第15話:ハニ・スリー誕生
恐怖というのは、冷たい泥水に似ている。
一度心の中に流れ込むと、なかなか乾かないし、じっとりと重く、体温を奪い続けるからだ。
帝国の斥候部隊が去ってから、丸一日が過ぎた。
私の地下帝国には、再び静寂が戻っている。
ハニ・ツーが修復した換気口からは、いつものように高原の乾いた風が吹き込み、カボチャの葉が擦れるカサカサという音が聞こえるだけだ。
でも、私の耳の奥には、まだあの音がへばりついていた。
ザッ、ザッ、ザッ。
規則正しく、慈悲のない、鉄の足音。
あの音は、私の聖域を踏みにじろうとする「暴力」の予兆だ。
「……眠れない」
私は工房の作業台に突っ伏していた。
目の前には、飲みかけのカボチャスープ。
大好きなはずの甘い香りが、今日ばかりは胃にもたれる。
隣には、ハニ・ワンが直立不動で立っている。
彼は一睡もしない(眠る機能がない)けれど、私の不安を感じ取ってか、片時もそばを離れようとしない。
その赤褐色の装甲に触れる。
硬くて、温かい。
いつもなら、この感触だけで安心できるのに。
「ハニ・ワン。……あいつら、また来るよね」
問いかけると、ハニ・ワンはゆっくりと頷いた。
嘘をつかない彼の誠実さが、今は少しだけ残酷だ。
「次は、もっとたくさん。もっと重装備で。……壁を壊す道具を持って」
想像してしまう。
私の自慢の「多重積層装甲壁」が、帝国の魔導蒸気ドリルで粉砕される光景を。
ハニ・ワンが奮戦虚しく、数の暴力で押し潰される光景を。
ハニ・ツーが解体され、ただの土塊に戻される光景を。
そして、私のカボチャ畑が、鉄のブーツで踏み荒らされ、黒い油で汚される光景を。
「……嫌だ」
ガタガタと震えが止まらない。
怖い。
死ぬのが怖いんじゃない。
「奪われる」のが怖いんだ。
やっと手に入れた、この温かい場所を。
誰にも否定されない、私だけの楽園を。
――守らなきゃ。
私は顔を上げた。
涙で滲んだ視界を、泥だらけの袖で乱暴に拭う。
泣いている場合じゃない。
震えている暇があったら、手を動かせ。
私は魔導士だ。
そして、ここの「主」だ。
「ハニ・ワン。ハニ・ツーを呼んで。……新しい子を作るよ」
***
工房の明かりを最大にする。
私は作業台の上に、新しい粘土の山を用意した。
今回のコンセプトは明確だ。
ハニ・ワンは「近接戦闘」と「防御」のスペシャリスト。
ハニ・ツーは「工作」と「後方支援」のスペシャリスト。
足りないのは何か。
「目」と「距離」だ。
帝国の連中が近づいてくるのを、もっと早く察知したい。
壁際まで来られてからじゃ遅い。
数キロ先、いや十キロ先から敵を見つけ出し、先手を打てる「監視者」が必要だ。
そして、もし戦闘になった場合。
ハニ・ワンが前線で敵を食い止めている間に、遠距離から敵の急所を撃ち抜く「狙撃手」がいれば、勝率は格段に上がる。
「素材は……軽く。そして、風に溶けるように」
私は地下倉庫から、オットーへの食器作りで余った「特級カオリン(白粘土)」を取り出した。
純白で、焼成すると非常に軽く、硬くなる素材。
これに、私が昔、川底で集めた「雲母」の粉末を混ぜ込む。
キラキラと光る雲母は、風のマナと相性がいい。
さらに、一番重要なパーツ。
私は砂袋から、さらさらとした珪砂を一掴み取り出した。
「ハニ・ワン、炉の温度を上げて。1500度。……ガラスを溶かすよ」
ハニ・ワンが胸の炉を開く。
私は魔力で珪砂を空中に浮かせ、炎の中へと放り込んだ。
ジジジジッ……!
砂が高熱で溶け、飴細工のようにドロドロの液状になる。
それを空中で回転させ、遠心力と魔力で形を整える。
不純物を取り除き、透明度を極限まで高める。
できたのは、直径10センチほどの巨大な「レンズ」だ。
望遠機能を持たせた、魔導レンズ。
これが、新しい子の「眼」になる。
本体の造形に取り掛かる。
ハニ・ワンのようなマッシブな体躯はいらない。
ハニ・ツーのような安定感もいらない。
必要なのは、風に乗る軽さと、空気に同化する静けさ。
骨格を細く、中空にする。鳥の骨のように。
背中には、折りたたみ式の翼。
羽ばたくためではない。
上昇気流を捉え、滑空するためのグライダー翼だ。
素材は極薄に伸ばした白磁セラミック。
紙のように薄いが、鋼のようにしなやかだ。
腕は二本だが、右腕そのものを長く変形させ、「筒状」にする。
空気圧で弾丸(土の礫や針)を撃ち出す、無音の狙撃銃だ。
「……ふぅ、ふぅ……」
汗が滴る。
集中力が極限まで高まり、周りの音が消える。
指先が熱い。
泥をこねている感覚が、脳に直結している。
形が見えてきた。
純白の、細身の人型。
顔には目鼻立ちはない。
ただ一つ、顔の中央に巨大なモノアイ(単眼)のレンズが埋め込まれている。
不気味?
