい。
壁がある。屋根がある。相棒がいる。
それだけで、昨日の絶望的な夜とは雲泥の差だ。
私はハニ・ワンを湯たんぽ代わりにして、土の壁に包まるようにして目を閉じた。
壁の脈動と、ハニ・ワンの鼓動が、心地よい子守唄のように重なって聞こえる。
明日は何をしようか。
壁をもっと厚くしようか。
それとも、床を平らにしようか。
初めて「明日」を考える楽しみが生まれたことに気づきながら、私は泥のように深い眠りへと落ちていった。
小さな泥の城壁の中で、安らかな寝息だけが響いていた。




