第19話:王女の遠征
**シルヴィア視点**
王都クリスタルパレスの東門が、夜明けと共に重々しい音を立てて開け放たれた。
朝霧が立ち込める石畳の街道に、一斉に蹄の音が響き渡る。
「出立!」
私の号令と共に、背後に控える近衛魔法騎士団『白百合』の精鋭たちが動き出した。
白銀の甲冑が触れ合う金属音。
風のマナを纏った軍馬のいななき。
そして、張り詰めた緊張感が、冷たい朝の空気の中に溶け込んでいく。
私、シルヴィア・アステリアは、愛馬である白銀の天馬『エクレール』の手綱を強く握りしめた。
背中には、まだ冷たい風が当たっている。
けれど、私の胸の奥で燻る熱は、目的地に近づくにつれて高まるばかりだった。
「……殿下。今からでも遅くはありません。どうか、お戻りください」
並走する老騎士が、苦渋に満ちた顔で声をかけてきた。
近衛騎士団長、ガレス。
父王の代から王家に仕える忠臣であり、私の剣の師でもある堅物だ。
白髪交じりの髭を震わせ、彼は私を諫めようと必死だった。
「陛下のご名代である殿下が、最前線など……。もしものことがあれば、このガレス、万死に値します」
「くどいわよ、ガレス」
私は前を見据えたまま、冷たく言い放った。
「私が動かなければ、誰が動くというの? 腐敗しきった貴族院? それとも、予算不足で剣の手入れもままならない地方騎士団?」
「ぐっ……それは……」
「帝国軍の精鋭部隊が『消えた』のよ。ただの撤退じゃない。痕跡すら残さず、神隠しに遭ったかのように。……これを『異常』と言わずして何と言うの」
私は腰に佩いた聖剣『エクスカリバー』の柄を撫でた。
鞘越しでも伝わってくる、微かな脈動。
この剣は知っている。
東の空の下に、世界を揺るがす何かが潜んでいることを。
私の肌が粟立つ。恐怖ではない。これは武震いだ。
「それにね、ガレス。……私は退屈なのよ」
「は?」
「書類の山と、狐と狸の化かし合いのような宮廷政治。あんなカビの生えた場所で朽ち果てるくらいなら、未知の化け物の餌になった方がマシだわ」
私はエクレールの腹を蹴った。
天馬が大きく翼を広げ、風のマナを蹴って加速する。
鬱屈とした王都の空気が、私の背後へと流れていく。
目指すは東。
死と乾燥の荒野、クレイ高原。
***
王都からクレイ高原までは、通常の早馬でも三日はかかる距離だ。
しかし、天馬騎兵を含む精鋭のみで構成された私の部隊は、宮廷魔導師による風の追い風と身体強化を駆使し、わずか一日半でその領域へと踏み込んだ。
景色が一変する。
豊かな緑と森に囲まれたアステリアの領土から、赤茶けた岩肌が露出する荒野へ。
風の味が変わった。
湿り気を含んだ優しい風から、砂混じりの乾いた、鉄錆のような匂いのする風へ。
「……ここが、クレイ高原か」
私は手綱を引き、エクレールを崖の上で止めた。
眼下に広がるのは、見渡す限りの荒野。
草木はまばらで、岩塊が墓標のように点在している。
かつてはここにもマナの鉱脈があり、採掘者たちで賑わっていたというが、今では見る影もない。
ただ風が吹き抜けるだけの、死の世界だ。
「殿下、魔力探知班からの報告です」
追いついてきたガレスが、険しい顔で地図を差し出した。
「この先、座標X-209地点。……帝国軍の通信が途絶したとされる『消失点』です。周辺のマナ濃度が、異常な数値を示しています」
「異常とは?」
「通常、このような枯渇した荒野のマナ濃度は測定限界以下です。しかし、あの地点だけ……まるで巨大な『マナの泉』が存在するかのような反応が。それも、極めて純度の高い『土属性』です」
私は目を細めた。
マナの泉。
そんなものがこの枯れた土地にあるはずがない。
あるとすれば、それは自然のものではなく、誰かが意図的に集めたものだ。
「行くわよ。……陣形は密集隊形。敵の姿が見えなくとも、常に臨戦態勢を維持なさい」
「はっ!」
騎士たちが声を揃える。
彼らの顔には、隠しきれない緊張と恐怖の色が滲んでいた。
無理もない。相手は、あの大陸最強の帝国軍を「食べた」かもしれない未知の怪物なのだから。
私たちは荒野を進んだ。
岩陰に潜むサンドラットや、空を舞うハゲタカすら姿を見せない。
静かすぎる。
生き物の気配が、不自然なほど排除されている。