いいや、美しい。
機能美の極致だ。
仕上げの焼成。
白磁の肌が、高熱で焼き締められ、透き通るような光沢を帯びていく。
雲母の粒子が光を反射し、見る角度によって姿が霞んで見える「迷彩効果」も発現している。
「完成……」
作業台の上に横たわる、静謐な白き狩人。
私は震える手で、その額に触れた。
最後の儀式。
名前を刻む。
「汝、千里を見通す眼。風に乗り、音もなく敵を穿つ白い影」
魔力を練る。
私の恐怖、不安、そして「守りたい」という切実な願いを、全てこの名前に込める。
「――その名は、『Hani-Three』」
指先から青白い光が溢れ、白磁の額に文字が焼き付けられた。
キィィィィィン……。
高く、澄んだ音が響いた。
ハニ・ワンの時の重低音とも、ハニ・ツーの時の機械音とも違う。
それは、張り詰めた糸を弾いたような、研ぎ澄まされた音色。
瞬間。
私の脳内ネットワークが、パッと明るくなった。
『……マスター』
『……水、異常なし』
ワンとツーの声に混じって、新しい「波長」がリンクする。
『…………捕捉』
感情の起伏がない、氷のように冷徹な思念。
作業台の上のハニ・スリーが、音もなく起き上がった。
関節の駆動音すらしない。
まるで重力がないかのように、ふわリと空中に浮き上がる。
背中の純白の翼が展開し、工房のわずかな空気の流れを捉えたのだ。
ギョロリ。
顔面の巨大なレンズが動き、私を捉えた。
絞りが調整され、私の網膜の模様まで解析されているような感覚。
怖い?
いいえ。
頼もしい。
ハニ・スリーは空中で一回転すると、天井の梁の上に音もなく着地した。
そこから、工房全体を見下ろしている。
まるで、最初からそこにいた守護像のように。
ハニ・ワンが嬉しそうに見上げ、手を振った。
ハニ・ツーが四本の腕で拍手をした。
ハニ・スリーは、それに対して小さく翼を震わせただけだった。
クールだ。
末っ子は、一番のニヒルな性格らしい。
『ハニ・スリー。……貴方の任務は、監視と狙撃』
私が思念を送ると、即座に返答が来た。
『了解。……半径5キロ、制圧可能領域。……敵影、なし』
ハニ・スリーのレンズが回転し、壁の向こう、地上の映像を私に送ってきた。
私の「魔力視」とは比べ物にならない解像度。
暗闇の中でも、岩陰に隠れた小動物の体温まで感知している。
「すごい……これなら、夜でも安心だね」
私はへなへなと椅子に座り込んだ。
緊張の糸が切れ、ドッと疲れが押し寄せてくる。
でも、あの「鉄の足音」への恐怖は、ずいぶんと薄れていた。
私には、三人の騎士がいる。
剛腕のハニ・ワン。
技巧のハニ・ツー。
千里眼のハニ・スリー。
陸・海(水)・空。
いや、泥・水・風か。
私の小さな軍隊が、ここに結成されたのだ。
「……ふふ」
乾いた笑いが漏れる。
引きこもるために、どんどん武装していく。
矛盾しているようで、これこそが「引きこもり」の真髄だ。
外界との接触を断つためには、外界を拒絶する圧倒的な力が必要なのだから。
「ハニ・スリー、まずは通気孔から外に出て、上空警戒をお願い。……ハニ・ワンとハニ・ツーは、通常業務に戻って。私は……」
私はスープの冷めた皿を見た。
「……ご飯食べて、寝る。もう限界」
ハニワたちが、それぞれの持ち場へと散っていく。
ハニ・スリーは風のように音もなく通気孔へ消え、ハニ・ワンは私の肩に毛布を掛けてくれた。
目を閉じる。
脳内には、三つの異なる思念が、心地よいノイズのように響いている。
(ワン:マスター、休息中。周囲警戒レベル1)
(ツー:温室、湿度良好。カボチャ成長率120%)
(スリー:上空、風速3。視界良好。……星が、綺麗)
末っ子の意外な感性に、私は口元を緩めたまま、深い眠りへと落ちていった。
帝国の脅威は去っていない。
むしろ、これからが本番だろう。
でも、今日のところはこれでいい。
私の城は、昨日よりもずっと高く、強くなったのだから。
夢の中で、私はハニ・スリーの視界を借りて、満天の星空を飛んでいた。
眼下に広がるクレイ高原は、今はまだ静かに眠っていた。




