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初めて誰かと話をした日
翌朝、七海は城の庭園へと足を運んだ。
昨夜告げられた通り、王太子レオンハルト殿下との“お話の場”が設けられることになったからだ。
形式ばらず、軽く挨拶を――ということだったが、召喚されてから間もない七海にとっては、どうにも気が重い予定だった。
(……っていうか、気まずすぎる)
王子様とふたりきりでお茶って、何そのイベント。
漫画だったらヒロインがドキドキするやつだけど、今の私はどっちかっていうと胃が痛い。
庭園の奥、白いガゼボの中に立っていたのは、昨日と同じ、整った金髪と澄んだ青い瞳の青年――レオンハルトだった。
朝の光を受けて佇む姿は、まさに絵になる“完璧王子”そのもの。
穏やかな笑みを湛え、どこまでも品のある立ち居振る舞いを崩さない。
(……うん。そりゃ、そういう役割の人って感じだよね)
七海は足を止め、ほんの少しだけ息を吐いた。
(どうせまた「聖女様、ありがとうございます」とか言われて、持ち上げられて……)
(そのうち何か頼まれるんでしょ)
(ていうか、このガゼボだって気を遣ってくれてる“つもり”なんだろうな……。若い女相手にはまず花でも見せておけばいい、みたいな)
そんな卑屈な思考が止まらない自分に、また軽く自己嫌悪する。
でも、それくらいは許してほしい。突然召喚されて、すべてが終わってしまった今、私にはもう“居場所”も“立場”も、実感できるものがひとつもないのだ。
「お待たせしました、殿下」
軽く頭を下げると、レオンハルトは静かに微笑んだ。
「こちらこそ、朝から引き止めてしまって申し訳ない。少しだけ、話をしたかった」
(……この人、ほんとに全然感情を見せないな)
あくまでも礼儀正しく、完璧な距離感を保つ物腰。
まるで決まった台本どおりに会話をしているかのような、機械的な安心感すらある。
七海は椅子に腰かけると、目の前のティーカップに目を落とした。
花の香りがふわりと漂う紅茶。たぶん、かなりいいやつ。
でも、それもまた「とりあえず上等なもので機嫌を取っておけ」みたいに感じてしまうのは、もう私の被害妄想だろうか。
「……聖女として、私に何か……期待していることがあるんですか?」
自分でも意外なほど、直球な質問だった。
でも、聞かずにはいられなかった。
「いや。君に負担をかけたいわけではない。ただ……話をしてみたかっただけだ」
「私と?」
「そう。君自身と、ね」
レオンハルトは視線をそらさず、まっすぐにそう言った。
だがその瞳は、どこか慎重すぎるほどに探る色を含んでいた。
あたたかさと冷静さが、まるで均等に混ざっているような目。
(……やっぱり、この人、全部計算してそうだな)
言葉を選んで、空気を読んで、それっぽい距離感で接してくるけど――その本音は絶対に見せないタイプ。
王太子なんて立場なら、そりゃそうだよね、と思いつつも、やっぱり自分とは別世界の人間だと感じてしまう。
「私は、そんな立派な人間じゃないですよ。召喚されたのも、偶然っていうか……本当に、なんで私なんだろうって、今も思ってます」
本音を隠すように、言葉のトーンを落とす。
けれどレオンハルトは、その“落ちた温度”を正確に読み取ったのか、
少しだけ、言い方を変えてきた。
「……無理に答えを出そうとしなくていい。だが、君が望むなら、この国での居場所を整えることはできる」
「居場所……?」
「この城の中で、あるいは城の外でもいい。君が安心して過ごせる場所を、いずれ作りたいと思っている」
どこまでも穏やかで、傷つけない言い方だった。
でも、それでも私は――
(……まだ、信じられない)
そう思ってしまう自分の心が、少しだけ苦しかった。
「そうですね。……考えておきます」
わずかに笑って、そう答えるのが精一杯だった。
――――――
会話が終わる頃、庭園には花が風に揺れていた。
この場所が、彼女にとっての“最初の対話の場”になったことを、
このときの七海は、まだ深く考えていなかった。
だが――それは確かに、
閉ざされた扉の前で、最初に触れた“手”だった。