第2話:泥の指先、水の温もり
喉が、焼けるように渇いていた。
目が覚めた瞬間、最初に感じたのは全身を襲う倦怠感と、口の中のジャリジャリとした不快感。
舌が干からびたスポンジみたいに張り付いて、うまく動かない。
昨晩の雨は止んだのだろうか。
洞窟の外からは、雨音の代わりに不気味なほどの静寂が忍び込んでくる。
湿度は高い。
じっとりと肌にまとわりつくような空気が、私の体温を少しずつ、けれど確実に奪っていくのがわかった。
「……ん、ぅ……」
身じろぎすると、背中にゴツゴツした岩の感触が突き刺さる。
重たい瞼を無理やり持ち上げた。
視界がぼやけて、世界がぐらりと揺れる。
熱があるのかもしれない。
冷たい雨に打たれ、泥の中で寝て、そのまま洞窟に転がり込んだのだ。
風邪を引かない方がおかしいし、そもそも生きているのが不思議なくらいだ。
――あぁ、最悪の目覚めだ。
ギルドを追放され、家も金もなく、挙句の果てに野垂れ死に寸前。
私の人生、どこで間違ったんだろう。
やっぱり、魔導士学校で「土属性」なんて不人気学科を選んだ時か。
それとも、ギルドの面接で「趣味は泥団子作りです。友達はいません」って馬鹿正直に言っちゃった時だろうか。
今さら悔やんでも、出てくるのは乾いた咳だけだった。
「……きゅ?」
自虐的な走馬灯に浸っていると、足元で何かが動く気配。
視線を下ろす。
そこには、昨夜私が作った泥人形――ハニ・ワンがちょこんと座っていた。
膝を抱えるような体育座り。
乾いて少し白っぽくなった表面は、陶器になりかけの粘土みたいにカサついている。
つぶらな瞳(というより、私が指で開けた穴)が、心配そうに私を見上げていた。
その姿は、捨てられた子犬のようであり、同時に私を守ろうとする番犬のようでもある。
「……おはよ、ハニ・ワン」
声が出ない。
掠れた空気の音が漏れただけだ。
喉が張り付いて痛い。まるで紙やすりを飲み込んだみたいにザラつく。
ハニ・ワンが首をかしげる。
その仕草が妙に人間臭くて、私は思わず口元を緩めそうになった。
けれど、乾いた唇がピリッと切れて、鉄の味が広がる。
笑う気力もないらしい。
水。
水が欲しい。
昨日は泥水をがぶ飲みする勢いだったのに、今はその泥水すら恋しい。
洞窟の奥はどうなっているんだろう。
這って確認しようとしたけれど、腕に力が入らなかった。
指先一つ動かすのにも、鉛のような重さを感じる。
脱水症状だ。
知識としては知っている。
人間は水がないと3日も持たない。
でも、魔力を使った後はもっと早い。
昨夜、ハニ・ワンを作るのに全魔力を注ぎ込んだせいで、私の体は枯渇した井戸みたいになっているのだ。
血管の中を流れているのが血液ではなく、熱を持った砂のように思えてくる。
「……み、ず……」
ハニ・ワンに向かって、弱々しく手を伸ばす。
ハニ・ワンは私の指を不思議そうに眺め、そして自分の泥の指で、私の指先をツンと突いた。
ひんやりとした感触。
違う。
遊んで欲しいんじゃないの。
助けて欲しいの。
でも、この子に何ができるというのか。
生まれてまだ数時間の、知能があるかも怪しい泥人形だ。
言葉だって通じない。
私が死んだら、この子もやがて風化して、ただの土の塊に戻るだけ。
――ごめんね。
せっかく生まれたのに、ご主人様がポンコツで。
視界が明滅する。
黒いモヤが視界の端から侵食してくるのが見えた。
意識が遠のく中で、本能的な恐怖が鎌首をもたげる。
死にたくない。
まだ何も成し遂げていない。
誰にも認められず、誰にも愛されず、こんなカビ臭い穴倉で干からびて死ぬなんて嫌だ。
こんな惨めな最期、あんまりだ。
渇き。
激しい渇望。
冷たい水で喉を潤したい。
生き延びたい。
その強烈な「願い」が、制御できない魔力の波となって、私の中から溢れ出した。
理屈じゃない。
思考じゃない。
細胞の一つ一つが叫ぶ、生の叫びだ。
ドクンッ。
心臓が大きく跳ねたのと同時に、私の魔力パスが繋がっているハニ・ワンの方から、異質な「音」が聞こえた。
ヴィィィィィィン……!