やがて、その場所は見えてきた。
「……止まれ」
私は片手を上げて部隊を制止させた。
目の前に広がる光景に、私は息を呑んだ。
そこには、轍があった。
帝国軍特有の、重量級装甲車が踏みしめた深く太いタイヤ痕。
それが数十台分、西へ向かって一直線に伸びている。
ここまでは、諜報部の報告通りだ。
異常なのは、その「先」だ。
轍が、唐突に途切れている。
爆発の跡も、争った形跡も、装甲車の破片一つない。
ただ、ある線を境にして、地面が綺麗に、あまりにも平坦に「整地」されていたのだ。
「……何よ、これ」
私はエクレールから降り、その境界線に立った。
ブーツの先で、途切れた轍と、平らな地面を踏み比べる。
整地された地面は、土ではない。
カツン、という硬い音がする。
まるで岩盤を一度ドロドロに溶かし、左官職人が丁寧にコテで均して、そのまま焼き固めたような……艶のあるセラミックのような質感。
「ガレス。……土魔法で、これほどの広範囲を一瞬で『舗装』することは可能?」
私が問うと、ガレスは地面に手をつき、首を横に振った。
「不可能です、殿下。宮廷魔導師団の土属性術師を総動員して、数週間かけてようやく……というレベルでしょう。それに、この硬度。魔法で固めたというより、物質そのものが『変質』しています」
物質変成。
しかも、軍隊を飲み込んだ直後に、証拠隠滅のために行われた?
「飲み込んで、蓋をした……というわけね」
私は足元の地面を睨みつけた。
この下に、何がある?
帝国軍はどこへ消えた?
その時。
キィィィィィン……。
耳鳴りのような、高い音が風に乗って聞こえた。
騎士たちがざわめく。
「なんだ、今の音は?」
「風鳴りか?」
「いや、何か……見られている気がする」
私も感じた。
視線だ。
それも、生身の眼球によるものではない。
もっと冷たく、機械的で、感情のないレンズのような視線が、どこか高いところから私たちを見下ろしている。
私は空を見上げた。
灰色の雲が流れる空。
何もない。鳥一羽飛んでいない。
――いいえ。
『何もない』のがおかしいのよ。
私は目を凝らす。聖剣の担い手としての直感を研ぎ澄ます。
雲の切れ間。
光の加減で、一瞬だけ空気が歪んだ場所があった。
「……そこね」
私は聖剣を抜き放った。
シャラァァンッ!
白銀の刃が、曇天の下で眩い光を放つ。
「全軍、上空警戒! 見えない『目』があるわ!」
私の叫びと同時に、空気が弾けた。
ヒュンッ!
乾いた音がして、私の足元の地面――あと数センチずれていれば私の爪先だった場所――に、小さな穴が穿たれた。
「殿下ッ!!」
ガレスが盾を構えて私の前に飛び出してくる。
騎士たちが詠唱を始め、防御結界を展開する。
攻撃?
いいえ、違う。
これは「警告射撃」だ。
音もなく、魔力の波動もなく。
ただ圧縮された空気の塊だけが飛んできた。
物理的な、純粋な狙撃。
「……挨拶代わり、というわけ?」
私は唇を舐めた。
怖い?
まさか。
ゾクゾクするわ。
見えない敵。理解不能な魔法。圧倒的な技術力。
これこそが、私が求めていた「劇薬」だ。
「ガレス、下がって。……相手は会話ができる知性を持っているわ。ただの凶暴な魔獣なら、とっくに襲いかかってきているはずよ」
「ですが!」
「これは『これ以上近づくな』という意思表示よ。……なら、ノックをしてあげるのが礼儀でしょう?」
私は聖剣を掲げた。
刀身にマナを集中させる。
白銀の光が膨れ上がり、剣先からほとばしる。
「アステリア王国第一王女、シルヴィア・アステリアである! この地の主よ、姿を見せなさい!」
私は剣を振り下ろした。
ズドォォォォォンッ!!
光の斬撃が地面を走り、先ほどの「舗装された地面」を一直線に切り裂いた。
土煙が上がる。
私は知っていた。
帝国軍が消えた場所。
不自然な整地。
上空からの監視。
答えは一つ。
敵は、この地下にいる。
土煙が晴れると、切り裂かれた地面の下から、何かが現れた。
それは岩盤でもなければ、空洞でもない。
赤褐色に輝く、見たこともないほど堅牢な「壁」だった。
「……へぇ」
私の斬撃を受けて、傷一つついていない。
聖剣の一撃よ?
ドラゴンの鱗だって切り裂く刃を、完全に弾いたというの?
