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はじめて、未来の話をした気がする
朝。
使用人のノックで目を覚まし、侍女たちの手で淡々と支度が進む。
誰かが焼いたパン。
味はおいしい。
スープも温かくて、胃に優しい。
でも、やっぱり「自分で選んだものじゃない」という感覚は、どこか遠くに自分を置いていく。
神殿での祈りは、相変わらず形式的で、同じフレーズの繰り返し。
七海は目を閉じながら、心の中で静かにカウントを数えていた。
十秒、二十秒、三十秒──。
(——息が詰まりそう)
祈られているというより、見張られている気分だ。
けれど、昨日のレオンハルトとの会話のせいか、ほんの少しだけ空気がやわらかく感じた。
「触れられない奇跡」として扱われることに慣れ始めていた自分が、少し怖くもある。
午後になり、王宮の一室へと呼ばれた。
「懇談」とだけ伝えられていたが、内容は明かされていない。
何かあったのだろうかと、少しだけ不安になる。
扉が開くと、まず目に入ったのは、窓際に立つレオンハルトの姿だった。
陽光を背にして佇むその背は、威圧感こそないが、隙のない完璧な王子様の姿だった。
その佇まいは、静かに部屋の空気を引き締めている。
彼が七海に気づくと、少しだけ目を和らげて言った。
「来てくれてありがとう、七海」
「呼ばれたので……失礼します」
部屋の中央には、もう一人。
落ち着いた灰色の髪を持つ青年が控えていた。
灰色の髪に鋭い目元。
王太子より少し年上に見えるが、落ち着きすぎていて年齢が読めない。
「紹介しよう。彼は俺の側近、ギルベルト・アーデルバルト。学生時代からの付き合いだ」
「はじめまして、聖女殿下。……いや、七海様、とお呼びすべきでしょうか」
ギルベルトは、穏やかに目を細めながら頭を下げた。
丁寧で整った物腰だが、明らかに観察眼が鋭い。
(……ちょっと苦手なタイプかもしれない)
「七海で大丈夫です。こっちでは“殿下”とか、慣れないので……」
その言葉に少し驚いたような反応を見せたギルベルトだが、すぐに柔らかな笑みを返す。
「王太子殿下より事前に伺っています。どうかご無理なさいませんように」
――――――
当たり障りのない会話を終え、ほどなくして、もう一人扉から入ってきたのは、黒髪で背の高い男性だった。
鍛えられた体躯に、身のこなしは無駄がない。
飾緒を肩にかけた軍服姿。
どこか実戦向きな鋭さと、堂々とした威厳をあわせ持っていた。
「聖女殿下、お目にかかれて光栄です。私は王国騎士団長、レオニス・ヴァルターと申します」
七海は少し緊張しながらも会釈を返す。
「はじめまして。……その、七海で構いません」
「では……七海様。畏まりました」
声も態度も堂々としているのに、どこか安心感のある雰囲気。
それは騎士というより、頼れる上司、という感じが近いかもしれなかった。
レオニスの対応は、騎士としてはもちろん、大人としても安定していた。
七海が少しずつ表情を和らげていくのを見て、レオンハルトは小さく息をつく。
(やはり……彼女は、“接し方”で変わる)
目の前の少女は、ただの“器”じゃない。
感情を持ち、心を動かす人間だ。
その当たり前の事実が、この国の中では案外見過ごされている。
――――――
少し会話の流れが落ち着いたところで、七海は思い切って尋ねた。
「あの、レオニスさんは……最初に私を見て、どう思いました?」
唐突な問い。
けれどそれは、七海の中で長く渦巻いていた疑問だった。
“聖女様”として扱われることに、息苦しさを感じる彼女の——叫びのような小さな問い。
レオニスは一瞬目を瞬き、口元に笑みを浮かべる。
「正直に申し上げると……“少女”だと感じました」
「……少女?」
「この国の命運を担う“聖女”というより、突然この世界に呼ばれて、戸惑っている一人の若い女性。
だからこそ、守らなければと思いました。信仰ではなく、責任として」
その言葉に、七海の胸の奥がじんわりと温かくなる。
“聖女”ではなく、“人間”として見てくれる人がまた一人、ここにいた。
「……ありがとうございます。そう言ってもらえるの、すごく、救われます」
「お礼には及びません。もっとも……王太子殿下がすでにお気に入りのようなので、私は補佐に徹する所存です」
その言葉に、レオンハルトのまなざしが鋭くなる。
「……余計なことを言うな、レオニス」
声の調子はいつもと同じだったが、その視線には一瞬、曖昧な色が混じっていた。
否定も肯定もせず、ただ無言でその場を流す。
けれどその様子に、七海はふっと笑いそうになってしまった。
この国に来て、初めて“普通の会話”をした気がした。
――――――
「レオンハルト殿下、そろそろ本題に入っては?」
ギルベルトが促すと、レオンハルトが頷き、七海の方へ視線を向ける。
「……今日呼んだのは、君と話してて思ったことがあったからなんだ」
「思ったこと……?」
七海が首をかしげると、彼は少し口元をゆるめて言う。
「神殿と王城を行き来するだけの生活、窮屈だろ?」
「……まあ、ちょっとは」
「だから、少し外に出てみないか。視察って名目で」
「えっ……いいの?」
「もちろん、場所は限定されるし、護衛もつける。結界も張る予定だ」
それは、思っていたよりもずっと早い提案だった。
嬉しさと驚きが同時に押し寄せてくる。
「……行けるんだ」
七海は小さくつぶやきながら、目を伏せた。
こみ上げてくるものをぐっと飲み込む。
レオンハルトはまっすぐな目で、彼女を見つめていた。
「君が望むことなら、できる限り応えたい。……そのほうが、この国にとってもきっといいことだから」
まだ全部を信用しているわけではない。
でも、信じたいという気持ちは、確かに生まれていた。
「じゃあ……ちょっとだけ、楽しみにしとくね」
小さく笑った七海に、レオニスもギルベルトも、それぞれ静かに頷いた。
この国での“わたし”を、少しずつ、受け入れていく。
そんな小さな覚悟を、胸の内に灯しながら。
ひとまず5話まで。よろしくお願いします。