虫の羽音のような、あるいは何かが高速で振動するような音。
耳障りな高周波が洞窟内に響き、鼓膜を揺らす。
薄目を開けて、私はその光景を見た。
ハニ・ワンが立っている。
でも、様子がおかしい。
その両手が、肘から先が、ぐるぐると渦を巻くように変形していた。
指がない。
5本の指が融合し、先端が鋭利な円錐状に捻じれている。
まるで、大工道具の錐のように。
「……え?」
私の思考が追いつくよりも早く、ハニ・ワンはその鋭利な両腕を、洞窟の岩盤に突き立てた。
ガガガガガガガッ!!
凄まじい音が洞窟内に反響する。
岩が削れ、粉塵が舞う。
ハニ・ワンの腕が、まるでドリルのように高速回転して、硬い岩盤をバターのように掘り進んでいく。
飛び散る石礫が私の頬を掠めたけれど、痛みを感じる余裕すらない。
地面を伝って、重低音が私の背骨をビリビリと震わせる。
――嘘でしょ。
あれは土魔法じゃない。
土魔法に、あんな回転運動を加える術式なんて存在しない。
あれは物理的な変形だ。
私の「水が欲しい」という切実なSOSを受信したハニ・ワンが、その目的を達成するために、自らの身体構造を最適化したのだ。
地中の水分を探知するには、繊細なソナーが必要だ。
硬い岩盤を砕くには、強力な掘削機が必要だ。
だから、成った。
ただそれだけの理由で、この小さな泥人形は進化してしまった。
私の生存本能を、そのまま破壊力に変換して。
ヴィィィィ……ガリガリガリッ!
穴が深くなる。
ハニ・ワンの半身が埋まるほど掘り進んだ時だった。
湿った土の匂いが、急激に強くなる。
鼻孔をくすぐる、懐かしい雨の匂い。
プシュッ!
空気が抜けるような音と共に、掘った穴の底から何かが噴き出した。
水だ。
地下水脈にぶち当たったんだ。
ハニ・ワンが穴から這い出してくる。
その体は掘削の衝撃と泥水でドロドロになっていた。
ドリル状だった腕は、また元の、不格好で愛らしい丸っこい手に戻りつつある。
でも、完全に元通りじゃない。
指と指の間が水かきのように繋がり、液体を掬うのに適した「お椀」のような形状に変化していた。
ピチャ、ピチャ。
ハニ・ワンが濡れた足音を立てて、私の方へ歩いてくる。
その両手には、たっぷりの水が溜められていた。
岩盤の砂利や泥が混じった、決して綺麗とは言えない濁った水。
でも、今の私にはそれが、女神の聖水のように見える。
キラキラと輝いて見えるほどの、命の水。
ハニ・ワンが私の枕元に膝をついた。
そして、その小さな泥の器を、私の口元へと差し出してくる。
『……』
何も言わない。
ドヤ顔もしない。
ただ、早く飲めとばかりに、つぶらな瞳で見つめてくる。
私は震える首を少しだけ持ち上げて、ハニ・ワンの手のひらに口をつけた。
冷たい。
泥臭い。
砂が歯に当たる。
けれど。
「……ん、ぐ……っぷ」
喉を通る液体の冷たさが、体中の細胞に染み渡っていくようだった。
一口、二口。
夢中で啜った。
ハニ・ワンの手についた泥まで舐め取る勢いで。
命が、戻ってくる。
萎れていた血管に、再び血が巡り始める感覚。
干上がった大地に雨が染み込むように、私の身体が水分を貪欲に吸収していく。
ハニ・ワンは私が飲み干すまで、じっと動かずに手を差し出し続けてくれた。
飲み終わって、私が「ふぅ」と息をつくと、ハニ・ワンは満足げにコクンと頷き、まだ濡れている手で私の頬を撫でる。
ひんやりとした泥の感触。
でも、そこには不思議な温かさがあった。
――あぁ、なんてことだ。
私の胸の奥が、熱いもので満たされていく。
これが、誰かに大切にされるということなのか。
ギルドでは、私がどんなに尽くしても、どんなに完璧な防御壁を作っても、当たり前のように消費されるだけだった。
「仕事だから当然だ」「もっと早くやれ」と。
水一杯どころか、感謝の言葉一つ貰えなかった。
私は、道具以下の扱いだった。
なのに、この子は。
私が命を与えたばかりの、自我すら曖昧なこの泥人形は。
私の願い一つで、その身を削って、形を変えてまで、私を生かそうとしてくれた。
