第1話:地の底からの産声
骨の髄まで凍りつくような、冷たい雨だった。
視界を埋め尽くすのは、灰色に煙る荒野と、足元に広がるぬかるみだけ。
吐く息は白く、震える唇からは熱が逃げていく。
防水加工の施されたローブなんて上等なものは、とうの昔に雨水を吸い込んで、今はただの重たい布切れになって私にのしかかっていた。
「……あ、うぅ」
泥に足を取られて、無様に転ぶ。
顔面から地面に突っ込んだ。
鼻孔に飛び込んでくるのは、生臭い土の匂いと、雨の冷気。
普通なら不快でたまらないはずのその匂いが、私にはどうしようもなく安らぐ香りだったことが、今の私にとって唯一の救いだったかもしれない。
――お前みたいな泥臭い魔導士は、ウチのギルドには必要ないんだよ!
頭の中で、昨日の怒号が反響する。
王都の冒険者ギルド。
攻撃魔法こそが至高、派手な爆発こそが正義とされる場所で、私の居場所なんて最初からなかったのだ。
『土魔法? なんだそれは。畑でも耕すのか?』
『汚れるから近づかないでくれないか』
『クエストの足手まといだ』
罵倒の言葉は、いつだって鋭利な刃物みたいに私の心を削り取っていった。
結局、手切れ金代わりの僅かな銅貨を投げつけられて、私は王都を追い出された。
行くあてなんてなかった。
ただ、無意識に足が向いていたのは、誰も寄り付かないと言われる大陸西方の辺境――「クレイ高原」。
良質な粘土が採れるという噂だけを頼りに、ふらふらと歩き続けて、気づけばこのザマだ。
「寒い……」
指先の感覚がない。
ブーツの中はグショグショで、足の指が壊死しそうなほど冷たい。
このままここで泥に埋もれて死ぬのかな。
それも、悪くないかもしれない。
誰にも必要とされないまま、大好きな土に還れるなら、それはきっと幸せなことだ。
……ううん。
嘘。
やだ。死にたくない。
重たい体を無理やり起こす。
雨脚は強くなる一方だった。
どこか、雨宿りできる場所を探さないと。
這うようにして進む。
泥水が目に入って痛い。
ふと、岩肌に黒い亀裂が走っているのが見えた。
洞窟だ。
残った力を振り絞って、その裂け目へと滑り込む。
中は乾燥していて、雨風は凌げそうだった。
けれど、気温は外と変わらない。
濡れた服が体温を奪っていく。
ガチガチと歯が鳴り止まない。
焚き火を起こそうにも、薪なんてないし、そもそも火魔法なんて使えない。
孤独だ。
世界にたった一人、置き去りにされた気分。
暗闇が、口を開けて私を飲み込もうとしている。
「……誰か」
掠れた声が出た。
誰もいないことは分かっているのに。
「誰か……助けて……」
返事はない。
ただ、雨音だけが遠くで響いている。
寂しい。
怖い。
このまま一人で凍えて死ぬなんて、嫌だ。
無意識に、手が地面を探っていた。
ひんやりとした感触。
でも、それはただの冷たさじゃなかった。
しっとりとしていて、吸い付くような粘り気。
私の指先が、その「土」に触れた瞬間、微かな電流のようなものが走った気がした。
「……粘土?」
それも、ただの粘土じゃない。
王都の画材屋で売っているような、パサパサした死んだ土とは違う。
まるで生きているみたいに、私の魔力を吸い取ろうとするような、貪欲な土。
――あぁ、いい土だ。
極限状態だというのに、私の職人魂(そんな大層なものじゃないけれど)が疼いた。
気づけば、私はその粘土を両手で掬い上げていた。
ねっとりと指に絡みつく重み。
冷たいはずなのに、なぜか温かい。
こねたい。
形を作りたい。
それは魔術師としての儀式ではなく、ただの生存本能だった。
何かを作っていれば、寂しさが紛れる気がした。
独りぼっちの夜、布団の中で人知れず泥人形を作っていた、あの頃のように。
「……友達が、欲しいな」
ポツリと、本音が漏れた。
人間は怖い。
私を馬鹿にするし、汚いものを見るような目で見るし、すぐに裏切る。
でも、土は違う。
私が愛を込めれば、その分だけ滑らかに、美しく応えてくれる。
裏切らない。
