3.5
とある偶像が偶像に思うこと
あの光の中から現れた少女は、奇跡と呼ばれるにはあまりに「普通」に見えた。
突然異世界に呼び出されたというのに、恐怖で泣き崩れるでも、怒りで騒ぎ立てるでもなく。
ただ静かに、冷静に、自分の置かれた状況を見つめていた。
それは悟ったような目をしているのに、どこかまだ少し夢を見ているような顔だった。
(……ずいぶんと落ち着いている)
最初にそう思った。
この世界の者ならともかく、まったく異なる文化・常識の中で育ったはずの少女が、
言葉も通じない場所で騒がず、現実を受け止めている。
どこか現実離れした神聖さではなく、理性と観察力をまとった存在——
ごく現実的な“聖女”という印象だった。
――――――
その後、召喚された少女——七海の存在は、王宮内で特異な立ち位置を得た。
神託に従い、人々の祈りに応え、そして奇跡を行使した。
彼女の力は本物だった。
負傷兵の傷を癒し、枯れた土壌を甦らせる。
祝福を受けた者は、次第に穏やかな変化を見せはじめる。
「祈りが聖女を通して形となる」
——その伝承を、現実のものにした存在。
だが、その奇跡の光を見て思ったのは、ただの感嘆ではなかった。
その力は、あまりに静かで、あまりに透明だった。
神託に従っているはずなのに、まるで彼女の存在そのものが、
この世界の理を一部書き換えてしまったかのような錯覚すら覚える。
人を治癒し、土地を癒す力。
それは王権や軍権を超えて、人々の信仰に結びつく“純粋な希望”となりうるものだ。
下手をすれば——
政治も支配も飛び越えて、無自覚のまま「象徴」になる。
それは恐ろしいほど、無垢な力だった。
けれど、その力は、彼女自身が望んで持ったものではない。
与えられた役目を、彼女はただ静かに受け止めていた。
「なるようになる」
初めて彼女がそう口にしたとき、
その言葉の軽やかさに反して、内に秘めた覚悟のようなものを感じた。
年齢からすれば、まだ十代に見える。
この世界なら、ようやく社交界に出る頃の若さだ。
だが、彼女からはとても「成熟した空気」を感じることが多かった。
(……どんな世界で育ってきたのだろう)
この世界に「ダイガク」という概念はない。
けれど、彼女がふとした会話で使う言葉や考え方から、
知識に通じた環境に身を置いていたことは想像できた。
七海の言う「普通の生活」は、この世界の「普通」とはまるで違っていた。
だが、だからこそ彼女は賢く、
「違い」による戸惑いを飲み込み、理解し、適応しようとしていた。
——その姿勢を、ずっと「強さ」だと思っていた。
――――――
けれどある日、ふと、彼女の言葉に心を掴まれた。
「でも……まるで、ガラスケースの中に入れられた何か、みたいで」
それは、二度目の謁見でこぼれた一言だった。
無邪気でも、愚痴でもない。
彼女自身がまだ整理できていない感情を、言葉にしてしまったような声音だった。
飾られて、賞賛されながら、誰にも触れられず、
ただ“奇跡”として眺められる存在。
彼女は今の自分を、そう表現した。
(……閉じ込められた奇跡、か)
それは、他人事には思えなかった。
自分もまた、王太子として育ち、望まれた役目を果たすことを求められ続けた。
“誰かでなければならない”という仮面の重さを、誰かに伝えたことはない。
だが、七海もまた、そうしてひとりで立っているのだと知った。
彼女がときおり口にする異国の言葉がある。
翻訳魔法をすり抜けるその響きは、意味はわからなくとも不思議と印象に残る。
やわらかく、そしてどこか寂しげで。
きっと彼女の世界の言葉なのだろう。
ふとした瞬間にこぼれるその音は、感情のすき間から漏れ出た“地声”のようだった。
(……今度、訊いてみようか)
意味を知りたいわけではない。
ただ、その言葉を口にする時の彼女が、何を感じているのかを知りたいと思った。
“聖女”ではなく、“七海”として。
それがこの国の王太子として望ましい在り方ではないと、頭では理解している。
けれど、どうしてもその線を引くことができなかった。
彼女がこの世界で、息を詰めることなく生きられるように。
ただ閉じ込められるだけの奇跡ではなく、
「ここにいていい」と、心から思えるように。
そう願うことは、果たしてただの同情なのか——
それとも。
その答えはまだ出せない。
だが、彼女と出会ってから、何かが確かに変わり始めている。