そこには損得勘定も、契約も、上下関係すらない。
ただ純粋な、私という存在への奉仕。
無償の愛、なんて言ったら大袈裟かもしれないけれど。
「……ありがとう」
涙が滲んだ。
今度は、悲しみの涙じゃない。
「おいしい……すごく、おいしかったよ」
私が微笑みかけると、ハニ・ワンの表面がわずかに赤らんだように見えた。
粘土の成分変化か、それとも照れているのか。
たぶん、前者だろうけど、今の私には後者にしか思えない。
私は動くようになった腕で、ハニ・ワンを抱き寄せた。
冷たくて、湿っぽくて、固い。
ドレスが泥で汚れてしまう。
でも、そんなことはどうでもよかった。
むしろ、この汚れこそが今の私の勲章だ。
この泥の匂いが、私にとっての安心の匂い。
私の居場所は、華やかな王都でも、煌びやかなギルドでもない。
この子の隣。
土と泥にまみれた、この薄暗い洞窟なのだ。
「ねえ、ハニ・ワン」
抱きしめたまま、私は呟く。
「私、決めたよ。もう人間なんてどうでもいい」
過激な言葉だったかもしれない。
でも、本心だった。
「私を捨てた奴らなんかより、貴方の方がずっと温かい。……これから先、何があっても、私だけは貴方を最高の形にしてあげる」
それは魔導士としての誓いであり、創造主としての愛の告白だった。
ハニ・ワンは私の腕の中で、微かに振動音を立てて応える。
まるで、猫が喉を鳴らすように。
水分を得て、思考がクリアになっていく。
現状は依然として絶望的だ。
食料はないし、外は荒野だし、魔力も底をついている。
けれど、不思議と不安はなかった。
一人じゃない。
私の指先の延長線上に、最強の相棒がいる。
岩盤を砕き、水脈を掘り当てるドリルを持つ相棒が。
……待てよ?
岩盤を砕けるってことは。
ここ、クレイ高原の硬い地面も掘れるってことだよね?
ふと、私の職人魂(と引きこもり根性)が鎌首をもたげた。
生きる活力が湧いてくると同時に、いかにして楽に生きるかという悪知恵も回転し始める。
「ハニ・ワン、貴方、もしかして……もっとすごいことできる?」
私はハニ・ワンの顔を覗き込んだ。
さっきまでの儚げな雰囲気はどこへやら、私の瞳は怪しく輝いていたに違いない。
雨風を凌ぐだけの洞窟じゃ物足りない。
どうせなら、もっと快適で、安全で、誰にも邪魔されない「引きこもりの楽園」を作りたい。
この子が掘って、私が固める。
地上には出ない。地下に潜って、誰にも見つからない要塞を作る。
そうすれば、二度と誰かに追い出されることもないし、煩わしい人間関係に悩むこともない。
ハニ・ワンは私の意図を察したのか、あるいは私の妄想に呆れたのか。
一度だけ瞬き(のような動作)をして、それから力強く拳を掲げた。
その拳は、「任せろ」と言わんばかりにやる気に満ちている。
「ふふ……よし。目指すは最強の地下シェルターだよ」
私は泥だらけの顔で、ニヤリと笑った。
世界を見返してやる、なんて大層な野望はない。
ただ、絶対に働きたくないだけだ。
安眠と平穏のために、全力を出す。
グゥゥゥゥ……。
その時、盛大な音が洞窟に響き渡った。
私のお腹だ。
決意を固めた途端にこれだ。色気も何もない。
ハニ・ワンがビクリとして、また指をドリルに変形させようとする。
「あ、いや、違うの! それは敵襲の合図じゃなくて……!」
私が慌てて止めると、ハニ・ワンはコテンと首を傾げた。
今度は足元の泥水をすくって、また差し出してくる。
水でお腹を膨らませろということらしい。
……うん、合理的だけど、そうじゃないんだよなぁ。
「……ありがとう。でも、水はもう十分かな」
差し出された泥水に苦笑しながら、私は改めて洞窟の奥を見つめた。
まずは、この穴倉をもう少しマシな寝床にすることから始めよう。
ご飯のことは、その後だ。
薄暗い洞窟の底で、私と一匹の泥人形の生活が、ひっそりと、地味に始まる。
それは、世界を救う戦記の序章なんかじゃない。
ただの、私の「引きこもり生活」の第一歩だった。