嘘をつかない。
私の指の動きだけを、正直に形にしてくれる。
「私を……守ってくれる、友達」
指先に魔力を込める。
学校で習ったような、教科書通りの魔力操作じゃない。
もっと原始的で、直接的な。
私の心臓の鼓動を、そのまま土に移し替えるような感覚。
呼吸をするように、魔力が流れていく。
私の恐怖、孤独、悲しみ、そして「生きたい」という願い。
その全てが、ドロドロとした魔力の奔流となって、手の中の粘土に吸い込まれていった。
――クレイ高原の地下深く。
そこには、太古の昔に砕け散った「神の肉片」が眠っているなんて、今の私は知る由もなかった。
私が今こねているのが、伝説の素材『神代粘土』だということも。
ただ、無心に手を動かす。
親指で眼窩を窪ませる。
小指で口のラインを引く。
手足は……動きやすいように、太く、しっかりと。
大きさは、私の両手に収まるくらい。
「……できた」
闇の中で、ぼんやりと完成品を眺める。
不格好な泥人形だ。
頭が大きくて、手足が短くて、お世辞にも上手とは言えない。
赤い粘土の層がたまたま頭の部分に混じっていて、まるでハチマキを締めているように見える。
名前は……そうだな。
最初の一人だから、ハニワのハニ・ワン。
安直すぎるけど、今の私にはこれ以上考える余裕なんてなかった。
「……ハニ・ワン」
指でちょんと、その小さな頭を突く。
動くわけがない。
ただの泥だ。
魔法でゴーレムを作るには、高価な魔石と、複雑な術式が必要だって、先生も言っていた。
こんな、行き当たりばったりの泥遊びで、命が宿るはずなんて――。
ドクン。
心臓が跳ねた。
違う。
私の心臓じゃない。
手の中の、泥人形から、鼓動が伝わってきたんだ。
「え……?」
泥人形の表面が、波打つように蠢いた。
窪ませただけの眼窩に、ボゥッとした淡い光が灯る。
それは私の魔力の色と同じ、頼りなげな琥珀色の光。
ギギ、グググ……。
濡れた土が擦れるような音を立てて、ハニ・ワンが首を動かした。
そして、私の顔を見上げる。
目が、合った。
「……あ」
悲鳴を上げるべきだったのかもしれない。
無機物が動くなんて、普通ならホラーだ。
でも、私は不思議と恐怖を感じなかった。
だって、私の中から流れ出た魔力が、そこで脈打っているのが分かるから。
あれは、私の一部だ。
『……』
ハニ・ワンは声を発しなかった。
けれど、その短い泥の腕を精一杯伸ばして、私の震える指先に触れてきた。
じわり。
熱が、伝わってくる。
ただの泥の塊のはずなのに、そこには確かな「体温」があった。
私の魔力が変換された熱エネルギー。
小さな湯たんぽみたいに、冷え切った私の指を温めてくれる。
「……あったかい」
涙が溢れた。
寒さのせいじゃない。
誰かに触れられたのが、あまりに久しぶりだったから。
ギルドでは誰にも触らせてもらえなかった。
汚いと罵られ、避けられ続けてきた。
でも、この子は違う。
私の泥だらけの手を、その泥だらけの手で握り返してくれる。
「貴方は……私を、嫌わない?」
問いかけると、ハニ・ワンはコクンと頷いた気がした。
気のせいかもしれない。
でも、その瞳の光は、私を全肯定してくれるように優しく瞬いていた。
「ありがとう……」
私はハニ・ワンを胸に抱きしめて、洞窟の壁に寄りかかった。
泥臭い匂いが、今は最高のアロマに感じる。
外の雨音はまだ止まないけれど、もう孤独じゃなかった。
私の手の中には、世界で一番優しい「土塊」がいる。
意識が急速に遠のいていく。
安心感と疲労が、私を深い眠りへと誘っていた。
眠りに落ちる寸前、私は微かに感じていた。
地面の下、もっと深い場所から、無数の「何か」が私の魔力に呼応して、ざわめき始めているのを。
それはまるで、新しい女王の誕生を祝う、地の底からの産声のようだった。
――これが、後に大陸全土を震え上がらせる『土塊の魔軍』の始まりだなんて、夢にも思わずに。
私はただ、泥の温もりの中で、泥のように眠った。