騎士たちがどよめく中、私はその壁の前まで歩み寄った。
手で触れる。
温かい。
そして、微かに脈打っている。
まるで、巨大な生き物の皮膚のように。
「見つけた」
私は確信した。
ここに、いる。
帝国を退け、世界を欺いている何者かが。
その時、壁の一部が音もなくスライドした。
まるで自動ドアのように滑らかに開き、暗い口を開ける。
中からは、ふわりと甘い香りが漂ってきた。
土の匂い。
水の匂い。
そして……何かしら、この、心を蕩かすような甘い匂いは。
お菓子? スープ?
殺伐とした荒野の真ん中で?
「……招待状ね」
私は振り返り、青ざめる騎士たちに命じた。
「ガレス、お前たちはここで待機しなさい。……ここから先は、私一人で行くわ」
「なっ、正気ですか!? 罠に決まっています!」
「罠なら、さっきの狙撃で私の頭は吹き飛んでいたわ。それに……」
私は開かれた扉の奥を見つめた。
暗闇の奥で、二つの赤い光が灯った気がした。
「この主は、大人数で押しかけるのを嫌うみたいだから」
私は躊躇なく、その暗闇へと足を踏み入れた。
背後でガレスの叫び声が聞こえたが、扉が閉まると同時に、音は完全に遮断された。
***
地下へと続く通路は、驚くほど整備されていた。
壁も床も、あの謎のセラミック素材で覆われており、塵一つ落ちていない。
天井には発光する苔(いや、魔石かしら?)が埋め込まれ、柔らかな光を放っている。
そして何より、暖かい。
外の荒野の寒さが嘘のように、春の日差しのような温度が保たれている。
「……何なの、ここは」
軍事要塞を想像していた。
あるいは、おどろおどろしい魔王の迷宮を。
でも、ここにあるのは「生活」の気配だ。
丁寧に掃き清められた床。
機能的に配置された通気口。
私は聖剣を下げたまま、警戒しつつ奥へと進んだ。
甘い香りが強くなる。
これは……カボチャ?
バターと砂糖が焦げるような、豊潤な香り。
どうしてこんな地下要塞で、家庭料理のような匂いがするの?
通路を抜けると、広い空間に出た。
そこは、工房のようだった。
雑然と、しかし使いやすく整理された道具類。
赤々と燃える炉。
天井からは白い影(さっきの狙撃手か?)がぶら下がり、奥には青い多脚の機械が動き回っている。
そして、私の目の前に仁王立ちする、身長2メートルを超える赤褐色の巨人。
その巨人の足元に、それはいた。
作業台に向かい、背中を丸めている小柄な人影。
ボサボサの茶色の髪。
泥だらけのオーバーオール。
手にはスプーンを持ち、口の周りに黄色いクリームをつけて、こちらをキョトンと見上げている少女。
「……あ、お客さん?」
気が抜けるような声。
拍子抜けだ。
これが、帝国軍を壊滅させた首謀者?
ただの田舎娘じゃない。
そう思った、次の瞬間だった。
ドクンッ……!!
私の心臓が、早鐘のように打ち鳴らされた。
腰の聖剣が、鞘の中で激しく振動し、共鳴音を上げる。
――違う。
ただの少女じゃない。
私は、聖剣の担い手として、「見る目」を持っている。
人の内側にあるマナの質や、魂の格を見抜く力を。
私の目には、見えてしまった。
その少女の背後に揺らめく、圧倒的な金色の光を。
それは、ただの魔力ではない。
大地そのものが呼吸しているかのような、無限の循環。
泥臭く、しかし何よりも清らかな、「生命」の根源的な輝き。
聖性。
それも、人間が修行で得るようなものではない。
神話に出てくる『地母神』のような、圧倒的なる豊穣の気配。
「……な」
言葉が出なかった。
私は、怪物と戦う覚悟で来た。
邪悪な魔術師を断罪するつもりで来た。
けれど、目の前にいるのは「聖なるもの」だった。
泥にまみれ、だらしない格好をしていても、その本質は、王城の祭壇に祀られているどんな聖遺物よりも尊く、力強い。
少女はスプーンを置くと、困ったように眉を下げた。
「えっと……カボチャのグラタン、食べる? まだ焼けたばかりだけど」
その無垢な言葉が、私の張り詰めた緊張の糸を、プツリと切った。
銀の王女として、多くの強者と対峙してきた私。
聖剣の主として、魔を祓ってきた私。
そんな私が、この泥だらけの少女を前にして、初めて膝が震えるのを感じていた。
これは、勝てない。
剣で斬るとか、魔法で撃つとか、そういう次元の話ではない。
大地そのものを敵に回すようなものだ。
私は聖剣から手を離し、呆然と立ち尽くすしかなかった。
甘いカボチャの香りが、圧倒的な「聖性」と共に、私を包み込んでいく。




